クロイツェル

2 狐狩り

 突然、数年ぶりの特別休暇が与えられた。
 あり得ない厚遇である。属国人の分際で人間の楯役を免除されようだなどと思うこと自体許せない。ビラビラな商売女でも買って病気を移されろ。腐れチンコめ、二度と戻ってくるな。
 優雅な身の上にとっては、呪いの言葉すらごまめの歯ぎしり。心地よく耳を吹きすぎる追い風となる。
 イルグラド帝国軍特務機関所属。リヒト・ヴェルファーは、帝都エルフェヴァインへの帰路をたどっていた。さしたる長旅にはならない。イルグラド帝国が大陸中に張り巡らせた軍街道を使えば、如何な前線地からでもほんの一月たらずで大軍を自在に動かせる。況や、たった一騎においてをや、だ。
 継ぎ目なく美しく舗装された石畳の軍道を横目に、ゆったりと広い土手の側道に馬をうたせる。乾燥した土を踏む蹄鉄の音が心地よい。
 目に映る光景は数日前からほとんど変わらなかった。視界を中央から切り分ける街道は、曲がりくねることなく一直線に続いている。街道の左右それぞれには、なだらかな勾配を持つ法面《のりめん》がとられ、場所や地形によって高低差のある土手の測道となったあと、緑の田園風景へ自然につながる。
 牧歌的な田園風景を切り開いてどこまでもまっすぐに続く道。
 一見、代わり映えのしない単調な風景。だが、他の旧態依然とした周辺諸国においては決して見い出すことのできない景色だった。
 何ら劇的でも印象的でもないこの光景が示すのは、広大な領土を最短距離で突っ切る対向二車線の”舗装された軍道”を建設し、管理運用できる帝国の比類無き土木技術力だ。海運による貿易で得た富を惜しみなく社会資本に投入できる国家としての力量だ。
 いくら強力な軍隊が存在しても、迅速に兵士と物資を前線へ送り込むことができなければたちまち遅滞する。後方連絡線の強大な後押しがあってはじめて、全正面に対する攻撃到達限界を押し広げることができるのである。
 畑の彼方に赤い屋根の小屋が何軒か見えた。近くに村があるらしい。小粒の豆のようだった。干し草を積み上げた荷車が横付けされている。
 視界に入る光量の豊かさも、リヒト・ヴェルファーが戦場としてきた深い森の奥とは比べものにならない。空を舞う小鳥までもが解き放たれたように遊び戯れ、生き生きとさえずっている。
 開放的だった。戦地へ向かうときに感じる、あの、全身を圧迫されるような昂揚の感覚はない。
 気のゆるんだ旅だった。
 漆黒の軍衣。素性を隠すためのマフラーは口の上まで引き上げられている。襟には、”狐”の徽章。襟章を見た者は、皆、嫌悪の表情を浮かべて顔をそむける。あからさまに扉を閉じきって拒絶を示す者もいる。だが、声を荒げてまで行く手を遮る命知らずはいない。
 特務機関”狐”の悪名は帝国全土に轟いていた。属国出身。敵と見れば女子どもに至るまで殺戮し尽くす血も涙もない殺人傭兵集団。あながち嘘ではない。が、事実でもなかった。”狐”が”狐”たりうるためには、多少の誇張が必要だ。
 山鳴《ポプラ》の並木道が目に入った。逆さにしたほうきをずらりと一列に並べたようだ。枝同士がこすれあって、ざわざわと騒がしく揺れている。
 リヒトは馬首を村へ向けた。のんびりと土手の斜道を下ってゆく。急ぐ旅路ではない。休憩をかねて立ち寄ろうと思ったのだ。
 が、途中で気が変わった。
 灼熱の視線を感じた。眼を上げる。
 道ばたに荷車が止めてあった。数人の男たちが息を潜めている。鉄の臭いがした。このあたりの住民らしい。
 男たちはリヒトから目を離そうとしない。じっとりと蒸れた手汗の臭い、赤茶けた鉄錆の臭いがこちらにまで漂ってくる。食い入るようにリヒトを睨み付けた目には、押し殺された敵意が宿っていた。
 かっと見開かれたまま、瞬きもしない。
 リヒトは地面へ目を落とした。くろぐろとわだかまる荷車の影。身を潜める男たちの手に握られた猟銃の影。くっきりと見てとれる。
 焦燥を帯びた銃口がじりじりと黒く光った。先頭に潜む男の額から、哀れなほど大量な汗が噴き出し、したたり落ちている。どうやら歓迎されていないらしい。
 あと数歩近づけば、リヒトの身体は怯えた狩人たちによって穴だらけにされるだろう。人に銃の引き金を引かせるきっかけは、怒りではない。恐怖だ。人は、闇雲な恐怖に駆られて相手を殺す。
 さすがに困惑する。
 そこまで大げさに怯えられる筋合いはない。何が彼らをそんなに怯えさせているのだろう。まさか、”狐”を恨む者たちによって、ろくでもない流言を吹き込まれでもしたのか。
 極めて心外だった。いくら外国人部隊だからといって、帝国の民に刃を向けたことは一度もない。彼らは帝国の臣民であり、この荘園地を支配する帝国聖教会の所有民だ。その点においては、リヒトよりも彼らのほうが遙かに高い身分階級に属していると言える。
 乾いた笑みが唇に浮かんだ。
 どうせ元々泥まみれだ。血塗られた悪名に新たな汚点を上書きしてみたところで、誰も気づきは──
 考え直す。さすがに哀れだ。あえて騒ぎを起こす必然性もない。
 むしろ哀れなのは自分の方だ。旅の途上にあって、誰にも歓迎されず、それどころか温かい食事も、寝床も、疲れを癒すたった一杯の水さえ請うことができないとは。
 結局、村へ向かうのはあきらめた。
 リヒトは馬首を返した。さほど遠くない距離にせせらぎの音を聞きつけ、ポプラ並木を横へそれる。すぐに水草と雑草の生い茂る川縁に達して馬を下りた。木立につないでやり、足下の草を食むに任せる。
 手袋をぬぎ、水辺に身をかがめる。背後から、かさりと草の揺れる音がした。
 何気なく手を止める。神経を研ぎ澄ます。
 視線を感じた。気づかぬそぶりを続けながら、清流で口をゆすぎ、顔を洗って、水筒の水を汲む。
 村を離れた直後あたりから、つかず離れず後をつけてきた者がいる。目に見える姿はない。だが、確実に潜んでいる。
 リヒトは先ほどの村人を思い浮かべた。怯えきった敵意に身をすくませ、脂汗をしたたらせ、饐えた体臭を立ち上らせていた。それに比べて、この無味無臭のしらじらしさはどうだ。
 いる、と分かっているのに明確な所在を探り当てられないことが気に入らなかった。と同時にひそかに舌を巻く。
 帝都エルフェヴァインはもう目と鼻の先だというのに。面倒に巻き込まれるのはこりごりだ。洗った顔を拭いて、疲れた短い吐息をつく。先のことが思いやられた。
 鞍につけた荷袋から、携行糧食のビスケットとサラミソーセージを取り出した。小川のほとりに腰を下ろし、ぼんやりと周りを見渡す。ふと、道行く途中に生っていた野生のリンゴのことを思い出した。もいで持ってくるべきだった。
 代わりに食べられそうな木イチゴに目をとめる。傷んだような黒い斑点の散る葉の上に、赤い実がちょん、と乗っかっている。棘に気をつけながら慎重にちぎった。口へ放り込む。すくみ上がるほどに酸っぱかった。が、全身に清涼感が行き渡る。うまい。
 種を、ぷっと吹き出す。黴の生えた靴みたいな味のする干し肉をのんびりと噛みながら、考えを巡らせる。
 このまま帝都まで面倒事を引き連れていって良いものか……。
 行く手を見やる。肋骨の浮き出たやせた女のような、さして起伏のない低い丘が横たわっている。軍道は丘の中腹を切り通して続いている。この先はだらだらとした長い坂が続く道のりだ。
 遮蔽物のない平地ならともかく、左右の見通しが悪い切り通しの道を進めば、抜け道を先回りされ不意を突かれるおそれがあった。
 遠回りにはなるが、安全を優先するために丘を迂回してゆこう、と決めた。立ち上がり、再び馬に乗って進み始める。
 軍道をはずれ、土を踏み固めただけの生活道をゆく。周囲の光景は次第に変化していった。穏やかな田園風景は薄暗い森へ。平坦な道は、岩や切り株の転がる山道へ。
 さしかかる木漏れ日が風に揺られている。木の葉が、ざわざわと擦れた音を立てた。道は無駄に蛇行し、ともすれば森の奥へ吸い込まれてゆくようだ。
 リヒトはすばやく四方を見回して確認すると、馬から下りた。わざと乱暴に馬の尻を叩いて追いやる。馬だけを先に走らせ、後をつけてくるものの所在を確かめるつもりだった。
 乗り手を失った馬は何度もいなないて棹立ちし、やがて放埒に走り始める。その隙にリヒトは道ばたの茂みへと分け入った。身を伏せる。いななきが遠ざかる。
 後方からの気配が近づいた。
 馬の爪音が迫る。逃げる馬の気配に感づいて、もはや身を隠す必要もないと判断したのか。
 リヒトはサーベルの柄へ手を置いた。
 猛然と大地を蹴る蹄音が近づいてくる。今にも、口を割って走る馬の荒々しい鼻息が吹きかかってきそうだった。心臓が、身体の中の段差を転げ落ちるような音を立てて跳ねる。激しく拍動する。
 思っていたよりも近い。まさか、真後ろにいた――?
 木漏れ日に翳る林の奥に潜み、身を固くする。息を殺す。判断が正しかったかどうかを見極める暇もない。
 騎影はみるみる迫ってくる。逃げることもできなかった。道ばたの草が不自然に揺れれば、鳥が不自然に飛び立てば。敵に居場所を教えてしまう。残された手段は、野兎のように地面にへばりついてうつ伏せ、敵が目の前を行き過ぎてくれるのを待つことだけだ。
 無様な失態に唇を噛む。こうなっては運を天に任せる他にない。
 リヒトは歯を食いしばった。
 追っ手は登り坂を駆け上がってくる。馬蹄のとどろきが腹這いに伏せた身体に伝わった。土くれが蹴立てられる。目と鼻の先を軍馬の蹄が駆け抜けてゆく。突風。躍動する筋肉のかたまり。荒々しく、雄々しく黒くたなびく馬のたてがみ。
 一瞬が永遠のようにも感じられた。
 全力で自らの幸運を祈り続ける。数秒でいい。時間を稼ぐことができたら。このまま行き過ぎてくれたら、あとはどうにでもできる。
 たとえ先に行った馬が空であることに気づかれたとしても、この場から立ち去るだけの時間は十分すぎるほどに確保できる。
 ……はずだった。
 蹄鉄の音が、人を乗せて走る馬のそれと比べてあまりにも薄く、軽すぎることに気づくまでは。
 かっ、と頭に血が上った。顔を上げる。目の前を空馬が駆け抜けてゆく。鞍上に乗り手の姿はない。
 出し抜かれたと気づいたときは遅かった。
「油断したな、”五匹目”」
 背後からせせら笑う声が降りかかった。とっさに横へ転がる。木の葉のむしり取られる音がした。ちぎれた草の青い臭いが鼻をつく。
 遠近感の狂った人影が黒くのしかかった。分厚いブーツの靴底が見えた。間に合わない。
 金属の入った重いブーツの踵が心臓の上に落ちてきた。肺がつぶれた。中の空気が一気に押し出される。肋骨が軋んだ。
 襲撃者は力をゆるめることなく続けざまに何度も心臓の上を踏みにじった。そのたびに息が詰まる。呼吸しようにも、空気が喉を通ってゆかない。押しのけることもできない。肺が焼け付くようだった。
 喉をぎりぎりと踏みつぶされる。
「死ぬ前に三十秒だけくれてやる。心して祈れ」
 ブーツを押しのけようとする手に全身全霊を込める。動かなかった。声すら出ない。
「”荒野をゆく者に神の導きがあらんことを”」
 かすれた視界にぼんやりと白い法衣姿の男が目に入った。聖句を唱える口の端が、さも満足げにゆるゆるとつり上がってゆく。
「今夜はご馳走だな」
 愕然と見開いた左眼にぴたりと、死を宣告する白いライフルの銃口が押し当てられた。

次のページ▶

もくじTOP
<前のページ