クロイツェル

2-1 狐狩り

「駆除、完了」
 しかし、引き金は引かれなかった。
 筒先で眼を押しつぶされていては、片一方の瞼しか持ち上げることはできない。リヒトは仰向けになったまま、苦々しく相手の顔を見上げた。
 魅力的な笑顔が視界に入る。
 金髪。碧眼。長身。典型的な帝国人だ。甘い香木を焚きしめた匂いがした。襟のつまった細身の白法衣をまとっている。袖の折り返しは濃い空色。同色の腕章を左腕に留めつけている。銀刺繍が施されていた。”荒野をゆく者に神の導きがあらんことを”。異端審問官が好んで口にする聖句だ。
「背後から忍び寄って後頭部をぶん殴るような真似をしておいて、何が駆除だ」
「人聞きの悪い」
 ライフルの引き金には、未だに指がかかっている。
「蹴っただけだ。何か文句でも?」
 銃口で見境なく眼窩を突かれた。忌々しい。降参の仕草としてしぶしぶ両手を上げる。
「……ちなみに聞くが、何の五匹めだ」
「”狐《リヒト》狩り”の成果に決まってるだろ」
 嬉しそうに笑われた。ますます腹立たしい。
 同時に頭が痛くなった。油断していたつもりはなかったが、知らぬうちに尾行されていたらしい。いったいどの辺りからつけられていたのか。村を後にしてからは用心していたはずだった。目の前で憎々しく笑いながらふんぞり返っている男の気配を感じ取ってからは。
「起きろ、リヒト」
 純白の手袋をはめた右手を差し伸べられる。リヒトは鼻持ちならないその仕草を払いのけた。
「手を出すより先にまずその不愉快な足を退けてくれないか」
「これは失敬。すまないな。しつけの悪い足でね」
 平然と聞き流される。微笑が降った。どうやら何を言われても足を退ける気はないらしい。
「何しにきた」
「貴様が休暇をもらったと聞いたので飛んできたのだ」
「お前の顔など見たくも」
「照れるなよ。知らぬ仲でもないくせに」
「消えろ。今すぐ。私の目の前から」
 リヒトはどんなに鈍い男でも確実に察知できるであろう強烈な殺意を込めて、吐き捨てた。
「さもないとぶち殺す」
「最低でも五回はシチューにされている身であることを忘れてもらっては困るな。まな板《ベッド》に乗せられて骨までしゃぶり尽くされても文句は言えない立場だぞ」
「穢らわしい」
 踏みつけられたままでは尊厳もへったくれもないが、この状況で浴びせかけるにふさわしい罵詈雑言は他に思い当たらなかった。軽蔑のまなざしで男を仰ぎ見る。
「そんなに褒めるな。これ以上俺を悦ばせてどうする気だ」
 金髪の異端審問官は、屈託ない笑顔で顎をそらした。ふわりと髪を掻き上げ、無駄に気障な胸を張る。
「本気でぞくぞくしてきた。頼む。もっと罵倒しろ。もがけ。貴様の吠え面をかく様がもっと見たい」
「二度は言わない」
 リヒトは冷ややかに繰り返した。
「その忌々しい足を、とっとと退けろ、ロゼル」

 起きあがるに当たって、ロゼルは手を貸したいと言って聞かなかった。苦しむ民に手をさしのべ”感謝”されるのは聖職者として当然だ、と。
 容赦なく喉を靴で踏みにじり、眼窩にめり込むほどの力で銃を突きつけていながら、手をつないでくれなければ一生このままだと言い張った。我が儘にもほどがある。
 結局、リヒトは自分を踏んづけていた異端審問官の手を借りて立ち上がる羽目になった。この上もない屈辱である。ますます苛立ちが増した。
 八つ当たり気味にコートの裾をはたいて、泥や枯れ草を落とす。こびりついたごみはなかなか落ちず、まとわりつく異端審問官の微笑をさらに疎ましいものにした。
「手伝ってやろうか、六匹目」
 ロゼルは芝居がかった仕草で大きく両手を広げた。抱きつくつもりらしい。
「断る」
 ぴしゃりと突き放す。
「いいから甘えろよ。な? な?」
「近づくなケダモノ」
「魂の安寧と充足を求めることの何が悪い。神はすべてを許し給う」
「あの世で死ね。今すぐ死ね。永遠に死ね」
「せっかくの休暇だろう。もうすこし気楽に生きろよ」
 リヒトはじろりとロゼルを振り返った。
「なぜ休暇のことを知っている。それに、なぜ、ここにお前がいる?」
「たまたまだよ、たまたま。あの村に用事があったんだ」
「嘘をつくな」
「貴様、野暮だぞ。その質問は」
 ロゼルは敬虔な仕草で手をしっかりと結びあわせた。目を閉じ、法悦に浸りきった表情で、うっとりと天を仰ぐ。
「……神が我々を娶せてくださったからに決まっているではないか」
 びっと親指を立てて片目を瞑る。何が嬉しいのか、やり遂げ感たっぷりな満面の笑顔である。
「市中引き回しのうえ馬に蹴られて死んで来い」
「つれない男だな」
 言われたリヒトは、奇妙な喪失のまなざしをロゼルへと向けた。ロゼルが訝しんだ表情を返す。
「どうした。何か気に障るようなことでも言ったか」
「逆に今まで気に障らないことを言えた試しがあるのか」
 疲れ果てた口振りで話を区切る。リヒトは眼をそらした。
 異端審問官でありながら、この男は顔を合わせるたびにつまらない、くだらない、下品きわまりない軽口に終始する。いつものことだ。名家の出なのだから少しぐらいしかつめらしく取りつくろえばいいものを、誰にでも気安く、馴れ馴れしく、女好きのする笑顔を振りまいて、決して用心させない。要するに、ロゼルだけ、なのだった。鍵をかけて、つめたくよろったリヒトの内側に、厚かましくずかずかと土足で上がり込んでくるのは。
 しかし、だからといって、完全に信頼はできない。
 そもそも、なぜ、ここにロゼルがいるのか。
 慎重に考えを巡らせてゆく。
 外人部隊である特務機関に”休暇”が言い渡されること自体、極めて不自然だ。あわただしい日程で組まれた帰京命令も然り。しかし、ロゼルの態度を見ていると、どうやら最初からリヒトが来ることを知っていたふしがある。村人にあることないこと吹き込んで、先ほどの村に近づかせないよう立ち回ったのもおそらく──どうせ極悪非道な属国人の傭兵部隊が村を襲って女子供を食い物にするだの何だのといったところだろうが──ロゼルの差し金に違いない。苦笑いする。
 いったいどこで、どうやって、情報を手に入れたのか。
 仲間に密告されたのかもしれない、と思った。敵は外部だけにいるとは限らない。点数稼ぎのために”異端”の罪をでっち上げ、告発する。己の身の安泰をまず図るために、他人の罪をことさらにあげつらう。十分に考えられることだった。
 それが事実だとしたら、のんびり休暇どころの話ではない。都に着いたとたんに拘束されて検邪聖裁判──拷問所行きだ。
 聖教会の地下神殿には、異なる教義を掲げる者、正史ではない福音書を奉じる者を異端として拷問し棄教させる牢獄があるという。確か、”象の檻”ドグラと言ったか。もちろん──
 リヒトは冷ややかに自嘲の思いをめぐらせた。
 歩きながら、自分の掌を見つめる。
 華奢で、繊細な指のかたち。誰よりも血塗られた指だ。
 ”秘密”を見た者の末路。不思議と思い出せなかった。深紅の血にぬめる柄の感触ばかりが脳裏に蘇る。頬に走る返り血の紅。声も立てずに絶息する身体。つめたくなってゆく骸。愕然と見開かれた死者の眼。引きずる音。真夜中の埋葬。笑う鳥。羽ばたく鳥。見つめる鳥。
 疑われても致し方ない、と思った。
 暗い想念を根深く隠し持って、森の道を辿る。
 その間、相変わらずロゼルは口さがなかった。さっきの村で商売女を買ったら皮が二重にも三重にも垂れ下がったたっぷたぷの女が出てきて泥沼の手練手管に嵌っただの。そのせいでケツの毛までむしり取られる羽目になっただの。自業自得のくせに、あの悪魔どもめ、とロゼルは陽気に罵る。
「確か、帝国聖教会の教えでは確か、禁欲の誓いを守らなければならないはずだったが」
「何を言う。すべては無私無欲の奉仕作業だ。罪深き娼婦から肉欲的自己顕示を取りはらい、正しい信仰へと導いてやることこそが、聖なる道を信じる者の勤めである」
 禁欲の誓いが聞いてあきれる。
「要するに、異端審問もけっこう体力勝負……」
 すべて無視した。先へ進む。
 さほど行かないうちに、リヒトとロゼルの馬がなぜか前後に重なっているのが見えた。ぐずぐずする主人たちが追いついてくるのを待っているうちに、ロゼルの馬が馬っ気を出したらしい。のしかかって腰を振っている。ばつが悪いにもほどがあった。大切な愛馬を傷ものにされた腹いせに、リヒトはロゼルをぎろりと睨み付ける。
 けたたましく鳴き交わす鳥の声がした。枝をはじいて飛び去る。羽音が遠ざかった。
「言っておくが……俺はこんな馬並みじゃないからな」
 何とも気まずい顔のロゼルが、ぼそぼそと言い訳した。言い訳にすらなっていない。
 交尾はあっさり終わった。なおいっそうロゼルは渋い顔をした。リヒトは二頭を引き離し、ずれた鞍を黙々と直した。最後にもう一度じろりとロゼルを睨む。ロゼルは目を合わさないつもりらしかった。
 無言でまたがる。森の道は狭く、薄暗く、見通しが悪かった。数時間かけて坂を登りきると、頂上で森が切れた。絶景が広がった。
 青くかすむ空の下、見渡す限り石造りの街並みが広がっている。
 リヒトは馬をとめた。しばし、眼下の広大な風景に見惚れる。
 大陸全土から集まる街道、軍道はすべて、都から放たれ、都へ帰る。外海の民も帝国の門前を素通りしては羽ばたけない。海を制するは世界の富を手にすることと同義である。文字通り世界の中心に位置する街。錚々たる帝都──エルフェヴァイン。
 背後に湾を望み、一方を険しい高山に遮られている。街の中心部はなだらかな丘陵上にあり、攻めるに難しい。
 平地に面した側は、大城壁に囲まれていた。帝国が建国された古代から増築され改修されて使い続けられてきた、歴史的遺構の名にふさわしい建造物である。
 懐かしく、憎い、光景。
 初めてエルフェヴァインの威容を目の当たりにしたのはわずか十歳の時だった。兄リドウェルが死ぬ二年前のことだ。留学生とは名ばかり、属国の人質として帝国を訪れ、誰一人知るもののない寄宿学校に放り込まれた。小さな、取るに足らない箱庭から、世界へ引きずり出される、その心許なさたるやいかばかりであったか──森に包まれたロレイアしか知らぬ異民族の少年にとって、巨大であることそのものが恐怖の対象だった。
 丘陵全体を取り巻く石造りの道。空中楼閣を形作る勇壮な橋。断崖の上に築かれた大聖堂。広場を埋め尽くす軍勢。天を摩する尖塔。荘厳なる鐘楼。城。知の集合体である大学、巨大図書館、世界の富を集めた博物館。こうこうたる秩序で街の夜を照らす灯台。夜の女。広大すぎる円形競技場に集まった何千、何万もの市民、貴族が戦車競技に熱狂し、怒号と歓声を上げる高揚感。一体感。優越感。まき散らされる黄金のコイン。
 すべてが無尽蔵に見えた。度肝を抜かれた。怯えた。卑屈になった──彼我の差に。
 この国と戦うことなどできないと思った。逃げ帰りたかった。だが、戻れなかった。いつかは戻れる。戻らねばならない。必ず戻ってやる。愛憎入り交じったその願いは、やがて兄の命とともにはかなくも潰える。帰る国はなくなった。待ってくれる人は死んだ。開かれた絶望の箱に残されていたのは、偽りの希望だけだった。
「貴様に会いたいという方がおられる」
 遠くを見つめるリヒトの表情に気づいたのか。ロゼルは傍らに馬を寄せてきた。落ち着きはらった声ではっきりと言う。眼は笑っていない。
 馬が鼻息を吹いた。乗り手の冷ややかな声に緊張したのか。首を振り立て、蹄で地面を掻いて堅い音を鳴らす。
「誰が、何の目的で」
 リヒトは横目でロゼルを見やった。吹き抜ける風がロゼルの金髪を揺らしている。帝国の匂いがした。大聖堂の隅々にまで焚きしめられた聖なる蝋燭の匂いだ。南蛮の国からはるばる運ばれた貴重な香料をふんだんにつかったものだという。乾燥したかけら一粒の対価として、同じ体積の金があてられる、”死せる娘”ロザリンドの香り。
 慣れ親しんだ異国の──異教の香りだった。ゆっくりと息を吸い込む。ロゼルの匂い。ロザリンドの香り。憎らしく、懐かしく、拒絶できない。言葉の響きまでもが奇妙に似ていた。揺れる木の葉の音が、耳に心地よい森のさざ波となって周りを包み込む。
「思ったより見晴らしがいいな。裏道だと思って馬鹿にしていたが、案外、遠くまでよく見通せる。が、さすがに海までは見えないか」
 ロゼルは風に身をさらし、大きく深呼吸した。のんきに背伸びなどしている。もう、いつもと同じ、素知らぬ陽気な声だった。ロゼルにとって帝都はあくまでも”栄光の都”だ。冷たい泥沼のような、鬱屈した感情を胸のうちに秘めるリヒトとは違う。
「さてと、行こうか。あと少しだ」
 ロゼルは不自然なぐらい馬を近くまで寄せた。ぽん、とリヒトの肩をたたく。
「こっちを向け、リヒト」
「気安く触るな」
 リヒトは身を引いた。思った通りだ。ロゼルはにやにやしている。振り向いたとたん、突き出した人差し指で頬をつつくつもりだったらしい。そんな子供じみた悪戯に引っかかるものか。
「つまらない男だな」
 だが、心底楽しそうにロゼルは言った。いたずらに失敗した手の内を隠すかのように、きゅっと握り込む。
「余計なお世話だ」
「だがそれがいい」
 ロゼルは馬に拍車を入れた。手綱を片手で取ったまま、拳をひょいと振り上げた。握った手の親指で道の先を指し示す。
「行くぞ、リヒト。ついてこい」
「話は終わっていない」
「後でな、後で」
「まだるっこしい言い方は止せ」
 促されてもすぐには従えなかった。矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「私を呼んだのは誰だ。何のために私を呼んだ。お前が私を待ち伏せていたのも、その人物の命令によるものか」
 白いライフルを背負った背中に問いかける。ロゼルは答えない。わざと聞こえない振りをしている。その態度にリヒトは苛立った。馬の腹を蹴ってロゼルを追いかける。
「待て。質問に答えろ、サド野郎」
 ロゼルは振り返った。舌なめずりしそうな顔だった。
「よし、分かった。教えてやる」
 よほどサド呼ばわりが嬉しかったらしい。肩越しに、にやり、と。不埒な笑みを投げて寄越す。ロゼルは子供が宝物を見せびらかすような仕草をした。手の中に握りしめていた何かをちらつかせる。つまんだ指先に黒い光がきらめいた。
「これを取り返せたら、な?」
「は?」
 ……馬鹿だ。
 リヒトは顔を盛大にしかめた。聞きたいのは戯言ではない。睨み付けようとした。
 が、そこにもうロゼルの姿はない。消え失せている。
 目を上げると、いつの間にかもうロゼルの馬は遙か前方を走っていた。あっという間に姿をくらます。笑い声が遠ざかった。リヒトはいらだち紛れに甲高く鞭を鳴らした。馬を急かしてロゼルを追う。
「何が言いたい」
「あははは、リヒトく~ん! この俺に追いつけるものなら追いついてみたまえ~~ん? あははは~~?」
「……埒もない!」
 舌打ちして顔を上げ、前方を睨み付ける。が、無闇に苛立っていられたのはそこまでだった。ふいに嫌な連想がひらめいた。
 ほっぺたを突っつく真似をして、肩に手を置いた……あのときに。
 一瞬、ぎくりとする。反射的に喉元へ手をやった。軍衣の襟をまさぐる。指先はむなしく生地の上を滑った。ない。そこにあるべきものが、なくなっている。
 特務機関所属を表す”狐”の徽章がない。
 唖然とした。

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