クロイツェル

2-1 狐狩り

 盗まれたのだ。あの一瞬で。
 全身が怒りにふるえ、火照った。リヒトは、ぎりりと眉をつり上げた。はじかれたように顔を上げる。
 ロゼルの姿はもはや影も形もない。笑い声がますます遠のいた。彼我の距離が開いてゆく。
「たまには追いかける側に回るのも悪くはないぞ~~?」
 ふざけた笑い声がまた流れてくる。不快指数を示す針が、即座に限度いっぱいまで振り切れた。リヒトは頬を紅潮させた。眉間に獰猛な皺を寄せる。すっかり失念していた。ロゼルという男は、ちくちくする嫌がらせをさせたら天下一だ、ということを。
 木の葉が散っていた。風が前方から吹き付けてくる。目の前は急激な下り坂になっていた。足場が悪い。歴戦の軍馬であってもおいそれと駆け下ることのできる道ではない。
「ロゼル、返せ!」
 行く手に向かって怒鳴りつける。
 返事はなかった。息をのむ。くろぐろと覆い被さる頭上の木々を見上げた。
 憤りの火照りが急速に引いていった。代わりに、背筋をじわりと冷たい汗がつたう。ロゼルは本気だ。ふざけている場合ではない。全力で追わねば逃げ切られる。リヒトは手綱を短く持って馬を駆り立てた。振り落とされないよう腰を浮かせ、前傾姿勢を取って、馬が姿勢を崩さないよう注意深く走らせる。
「いい加減に……!」
「はあ~~~ん? 聞こえんなぁ~~~?」
 うんざりする声が響き渡った。
 完全に頭に来る。いちいち相手にするのもうっとうしい。だが、何が何でも探し出し、追い詰めて、取り返すほかなかった。
 何者かがリヒトを帝都へ呼んだ。
 おそらくロゼルは、その人物から道先案内を託されている。
 今、ロゼルを見失ったら、広いエルフェヴァインを汗だくで何日も走り回る羽目に陥るだろう。よりによって帝国軍徽章をなくしたというおまけ付きで。下手をすれば軍法会議だ。そのうえ、このままでは無事に帝都の門をくぐれるかどうかすら危うい。
 ロゼルのでたらめな高笑いが聞こえる。
「いい加減にしろ、サド野郎! 返せ!」
 我慢ならず、天に向かって吐き捨てる。本心からだった。
「ありがとう。最高の褒め言葉だよ」
 まだ笑っている。よほど気に入ったらしい。リヒトは怒鳴り返した。
「どこにいる」
「どこだと思う?」
「知るか。答えろ」
「貴様の真後ろに……」
 サーベルの柄に手を置き、反射的に振り返る。誰もいなかった。
「いませんでした~!」
 高らかな笑い声が響いた。
「ふざけるな。私の邪魔をしにきたのなら消えろ」
 リヒトは歯がみした。殴りつけたかった。むきになればなるほど、なおいっそう足をすくわれる。だが、どうにも腹の虫が治まらない。
「次に会ったときは必ず殺す。問答無用にぶち殺す! 覚えていろ」
「そんなに俺と逢いたいか。嬉しいね。同慶の至りだ」
「誰が……!」
 くすくす笑う声が、遠く近く波のように揺れ動いていた。どこに潜んでいるのかまったく分からない。
「貴様といると、本当に楽しくてたまらん。来い、リヒト。俺の元へ。そうすれば分かる。すべてが!」
 ふざけたつむじ風が、びゅっ、と音を立てて吹き過ぎていった。

 どれほど走ってもロゼルの姿を見いだすことはできなかった。気持ちが萎える。結局、最初から最後までいいように鼻であしらわれただけだ。これだけ探し回っても見つからないとなると、悔しいが敗北を認めざるを得ない。しおらしくあきらめて、白馬の王子様よろしく迎えに来てくれるのを待つしか──
 無謀な怒りが身体の中で息巻いた。
 冗談じゃない。
 全身の血液がふつふつ沸きあがる。何としてでもやり返してやらなければ気が済まない。ロレイア人は感情表現に乏しいと言われるが、少なくとも今のリヒトにその定説はまったく当てはまらなかった。
 帝都と外界を繋ぐ大門を通る以外に、都への出入りは不可能。そして、城門を抜けるには通行証、あるいは身分証明が必要だった。あいにくどちらも持ち合わせがない。特務機関の徽章はロゼルに奪われてしまった。さて、どうするか。
 思案投げ首で考え込む。
 ロゼルを見つけてつるし上げる前に、まず、厳重に警戒されている門を何とかして通り抜けねばならない。
 馬鹿正直に「徽章が盗まれた」ことを申請しても無駄だ。危ぶまれて数日間拘束され、結局は休暇期間を過ぎて敵前逃亡と見なされ軍法会議。ならば忍び込むか。夜になれば門は閉ざされる。潜り戸はない。闇に乗じて城壁をよじ登ろうとしても、衛兵の目を盗むことはできない。行き交う商人や職人、石や木材を満載した荷車、怒鳴り散らす馬借の群れに紛れ込むという手もあるが、雀の涙程度の謝礼金に目がくらんで自分の命を危険をさらす馬鹿はいないだろう。下手をすればそのまま密告され、間諜として逮捕されるおそれがある。
 リヒトは冷ややかに笑った。ならば、正々堂々と行くまでだ。
 眼を上げ、真正面を見つめる。行く手を遮っているのは重厚な石造りの門だ。扉の上部には獅子を描いた紋章が刻まれている。
 馬にまたがったまま、決然と楼門に向かって近づいてゆく。片側の扉が開いていた。巨大な木の一枚板に鉄を張り、黒い角菱の鋲をずらりと打ち込んでいる。
 門の陰から、蜂の群れを思わせる俊敏な動きの兵卒が飛び出してきた。甲冑の上からかぶって腰を締めた紋章入りサーコートをまとっている。
 手に槍を携えている。ずいぶんと前時代的かつ貧弱な装備だが、もちろんこの程度の人数で強大なる帝国を守っているわけではない。リヒトは冷静に衛兵の数を数えた。ざっと見て十人。うち何名かが左右にすばやく展開して、リヒトの背後へと回り込んだ。
「止まれ。何者か」
 全員の靴音がうちそろった。一糸乱れぬ完璧な包囲陣を布いた穂先が突きつけられる。
 視界の端に、チカチカとまたたく金属の反射光が見えた。大門からかなり離れた両脇の高み、稜堡の地面から放たれている。草の垂れ下がる地面のくぼみ。モグラが掘った跡にしか見えない地面の瘤。それらの影から、敵意が黒い霧となって立ちのぼる。
 地下に掘られた掩蔽壕に兵を配置しているらしい。のぞく穴は銃眼というわけだ。数えきれぬ銃口がリヒト一人に向けられている。もし一斉射撃をくらえばものの数秒で穴だらけの死体となりはてるだろう。
 血がざわざわと騒いだ。気分が高揚してくる。全身に銃の照準が合わせられているのを感じた。レンズで集めた太陽光を肌に当てられている心地だった。虫眼鏡で焼き殺される蟻、というのはきっとこんな気分なのだろう。
 つい、悪辣に吊り上がった笑みを浮かべる。
 恐怖などというよそ行きの感情は社交辞令用に取っておけば良い。殺すか殺されるかの瀬戸際に歓喜を覚えずして何が”狐”か。
 リヒトはロゼルの傲岸な仕草をいくつか思い起こしてみた。やに下がった薄笑いの浮かべ方。胸糞悪いしゃべり方。……藪蛇だった。ロゼルのことを想像するだけで頭に来る。
 他に妙案はないものか。何をやらかしても腹に据えかねる、あのクソロゼルを表現するには。
 リヒトは眼を瞬かせた。今のは悪くなかった。クソロゼル。妙にしっくりした。これなら嫌みなロゼルのにやけ顔を思い出しても、感情を表に出さずにすむだろう。
「……我が名はクッソ・ロゼル・デ・アルトーニ。異端審問官である」
 他人を見下す仰々しい笑顔を、そっくりそのままに真似てみる。傲慢で尊大、自分勝手、嫌みなしゃべり方。憎たらしい態度を取れば取るほど、ロゼルに似てくる気がした。つい吹き出しそうになるのをあわてて噛み殺す。
「先ほど特務機関の徽章をつけた不審者がこの門を通ったはずだ。法衣をまとい、白いライフルを携えた男だ」
 見覚えがあったに違いない。兵卒たちがざわめいた。
「そのものが名を何と名乗ったかは想像がつく。おおかた、我がアルトーニ家の名を騙りでもしたのであろう。その男こそ”狐”。敵前逃亡罪で逃走中の脱走者だ」
「馬鹿な」
 隊長らしき一人が進み出た。憎々しい疑いのまなざしで馬上のリヒトを睨み付けている。
「先ほどの方は、まごうことなき御印の衣をまとっておられた。特務機関というなら貴様のつけている軍衣こそがまさにそうではないか」
 つきつけられた穂先が焦燥の輝きを帯びる。ぎらつく刃身にリヒトの酷薄な笑みがいくつも映し出された。正面から。真横から。余裕の笑みでリヒトは刃の敵意を押し返す。
 どうやらロゼルは本気でリヒトを放置するつもりらしかった。呼びつけておいて罠にかけるとは傲岸不遜にもほどがある。冗談にしてもたちが悪すぎた。本人だけがたわいないと思う悪戯のせいで、どれほど周りが迷惑を被るか、命を賭けた挽回を必要とするか、考えれば分かりそうなものだが。
「素性を確かめたか」
「……」
 相手は思わずたじろいだ。言い返そうとして開いた口を、所在なげにゆがめ、言葉を飲み込む。眼が泳いだ。
「アルトーニ家に問い合わせたのかと聞いている」
 リヒトは冷徹な態度を崩さない。
 アルトーニ家に素性の照会を行うなど、一介の門番風情にできようはずもない。アルトーニの名が発せられた時点で一切の思考を放棄したはずだ。あらがおうだなどと思うわけがない。ロゼルがアルトーニ家においてどのような立場であるかまでは知らないが、ひとたび名乗れば、帝国内におけるすべての行動に便宜が図られる名であることには違いなかった。
 相手に考えるいとまを与えず畳み掛ける。
「良い。かまわぬ。みすみす賊を見逃した責任までは問わぬ。ただちに屋敷へ使いを遣り、猊下の周辺を厳重に警戒し鼠一匹、蟻一匹警戒線を通すなとお伝えせよ。賊が猊下のお命を縮め参らせんとしている旨、しかと告げるのだ。私は引き続き賊を追わねばならない。火急の事態ゆえ、手続きなく門を押し通るが良いか。後ほど館にまで確認の使いをよこすがよい」
 リヒトはりゅうとした仕草で手を振り上げた。するどく周りを見渡す。ためらいの表情が隊長の顔に浮かんだ。
「通さぬとあらば、すぐさまに伝令を出せ。緊急事態だ。一刻の猶予も許されぬ。速やかにかかれ。もし、余計な手間を取らせることにより、やんごとなき御身に万が一のことあらば」
 リヒトは一つ呼吸の間をおいて、隊長と真正面から対峙した。黒い瞳に断固たる決意を宿らせ、馬上から尊大に見下ろす。リヒトの強い視線を浴び、隊長はたじろいだ。
「……命を持って償う覚悟はできていような」
 いかにももっともらしく、追い打ちをかける。隊長のこめかみに光る汗が滲んだ。
 軍人そのものの、きびきびとしたリヒトの所作と、にへらにへら笑いながら洒脱に手を振って通っていったであろう法衣の若造。どちらが本物かと問われても即答できかねるに違いない。だがここでさらに上の者へ相談する猶予を与えてはならない。この場を離れて上申されてしまったら冷静な判断力が戻ってくる。時間を与えるわけにはいかない。
 あと一押しが必要だ。強引に前へと進み出る。
 馬の鼻元に、するどくとがった槍の穂先が突き当たる。
 肝の据わった馬だ。眼前に槍を突きつけられているというのに、耳一つ動かさず、荒ぶりもしない。逆に、馬に槍を突きつけることになった兵卒のほうが怖じ気づいた。こめかみに脂汗をにじませて後ずさる。
 隊列を組んでいた穂先が、櫛の歯が欠けたように波打った。
「そこを退け。私は急いでいる。猊下のお命に関わることだ」
 内心の緊張を押し隠すために、あえて平然と顔を上げ、四方を見回す。影響力を見せつけるために権力者がよくやる仕草をまねて、全員の眼をのぞき込んでゆく。
 視線を合わせられない兵卒が後ずさった。隊列が乱れる。隊長は緊張のあまり赤黒くなった顔をむくませた。唇をかむ。後ろに下がる。
 槍の穂先が力なく下がった。
「どうぞお通りください」
「協力感謝する」
「あの、それから……」
「貴公の判断については、実に迅速かつ適切であったと上へ報告しておく」
 隊長のこわばった表情がゆるんだ。いからせていた肩から、緊張の固まりがずるりと力なく滑り落ちたようにも見えた。
 リヒトは、話は終わったとばかりに隊長から視線をはずした。詰めていた肺の奥の空気が鼻の奥を圧迫した。つい、安堵の吐息を漏らしそうになるのを自制する。まだだ。まだ油断できない。
 兵卒の列が左右に割れた。居並ぶ槍の列に挟まれながら馬を進める。
 門の奥、帝都へ至る城壁の迷路を見つめる。馬蹄の音が響いた。
 一歩、また一歩と前へ進んでゆく。反響する爪音と同じ速度で心臓がはやった。まだだ。
 緊張を悟られてはならなかった。まだ門を抜けきってはいない。油断はできない。
 ふっと日差しがかげった。視界が影の色に変わる。門の中へと踏み込む。
 リヒトは無意識に天井を見上げた。門の内部は城壁と一体化し、薄暗い回廊となって左右に伸びている。穹窿天井《ヴォールト》が肋骨のような柱のアーチを描いて、延々と続いていた。ひやりと黴くさい空気が鼻をついた。
 馬蹄音が反響する。
 じりじりする視線を感じた。門内にいた衛視が息を詰めてリヒトの所作を睨んでいる。こちらは見慣れた帝国軍の軍服だ。銃を構えている。引き金に指はまだかかっていない。
 リヒトは不敵な笑みをたたえ、行き過ぎようとした。内心の動揺を気取られてはならない。まばゆい日の光から、薄暗がりの回廊へ。馬を打たせ、悠然と進んでゆく。
 食い入るようにこちらを見つめていた衛視が身じろぎする。リヒトは反射的に声の方向を見やった。息をのむ声があがった。
 驚愕の形相。衛視は今にも叫び出しそうな顔をしていた。大きく見開かれた兵卒の目に、リヒトの顔が映っている。
 闇にゆらめく鬱金の瞳。ロレイア人特有の魔眼が反射している──
「その眼……!」
 衛視は、銃を構えた。引き金に指をかける。安全装置をはずす動作。怒鳴り声が交差した。
「ロレイア人か!」
 腹の底で雷鳴がとどろいた。見抜かれた。帝国全土に散らばる同胞民族の名は、”テロリスト”と同義に扱われている。
 衝撃が電撃となって背筋を貫き走った。
「走れ!」
 逃げるしかない。リヒトは鞭を取って馬の尻を打ちすえた。
 馬は瞬時にハミをとって突っ走り始めた。銃をかまえた衛視に向かって突撃する。衛視は恐怖に耐えきれず発砲した。銃火が見えた。乾いた破裂音が響く。跳弾が真横をかすめた。苦い音を立てて髪の毛がちぎれ燃える。耳に灼熱の痛みが走った。
 硝煙を突き抜けて出口へと走る。罵声が追いかけてきた。背後から何発もの銃声が浴びせかけられる。
「踏み殺すぞ!」
 前方で立ちふさがろうとする兵士に向かって怒鳴りつける。かかりきった軍馬の真正面に飛び出すなど自殺行為以外の何ものでもない。無謀な行動だ。
 兵士の眼前に、顔よりも巨大な蹄が迫る。軍馬は障害物などものともしない。その気になれば、雑木の茂みだろうが人間だろうがそのまま蹄に掛けてぐしゃりと踏み殺してしまう。
 兵士は、文字通りのしかかる恐怖の影に顔を黒々と染めた。銃を投げ捨て、悲鳴を上げて横っ飛びに逃れる。
 馬は、倒れ込んだ兵士の頭上を高々と飛び越えた。巨体がながながと伸びて空を横切る。蹄を鳴らして着地し、勢いを殺さずに駆け抜ける。砂利が飛び散った。
 出口は目の前だ。都の中へ入ってしまえばどうにでもなる。
 ようやく日の光の元へ出られる。口の中がからからになる。このまま抜けられればいいが。
 安堵しかけたそのとき。頭上から金属の軋む音が聞こえた。顔を振り仰がせる。
 落とし格子。
 昇降機のくさびを叩き折ったのか。鎖の繰り出される音が騒然と鳴り渡った。上半分の視界が、絶望的な格子模様に覆い尽くされてゆく。このままでは行く手をふさがれる。曲がるべき道はない。心臓が停まりそうになった。
 落ちてくる前に、格子の下を駆け抜けるしかない。なまじためらえば、何もかもが水の泡だ。
 リヒトは言葉にならない怒鳴り声をあげた。もう、止まれない。馬の尻を鞭で打つ。渾身の拍車を入れる。鉄格子に全速力でぶつかれば、落馬どころではすまない。それこそ全身を鉄格子にたたきつけられ、、全身打撲、骨折。馬もろとも即死の憂き目は免れぬだろう。
 身体を低くし、鞍に張り付くようにして息を止めた。挑むまなざしで前方の光を睨む。
 巨大な鉄のかたまりと化した鉄格子が落ちてきた。暗い影が背骨を押しつぶしそうなほどに降り迫った。轟音が耳を圧する。リヒトは前方だけを睨んで怒鳴った。こんなところで死んでたまるか。間に合わねば死ぬだけのことだ──!
 生と死の狭間を一気にかいくぐった。落下寸前の鉄格子を、間一髪で駆け抜ける。
 光があふれる。
 目の前に、広大な都大路が広がっていた。背後の鉄格子が地面に突き刺さる轟音が鳴り響いた。土煙が噴き上がった。砂埃の混じった風が、呷るように吹き上がって髪をかき乱す。
 リヒトは振り返りもせずに馬を走らせた。
 後を追ってくる気配はない。
 ようやく馬が落ち着きを取り戻し、速度を落とした。リヒトは馬の首筋をたたいてやった。乱暴にさすり、労をねぎらう。
「驚いたぞ。本当に凄い馬だな、お前は」
 馬は嬉しそうに歯をむいた。笑っている。
「あの馬鹿より遙かに優秀だ」
「馬鹿はないだろう、馬鹿は」
 かろやかな蹄の音が聞こえた。行く手を、白い法衣をまとった忌々しい男が遮っている。
 リヒトは相手の存在を完璧に無視した。視線を前方へ固定したまま、ロゼルの傍らを行き過ぎる。
「ありゃっ」
 ロゼルは眼を瞬かせた。馬首を回して追ってくる。
「まあそう怒るな」
 べたべたまとわりつかれるがぐっと我慢。リヒトは表情ひとつ変えずに先を急いだ。ロゼルはにやにやと顎をなでて笑った。
「さすがは”狐”だと感心していたぞ」
「誰が」
 リヒトは、汚いものを見るような眼でロゼルを振り返った。反応してから、しまった、と思うがもう遅い。妙なところで引っかけられてしまった。嫌々ながらも話を続けなければならない。
「誰って、誰だ。俺だろ、ふつう」
 リヒトは馬を止めた。ロゼルが追いついてくるのを待つ。その間、大路の左右に立ち並ぶ商館を振り仰いだ。窓ガラスが太陽を反射していた。上の端から一階まで、何十枚ものガラスが巨大なパイプオルガンのように連なっている。まるで滝のようだった。
 ためいきをつく。いい加減、相手をするのも鬱陶しい。何を問いかけてもどうせ最後には侮られ、はぐらかされて終いだ。
「人が苦労しているさなかに高みの見物か」
「イヤだなあ、リヒトくん。もっと寛大にならなくては人間として大成しないぞ」
 ロゼルは眼を細めた。ひねくれた薄笑いを浮かべる。リヒトは鼻であしらった。軽蔑を込めて言い返す。
「お前の口から寛大だの感心だのと聞かされても苦笑いしか出てこない」
「狭量な奴だ」
「偽善者にあれこれ言われたくない」
「まあそう言うな」
 ロゼルは、にやりと笑った。
「覚えめでたく”合格”だそうだ」
「それよりも徽章を返せ」
「別の勲章がもらえるかもしれないというのにか?」
 ロゼルは指先に乗せていた徽章を親指で跳ね上げた。小さな黒い光が宙に舞う。リヒトはすばやく片手をのばしてひったくった。
「命よりも大事だ」
「そんなものに固執するな。たかだか属州奴隷の証にすぎん」
 ロゼルの青い瞳が、ひそかに光った。リヒトの胸の内を照らし出している。のぞき見られている、と思った。だが、不思議と怒りは覚えなかった。
 ロゼルは事実を言っているに過ぎない。帝国人と属州人とでは生まれ持った権利が違う。帝国人は勝者であり支配者階級だ。
「だが、帝国への忠誠を証明できる唯一のしるしだ」
 ロレイア人にとっては。
 ぶっきらぼうに言い返す。ロゼルは意味ありげに微笑んだ。
「すぐに要らなくなる」
 リヒトは用心深くロゼルの横顔を見返した。見通せないのではなく、ただ、理解しがたく、また受け入れがたいだけなのかもしれなかった。帝国貴族であり、異端審問官であるロゼルが、外人部隊の暗殺者であり属州人である自分と行動をともにして、いったい何の実利が得られるというのか。
「下らない踏み絵など不要だ」
 ロゼルは、表情を和らげた。
「せっかく久しぶりに会ったのだ。つもる話もある。どこか雰囲気のいいところで、杯でも傾けながらしっぽりとしけ込みたいところだが」
「断る」
「この俺の誘いを断るのは、世界中探しても貴様一人だけだぞ、リヒト」
「この私をここまでうんざりさせるのも、この世でお前一人だけだ、ロゼル」
「ではおあいこということで手を打とう」
「不平等すぎる」
「人生なんてそんなものさ。軽く行こう」
 ロゼルは気安くウィンクした。
「案内しよう。さんざん待ちぼうけを食らわせたせいで、かなりご立腹だ」
 リヒトは片方の眉をぴくりとつり上げた。
 立腹している……そう言った。
 リヒトを戦場から呼び戻した人物。ロゼルを道先案内として遣わせる地位を持つ人物。その人物が、この帝都でリヒトを待ち受けている──
 いったい、何者なのか。なぜ、呼ばれたのか。
 下手を打てば命に関わる。
 表向きは平静を装いながら、リヒトはさまざまな思いを巡らせた。脳内にありとあらゆる不穏な要因を並べ立ててみる。思い当たることはなかった。あるとしたら、自分がロレイア人であるということだけだ。ますます気が重くなってゆく。
 徽章を留めつける指先が、無様に滑った。かすかに手がふるえている。
「すぐに分かるさ」
 ロゼルはリヒトの指先を見つめながら、奇妙に微笑んだ。

次のページ▶

もくじTOP
<前のページ