クロイツェル

2-2 両性具有

 リヒトは、ロゼルに先導されるがまま馬を進めた。誰が待ち受けていようと関係ない。不安が頭をもたげてくるのを敢えて心から追い出す。
 目抜き通りは人であふれていた。宝石色のドレスをまとった貴婦人がレースの幌付き馬車に揺られている。絢爛たる凱旋パレードが行われているかのようにも見えた。
「それにしても久しぶりだな」
「相変わらず人が多くて、目が回りそうだ」
 街を構成する無数の柱。天高くそそり立つ塔。芸術の粋を尽くした大理石の彫像の数々。波打つ天井を持つ劇場。緻密な彫刻を施された石造りの壁。流麗に計算され尽くしたモザイクの石畳。
 眼を細めて、豪奢と言うほかない帝都の光景をたっぷりと堪能する。 
「馬鹿、貴様と会うのが、だ」
「数えたこともないな。お前のことなんて常には頭にないから」
「つれないな。俺は貴様のことでいつも頭がいっぱいだというのに」
「どうやって嫌がらせの罠を仕掛けようかと考えてるだけだろ」
 図星だったらしい。にやりとふてぶてしい笑みが返る。
「こっちに帰ってきたのは何ヶ月ぶりだ?」
 リヒトは頭の中で指折り数えてみた。
「……忌まわしきオペレッタ事件以来だ」
 頭上を何かが横切った。大きな影に覆い尽くされる。ロゼルは空を仰いだ。
 鮮やかな模様を表面に描いた熱気球《モンゴルフィエ》が悠然と空中を漂っていた。どうやら、どこかの建物の屋上にロープを結びつけて浮かんでいるらしい。駕籠に乗った貴婦人が、オペラグラスを片手に花びらを振りまいていた。その後ろでは、真っ黒にすすけた熱気球職人がかまどの炎を絶やすまいと必死で石炭をくべている。
「今世紀最大の問題作、『真実の愛に撃たれて』宮廷にうずまく愛と欲望の嵐! 翻弄されるうらわかき貴族の娘ヘンリエッタの恋の行方は? みなさまぜひご覧ください。本日より絶賛上演中でございます……!」
「ああ、あれか」
 熱気球を見上げながら、ロゼルはげっそりとうなずいた。
「ひどい話だったな」
「ひどいなんてものじゃないぞ。最悪だった」
 以前、疲れた顔のロゼルがいきなり部隊の駐屯地に尋ねてきたことがあった。『帝都でちかごろ流行りの喜歌劇《オペレッタ》なるものを、とある高貴な身分のレディたちがご所望になっていてだな、もちろん俺は淑女たるもの、そのような俗物的な見せ物《ショウ》など見てはいけないとさんざん申し上げたのだが靴でぶん殴られてしまって……』と丸め込まれ、無理矢理エスコート要員としてかり出されたのである。
「どうしてあんな惨憺たる結末になるのか、まったく理解できない」
「俺に言うな」
 そのとき見せられた三文芝居ときたら、全く、ひどい、なんてものではなかった。
 憲兵に追われる義賊──正体はもちろん高貴な生まれの貴族だ──が追っ手から逃れるため、たまたまその場にいた貧乏貴族の娘と出会い頭に熱烈なキスをする、という展開だった。
(見ず知らずのわたくしに、どうしてそんなはしたない、ひどいことをなさいますの? ああ、何て罪なお方!)
 主役の娘は、コルセットをぎゅうぎゅうに締め上げられているせいで、くるくる回ったり感極まる演技をするたび呼吸困難に陥り、気を失ってばかりいたのだが、”高貴なレディたち”はやんやの喝采。キスするたび、ヒロインが失神するたび、きゃーきゃー興奮して手を取り合って歓声を上げる。
 ロゼルは頭を羽扇でぼかすかとぶん殴られ、リヒトは頬にキスマークを五個以上つけられ、かまびすしいことこの上もなく。
 おかげでそれ以降の筋書きはまったく覚えていない。あげくに、”高貴なレディたち”がいったい何者なのかも聞きそびれた。正直、二度とお近づきにはなりたくない。
「あのときだけは、生まれてこの方味わったことのない恐怖を感じたぞ」
「うむ、同感だ」
「お前に言ってるんだ」
 リヒトはすかさず言い返した。
「お前の顔を見るたび、また、ロクでもない面倒事を持ち込んできやしないかと気が気でならん」
「気のせいだ。ほら、皆が挨拶してくれてる」
 大通りをゆく美しい二騎の姿に、人々は感嘆の声をあげ、眼をほそめて、自然と道を開けた。ロゼルがにこにこと周りに手を振る。中にはひざまずくものもいた。手を結びあわせ、膝をついて深々と祈っている。
 ふと、リヒトは顔を上げた。
 異質なまなざし──何者かの視線を感じる。
 ロゼルを見やった。ロゼルは気づいていないらしい。相変わらず愛想を振りまいてばかりいる。
 視線を戻す。人々の奥に、青い衣をまとう人影が佇んでいた。縁に黒糸で刺繍を施した頭巾を目深にかぶっている。
 明らかに特異な空間が、青い衣の周辺を取り巻いている。これだけ人がひしめいているというのに、まるでそこに何もないかのように、人々は、無意識に青い衣を避けて通っている。
 ふっと顔を上げたとき、切れ長の黒い瞳がくっきりと印象的に光って見えた。美しくも暗い、深い瞳。この世ではないものを見つめる眼。眦に薄い銀の化粧を掃いている。男か女かも分からなかった。
 黒い瞳が、ひた、と。リヒトを見つめている。
 吸い込まれそうな瞳だった。視線を離すことができない。
 古い記憶が揺り動かされた。どこかで見たことがある眼だ。誰かに似ている。
 いったい何者なのか。
 だが、声をかけることはできなかった。馬は決まった速度で行きすぎる。謎めいた人物の姿は視界の後方へと押しやられ、やがて人ごみに紛れて消えた。
 リヒトは、後ろ髪引かれる思いで息をついた。不思議と、一時の邂逅とは思えなかった。いつかまた再びまみえることもあるだろう。それは確信に近い予感だった。
 やがて道はゆるやかに登り始めた。丘の上へと向かっている。行き先に見える建造物群のまぶしさに、リヒトは眼を細めた。
 帝国聖教会の大聖堂は、帝都エルフェヴァインを見下ろす丘陵の上に築かれている。断崖絶壁の縁から直接立ち上がる純白の尖塔の優美さ、孤高さもさることながら、空へ巻きあがってゆく炎のように立ち並んだ柱列、一斉に伸び上がる無数の塔、神々しい薔薇窓を支える尖形アーチ。輪になった白鳥が翼を広げ、首をそらし、羽ばたこうとしているかのように見えた。何百年も掛け、それぞれの時代の様式を組み合わせて建設され続けてきた大伽藍だ。
 広壮たる絶景に身がうち震える。感じるのは畏怖ではない。気後れだった。属州の民が帝国聖教会の大聖堂敷地へ足を踏み入れることは許されていない。身に刷り込まれた精神的な圧力のせいで、ロゼルの同行があると分かっていても相当、息苦しい。
 ロゼルは人々が詣でる大聖堂横の礼拝堂など見向きもしなかった。灰色の階段横に作られた車道を上がり、敷地を横切り、廻廊の柱列を横に見ながら厩舎へ立ち寄って馬を預ける。黒衣の修道僧がうやうやしく手綱を受け取った。二頭がおとなしく馬房へ引かれてゆくのを見送る。
 そこからは歩いて進んだ。尖塔の立ち並ぶ離れを抜けてゆく。ゆるい勾配を上ると、高台と高台の狭隘な谷間に門扉が見えた。緑濃い植え込みと、青々とした薔薇のアーチにまぎれている。注意して見なければ見落としてしまいそうだった。
「何だ、ここは」
「”禁忌の塔”」
 ロゼルは罪深い名を口にする。
「先の皇帝が逢い引きに使った塔だと聞いている」
「大聖堂に女などいるはずないだろう」
 ロゼルは奇妙な笑みを浮かべた。小馬鹿にした目線をちらりと横目に走らせる。
「相手が女だとは言っていない」
 リヒトは、むっとして口をつぐんだ。何か言うにつけて言いくるめられるのにもいい加減飽きてきた。もっと怒ってもいいはずだ。だが憎めない。ロゼルのすることだ、という、半ばあきらめにも似た感情が、胸の中でざわざわした。落ち着かない。
 ロゼルは、禁域と外界とを隔てる秘密の鉄扉を押した。心をかき乱す軋りが響く。
「入れ」
 手を扉の縁にかけ、うながす。鬱蒼と茂る林の奥に、塔が見えた。
 なぜか、一瞬、ぞくりとする。冷涼感が背筋を伝わった。風もないのに、木々が揺れている。枝葉の揺れる音が周囲を取り巻く。外界とは違う、異質の空気が感じ取れた。しゃべり声に似た物音がぞわぞわと聞こえてくる。誰かがうわさ話をしているようだった。入ってはいけない。招かれてはいけない。そこに何がいるか分からない──
 ふっ、と。
 時が止まったような心地がした。あれほどざわめいていた木々が、かさりとも動かない。
 風が止まる。静謐が支配する。
 蔦の絡まる古めかしい白しっくいの塔。塔の最上階から下の端まで、人の腕ほども太さのある鎖が何重にも巻き付けられている。まるで、塔そのものが邪悪な意志を持ってうごめき出すのを鎖で押さえ込んでいるかのようだった。
 まさしく、”禁忌の塔”。名の通りだった。存在してはならないものが、存在している。畏れに打たれ、リヒトは立ち止まった。足が前へ進んでゆかない。根が生えたようだった。
「どうした」
 かすかな憐憫。先に上がろうとしていたロゼルが、段の途中から見下ろしている。
 リヒトは動揺を押し殺した。畏れている、だなどと思われたくはなかった。進むしかない。
 塔内部は、思ったよりも美しかった。真っ白に塗られた壁には素朴な宗教画がかかっている。優雅な椅子が数脚に、テーブルが一つ。鉄格子の嵌った窓から、水を通したような日の光がゆらゆらと床に反射していた。
 嫌な予感がした。ここは、牢獄だ。
「よく来たな」
 頭上から声が響いた。重々しい声だった。ロゼルが立ち止まった。リヒトは身をこわばらせた。
「上がってくるといい」
 深い声が導く。ロゼルは動かない。リヒトがうながすように眼を上げると、ロゼルは気の進まない様子でうなずいた。指を立てて、先に行け、と階段を指し示す。
「先に上がれ」
「上にいるのは……」
 声を飲み込んだ。唇を湿す。じりじりとした焦燥の火にあぶられ、緊張の糸が焼き切れそうになる。ロゼルは目を伏せた。
「行けば分かる」
 急な螺旋階段が上階へと続いていた。足下は金の紋様を織り込んだ豪奢なカーペットだ。踏みしめると、爪先が沈んだ。違和感が這い上る。上るにつれ、ますます居心地の悪さが強まった。
 いったい誰が待っているのか。
 何のためにリヒトを呼んだのか。
 最上階まで螺旋階段を上がりきる。小部屋があった。先ほど、ロゼルの言った内容が改めて脳裏によみがえった。
 かつての皇帝が、修道僧との逢い引きに使った部屋──
 壁全体に張り渡された布には、豪奢な刺繍が縫い取られていた。銀の糸で聖刻文字《ヒエログリフィカ》を差しつづったタペストリ。壁に掛けられた官能的な肖像画。部屋の一方の壁には、全身映し出せるほど大きな姿見があった。鏡に映り込んだ炎が、ゆらゆらと天井まで光の波紋を届かせている。
 部屋の奥にはワイン色に統一された続きの間になっていた。天蓋付きのベッドが窺える。甘いロザリンドの香り。あからさまな情事の残像に、愕然とする。
 この部屋は、人目を忍ぶ密会に使われた部屋だ。濃密な香りが今も残されている。
 まさか、そのようなものの”対象”にされるとは。
 そんなことは思いもしていなかった。なぜ、気がつかなかったのか。
 リヒトは眼をするどく怒りに燃やして、部屋の中央にしつらえられたソファに腰掛ける男を見やった。
 下らないことを言われれば、即、帰るつもりだった。たとえ相手が何者であろうと。
 麗しい聖衣をまとった壮年の男が、身を伸ばしてくつろいでいる。傍らに猫足の丸テーブルを置き、燭台《カンデラブリウム》に火をともして本を読んでいる。手にしているのは豪奢な装丁を施した万有知の書《パンソフィア》。白く揺れる炎が手元を照らしている。 
「リヒト・ヴェルファー」
 気怠げな声音は、リヒトが向けた敵意とは対照的だった。小気味の良い音を立てて書を閉じる。
「ロレイアの王子だな」
 指を鳴らす。背後に忍んでいたロゼルが、リヒトの腕を唐突にひねりあげた。
 振り返る間もない。
「すまない、リヒト」
 ロゼルは、押し殺した声で低く詫びるや否や、リヒトのみぞおちに重い拳の一撃を突き入れた。内臓が身体の中で跳ね上がった。
「っ!」
 たまらずリヒトは身体を折った。吐き気がこみ上げる。
「ロゼル、お前、何……!」
 腕をすさまじい力でひしがれる。ロゼルはリヒトの手を背中へ回し、手首に冷たい鉄の枷を、首に革製の首輪をはめた。天井からつり下がった鎖の先端に鉤を引っかけ、首の枷と繋いで吊るす。
 手慣れた所作だった。拷問の匂いがした。
「気を悪くしないでくれたまえ、リヒト・ヴェルファー。むろん、聡明な貴公のことだ、よもや神に仕える者に対し手を上げるようなことはないと思うが、私はともかく、”息子”の身に何かあってからでは遅いのでね」
 椅子に腰掛けた男は、平然と語りかけてきた。
 瞳は鋼色に光っている。髪も同じ色だ。険しい顔つきに刻まれた皺は、男がくぐり抜けてきた世界の容易ならざる修羅場を物語ってあまりあった。色味は違うが、ロゼルと恐ろしいほど顔つきが似ている。
「お前、まさか私を」
 リヒトは身をよじらせてロゼルを睨んだ。十年来の親友に売られたのかと思うと全身が怒りに火照った。
「……すまない。父の命令だ」
 ロゼルはリヒトが思っていたのとはまるで違う表情を浮かべていた。暗いまなざしを伏せ気味にし、唇をけわしく引き結んでいる。だが囚われの身で相手を思いやれるほどの余裕はない。リヒトは膝でロゼルの急所を蹴り上げようとした。
 動きを見切られ、避けられる。リヒトは暴れた。
「離せ……!」
「ロゼル」
 鋼の眼の男が眉をつり上げ、顎をしゃくった。
「客人に怪我をされては困る。固定しろ」
 ロゼルは無言で従った。リヒトの背後へ回り込み、蹴り上げた足を抱えて押さえる。
「離せ、卑怯だぞ……!」
 枷をはめられ、否応なく床に固定される。
 つり下げる鎖の音が甲高く響き渡った。ロゼルは暗い眼をそらした。
「猊下の御前だ。口を慎め、リヒト」
 顎を掴んで、ぐいと持ち上げられる。
「見損なったぞ」
 リヒトは唾を吐いた。ロゼルの頬にかかる。ロゼルは表情ひとつ変えず、リヒトの口に猿ぐつわを押し込んだ。暗い顔を伏せ、拳の背で頬を拭う。
「それでいい。少しは落ち着くだろう。ご苦労だった」
 聖衣の男は優雅な所作で手を上げた。
 ロゼルはうやうやしく男の前に跪く。差し伸べられた手に、聖銀の指輪がはめられていた。ロゼルは長身を堅苦しくこごめて男の靴先にキスし、次いで指輪にも服従のくちづけをした。
「扉を閉めろ。声が漏れる」
「はい、猊下」
 ロゼルは命じられるがままだった。陰鬱に出口へと向かう。わずかに振り返り、肩越しにこわばった表情を見せる。聖衣の男はうなずいた。ロゼルは扉を閉めた。重苦しい音を立てて閉まる。臓腑の竦むような心地が突き上げた。

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