クロイツェル

3 禁忌の塔

「終わったら報告に来い」
 馬の種付けじゃあるまいし、じろじろ見られてするものでもないだろう、当て馬がいるなら用意させる、もちろん私は関与しない禁欲の誓いが云々、と。身も蓋もなく言い残してアルトーニ枢機卿は立ち去った。
 ロゼルは悄然と肩を落とし、リヒトを縛める鎖をほどきはじめた。
「大丈夫か」
 抱きかかえられる。
「大丈夫なわけがあるか」
 リヒトは怒りと恥辱で頬を染めた。肩からずり落ちた軍衣が、しどけなく床に引きずられてわだかまっている。ロゼルの手を振り払おうにも、力が入らない。
 ロゼルに、女の部分を手淫されて、愚かしくも精をこぼしかけてしまった。いや、違う──
 身体中の節々が、朽ち果てる寸前の老木に変わってしまったかのようだった。少し動かすだけで、ばりばりと乾いた音を立てて砕けそうな気がする。
 ロゼルは顔をこわばらせた。言うか言わざるかで逡巡したかに見えたあと、冷や汗混じりの声で言い返す。
「まさか本当に女だとは思わなかっ……」
「お前は相手が女か男か確かめるためだけに、いきなり縛って吊して指突っ込むのか、サド野郎」
 リヒトは抑えた声に煮えたぎる怒りを紛れ込ませ、冷酷に痛罵した。あんなことをされた後では、ロゼルが凹もうが傷つこうが知ったことではない。
「頭おかしいと思わないのか」
「そ……それは、そ、その、かくっ、確認するためには必要不可欠な行為であって、だな」
 ロゼルはまごついた。わずかに頬が赤らんでいる。
「だが、俺の立場から言わせてもらえば、そ、その、そんな身体構造をしてる貴様が悪いのであって……」
 あまりにもわざとらしい責任転嫁に思わず目眩がした。
「ああそうか、私が悪いのか。だからって」
 リヒトは頬を上気させ、ふと声をかすれさせた。
「いきなりあんな……ひどいことをするか、普通……?」
 失神しそうな声で弱々しくささやく。
「いや、違う、それは誤解だ。確かに貴様を騙して連れてきたのは認める、だがどうしようもなかったんだ。父上の御命令で……」
「ひどい奴だな。お前は。さんざん私の身体を──もてあそんでおいて、よくもそんなことが言えたものだ。男に股間まさぐられるなんて普通なら死にたくなるぐらいの屈辱だぞ」
「う……!」
 喉仏が上下した。声がくぐもる。
「だから悪かったって言って……」
 リヒトは傷ついた顔を伏せる振りをしながら、内心、ぺろりと舌を出した。狼狽えるロゼルを翻弄するのも、その腕に身体をゆだねるのも案外、心地よかった。ふと、こころゆくまでこの腕を利用してやりたい、と思った。
「……命令されたから、したのか」
「いや、だから、その、ホントにだな……!」
「命令だから、私を標本みたいに扱っても平気だと思ったのか」
「そんなことはない。ただ、その、つまり、貴様の、身体が、その、まるで……」
 無理にひねった姿勢のせいで、ロゼルに再び身体を預けるかたちになる。
 ロゼルは途端に落ち着かなげな顔になって眼を瞬かせた。しらじらしく顔を背ける。視線が挙動不審に泳いだ。横目で乳房を見ている。
「怒ってるんだろう。私が、この身体のことをずっと……お前に言わず、黙っていたから」
 リヒトは眼を閉じた。あえて、無防備な裸身を赤裸々に晒す。
 眼を閉じていても分かった。ロゼルの視線が、肌に絡みついてくる。
「俺はそんな狭量な男じゃない……」
 見られている。舐めるような男の眼が、呼吸のたびにゆるやかに上下する乳房を追いかけて、見つめる。ごくりと唾を呑む音がした。
 疼く。
 感じる。
 リヒトはぞくりとうごめく劣情を催した。身体の奥底に、重い、冷たい鉛を飲まされたような鈍痛が広がる。腰骨を揺すぶられるような痛みだった。強迫めいた感覚がこみ上げた。
 一度も自覚したことのない種類の欲望が身体の奥で疼く。商売女を抱いたことなら何度もある。だがそれは男として溜まった欲望を吐き出すためであって、決して見返りや安らぎを得るためではない。
 喉が渇いた。水ではいやせない飢餓感を感じた。身体が熱を欲する。むさぼるように飲み干したい。何かを。
 ふいに息がやるせなくなった。
「どうした」
「心臓が痛む。苦しい」
 ロゼルは思い出したようにうなずくと、リヒトをソファへと連れて行った。くずおれるようにして腰を下ろす。吐息が漏れた。
 乳房が揺れるたびに、胸の奥に、ずきり、と刺激が走る。意識すればするほど、扇情的に膨らんで張ってゆくような気がした。痛みと重みが増してゆく。
「部屋を暗くしてくれ、ロゼル……すまない、その……恥ずかしいんだ」
 リヒトはわずかに声をうわずらせた。短く息を継ぐ。目眩がした。ロゼルは目をそらした。
「分かった」
 狼狽した口調が愛おしかった。リヒトはかすんだ眼を開いた。ロゼルは、緊張しきったおぼつかない手つきでカーテンのタッセルををはずしている。徽章をスリ取った鮮やかな手つきが嘘のようだ。
 分厚いワイン色のカーテンがゆっくりと引かれた。窓から差し込む光が、少しずつ幅を押し狭められてゆく。床に映った影は、薔薇窓を模した鉄飾りの格子模様だった。なぜか、牢獄を連想した。
 光のあたっている部分が細い帯ほどの幅にまで減る。部屋は静かな影に満ちた。ロゼルはカーテンに手をかけたまま、窓際に立ちつくした。
「眼が金色に光ってるな」
 放心しきった口調だった。リヒトは力なく笑った。
「ああ、おかげでロレイア人だとばれて、大変な目にあったよ。どこかの誰かが私の徽章を盗んでくれたせいでね」
 賢明にもロゼルは聞こえなかった振りをした。
 リヒトもそれ以上ロゼルを虐める気にはなれず、ソファに深々と身体をあずけた。目を閉じる。身体がだるかった。いつもよりも全身が重く、熱っぽい。
「……何でずっと黙ってた」
「怒ってるのか」
 ロゼルは鼻が詰まったようなうなり声を上げた。引き終わったカーテンの位置を、何度も手持ち無沙汰気味に直す。
「そんなことは言っていない。危険だから言ってるんだ。父上が、その、お前の秘密を知っていたのに、友である俺が知らなかったというのが、要するに」
「気に入らなかったのか」
 ロゼルはむっつりとそっぽを向く。リヒトはつい声を立てて笑った。思ったよりもあっさりと白状したのは意外だったが、満足でもあった。今以上にはロゼルの機嫌を損ねないよう、弁明に努める。
「仕方ないだろ。まさか、バレてるとは思わなかったんだ。そもそも、こんな目に遭うと分かっていたらノコノコと暢気にお前を追って来たりするものか」
「だったら良いが」
 不承不承な表情ながら、ロゼルもまた休戦に同意した。気持ちを整理するためか何度も咳払いし、心許なげに握りしめたままだったカーテンからようやく離れる。
 リヒトは疲れたため息をついた。
「とにかく今はやれるところからやるしかないな」
「なっ」
 つんのめるようにロゼルは立ち止まった。顔色が変わっている。
「や、ヤるって何をヤる気だ貴様」
「アルトーニ枢機卿が私を呼んだ意図を探るんだよ」
 リヒトは微苦笑してロゼルを見やった。ロゼルは哀れなほど狼狽している。
「そ、そうだな、その通りだ」
「何だその冷や汗は。動揺しすぎだろう。お前こそ何をやる気だ」
「な、何もしない! 勘違いするな」
「女たらしのくせに純情だな」
 ロゼルは眼を白黒させ、唐突に噎せた。
「む、むしろ、男をたらし込んだ経験があるほうがおかしいだろ!」
「そうでもないだろう。修道士には意外と多いらしいと聞くぞ」
「何が!」
「分かってるくせに。とぼけるな」
 リヒトはちらりと横目をくれて含み笑い、それから表情を引き締めた。息を整え、ゆるんでいた軍衣の襟を正す。意識を切り替え、ふざけた現実へ自分を引き戻す。少しずつ頭に血が巡り始めた。
「ここまでの話をまとめよう。お前も、それなりに理由を聞かされていたのだろう。ただ単に、こんな売女めいたことをさせるためだけに軍に手を回して私を呼びつけるなど、それこそあり得ない」
 思い当たるふしがあったらしい。ロゼルは短い息をついてうなずいた。
「”教団”だ」
 謎めいた言葉が異端審問官の口から発せられる。憂鬱な空気がさらに重くなった。
「何を奉じる教団だ」
「異端ということだけだな、分かっているのは」
 あきらめきった口調は苦々しさに満ちていた。リヒトと向かい合う形でソファに腰を下ろす。
 ロゼルはテーブルの上に置かれた水差しを取ってグラスに中身を注いだ。よく冷えた水割りのワインだ。ぐいとグラスをあおる。どこでそんな粗野な仕草を覚えてきたのか、こぶしの背で口元をぬぐい、生き返ったような息をついた。グラスはひとつしかなかった。ロゼルはリヒトの顔をちらりと見てから、グラスを突き出した。
「飲め」
 グラスの中に薄いワインが満たされる。透き通る色。澱が舞っている。
 リヒトはグラスに口を付けた。薄い味だった。これなら酔わずに済む。一気に飲み干す。
「帝国の各区で、異端審問官として派遣された主教や助祭が殺害されたり危害を加えられたりする事件が相次いでいる」
「異端審問会お得意の”自白”じゃないだろうな。存在するかどうかも分からない教団とやらに責任をなすりつけて、新たな主教になろうとしている者がのうのうとふんぞり返っている、という可能性は」
「もちろんなきにしもあらずだ。だが、そういった通常の犯罪ではない”異質”な事件があることも事実だ」
「確証はあるのか」
「言えることと言えないことがあるとしたら、明らかに”言えないこと”の部類に入る事件があった、とだけ言っておく」
「私にも言えないことか」
「そうだ」

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