クロイツェル

3 禁忌の塔

 ロゼルは態度を改めた。表情からうわずった火照りが消える。いつものロゼルだ。押し殺した声で淡々と説明に徹している。
「異端審問官の全員が、俺や父上のように教練を受けているわけじゃない。命を狙われていると分かっている者には身辺警護が必要だ」
「教練とは意外な経歴だな」
 リヒトはロゼルの話を遮った。確かに軍務についていたとしてもいぶかしくはない面構えではあったが、しかし枢機卿の経歴としては異色だ。
「アルトーニ家はもともと軍人の家系だ。父も軍人だった。叙聖されたときに母と離縁したと聞いている」
「御母堂は今どこに」
「セラヴィルの修道院にいる。俺も父と一緒に世俗を離れて神学校に入ったんだ。軍部出身ともなれば何かと敵が多くなるだろうから少しでも父の役に立てるようにと母に強引に放り込まれ……いや、今はそんなことはどうでもいい。どこで、どんな事件を起こされるか分からない以上、”教団”が極めて厄介な存在であることは間違いない」
 リヒトは片眉を持ち上げた。ロゼルを見やる。
「それはいいが、なぜ、私なんだ? 少なくともここに連行されるまでは、誰一人として、私の身体のことは知らなかったはずだ。ロレイア人だからといって頭から異端扱いされる覚えもない。お前が猊下に言ってくれたとおりだ」
「それはそうだが、しかし、あの事件の後、父が……」
 ロゼルは額に手を押し当てた。苦虫をかみつぶしたような渋い顔をする。
 リヒトはグラスにワインを足し、半分傾けた。誰にでも知られたくない秘密の一つや二つはある、ということなのだろう。残りを小難しげな顔でうなっているロゼルへ回す。
 回し飲みの杯をロゼルは一口で空にした。
「異端審問関連の記録簿は、すべて帝国図書館の非公開書庫にある。殺された連中の残した資料も。目を通しておいたほうがいいだろう。見に行ってみるか? もしかしたら、心当たりがあるかも知れないしな。とにかく調べるしかない。父上は誤解をなさっておられる。貴様がロレイア人であることも、リドウェル王の弟であることも最初から分かっていることだ。なのに、今さら突然、出自を持ち出して罪を問うなど、どうしても得心行かぬ」
 たたきつけるようにしてグラスをテーブルへ戻す。ロゼルの眼は真摯だった。
「……意外と頼りになるじゃないか」
「ふざけてる場合じゃない」
 リヒトは酔って赤くなった眼をテーブル越しにロゼルへ向けた。
「本気だ。お前が弁護してくれなければ、たぶん、今頃私はとっくに”象の檻《ドグラ》”へ放り込まれていた」
「買いかぶりすぎだ」
 ロゼルは思い詰めたように首を振った。視線をテーブルへ落とす。
「もっとはっきり父上に申し上げるべきだったんだ。貴様が疑いをかけられるような人間じゃないということを」
 やけ気味に何杯も水割りワインをあおる。目尻が赤くなっていた。
「分かっていたくせに、父上にちゃんと言えなかった俺が悪いんだ」
「……その言葉が聞けただけで十分だ。感謝する」
「礼を言われる筋合いはない。俺は自己満足でやってるだけだ」
 またグラスを空にする。ロゼルは意固地に肩を怒らせてさらに注いだ。
「貴様も飲め」
「飲み過ぎだ」
「飲まずにこんなことやってられるか」
 やけ酒とは。酒癖の悪い奴だ。リヒトは眉宇をひそめた。さして強くもないくせにそんなに一気に飲んだら、いくら水割りとはいえ酔いが回る。
 ひとつひとつ、流星のように飛来する手がかりの単語を、意味の合う文章としてつなげてゆく。言葉の星座《シドゥス》が描き出された。
 ”リドウェル”は、”世界を滅ぼす大罪を犯した”。
 ”ロレイアの闇”。
 ”教団”が、”関与”している。
 からみつくような言葉の悪意に耐えきれなくなって、頭を振る。リドウェルがそのような大それた罪を犯すわけがない。
 リドウェルの名は、言うなればパンドラの箱だ。死して口を閉ざし、秘密を封じた、謎、災厄、悲嘆、悪徳と秘密の象徴。
 兄は、リドウェルは、ロレイアを憎んでいた。
 父を恨み、国を滅ぼした狂気を憎み、背中に刻まれた血の刺青を呪い──それらすべての元凶であったロレイアを憎んでいた。死の蔓延した王国を憎んでいた。だからこそリヒトを悪夢のロレイアから引き離し、帝国へと逃がれさせたのだ。
 忌まわしき禁忌の地。
 ロレイアでいったい何があったのか。
 兄は、なぜ死の城と化したロレイアの王宮にただ一人、残ったのか。
 暗い思慕を、意志の力で追い払う。
 兄は、ロレイアの闇に飲み込まれて消えた。だが決して兄は”大逆の王”などではない。”世界を揺るがすほどの闇”など、望むはずがない。誰よりも兄自身がロレイアの闇を憎んでいたのだから。
 兄が受けた汚名を濯ぐには、箱に残された、”真実”という名の希望を手に入れるしかない。たとえ、それが偽りの希望であったとしても。 
 リヒトの眼が、鬱金の輝きにゆらめき立った。
「枢機卿と話がしたい。誤解されているのならば弁明をさせてもらいたい。真実を、知りたい」
「今はだめだ。行ってはいけない」
 ロゼルはしたたかに酔っていた。あるいは酔ってしまいたい、と思っていたのかも知れなかった。薄汗をかいている。
 部屋の隅の姿見がロゼルの後ろ姿を映し出していた。リヒトは鏡に映る自分から目をそらした。鏡の奥にいる見知らぬ誰かと見つめ合っているような気がした。
「俺は、父上には逆らえない」
「素直に従えるうちは従えばいい」
 鏡を見つめ、冷やかし半分に笑う。
「逆らいたいと思えることこそが健全だ」
「そういう意味じゃない。平気なのか、貴様」
 ロゼルは、だだをこねる子のように言いつのった。酔いのせいか、舌がもつれる。
「……あんな命令、どうかしているとしか思えない……」
「そのわりには随分とじろじろ見ていたな」
「見てないぞ。いや、見たけど、それは、その、見えるから見ただけで、別に、でも、それは、ああ、見たいに決まってるだろう、女の身体が嫌いな男などいるものか」
 ひっく、としゃっくりをあげる。ロゼルは目をこすった。身体がひょこんと浮き上がる。
「異端審問官にあるまじき暴言だな。粛清されるぞ」
 リヒトは感情の欠けた眼でロゼルを見つめた。
 先ほど、ロゼルに──男の手にまさぐられて──酩酊感を感じたときから。
 羞恥も恐怖も消え失せていた。
「だったらちょうどいい。開通を済ませてくれ」
 リヒトは立ち上がった。軍衣を脱ぎ捨てにかかる。
「おい、ちょ、待て、早まるな……て、開通言うな!」
 ロゼルは血相を変えて立ち上がった。酔いのせいで足元がふらついている。半ばソファからずり落ちながらもあわてふためき、テーブルを踏んづけて乗り越えてくる。
「俺の都合は完全に無視か」
 酔っぱらった赤い顔で押しとどめる。
「女を口説くのは手慣れてるんじゃないのか? つべこべ言わずにさっさとやれ」
 説明するのも面倒だ。リヒトは舌打ちし、襟を掴むロゼルの手を払いのけた。
「要するに枢機卿は、私に、お前の手駒──愛人になれと言ってるんだろう」
 自嘲気味に肩をすくめる。
「こんな身体にされてしまっては、もう女を抱くこともできない。かといって、おいそれと他の男に抱かれてやるわけにもゆかない。さっき、お前に触られて分かった。女の身体というのは思ったより淫乱にできているらしい。少しは耐えられるかと思ったが、完全に無理だった。ほんのすこし触れられただけであんなふうになるのなら、余程の意志を持たないと、この先、どんなことになるか分からない。怖いぐらい感じる……自分でもぞっとするよ……つまり、お前が私を抱いて満足させてくれれば、肉体的にも、おそらく精神的にも、お前と、お前が崇拝する”猊下”の影響から逃れられなくなる、というわけだ。悪くない取引だろうよ、枢機卿からしたら」
「身も蓋もないことを言うな。男なんか抱けるか!」
 ロゼルは憤激の声を上げた。
「だいたい、誰が手慣れてるだ。慣れてるわけないだろう、仮にも禁欲の誓いを立てた身で」
「聞き捨てならないな。どういうことだ」
 リヒトは片眉をつりあげた。斜に構え、哀れみのまなざしをくれる。
「娼婦を買ってはケツ毛までむしられてさんざんな話はどこへ行った」
 ロゼルは、ぎょっと目をむいた。寸詰まりなうなり声を上げて自沈する。
「う、嘘じゃないぞ……女なんか、は、は、掃いて捨てるほどいる……お前みたいな、お、お、男に手を出すほど夜伽相手に事欠いているわけでは……」
「どうした。大丈夫か? めっきが剥げてきてるぞ。華麗なる一族ロゼル・デ・アルトーニ様の栄光の女性遍歴はどこへ行った」
 さらにたたみ込む。ロゼルは鼻息を荒くし、顔色をめまぐるしく変えながら自分の手首を掴んだ。
「ロレイアの悪魔め、こ、こ、この、俺を誘惑しようとしてもその手には乗らんぞ」
「どうした? 手が疼くのか。そもそも、この身体が男に見えるのか? お前、さては女の身体なんか一度も触ったことないんだろう」
 今までさんざん見せつけられてきた余裕も、人を食ったようなしたたかな態度も、貴族であるが故に肩肘を張った見栄のたぐいであったのか。そう思うと、とがめる気も失せた。失笑がもれる。無理をして背伸びして、実際にはできもしない武勇伝を語るなど、子供っぽいにもほどがある。
 リヒトは淫靡に笑ってロゼルの手を掴んだ。ぐいと引き寄せる。
「っ……!」
 はだけた軍衣の内側へロゼルの手を引き入れる。手が乳房に触れた。ロゼルは脱力した声を上げた。
「うへぇ、やわらか……じゃない! 触らせるな!」
 満面に朱を注いで抵抗する。
「気にするな。女を抱いたことは何度かあるが、女として男に抱かれるのは初体験《はじめて》だ」
「かっ、身体が問題なんじゃない。リヒト、貴様、男としての矜持はないのか……!」
「さあな。自分でも分からなくなってきた」
 ロゼルは手を引き抜こうとし、実際、何度も引き抜くそぶりを見せた。だが、できなかった。形の良い、やわらかな、まるい膨らみに指先が食い込む。震えていた。力がこもる。
 熱に浮かされた視線がリヒトを食い入るように見つめていた。
「男なら、男らしく……こんなことされたら、抵抗しろよ……」
 ロゼルは何度も息を吸い、呑み込んだ。手が欲望のままに乳房を揉みしだき始める。
 掴まれた乳房の形がゆがんだ。痛みが走った。リヒトは喉をのけぞらせ、顔をこわばらせて笑った。
「そうだな。もうすこし優しくしろ。乱暴に揉まれると痛い」
 ロゼルははりつめた眼をしてリヒトを見下ろした。その瞳にはいたたまれない後悔と、自嘲と、抗いがたい欲情とが揺らいでいて、狂おしいほどだった。
「何なんだ。まさか、本当に」
 言いかけて、ロゼルは絶句した。ふいに立ち上がって、リヒトから離れた。何度も眼を瞑り、瞬かせる。
「まさか、本当に魔女なんじゃないだろうな……!」
 映り込んだ恐怖のまなざしがリヒトをとらえる。リヒトは口の端を冷然と笑みに染めた。
「だったらどうする」
「貴様を……とらえて……裁判にかける……待て、近づいてくるな……!」
 リヒトは影のようにロゼルの後を追った。逃げるロゼルの身体が、テーブルに触れた。音を立ててワイングラスが傾く。倒れる。
 赤いしみがテーブルに広がった。
 血こごりの色のようだった。
 滴り落ちる音が聞こえた。欲望のむせかえる香りが漂う。
「教えてくれ」
 リヒトはロゼルの手を取った。驚くほど、抵抗がない。軍衣の前をはだけ、乳房にロゼルの掌を押し当てさせる。
「お前からは、私の姿がどう見える?」

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