クロイツェル

3 禁忌の塔

 しばらくの間、まじまじと鏡を見つめる。
 瞳だけがうっすらと妖しい金色に光っている。蛍のようだった。瞳の冷たさとは裏腹に、肌はぬめるような熱と艶を帯び、じりじりと欲情に焦がれて火照っている。
 別人のようだ、と思った。だが、ロゼルと抱き合っている女は、いったい誰……?
 しばらく見つめ続けて、ようやくそれが自分だと気付いた。
 ロゼルがリヒトの視線に気付いた。薄暗い鏡の奥に、ちらちらと燭台の炎が揺れている。
「何を見てる」
 リヒトはロゼルの手を引いて注意をそらした。鏡越しとはいえ、肌を合わせたまま見つめ合うのはさすがにきまりが悪い。
「ああ、貴様か」
 ロゼルはぼんやりと応じた。眼を瞬かせ、我に返って笑う。
「一瞬、誰かと思った」
「……私以外に誰がいる?」
「いやいやながらも男と寝たはずなのに、いつの間にか、情の移った別の女とすり替わってたような気分だ」
 瞬く間に頬が赤くなる。その表情をロゼルに見られたくなくて、あえて表情を誘いの微笑に変え、何食わぬていを装う。
「お前、私を男と思って抱いていたのか。なかなかの”強者”だな」
「抱いてしまったものは仕方ないだろう。責任は取る」
「何の責任だ」
「男でも何でもいい。とにかく取る」
「私みたいな異形を囲ったら、後で後悔するぞ」
「男だと思わなければいいんだろう」
「できるのか? 本当に?」
 何気なくロゼルの腕に手を置く。ほんの少し触れただけのつもりが、ロゼルはどきりとした様子でリヒトを見下ろした。
 みるみる余裕が失せて、赤くなってゆく。
 眼が、あからさまに宙を泳いだ。あさっての方向を見ていたかと思うと、おそるおそるリヒトと目を合わせて、どぎまぎと目をそらす。
「で、できるに決まってるだろ……どこから見たって男には見え……」
 リヒトは身体を起こし、ロゼルの耳元近くに、ふっ、と息を吹きかけた。鼻にかかった声をあげる。
「……私でもいいの、ロゼル?」
「ふぐぁっ!」
 ロゼルは逃げようとして逃げられず、おたおたと全身を震い上がらせた。眼が白黒している。
「ううう悪魔め、そんなかわいい声に騙されるものか……! この俺がそう何度も罠にかかるとでも……うっ……」
 結局、ロゼルは呻きながらリヒトの腰に腕を回し、引き寄せた。
「ああ……貞潔の誓願が……撃沈だ……何だよその声……ツボすぎるだろう……卑怯だぞ……!」
「声を変えただけなのにか」
 リヒトはあっさりと元の声に戻すと、未練たっぷりに腰をすり寄せてこようとするロゼルの耳を引っ張って押しのけた。
「”狐”の任務でもっときわどい女装をしたこともあるんだが……簡単に騙され過ぎだ。お前には失望した」
「ぐああその身体で元の声はやめろ!」
「じゃあこっちの声で」
 女声で答える。
「うおお可愛い! からと言って俺がそんな罠にかかるわけが!」
「どっちなんだ」
 ロゼルは口ごもった。悄然と肩を落とす。
「やっぱり……その」
 指の先で、ベッドにのの字を描く。
「……かわいいほうの声で」
「欲望全開だな」
 リヒトは吹きだした。
「まあ、いい。猊下のところへ行ってくる。お望み通り、お前との関係もろとも白状してこよう。なぜ、私を呼んだのか知りたい。一緒に行くか」
 ロゼルはふてくされたような暗い顔をした。短いため息をつく。
「俺は行かん。こんな汚れたなりで父上の前に出られるものか」
 顔をそむけてうつむく。影のある仕草だった。リヒトはロゼルの横顔を見つめた。
「猊下のことが苦手なのか」
「別に。それほどでもない」
 言いながら、ロゼルはふとリヒトを見やった。
「ちょっと待っていろ」
 言い置いて部屋の隅へゆき、濡らしたタオルを取って戻ってきた。
「初めてって……そんなに痛いものなのか」
 リヒトの頬をぬぐう。涙の跡が残っていたのか。リヒトはかぶりを振ってロゼルの手からタオルを取りあげた。
「別に。それほどでもない」
 ロゼルは目をそらした。唇を噛んだあと、床にわだかまっていたリヒトの軍衣に手を伸ばした。拾いあげて、押しつけてくる。
「……いくら俺が努力しても、あの父には追いつけないんじゃないかと思うだけだ。で、痛かったのか」
 リヒトは軍衣を受け取った。かすかに微笑む。
「ああ、めちゃくちゃ痛かったよ……処女を捨てるのがこんなに痛いとは思わなかった」
 ロゼルは眼を見開き、ややあって、苦笑いした。浮かぬ顔で首を振る。
「そうか。無理させたな」
「気にするな。私こそ、男と寝るなんて気持ち悪かっただろうに、無理にやらせて悪かった」
 ロゼルは答えなかった。
 リヒトは身体を拭き終え、シャツと軍衣の袖に手を通した。身支度を調えてゆくにつれ、傭兵である”狐”としての意識が戻って来る。
「だが、おかげで私は私自身を取り戻せた。私の秘密を知るのはロゼル、お前だけだ。お前以外の誰にも、真実を告げることはない。アルトーニ枢機卿にもだ」
 リヒトは背筋を軍人らしく伸ばし、襟を正した。服の下に潜り込んでいた黒髪をはらって、自由になびかせる。それだけで情事の痕跡は跡形もなく消え失せた。
 ロゼルは、毒気を抜かれた眼でリヒトを見やった。眼を瞬かせる。
「なんか……雰囲気変わってないか」
 リヒトはむっとした。ロゼルの耳朶を爪先でつねり、引っ張り下ろす。
「気のせいだ」
「あいたた! ほ、ほら見ろ、背が届いてないぞ。乳がでかくなりすぎて背が縮んだんじゃないか……」
 こんなときでも、たわいない毒舌を言い合える間柄でいられることが、奇妙に嬉しかった。
「そんな馬鹿げた話があるか。耳を貸せ」
 リヒトは眼をとがらせた。さらにきりきりと意地悪に耳をつねりあげる。ロゼルはじたばたともがいた。
「痛い、おい、何をする」
 言うか言うまいか迷ったが、はっきり言わなければ、きっとこの馬鹿には伝わらない、という気がした。
「もうひとつ言っておきたいことがある」
「な、何だ、まだ文句あるのか。痛くしたのは、その、謝っただろ……!」
 やはりだ。リヒトは舌打ちした。鈍感すぎる。まるで分かっていない。ロゼルの首筋からは、まだ、かすかなロザリンドの香りがした。
「帰ったらあの続きをやれ。いいな」

 部屋の扉を開けると、屋根裏へ上がる階段の入り口が開いていた。先ほどまではなかった扉だ。行く手は闇に見えた。リヒトは躊躇せず奥へと踏み込んだ。
 動くたび、軍衣の胸元がきつく感じられた。そもそも、男用の軍衣に、ふくらみすぎた胸をむりやり押しこごめて隠すこと自体に無理がある。まったく体型の変化を隠せていないうえ、無理矢理前を合わせているせいで、ボタンが今にもはじけ飛びそうだ。
 迷路のように入り組んだはしご状の階段をあがり、屋根裏を横切って、今度は急角度の階段を下りる。突き当たりは扉になっていた。ノックする。
「入ってきたまえ」
 思った通りだった。アルトーニ枢機卿の声がした。リヒトはドアに手をかけた。
 押し開ける。
 枢機卿の隣に、身だしなみを整えている途中らしきロゼルが並んで立っていた。
 一瞬、ぎょっとして眼を疑う。
「ロゼル……!」
 だが、不思議なことにロゼルにはリヒトの声が聞こえていないようだった。素知らぬ顔で髪をとかしつけ、襟を正している。
 リヒトは、ロゼルとアルトーニ枢機卿とをすばやく見比べた。
 並んで立っている、と思われたロゼルは、窓の向こうにいた。
 いや、窓ではない。リヒトは、すぐにそれが簡単な仕掛けであることに気づいた。答えは、部屋に壁に埋め込まれていた巨大な姿見だ。まさか、鏡の奥に、こんな仕掛けがあったとは。
 と、同時に、うんざりと疲れ果てたため息が漏れた。ロゼルと交わした行為の一部始終をのぞかれていたらしい。
「実にすばらしかったよ」
 にこやかにアルトーニ枢機卿は拍手した。皮肉な仕草だった。
「我が息子の汚い尻の穴はこの際どうでもいいが、ロゼルと一つになったときの君の身体はまさにあでやかという他はなかった。おぞましくも美しい背徳の極致。匂い立つようだったよ。十二分に堪能させてもらった」
 アルトーニ枢機卿は薄暗がりの中、鏡を示しながらひそやかに笑った。
「一度解剖させてもらいたいものだ。男と女の肉体が一つに同居するなど、神の摂理にも背く冒涜。リヒト・ヴェルファー、君も、自らの肉体における神秘を知りたいとは思わないかね」
「残念ですが、猊下」
 本当はもっとくそみそに言い返したかったが我慢した。高貴な人物を前に余計なことは言わないほうが身のためだ。
 リヒトの表情に気づいたのか、アルトーニ枢機卿は肩をすくめた。
「誠に残念だ。敬虔なる知は時に美徳ではなく、怠惰な悪徳と見なされ、理不尽な憎悪を買う。仕方ない、次の機会にしよう」
「話はそれだけですか」
「それだけで済めば、息子だけではなく私の愛人にもなってもらえるのかね?」
 アルトーニ枢機卿は飄然と笑った。身をひるがえす。相変わらずふざけたことを言う。笑いながらも本気に聞こえるところが恐ろしい。
「来てもらおう。貴公に見せたいものがある」
 顎をしゃくる。小部屋の奥に隠し扉があった。闇へと続く縦穴が口を開けていた。冷たい風が吹き上げてくる。
 行き先は地獄だ、と無意識に思った。背筋がすくむ。
 リヒトは、内心の恐れを気取られまいと表情を押し隠した。喉の奥に焦燥の熱いかたまりがこみ上げた。手の先が冷えてゆく。
 言葉で手玉に取ってはもてあそんでいる。リヒトが断るわけがない、と踏んでいるのだろう。
 今なら、まだ、戻ることができる。
 防壁でよろった心の内側が、溶かした鉛のように茹だってゆく。従えば良いように操られるだけだ。
 アルトーニ枢機卿の言葉には、何一つ裏付けがない。
 笑顔の仮面の下に蠢いているのは、どんな表情なのか。
 何が目的で、リヒトを闇へ導こうとするのか。
「いったい、何が……」
 リヒトは口を開き掛けた。たとえロゼルの父であっても、枢機卿には無条件には信用できない底知れなさがある。
「君に知ってもらいたいのは、ロレイアの闇と、大逆の王リドウェルの死、その、真実だ」
 すかさずたたみかけられる。顔がこわばった。ロレイアの闇、と言った──心臓だけが、魔術めいた響きを立ててどくん、と脈打つ。
 リドウェルの死の謎が、目の前にある。
 罠だと分かっていても、食らいつく覚悟を決めた謎が。
 リヒトの逡巡を見抜いたのか。枢機卿は満足げな笑みをたたえた。悠然と誘いの手を差し伸べる。
 まるで忘却の河にさまよう鬼火のようだった。
「見たいか?」
 つめたい笑みが揺らめいている。リヒトは無表情に枢機卿を見返した。
「まさか、ロゼルにも同じことを」
 枢機卿はほがらかに声を上げて笑った。肩をすくめる。
「君も知ってのとおりだ。あんなお人好しの優しい愚か者に」
 がらりと声の調子が変わる。かすかな後悔。それを上回る解放の喜び。総毛立つ響きが入り交じった。
「……我が闇を見せられるものか」
 その一言で、すべてを受け入れる覚悟が決まった。リヒトはまっすぐに枢機卿を見つめた。ゆっくりとうなずく。枢機卿は微笑んだ。
「案内しよう。我が城──”象の檻《ドグラ》”へ」

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