クロイツェル

4 黒衣の修道士

 ロゼルは姿見を前に、寝乱れた髪を整えた。きつく自らを律するための法衣に、だらしなくゆるんだ箇所がないかどうかを確かめる。
 ぼんやりとした意識を無に解き放って、鏡を見つめる。こころなしか、リヒトの残像が映っているような気がした。
 いたたまれない思いばかりがこみあげる。結局、ロゼルは、塔を後にすることに決めた。部屋の片づけをする気にもなれず、馬鹿正直にリヒトが戻ってくるのを待つ気にもなれない。
 そそくさと逃げるように階段を下りてゆく。
 降りながら、リヒトが戻ってきたときのことをおぼろげに考えた。靴音が響く。扉を引き開け、外に出た。
 外の光がまぶしい。
 厩へ行き、くつわを取って愛馬を引き出す。
 特に行き先も告げず、出てきてしまったが、その点に関しては全く気にしていなかった。リヒトが馬鹿ではないことぐらいよく知っている。今から行こうと考えている場所についての手がかりならば、既にいくつも託しておいた。大丈夫だ。あいつなら、必ず俺の後を追ってくる。
 さほどもゆかぬうちに、すぐにひそひそと噂をする陰口が風に乗って届いた。
 すれ違ったばかりの修道士が立ち止まってロゼルを見ていた。
 眼があったとたん、そそくさと身をひるがえす。どこへ告げに行くのか。
 太鼓持ちの後ろ姿を苦々しく睨み付ける。
 ロゼルは肩をすくめた。さっさと退散した方がよさそうだ。余計なことに巻き込まれるのだけは避けたい。
 破瓜の血まみれで都の大路を歩くのは、聖職者として──しょせんはとりつくろった表の顔でしかないが──あるまじき不調法だ。
 そう考えて、血の付いた白い法衣を脱ぎ、腕にかけたところで、はた、と足を止めた。
 忘れ物をしたことに気づく。大変なものを禁忌の塔に置き忘れてしまった。
 愛用の白いライフル。
 ここ最近の用途といえば、もがくリヒトに突きつけて反応を楽しむことぐらいにしか使って来なかったとはいえ、異端審問官としての秘めたる任務を行うには欠かせない。忘れてくるなどあり得ない。
「くそ、しまった」
 ロゼルは額を叩いて嘆息した。
「どうすべきか……」
 失敗の理由は明らかだ。動揺のせいである。平静を装ってはいても、十年来の友に、姦淫の罪を働いてしまった事実は覆い隠しようもない。
 欲望のままに押し倒してしまった直後の、何とも言えない厭世的な絶望感に身を浸す。
 ……よりによって、リヒトと。
 交わったときの高ぶりを思い出して、頭を抱えたくなった。洒落にならない。
 股間にぶらさがる腹立たしいもののことをつとめて考えないようにすれば──抱きしめたときの弾力や、水の入った袋のように揺れ動く乳房、なめらかな肌、くびれた腰のおそるべき無駄のなさ、ぞっとするほど女らしく、攻撃的な喘ぎ声は果てしなく肉感的で──有り体に言えば、劣情を催すに十分すぎた。
 リヒトの中に入った瞬間、普段は表情の変化に乏しい友が浮かべた苦悶の表情に、何とも言えない激しい情動をかきたてられた。繋がったまま、全部を中出ししたぶっ放した快楽は、もう、忘れようにも忘れられない。それがまた、男として情けなく、恥ずかしく、あっさり籠絡された手前もあって、なおさら苛立たしい。
 しかし、今さら悩んでも仕方がない。ライフルは取りに戻るしかないし、リヒトと寝たことを否定することはできない。
 大丈夫だ、今すぐ戻れば顔を合わせずに済む。リヒトがアルトーニ枢機卿の所から戻るまでにはたぶんまだ、かなりの時間が──
 心が重苦しく乱れる。顔を合わせたくないのだ、と気付いた。ひどく気まずい。当たり前だ──よりによって一時間前までは男だと思っていた相手に誘惑され、寝てしまったのだから。
 リヒトの淫靡な姿が思い浮かんだ。
 埋もれていた情欲が再び鎌首をもたげた。むらむらと蠢き出す。否定しようとしても、肉体に溺れた苦々しい──正直に言おう、無我夢中で腰を振って振ってたまらなくなってそのままあっという間に射精した──記憶しか蘇ってこない。
 腕に抱いていたときも、女の声でくすくすからかうように笑ったときも。
 以前のリヒトと同一人物だとはまるで思えなかった。女にしか見えなかった。たった一度寝た、というだけで、もうそのような色眼鏡越しでしかリヒトを見られなくなってしまったのかと思うと、自己嫌悪と同時に、騙されたと思う気持ちとが交互に複雑に入り交じって、気持ちがざわめく。
「覚えてろよ、雌狐め」
 ロゼルは心にもなく愚痴って、性的な妄想を振り払った。
 うっとうしくまとわりつく不安を、まるで目の前に蠅がいるかのような仕草で振り払う。
 つい数時間前までは、すべてが竹を割ったように単純明快だった。リヒトは属国人であり、男であり、移民階級であり、謎めいた過去を持つ軍人であり、何よりもっとも信頼できる友だった。だが今は違う。訳が分からないぐらい、こんがらがっている。もしかしたら、”あの一部分”だけが男なのは、最近花街の噂に聞く”オネエ”というやつだからなのか? それとも、ロゼルが知らなかっただけで、実は女にも男と同じ堂々たる一物がついて……それはないか。
 情けない想像ばかりが悶々と脳裏を巡る。これぞまさしく痴情のもつれ。
 考え始めたら、そわそわして腰が落ち着かなくなった。振り回すべき相手に自分が振り回されている。
 リヒトのことを思えば思うほど、裸身がちらつく。回りくどい自分にいらいらした。あっさり欲望に負けた自分を卑下してみても無駄だ。結論はとっくに出ている。
 問題は複雑。答えは単純だ。
 望むと望まざるとに関わらず、もう──
「おや、これはお珍しい」
 背後からひそやかな笑い声がかかった。大聖堂に隣接する礼拝堂から、華麗な刺繍と縁飾りに彩られた緋色の聖衣をまとったモルフォス主教が歩み出てくるのが見えた。背後の扉を、顔を半ば隠した黒衣の修道士が支えている。
 主教はロゼルを認め、狡猾な笑いを放った。
 数十名の供がぞろぞろと列を成し、付き従っている。権杖を捧げ持った兵卒が立ち止まった。いくつもの視線がロゼルを遠巻きに取り囲む。
「審問官どののお通りであるぞ」
「おお、血腥や」
「さも、さも。この臭いはなんと言うこと……」
「けものの臭いのようですな」
「いいえ、これは腐り果てるまえの腐肉をあさる狼の臭いかもしれませんぞ」
「あな恐ろしや……」
 供の者が大げさに目を見開いて鼻をつまんだ。眉をひそめ、何が可笑しいのか、手に口を添えてさんざめき笑いながらロゼルを見やる。派手な職帯がじゃらりと宝石の音を立てた。
 嘲笑が波のように押し寄せる。ロゼルは馬を押しとどめた。手綱を手に取ったまま、注意深くその場にひざまずく。
「ひどく生臭いな、ロゼル。どうしたんだ、この臭いは」
 ロゼルは相手の顔をまじまじと見た。顎の尖った、唇の薄い、冷酷な面持ち。モルフォス主教の甥、ギウロス──ロゼルやリヒトと同じ神学校の出身で、一つ年上だ。
 昔から嫌な男だった。代々が聖職者の血筋であることを誰よりも鼻に掛けていて、そのくせ清貧も貞潔も誓った試しがなかった。身分の低い学生を入会と称して仲間に引きずり込み、逆らえぬのをいいことに、取り巻きどもと一緒に数人がかりで不純な行為を強制している様を見たこともある。
 黒衣に赤い帯を掛けたギウロスは、モルフォス主教へ目を向けながら、ロゼルへの嘲笑を振りかけた。
「こやつは昔から属国人の”狐”を一匹、飼っているのです。主教座下。少々臭うのも致し方なきことかと」
 ギウロスの下品な揶揄に、どっと笑い転げる声が追従した。ロゼルは跪いたまま無表情に地面を見つめた。普段なら憤るところだが、今となっては事実だ。
「これ、皆の者。口が過ぎようぞ」
 モルフォス主教は、顔だけはいたわしげにたしなめた。
「ちょうど良いところで出会った。ああ、名は何と申されたかな。確か枢機卿の」
「ロゼルと申します。モルフォス主教座下」
「おう、さようであった。枢機卿の隠し子どのであったか。いや、これは内密の話であったかな、はて」
 肥満した肩を揺らして笑う。いちいち感情を逆撫でにするような笑い方だった。
 モルフォス主教とギウロスの秘められた関係は、半ば公然の秘密として知れ渡っている。自分たちがそうであれば他人も当然同じだろうと邪推するのは致し方ない。
「猊下のご機嫌はいかがかな? お噂はかねがねより聞き及んでおる。夜な夜な地下祭室にこもって悪徳の祭儀をおこなっておるとか、近頃は、帝国図書館にてあらぬ書物を読みふけっておられるとか、いないとか。ほほほほ……他にも何かおもしろきことを聞き及んでおらぬかな、隠し子どのは」
 ロゼルは苛立ちを押し殺した。内心の憤りを表に出すほど愚かではない。何を言われようが相手は主教だ。微笑をうかべて忍従に徹する。
「罪深き臭いですな」
「聖なる場でこのようなだらしのない格好をなされるとは、何とも野蛮な。育ちが知れますな」
「あの噂は本当かもしれませんな」
「さよう、さよう……」
 主の嘲笑を受け、追随の言葉が並ぶ。醜い言葉だ。その刺をこそ自らの戒めとせん。ロゼルはモルフォス主教の顔を見た。赤らんだ顔に、でっぷりと膨らんだ下腹。眼の下の袋も頬もだらしなく皮がゆるんでいる。口の端からは今にもよだれがこぼれ落ちそうだった。こういう種類の犬ならば何度か眼にしたことがある。足が短くて、体毛が薄くて、皮膚のたるんだ愛らしき不細工。だが、犬の不細工には愛嬌があるが、目の前の主教には好意のかけらも感じられなかった。
 尖ったロゼルの視線に、モルフォス主教は嘲笑を引っ込めた。ねばつく悪意が眼の奥に光っている。
「いずれは明らかになろうぞ、そなたの父が使ったあまたのカンタレラ、手練手管の数々と、闇の底で飼っているという化け物の正体もな」
「あいにく、私は存じません」
 声をかけてきたのは相手のほうだ。何か他に用事でもあるのか、としばらくのらりくらりと待ってみたが、結局は痛くない腹を探られ、父の名を出されて侮られただけだった。妻子ある身でありながら叙聖され、あっというまに頭角を現したアルトーニ枢機卿を妬んでいるのか。
 ならば、余計な反応をして波風を立てるのは決して上策とは言えなかった。ロゼルは心を殺して頭を垂れた。感情を露わにするのは愚か者の所作だ。
 父が貞潔の誓願を頑なに守る理由が分かった気がした。敵に手の内を見せられるのは失うものがない者にだけ赦された特権。まさしくその通りだ。
 ふと、哀れに思った。
 この主教も、自分と同じだ──アルトーニ枢機卿、という、決して超えられない巨大な障壁を疎ましく思っている。
 どこからか風の音がした。
 木くずの砕けるような音がした。頭上から白い影が降ってくる。ロゼルは反射的に空を振り仰いだ。
 ライフルが落ちてくる。紛れもない。ロゼル愛用の、白い銃だ。
 だが、誰が投げた? いったいなぜ? そもそも、”どこから投げられた”?
 頭の中を疑問が駆けめぐった。理解できない。
 しかし、逡巡するいとまはなかった。とっさに手を伸ばす。銃が地面に落ちれば暴発するかもしれない。迷っている間もライフルは眼前に迫る。
 覚悟を決め、腕に法衣を巻き付けて緩衝材代わりにし、両手で受け止めた。さすがにやすやすとはゆかない。衝撃が肩を突き抜けた。
「……っ!」
 しかし、痛みに構っている間はなかった。背後から乾いた銃声が響き渡った。
 一発。二発。三発。広々とした敷地に、悪意が反響する。
 絶叫があがった。
 何が起こった……!?
 ロゼルは反射的に振り返った。ライフルを受け止めた腕はまだ痺れたままだ。銃身をうまく支えられない。
 信じがたい光景が眼に飛び込んだ。
 モルフォス主教と取り巻きの二人が、棒のように突っ立っている。顔があった場所に穴が開いていた。大量の血がこぼれおちている。
 ”顔があった場所”……?
 背中にぞくり、と、冷たい悪寒が走った。声も出せない。
 背後から破砕弾ホロウポイントで撃たれたに違いない。へこませた鉛を弾頭に埋め込んだ椎の実型の弾丸。貫通力が低いため、弾頭が体内でつぶれ、内部を広範囲に破壊する。
 こんな弾を使うのは。
 ──暗殺者だけだ。
 ゆらり、ゆらり。
 血と脳漿を噴水のように噴き上げながら揺れていた主教の身体が、ぐらりと傾いた。地面に倒れ込む。滂沱たる血の投網が広がった。悪魔が爪で大地を引き裂いたかのようだった。続いてもう一人。さらにもう一人。
 ”ぐちゃり”と。
 粘土の塊をたたきつけるような音がした。
 顔の上半分が、頭蓋骨ごとラッパのように弾けている。腹を両手でねじり上げたような吐き気がこみ上げた。
「……ちょっと、待て……いったい、何が……」
 ロゼルは呆然と立ちつくした。生き残った供の者が、ロゼルと、ロゼルの持つライフルに目を留める。
「人殺し……!」
 声が、悪意の刃となって、ロゼルの耳を差し貫いた。
「異端審問官が、モルフォス主教を弑逆《しいぎゃく》したぞ……!」


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