狂気の顔がいくつもロゼルを取り囲んでいる。槍を構えた衛視がつぶてをなげうつように飛び出してきた。怒号が響き渡った。
「その銃は何としたことか」
「誤解だ」
ロゼルは顔をこわばらせ、わずかに身を退いた。手にしたライフルを慄然と見下ろす。
理解しがたい現実に脳の回転がついて行かない。なぜ、今、自分はライフルを持っているのか。このライフルはいったいどこから降ってきたのか。誰が、何のためにライフルを投げて寄越したのか──
「違う。俺じゃない」
周りを見回す。喉が、からからに乾いた。
「貴様……!」
真横から主教の血を浴びたのだろう。半身を深紅に染めた凄絶な姿のギウロスが、金切り声を張り上げた。
「大聖堂の構内で殺生を行うとは何という度し難き冒涜であることか! 大罪も大罪、神の代理人である者を弑するは子の子のそのまた孫よりも先、七代先にまで及ぶ、のろわしき大逆の罪なるぞ!」
ギウロスは裏返った声でわめき散らす。恐怖に壊れた顔だった。
「俺じゃない。なぜ俺が主教座下を殺さねばならん」
ロゼルはギウロスを睨み付けた。蒼白な顔で否定する。
「問答無用!」
赤い軍服をまとった衛視が、数を頼みにした野犬のようにほえついた。ロゼルを取り巻いて怒鳴る。ロゼルはさらに言い返そうとして、恐ろしい現実に気付いた。
ここは神の御許だ。血を流すだけで罪になる。そして、信じてくれる味方は誰一人としていない。
濡れ衣を着せられた──気づいた瞬間、怒濤の抗弁が口をついて出た。底腹に力を込める。
「俺のライフルは二連装だ。一度に三発も撃てるわけが」
「言い訳無用。この場で銃を手にしているのは貴様だけだ。おとなしく縛に付けば良し。さもなくば」
ロゼルがどれほど弁明しようと、槍を手にした衛視は聞く耳をもたない。乱暴に腕を取られる。
「放せ」
喉奥から掠れ声を絞り出す。ロゼルは衛視の拘束を振り払った。こんなところで捕まるわけにはゆかない。歯を食いしばり、じりじりと後ろに下がる。
相手が大聖堂の衛視でなければ、ためらうことなく即座に逃亡を選んでいただろう。この場に残っているのは、ひとえに、誰に陥れられたのか、その手がかりが残されているならばひとかけらたりとも見逃すまいとしてのことだ。
もし、主教殺しの汚名をかぶったまま逃げればどうなるか。
おそらく一生、罪をすすぐことは許されまい。破門され、神への信仰までも奪われ、無法者として法の埒外へ──たとえ直接に追われることはなくとも、額に罪の烙印を押された罪人同様の身として追放される。
ならば、おとなしく捕まればどうだ?
ロゼルは衛視の赤黒い顔を睨み付けた。結末は火を見るより明らかだ。申し開きなど許されるはずがない。すべての罪を”自白”するまで拷問を受け続けることになる。
”拷問を受ける”──
冷水をかぶったような鈍い衝撃が腹の底に沁みた。
”誰”から?
父の顔が脳裏に浮かんだ。呼吸が乱れる。
槍を構えた衛視たちが、じりじりと包囲の輪を縮めてくる。
選択肢は二つに一つ。
主教殺しの汚名をかぶったまま、真実を追うために逃走するか。
犯しもせぬ罪の告白を強制され、父の拷問にかかって永遠の激痛にのたうつか。
他に、術はないのか。
泥沼に足を取られ、のたうちもがくような思いで、必死に選択の余地を探し求める。ロゼルは四方を見渡した。
阿鼻叫喚の中庭は、次々に駆け込んでくる衛視で埋め尽くされようとしていた。判断が遅れれば遅れるほど脱出の途もまた閉ざされてゆく。生きて恥をさらすか、死んで悔いを閉ざすか。引き裂かれるような思いにロゼルは呻いた。
罪を認めれば、父は失脚する。罪を認めなければ、認めるまで父によって永遠の拷問を受け続けることになる。
アルトーニ家の名を汚し。
父の期待を裏切り。
罪人として死ぬことも許されず──
心を締めつけていたタガが、ちぎれて飛んだかのようだった。ロゼルは荒ぶる息をついた。けわしい眼で周りを見渡す。
衛視の背後で、主教の取り巻きがロゼルを指さしながら右往左往している。腰抜けどもは、紅を塗った顔を薄汚く濁しながら無様に泣きわめいていた。ギウロスは自分だけ安全な場所に逃げ込み、弑逆、弑逆と叫びながら衛視を呼び集めている。その横顔は血に酔い、不幸に酔い、興奮しきっているようにも見えた。
見えた瞬間の景色のすべてを、全霊を込めて心に刻みつける。色。角度。人物配置。建物の影。すべて記憶する。焼き付ける。
礼拝堂の扉を押さえていた修道士が、ふいと背を向けた。全身を黒いマントで覆っている。黒衣の袖から、うすく硝煙が立ちのぼっていた。
肩越しに見せる余裕の表情が意識に焼き付いた。
笑っている。
吸い込む空気が、みるみる薄くなったように感じた。どれほどむさぼり吸っても肺が満たされない。焼け付く痛みが胸に広がった。
撃ったのは、あの修道士だ。
ライフルを握りしめた両の掌に金具が爪のように食い込んだ。耐え難い痛みになってようやく、ロゼルは自らの緊張に気づいた。
「捕らえろ! 抵抗するならば殺しても構わん!」
衛視が怒鳴った。無数の槍が差し向けられる。どす黒い憎悪の光が槍の穂先に宿っていた。
「こんなことをしてる場合じゃない」
ロゼルは眼前の衛視めがけてライフルの銃床を振り上げた。致命傷を負わせるつもりはない。あえて頭部は狙わず、振りかざされた槍をかいくぐって手首を打つ。衛視は、あっと叫んで槍を取り落とした。
槍が地面に落ちる前にロゼルは足で槍をすくい、蹴り上げた。回転しながら宙に浮いたところを片手で鷲掴む。
ライフルを肩に掛け、走った。礼拝堂めがけて一直線に突き進む。遮る者は誰であろうと打ちすえ、たたきのめした。怒号が行き交う。聖職者たちは、ロゼルの気迫に恐れを成して逃げまどった。
「待て!」
ロゼルは怒鳴った。視線の矢を突き立てる。
「そこの修道士」
混乱に乗じて立ち去ろうとしていた黒衣の修道士が、足を止める。
目深にかぶっていたフードが、風にあおられて吹き飛ばされた。顔があらわになる。
フードの下から中性的な顔が現れた。ロゼルは背筋がぞくりと冷えるのを感じた。黒髪。青白い肌。金色に光る眼。
ロレイア人だ。
ロゼルは息を呑んだ。あり得ない。異民族が聖職に就くなど──
修道士の額には、銀に輝く悪魔の烙印が捺されていた。翼ある蛇が六芒星にからみついている。リヒトの背にあった悪魔の紋章と、ほぼ同じだった。
「逃がすか!」
背後から不意を突いて衛視が襲いかかった。後頭部を警棒で殴りつけられる。ロゼルは昏倒しかけた。がくりと膝が砕けた。前のめって倒れ込む。
意識が薄れた。歯を食いしばる。血の流れる感触が首筋を薄気味悪く伝った。こめかみからぼたぼたと血が滴る。
目がくらんだ。
ここで倒れたら一巻の終わりだ。
自衛本能だけで死の縁へ転げ込むのを踏みとどまる。顔を上げ、地面に手をついて、むさぼるように空気を吸う。
かすむ目で衛視を捜す。見えない。次の一撃を食らったら、きっと立ち上がれなくなる。
「俺に近づくな……!」
ロゼルは手にした槍を闇雲に振り払った。固い手応えが伝わる。とともに、切り裂かれた喉から漏れる笛のような音が、灼熱の血しぶきとなって降りかかった。
一太刀で喉をさばかれた衛視が、音もなくのけぞった。どうっと倒れる。地面にたたきつけられる鈍い音がした。警棒が手から落ちた。痙攣する手足が緑の芝生を叩く。
「しまっ……!」
血の気が音を立てて引いた。
腹を殴られたような重い衝撃がこみ上げた。ロゼルは呻き声を上げた。目の前で衛視が死んでいる。確かめるまでもない。
取り返しの付かぬ罪を犯してしまった……!
痛恨の念が突き上げた。罪の意識に耐えかね、自らが殺した衛視を助け起こしに駆け寄ろうとする。
だが、それは叶わなかった。
俊敏な獣を思わせる影が飛び込んできた。抜き身の剣をひっさげている。
はだけた黒衣が反旗のように舞い上がっていた。
「貴様……!」
ロゼルは虚を突かれてつんのめった。
謎の賊は、行く手を遮るように立ちふさがった。全身を漆黒で覆っている。
他に、もう一人いたのか……!
妖気漂う銀刃の輝きが眼を射た。一目見て分かる。凄腕の殺し屋だ。
悪寒が全身を駆け回った。腹の底から呻きを突き上げる。殺さねば殺される。ひるんでいる暇はない。
ロゼルは、血にぬめる槍を取り直した。
”象の檻《ドグラ》”から外へ出ると、見知らぬ場所だった。リヒトは、首に下げた、白と黒の牙をぶっちがいに組み合わせた形の免罪符を取り出して見つめた。枢機卿から下げ与えられたものだ。狼の免罪符。
細かい文字が書き込まれている。何と書いてあるのか。聖刻文字《ヒエログリフィカ》は聖職者にしか読めない。すなわち特権階級に所属していることを表す暗号だ。
戻れないのだ、と思った。
リヒト・ヴェルファーは死んだ。地の底、闇の果て、”象の檻《ドグラ》”へと引きずり込まれ、深淵に魂をむさぼり食われて消えた。残されたのはクロイツェル、というおぼつかない名だけ。
狼としての名。
殺戮官としての名だ。
額に描かれた血の紋章に触れる。与えられた”狼”の紋章はすなわち無法のしるしでもあった。”狼”は人にして人にあらず、人の世の法の埒外にあるものなり。人は狼を狩り、狼は人を食らう。
剥奪された”狐”の徽章は、”象の檻”地下深く、首を切り落とされてなお死を許されず拷問の中で生き長らえる罪人の口に押し込まれた。もう、二度と取り戻すことはできない。
迷いながら、元いた塔へと戻る。
入り口は開け放たれていた。誰もいない。人の気配はない。
どこから吹き込んでくるのか、かすかに苦い臭いがした。確か、先ほど訪れたときには、焚きしめられたロザリンドの香りがしたはずだが、と訝りつつ、中へ入った。どうせすぐ降りてくるのだからと思い、戸は開け放したままにして、螺旋階段を上がる。
ロゼルがいるはずの部屋は空だった。床に白く、窓から差す陽が落ちている。誰がカーテンを開けたのだろう? 鉄格子の影が爪痕のように見えた。
奇妙に静まりかえる。
「ロゼル。いないのか」
声に出して呼ばわってみる。ベッドの部屋も見に行ってみた。やはりいない。
いつも背に負っていた白いライフルも見あたらなかった。どうやら行き違いになったらしい。
あれほど帰ったら続きをやる、と言っておいたのに。さては──
「逃げたな」
腕を組んで、ちっ、と舌打ちする。
せっかく、めくるめく虹の彼方をあれこれ思い描いては密かに期待していたのだが。物足りなく思いながら、リヒトは密会部屋を後にした。
螺旋階段を下りてゆく。
ただでさえ広いエルフェヴァインを、人目を忍んであちこち歩き回るなど、考えただけでうんざりだった。無理矢理押し通った城門の番兵がまだリヒトを探してうろつき回っているかもしれないというのに。
仕方なく、ロゼルの足が吸い寄せられそうなところを考える。
たとえば、市場。何より愛嬌を振りまくのが好きなロゼルのことだ。あちらこちらに頭を突っ込んで、買うの買わないのと冷やかす楽しみを決して見逃しはすまい。リヒト自身も、自由闊達が許される時期に限って言えば、猥雑で雑多な市場の喧噪が一番の娯楽だった。それはさささやかな冒険であり、見果てぬ世界とつながる唯一の空気であった。湾に面したエルフェヴァインは海運の街でもある。港には、諸外国の帆船が目もくらむような富を満載して入ってくる。浅黒い肌をした
少し奥まった路地をのぞけば、唇を真っ赤に塗った娼婦がいて、乳房をはだけて、ゆらゆらと手招く。しかし今、こんな時に、わざわざ雑踏の中へ紛れ込んでリヒトとはぐれる愚を犯すだろうか。
あの軽薄者ならやりかねない、とも思ったが、一方で、アルトーニ枢機卿のことを口数すくなに語るロゼルの顔をも思い出した。いたたまれない表情だった。
傷ついた顔をしていた。今頃は、禁欲の誓いを破ってまで寝た相手が男だったことに絶望と自己嫌悪を募らせているかも知れない。失笑する。矛盾した苦悩が愛おしかった。慰めてやらねばなるまい。
(記録簿を調べれば何か出てくるかもしれない)
ロゼルはそう言っていた。
異端審問の議事録であれば、公開非公開を問わずすべて帝国図書館の書庫へ納められているはずだった。
いったい、この帝国に、自分の身に、何が起ころうとしているのか。
リヒトは困惑の思いをさまよわせた。
ロゼルは、異端審問官が殺される事件が多発していると言った。それらの事件が”教団”と関わりのあるものの犯行だと踏んでもいるらしい。
だが、なぜ、それらの事件と、リヒト自身が関わるのかが分からない。すべてが雲を掴むような話だった。”教団”そのものすら実在するかどうか分からないというのに。
異端審問官の死。
ロレイアの滅亡。
リドウェルの死。
つながりそうで、繋がらない。過去の亡霊だと思われた”教団”が、今、殺戮を繰り返す目的は何なのか。
リヒトの背中に刻まれた邪悪な翼蛇の紋章は、いったい、何を意味するのか。
死の連鎖は、どこから始まり、いつまで続くのか。
考え込みながら、階段を下り、控えの間へ出る。思いに耽り、周辺をよく見ていなかったリヒトは、足元に転がる花瓶につまずいた。
「花瓶……?」
奇妙な違和感を覚えて立ち止まる。
いつの間に、花瓶が床に……?
リヒトは鼻をうごめかせた。鼻を突く臭いがうっすらと充満している。
背筋にざわつく予感が走った。リヒトは用心しながら閉まっている戸口へと歩み寄った。取っ手をひねる。
動かない。
”閉まっている”?
力を込め、取っ手を何度も動かす。やはりむなしく金属の音を立てるばかりで動かなかった。何者かに外から鍵をかけられたのかもしれない。
ここへ戻ってきたのは、ほんの数分前のことだ。忘れるはずがない。
二度目に塔へ入ったとき、どうせすぐに出るのだから、と思って”開けっ放しにしておいた”はずだ。なのに、なぜ、鍵が掛かっている……?
リヒトは息を呑んだ。数歩下がる。勢いをつけて扉へ体当たりする。分厚い扉はたわみもしなかった。あっけなく跳ね返される。
リヒトは拳で扉を殴りつけた。
「誰だ。こんなことをするのは。ふざけるな。開けろ」
声を荒らげ、殴り続ける。と、明らかに焦げ臭い煙のにおいが漂い始めた。ぞくりと背筋につめたいものを這わせて振り返る。
幾筋もの煙が、床から立ちのぼっていた。
暗い室内が赤く染まる。どこが燃えているのか。炙られた木のはぜる音が聞こえた。リヒトは眼を押し開いた。
火事。いや、火をつけられた──
「誰か開けてくれ! いないのか! ロゼル!」
扉に飛びついて、何度も怒鳴る。取っ手を揺すぶる。金具のもげる音がした。取っ手がはずれる。
「くそっ……!」
リヒトはちぎれた取っ手部分を床にたたきつけた。
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