クロイツェル

5 帝国図書館 非公開書庫

 山麓から豊かな恵みを運ぶ水路が、涼風を運んでくる。船着き場に小舟がつながれているのが見えた。
 緑と花の豊かな憩いの場に、小鳥がさえずる。
「金蹴りはないだろ、金蹴りは。ちくしょう、まだ腫れてる気がする」
「私に気付かないお前が悪い」
「父上にだって蹴られたことないのに。種なしになったらどうする」
 帝国図書館へ向かう道すがら、下らぬ言い争いをしながら、煉瓦と色タイルで整備された運河のほとりをゆく。ロゼルは、ぽくぽくと素知らぬ顔で馬を打たせた。
「俺のが使えなくなったら貴様だって困るだ……ぐへえっ!」
「……馬鹿かお前は」
 リヒトは、どすっ、とロゼルの腹に肘鉄を突き入れた。刃を向けられたことより、自分だと気付かれなかったことのほうがよほど腹立たしい。
「そんなに怒ることないだろう。ちょっと見間違えただけだ」
「見違えたら槍振り回すのか。危ない奴だな。私じゃなければ死んでるところだぞ」
「ならば無問題だ」
「どこが」
「”危険”だと思ったから反撃したまでのこと。あの場に、貴様より”危険”な殺気を放ってる奴はいなかった」
 ロゼルはのうのうととぼける。大聖堂での事件すら記憶から抜け落ちたかのような顔だ。
 追っ手がかかる様子はない。大通りからかなり離れた区画にあるせいか、建物も数えるほどしかなく、うだるような人いきれも、こぜわしく走り回る馬車もいない。
「だいたい、待ってろといっただろう。なぜ逃げた?」
 つけつけとしたリヒトの声に、あわてふためいた小鳥が飛び立つ。ロゼルはしれっと空とぼけた目線を空へと漂わせた。
「現実から逃げたかったんだよ悪いか! こっちの気持ちにもなってみろ。耐えに耐えて二十有余年、必死に守ってきた童貞をよりによって貴様に奪われるわ、ついでに金玉は蹴られるわ。まったく友達甲斐のない」
「奪われたのはこっちだ」
「さんざん人を堕落させておいてよく言う」
 ロゼルの傍若無人な手がリヒトの腰へ回った。ぐい、と細く引き絞った軍衣の下から手を差し入れられる。
「あっ……!」
 軍衣の下で、ロゼルの手が這い回った。憎々しい挑発の吐息が首筋に吹きかかる。
「罰として乳を揉ませろ」
「いやらしい言い方をするな、ばかばかしい……やめ……ぁ、あっ、ちょっと待て、本気で……!」
 こりっ、と指先で乳首を押し回される。一瞬で身体が浮き上がりそうになる。リヒトはびくん、と身体を震わせ、心許ない吐息をもらしそうになってあわてて我に返った。顔を赤らめる。
「って、何をさせる気だ!」
 リヒトは、はだけられた胸元をあたふたとかき合わせた。
「ま、まったく、油断も隙もない」
 焦って息が乱れる。払いのけられても払いのけられてもまだ執拗にまとわりついてくるロゼルの手を、ぴしゃん、とはたき落とす。
「そんなこと言って、今の反応は何だったんだ? 喜んでたくせに」
「誰がだ! 他の誰かに見られたらどうする!」
「知るか。金玉蹴られたお返しにおっぱい丸出しでエロ声喘がせの刑だ」
「やめろ喋るな変態」
「おお、変態。素晴らしい表現だ。もっと嬲ってくれ。実に心地良い。俺はアルトーニという魂の枷から解放されなければならん」
「貞潔の誓いを捨てた途端にそれか。ろくでなしだな」
 ロゼルは下品な口笛を吹いた。
「ろくでなしか。いいねえ、貴様の罵倒を聞いていると心が洗われるようだ。なんとさわやかな罵詈雑言であることか。心から癒されるよ。もっとクソミソになじってくれ。心の傷口に、ジャリジャリと塩をすり込んでくれ。俺は過ちを犯した。犯してもいない罪まで懺悔することはできないというのにな。おかげで、心が焼け付くように痛いよ」
 ほんの一瞬、寂しげな蔭がロゼルの声をくもらせた。
「解き放たれたいんだ。がんじがらめだった自分から」
 リヒトはちらりと後ろを顧みた。語りかけるように静かに言う。
「お前は無実だ。そのことは、きっとアルトーニ枢機卿も分かっていてくださるだろう」
「口先の慰めなどいらん。いや、待て、違うな。そうか、こういうことだ、”口で慰め”……げふう!」
 再びみぞおちに強烈な一撃。ロゼルはぐええ、と情けない声を上げて身を折った。
「痛ってぇ……! 死ぬかと思った」
「まったく、お前という男は。油断したらすぐにこれだ」
「畜生、覚えてろ。夜になったら、絶対に手も足も出ないぐらい反撃してやるからな」
 ロゼルはやさぐれたふうに低く笑った。青い瞳が暗く底光る。
 無闇に気を奮い立たせて陽気に振る舞っているのは傍目にも明らかだった。リヒトの耳元に唇を寄せて、ささやく。
「とはいえ、貴様が来てくれて助かった」
 喋るたび、ついばむように唇が耳に触れた。普段は表に現れない本心がちらりと眼の奥にのぞく。
 リヒトは、胸を突かれてロゼルを見やった。
「嬉しかったぞ。実は、少々、怖かったんだ。俺のせいで貴様が……別人に変わってしまったのではないかと思って」
 すぐにけろりとして平然とうそぶく。
「もう、今まで通り、好き放題に蹴飛ばしたり殴り倒したり嫌がらせし放題できないのかと思って、もやもやしていたところだった」
「……変われるものか、そう簡単に」
 苦笑する。
 違う。心の底でリヒトはつぶやく。お前に抱かれたあのとき、私の身体の中にあったものすべてが入れ替わった。なのに、何も変わらない素振りをして、血のように赤い運命の毒を、友であるお前に分かち与えようとしている。呑み下せば、火となって喉を焼くと知りつつも。
 心が痛んだ。
「そうか。では変わったのは俺が貴様を見る眼だけというわけだな」
 笑い声が降ってきた。
「ってことで、挨拶代わりにおっぱい揉んでいいか」
「いやだ」
「じゃあちょっと触るだけ」
「断る」
「うなじにハアハアするのは」
「突き落とす」
 アルトーニ家嫡子としてのロゼルの人生において、道を踏み外す、などという選択肢は今まで一度もなかったに違いない。それでもなお、ともに行こうとしてくれることが、リヒト自身でさえなかなかなじめずにいる突然の変化を、真正面から受け止めようとしてくれていることが、嬉しく──苦しかった。
「誰か来た」
 表情がさっと変わる。ロゼルは口をつぐんだ。遙か前方から警らの兵卒が近づいてくるのが見えた。四人いる。
 ロゼルは相手に気づかれる前にすばやく馬首を返して運河を横切る橋を渡った。側道へ入り込んで公園の木陰に身を隠す。
 息を殺し、兵士が通り過ぎるのを待つ。心臓が、荒々しい音を立てていた。身体に熱がこもる。嫌な汗が噴き出した。
 兵士は、口々に私語を交わし、隠れている二人に気づかぬ様子で通り過ぎてゆく。
 逃げ隠れするなど性に合わぬ、とばかりに馬が首を振り立てた。いらだたしげに歯を剥き、鼻息を鳴らす。
 ふと、マスケット銃を背負った兵士の一人が周囲を見回した。歩みを止める。他の者が問う。
「どうした」
「いや、物音がしたような気が」
「気のせいだろう」
「確かに聞こえたんだが……」
 リヒトは唇をかみしめた。斬り合いを覚悟し、サーベルへと手をやる。
 その手を、ロゼルが背後から握るようにして押さえた。言外に大丈夫だ、動くな、と伝えてくる。手袋越しからでさえ、じっとりとした動悸を高鳴らせるロゼルの緊張が伝わってきた。
 馬が、耳をぴくりと動かした。強く前足を掻く。石畳を蹴る甲高い音が響いた。
 心臓が跳ね上がる。
 兵士たちが立ち止まった。鋭い目がリヒトたちの潜む茂みを睨む。
「何かいる」
 互いに顔を見合わせ、こちらへ近づいてこようとする。
 一歩。
 また、一歩。
 リヒトたちが潜む茂みからリスが飛び出した。頬袋にいっぱい、木の実をため込んでいる。リスはきょろきょろと周りを見回し、兵卒の前を横切ったかと思うと、短い鳴き声を上げて道路を駆け抜けた。がさがさと音を立て、反対側の茂みに頭から飛び込む。
 兵士たちがリスを指さし、声を上げて笑った。
「リスごときにびくびくしやがって」
「確かに聞こえたんだ!」
「昼間っから酔っぱらってんじゃねーよ」
 足音が遠ざかった。
 リヒトは、去ってゆく衛兵の背中に険しい視線を投げかけた。ロゼルの手の力がゆるむ。
「もう大丈夫だな」
「ああ」
 生返事が戻る。リヒトはロゼルの視線を追いかけた。ロゼルはまだ、衛兵の背中を睨み付けていた。青い眼の奥に、生々しい失意が浮かんでいる。
 馬を木立に繋ぎ、力なく芝生に座り込む。
 ロゼルは陰鬱につぶやいた。
「あの修道士、いったい何者なんだろうな……?」
 腰を下ろした足元の草をちぎって、ふっと息で飛ばす。
 リヒトは、ロゼルの隣に腰を下ろした。
 ”象の檻《ドグラ》”で見た罪人の額の傷を思い出す。焼きごてでねじり消された血膿まみれの傷。逃げた修道士の額にあった紋章の位置と同じだ。
「”教団”の手先か」
「だとしたら……問題は、いったいなぜ、あの、衆人環視の中、モルフォスを殺す必要があったのかだ」
 殺人が行われた、という事実より、口にした疑問の内容そのものに、背筋がぞくりとする。
「まさか」
 リヒトは青ざめたロゼルの顔を見やった。

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