クロイツェル

5 帝国図書館 非公開書庫

「帝国聖教会の中心地たるエルフェヴァインの大聖堂に、よりによって”教団”の密偵が……」
 ロゼルは即座には答えなかった。声を低くして考え込む。
「死人を鞭打つのは主義じゃないが、あの男には殺す価値すらないぞ。搾取と賄賂と追従だけでのし上がった無能の塊であって、決して”教団”の障壁になるような人物じゃない。むしろ逆で、”教団”に急所を握られていなかったかどうかを調べたほうが早いはずだ」
「モルフォス主教は死ぬ前に何も言わなかったのか? すれ違っていきなり殺されたわけじゃあるまい」
 ふっと会話がとぎれる。
 奇妙な沈黙が降りた。
 ロゼルは白々しいため息をついた。重い腰を上げ、立ち上がって尻に付いた草を払い落とす。
「もう行こう。時間が惜しい」
「……塔に火を掛け、私を焼き殺そうとしたのも教団の仕業だと思うか?」 
 リヒトは気がかりを口にした。
「それはどうだかな。案外、貴様がいるのに気付かず、父上が放火したのかもしれん。いかがわしい噂の絶えぬ塔だからな」
 うんざりと付け加える。
「そうか? にしてはずいぶん、あの塔を使い慣れているようだったが。鏡の部屋にしても、余程のことがない限り……」
「”鏡”の部屋?」
 唐突に聞き返される。しまった。つい──リヒトは内心どきりとし、手を振った。髪を掻き上げる。
「いや、別に何でもない」
 ロゼルは眉をひそめる。
「そういや、あの部屋、大きな姿見があったな。あの鏡がどうかしたのか?」
 妙にしつこく追求される。
「何でもないって」
 リヒトは何食わぬ顔でとりつくろった。ロゼルに背を向け、木立にとめていた馬の綱をほどいて、鞍の位置を何度も確かめる。
「奥の部屋に脱出できる抜け道があったんだ。そのおかげで助かったと言いたかった。確認はできなかったが、あの様子だとおそらく、王宮や大聖堂とも繋がっているんだろう。秘密通路だな」
 もしロゼルに鏡の間の秘密を──アルトーニ枢機卿に情事のすべてを見られていた、などと教えたら、羞恥と絶望のあまり枕を噛んで七転八倒するだろう。
 ロゼルは唇を鉤型に曲げ、腕を組んだ。小難しげにうなずく。
「なるほど。万が一のときの脱出にも使えるというわけだな。で、鏡って何だ?」
「しつこいな、もう。まったく。何でもないと言ってるだろう」
 リヒトは思わず笑い出した。髪を掻き上げ、ロゼルから離れようとする。と、突然背後からロゼルに手首を掴まれた。
「嘘はよくねえよなあ、リヒトくん? んん~? 何だ、その顔? 俺に嘘をつこうったってそうは行かないぞ?」
 街路樹に背中をごつごつと押しつけられた。身を乗り出してのぞき込んでくる。
「……正直に白状してもらおうか、リヒト・ヴェルファー」
 声が、がらりと変わった。冷ややかな口調で追求される。
 リヒトは焦りを隠しつつ、じりじりと身を退こうとした。だが、手首を取られていては、ロゼルの視線からも手からも逃れようがない。あたふたと目をそらした先に、城壁のように連なる建造物が見えた。
「あ、み、見ろロゼル、建物が見えるぞ、あ、あれか? 図書館って」
 リヒトはびくびくと前方を指さした。空がやや赤みを帯びてかすんでいる。
 ロゼルは厳かにうなずいた。
「そうだ。だが俺は今、”鏡”とやらについて尋ねている」
 ロゼルの手が、つ、つ、っと下腹部に触れた。撫で上げられる。
「ぁ、あっ、待て、だから、ぁっ……図書館に行くんじゃなかったのか……どこ触ってる……触るな……!」
「喋ったらやめてやる」
「馬鹿な真似は止せ」
「ずいぶん強情だな、”狼”?」
 ロゼルは辛辣な笑い方をした。耳元で性悪にささやく。
「そんなに喋りたがらないってことは、要するに、拷問されるより、”こうされたい”ってことだよな……?」
「……ぁ、あっ……ばか……勘違いするな、誰が……ぅっ……!」
「ほら、言え」
「で、でも……い、言ったら」
「言ったら何だ」
「お前が……っ……!」
 ふっ、と耳にキスされる。
「俺が何だって?」
 リヒトはうわずった声を喘がせてのけぞった。耳の先まで熱い。だが、その耳に、ふっ、と低くささやかれたら、もう、腰が砕けたようになった。抗えない。
 鼓膜がふるえるのを百倍にも増幅したような感覚が全身をぞくぞくと伝い回った。身体がびくん、とこわばる。たまらずに声が漏れた。
「ぁ、あっ……耳は、やめろ……だめ……!」
「ん? 耳? 耳ってそんなに感じるものなのか? よく分からんな。まあいい。こうか?」
 ふっ、と息を吹きかけられる。
「違……うっ……」
 もう一度。ふっ。
「あっ、やめ……あああ……くすぐったい……!」
 ふっ。
「ぁぁぁあ……分かった……言う……!」
 結局、あらいざらい白状させられた──のはいいのだが。
 当然のごとく、聞いたロゼルのほうが完全に打ちのめされていた。がっくりと肩を落とし、くずおれる。
「……聞かなければ良かった……」
 完全にどんよりしている。
「馬鹿!」
 リヒトは顔を赤くして怒鳴った。
「……すまん……」
 行く手に広場が望めた。色鮮やかな石畳のタイルが敷き詰められ、幾何学的な方位図や天球図、四季の境界線が描かれている。
 広場の中央に時計台が立っている。噴水をまたいで立つ巨大な時計台の周辺には、人魚や子羊、水辺で戯れる天使の彫刻が飾られ、手の込んだ豪華さを添えていた。日時計代わりの影が長々と伸びている。
 日が傾き賭けている。
 金と真鍮と銅でできた奇怪なからくり時計が、かちっ、と音を立てた。
 鐘が鳴り始める。
 からくり時計の文字盤の一部が開いて、踊るブリキの軍楽隊が現れた。赤と青の軍衣を着た派手な楽隊がくるりくるりと回って、勇壮なドラムロールを叩き鳴らす。夕刻五時の扉が開いた。子供の顔がひょこりとのぞいてハモニカを吹き鳴らした。人間そっくりだった。
「……馬鹿なことはやめて急ごう」
 まだしょんぼりしているロゼルに向かって言う。ロゼルはうなずいた。
 帝国図書館の正面、ファサードの大階段を上る。
 帝国図書館は、幾棟もの劇場のような円形の壁一面にぎっしりと本が詰め込まれた、まさしく世界有数の万知の教堂であった。螺旋階段を取り付けた壁際に埋め込まれた書棚には、色とりどり、大きさも様々な表紙の本が、まさに天井から地下まで、目もくらむような高さの書塔となって納められている。蒐蔵書の数は数万、いや、数十万超か。
 吹き抜けになった上階を下から見上げると、本の壁を支えるための太いアーチ柱や差し渡された梁が無数に交差しているのが見えた。黒衣の学僧が、巡礼を思わせる列を成して摺り歩いている。万有知《パンソフィア》の書を手に祈りを捧げているものもいる。
 人間の背の高さなど、本を積み上げた壁の高さと比せば砂粒のようにしか見えない。
 すべての人間の営み、歴史、叡智、そして思想そのものが、この場で物質化しているように思えた。世界のすべてを切り取って螺旋の内側へ折りたたみ収めたかのような、圧倒的な知の蝟集。奔流のごとき重量感。個々の人間など、吹けば飛び、ひねれば折れる葦のようだ。
 赤いカーペットを敷いたゆるやかな階段を上ってゆくと、正面に、黒く輝く知の女神《ソフィアナ》の銅像があった。見上げるばかりの威容である。古代神殿風の衣装をまとい、手折ったばかりの木の枝を手に、虚実の知を求めて訪れる閲覧者を睥睨する。
 受付の台に座っていた黒い塊がぬっと動いた。
「お名前と閲覧したい書架の名をこちらへ」
 ロゼルが目配せした。ペンを取ってすらすらと偽名を書き込む。黒衣の学道士は、ロゼルがためらいもせずに書き込んだ偽名と書庫名を見て、手元の分厚い書誌をめくった。何年間、もしかしたら何十年も問われるたびにめくり続けてきたのだろう。赤茶けたインクの付いた指を舐め、おもむろにページをめくってゆく。乾いた音が幾度も響いた。
 垂れ下がった白い眉に隠れた陰鬱な眼を書庫の奥へ向け、行く手を指し示す。
「入って右、下って左、突き当たり右、潜り戸を抜けて奥から五列目の架、六四七番」
 言い置いたのちに、小さな鍵を一本、かちり、と音をさせて受付台に滑らせる。このおそるべき案内人の頭脳内には、膨大な書庫名がすべて位置情報とともに整然と記録されているのかもしれなかった。老人は台の上に置いてあった呼び鈴を鳴らした。黒衣の学道士が音もなくすり足で寄ってきて、鍵を取った。まだ若い。少年といってよい年頃の背丈に見えた。
「……フラター・ネイアスがご案内いたしまする」
 学道士は無言で頭を垂れた。手にランプを提げ、足音一つ立てずに滑る影となって進んでゆく。
 ロゼルは老人に一礼して受付を離れた。
「彼について行こう」
「何から調べる」
 リヒトは案内の学道士に声を聞かれぬよう、低く押し殺した。ロゼルの耳元にささやこうとしたが、爪先立たねば届かない。
「話は後だ」
 ロゼルは苦笑いした。
「顔が割れてる。この図書館には昔から何度も世話になっているからな。俺の顔を知らんわけがあるまい」
「何だと」
 リヒトは思わず声を高めた。眼を押し開き、老人を振り返ろうとしたところをロゼルに押し止められる。ばたついたせわしない動きをとがめる舌打ちが、周囲の学僧たちからいくつも聞かされる。リヒトは四方へ眼を走らせつつ、声を押し殺した。
「通報されたりしないのか」
「手配が出回ればされるだろうな。急いだ方が良い。良い司書だ。他に代え難い知と理を兼ね備えている。迷惑はかけたくない」
 ロゼルは大股で歩き始めた。少年学道士が導くとおりに歩いてゆく。
 各壁に掲げられた明かりは必要最小限しかなく、また、決して火と油が外に漏れないよう、分厚いガラスに覆われていた。
 闇と、火と、本と。静けさが重みとなってのしかかってくる。明かりのある角だけがほのかに小さく行く手を照らし出していた。天井に巨大な書架の影が映り込む。怪物が棚の上から首を伸ばしてのぞき込んでいるかのようだった。
「閲覧申請を出したのは、百四十年前の異端審問官、シド・ベルネイブス主教の書簡綴り未公開分を収めた棚だ。超有名人だからな。こんなときでもなければ閲覧の機会もないと思ってな。ああ、楽しみだ」
 奇妙に浮かれた声を弾ませながら、ロゼルは聞かれもしない古文書についての細かな解説を始める。
「足元にお気をつけください」
 フラター・ネイアスが、黒いフードに覆われた頭をわずかに振り返らせ、戒めた。かさついた声だった。ロゼルはきまりの悪い顔で黙り込む。リヒトは小馬鹿にした笑いを鼻先にひっかけた。
 階段を下り、潜り戸を抜けて、さらに密集度を増してゆく書架と書架の合間を進んでゆく。ときおり、漆黒の衣をまとった学道士が音も立てずに書架と書架の合間をすり抜けてゆく。幽霊がさまよってでもいるかのようだった。まだ分類も製本も終わっていないらしき、油紙に包まれた大量の書類が廊下の端に積み上げられている。さらに奥へと進む。
 突き当たりに鉄格子の戸があった。鍵がかけられている。
「この向こう側が禁域、異端審問に関する非公開秘密文書の書架でございます」
 ゆらり、ゆらり、明かりが揺れ動く。漆黒の衣をまとったフラター・ネイアスは、ランプを傍らの台に置き、鍵を取り出しながら言った。リヒトは眼をすがめ、フラター・ネイアスの薄暗い手元を見た。扉には蜘蛛の巣がかかっている。鍵を開けようとかがんだとき、黒衣のフードから白く光る髪色が見えた。
 鎖で厳重に縛められた南京錠の下部に鍵を差し込む。かちり、と音が鳴って鍵が回った。錠前がはずれる。さびて軋んだちょうつがいの音が鳴った。ひゅう、と風が滑り込む。
「どうぞ、ごゆっくりごらんになってください。閉館の時刻になれば、再びお迎えに上がります」
「ご苦労だった」
 フラター・ネイアスは慇懃に頭を垂れた。ゆっくりときびすを返し、元来た道を帰ってゆく。
 まだ年端の行かぬ少年であるにもかかわらず、老人のように背中を丸めた姿が闇に消えてゆく。明かりも、足音も聞こえなくなるのを確かめてから、ロゼルは行動を起こした。
「行こう。時間がない」
 言うやいなや、リヒトを鉄格子の奥へと頭から押し込んだ。
「調べている途中、外から鍵を掛けられると厄介だ。手早く済ませてしまおう」
「また、閉じこめられて縛られたりしなければいいがな」
 リヒトは苦々しく鼻白んだ。ロゼルがきょとんとした顔をする。
「誰だ、そんなことする奴は」
「お前だ」
「そうだったか?」
 ロゼルはしれっと笑った。リヒトはやれやれと首を振った。相変わらず、陽気で、ひょうひょうとしていて。何を考えているのか分からない。
「閉館になったりしたら間違いなく閉じこめられるな」
 背後の影が戯画的に踊る。板張りの天井が、ぎし、ぎし、と鳴っていた。どこから聞こえてくるのか。遠くから、鉄格子の戸を開く錆びついた音が伝わってくる。誰もいないはずの書庫に、ひそひそとどこからか声が伝わってくる。通風口が伝声管の役割を果たしているのだろう、とリヒトは推測した。
「そうなる前に何とかなるよう、努力しよう」
「……お前と二人っきりも案外悪くないと思うが」
 ロゼルは聞かなかった振りをして肩をすくめた。壁に映った影が跳ねた。
「この図書館に巣くう幽霊《ほんのむし》どもと一生過ごすなんて俺はいやだからな」
「幽霊なんか信じているのか」
「何言ってるんだ。ここは由緒正しき幽霊屋敷だぞ。昔からそっち系の言い伝えがいっぱいある」
 リヒトは力説するロゼルの横顔に苦笑を投げかけた。ロゼルの浮かれた語りは続く。
「昔、ここが図書館になる前、地下に幽閉された仮面の錬金術師を閉じこめた牢獄部屋があってだな……」

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