クロイツェル

5 帝国図書館 非公開書庫

 リヒトは肩をすくめた。時間は有限だが、可能性は無限だ。
「もう少しあがいてみるか」
「同感だな」
 ロゼルも意気込んだようにうなずいた。にやりと笑って眼を見交わし、拳をコツン、とつきあわせる。そんな何気ない、ささやかな仕草であっても、ロゼルと意識を共有できることが嬉しかった。
「よし、続けよう」
 時間と状況の許す限り。
「何度も言ってるように」
 ロゼルは、改めて口を開いた。 
「”教団”と殺された異端審問官との関わりは、まだはっきりとは分かっていない。”教団”が関わっているらしい、というのも、あくまでも状況証拠からの推測にすぎない。父なら、もしかしたら俺の知らない情報を握っているのかも知れないが……」
 ロゼルは疲れた仕草で眼鏡の位置を直した。
「今のところ共通するのは、モルフォス主教をのぞいて被害者が全員、異端審問官だった、ということだけだ。俺が知る限り全員が全員とも厄介な審問を抱えていた。もちろん、異端審問に関するすべての記録はここ、帝国図書館に集められる。よって、彼らが残した資料にあたれば、何らかの手がかりが得られる可能性は高い。だが、もし、審問内容にかかわらず、知らないうちに”教団の禁忌”に触れてしまったのだとしたら……」
「待て」
 リヒトはロゼルの説明を遮った。
「殺された異端審問官と”教団”との間にどんな関わりがあったか、はっきりとは断定できない、と言ったな」
「ああ。それがどうした」
「ではなぜ、私だけが”教団”と何らかの関係を持っている、と”断定される”んだ? もし単なる当てずっぽうで決めつけられたんだとしたら、かなり不本意なんだが」
 苦々しく指摘する。
 ロゼルは赤く光る眼鏡越しにちらりとリヒトを見やった。
「いくら貴様相手であっても、言えることと言えないことがある」
 噛んで言い含めるような口調だった。以前に聞いた言葉とまったく同じだ。何度尋ねられても答える気はない、という意思表示に思えた。おそらく、箝口令が敷かれているのだろう。
 リヒトは目の前に散らばる記録簿を無言で見つめた。無意識の仕草で一冊を取り上げる。
 乾いた音がして、裏表紙に挟まっていた羊皮紙が床に落ちた。折りたたまれている。ひどく汚れていた。くしゃくしゃに皺が寄っている。
「汚いな。何だ、これは」
 リヒトは腰をかがめ、紙を拾い上げた。角が折れている。破れないよう、用心深く開く。
 眼に、赤茶けた色が飛び込んだ。血しぶきの形だ。どきりとする。上部にかすれた緑青色の紋章判が捺されている。
 ためつすがめつして見るも、その他の文字らしきものは血に滲んでまったく読めない。
「手紙……?」
「見せろ」
 ロゼルはにわかにあわただしいそぶりを見せて手紙を奪い取った。明かりを近づける。文字はほとんど書かれていなかった。宛名らしき数文字だけが冒頭に殴り書きされている。”親愛なる──猊下──フラター・カー……”。
「くそ、よりによって」
 ロゼルは顔をゆがめて口走った。
「処分したはずなのに、何でセラヴィルの──」
 セラヴィル、という地名には、なぜか聞き覚えがあった。どこで耳にしたのか、記憶をたぐる。
 しかし目的の記憶をたぐり当てる前に、ロゼルの不可解な行動が目に付いた。血まみれの手紙をくしゃくしゃに丸めようとしている。
 リヒトはロゼルの手首を押さえた。ロゼルが猛禽の視線をリヒトへと突き立てる。
「なぜ隠す……?」
 リヒトはつとめて冷静に尋ねた。
「ロゼル、本当のことを言え」
 リヒトは、心の隅にひっかかっていたロゼルの報告書を開いた。茶色く汚れた註釈のページを開く。
 ページをめくる。どのページにもかすかな汚れが残っていた。
「どういうことだ、”処分したはず”というのは? 最初お前は、記録簿は全部、盗まれていると言った。つまり、この手紙は本来ならここにあるはずのものではない、いうことだろう?」
 ロゼルは答えない。
「お前の報告書に付いていた汚れは、その赤く汚れた手紙を見た者が、他のどの報告書よりも先に、お前の、この薄っぺらい、何の内容もないはずの報告書を選りだして、一番に確認したことを示すんじゃないのか。ここにも。ここにも。汚れた跡──”指の跡”がついている。ページをめくって調べた跡だ。だが、お前なら当然知っていてもおかしくないはずのことが、この報告書には記されていなかった……だから、”盗む価値がないと見なされた”んじゃないのか?」
「当然だ。俺が襲われたのは、フラター・カートスの事件より数ヶ月も前だ。まさか関係あるだなどとは誰も思わない」
「フラター・カートス、というのか。この手紙を書いた異端審問官は」
 ロゼルの顔から表情が消えた。得体の知れないものを見るまなざしでリヒトを見やる。
「もしかしたら、私と”教団”を結びつける事件がこれなのか? お前や、アルトーニ枢機卿、それからもしかして記録簿を盗んだ犯人も、その”カートス”の事件から同じ”何か”を──私に関連する”何か”を連想したんじゃないのか?」
 ロゼルはしばらく口をつぐんでいた。手紙と、リヒトとを交互に見つめたあと、考えあぐねた様子でつぶやく。
「……ここに入ったとき、貴様に尋ねられたな。もしかしたら隠匿された古代魔術の書とか、異端の知を記した写本があるんじゃないか、と」
「あっさりと否定されたように思うが」
「当たり前だ。そんなものはない。”あってはならない”んだよ」
 ロゼルは、ぽつりと口を開いた。フラター・カートスの手紙をポケットへとねじ込む。
 血にまみれた手紙。決して、書き損じなどではない──殺害の瞬間をまざまざと思い浮かべさせる、死の手紙だ。
 ……いったい、フラター・カートスなる人物の身に、何が起こったのか。
 なぜ、その手紙だけが残されていたのか。ロゼルの報告書と何の関係があるのか。
 リヒトはその仕草を黙って見つめた。
 無言の帳が手元を暗くする。じりじりとランプの燃える音が忍び寄った。
 顔を上げると、ロゼルと眼があった。
 顔半分が赤くひそやかに照らし出されている。ロゼルはふっと気配を緩めた。息をつき、肩をすくめる。
「……分かったよ」
 表情から険しさが失せる。重い甲冑を脱ぎ捨てたかのような微苦笑が浮かんだ。
「説明する。付いてこい」

 閉館を告げる鐘が、黒衣の学士僧たちによって鳴らされている。価値のつけようもないほど高貴な教典を写し書きするためにこもっていた修道僧や、閲覧を終えた学者たちが、ぞろり、ぞろり、と列を成して図書館を後にしてゆく。
 受付の老人が呼び鈴が鳴らした。澄んだ音が響く。特徴的な叩き方。
 呼ばれた学道士が、音もなく馳せ参じてくる。
「お呼びでしょうか、尊師」
 うやうやしく頭を垂れる。
「フラター・ネイアス」
 老人は眼を上げた。白く濁った眼が少年を見つめる。見えているのか、いないのか。瞳は光を失って久しい。老人が書誌をめくるのを皆が見ているが、果たして本当に読めているのかどうかは誰にも分からなかった。
「神学・文化八室、十二の二一五六番。まだお帰りにならぬ閲覧者が二名おられる」
 老人はしなびた手を伸ばして、書誌に書き込まれた一行を指さした。
「丁重にお帰り願うよう。決して、”最深部マサク・マヴディル”へ迷い込まぬよう」
 言い終えると老人はもう興味を失ったようすで眼を閉じた。
「はい、尊師」
 フラター・ネイアスはすり足で老人の前を辞した。黒衣の下に隠れていた表情がかすかにほころびる。邪悪な笑いだった。
 おもむろに法衣の裾をひるがえす。ゆったりとした黒衣に隠されたすばやい動作が、ひそやかな風をかきたてた。
 目深にかぶったフードの下から、銀色に光るまなじりが見えた。

 書庫を出る。ロゼルの手元にしか明かりはなく、それが影に隠されてしまえば周囲は瞬く間に闇へと変わった。閉館を知らせる鐘の音が聞こえる。ロゼルは立ち止まって鐘の音を数えた。
 閉ざされた扉を開け、地下へつながる階段を下りてゆく。カンテラの明かりが暗く揺らめいていた。壁や天井に映し出されるありとあらゆるものが、怪物じみた奇怪な影となって躍る。靴音が響いた。深淵へ降りてゆくかのようだった。
 ランプを手に奥へ向かう。燃え残した蝋燭の匂いがした。
「倉庫番号八。この奥だ。番号は、確か十二の二一五六番だったな」
 壁に手を添え、ほんのわずかな行く手の明かりを頼りに前へ進む。空気は黴くさく澱んでいて、息苦しいほどだった。燃え上がる禁忌の塔から脱出した時のことを思い出して、リヒトは己の心を押し殺した。火に追われることもなく、悪意が肌に刺さることもない。何も恐れることはない。悪霊などいるはずがない。
 深呼吸する。
 ねずみが天井を走っているのか。がたがたと木枠のはずれるような音が聞こえた。何者かが背後から近づいてくる。
 振り返って背後を見据えた。影が闇に吸い取られて消えた。
 気配は凍り付いたように消え失せている。暗闇に潜むのは敵ではなく己の恐怖心かもしれない。書架が本の重みでたわむのを聞き違えたのだろう。
 とある一室の前で立ち止まった。鍵がかかっている。少々ゆすぶったぐらいでははずれそうにない。
「下がっていろ」
 ロゼルは明かりをリヒトへ渡し、ライフル銃を背中から下ろした。弾丸は常に一発だけ込められている。
 撃鉄の安全装置をはずす。
 かと思うといきなり発砲した。轟音とともに錠前が吹き飛ぶ。
「聖職者のやることじゃない」
「聖職者もやるときゃやる」
 平然と言い放った。粉々になった鍵を引きちぎって捨てようとして、はじかれたように手を跳ね上げる。
「あっ、あたた、熱っつ!」
「大丈夫か、ロゼル」
 リヒトはあわててロゼルの手を取った。火傷の様子を確かめる。
「火傷してないか?」
「大丈夫だ。何でもない」
「そうか、良かっ……」
「そこはふうふうした後、ちゅって吸って舐めてくれるべきだろ」
 リヒトは無言でドアを蹴り開けた。
 書庫室の中は、真っ暗闇だった。しん、として、音一つしない。
 古い、押しつづめた臭いが立ちこめている。
「真っ暗で何も見えないな」
 ロゼルが硝煙たなびくライフルを振り払った。
「明かりをくれ、リヒト」
「ああ」
 リヒトはロゼルにランプを手渡そうとした。持ち上げた拍子に炎が揺れ、闇を照らし出した。明るくなる。暗闇そのものが怖じて縮んだかのようだった。さまざまな形の陰影が壁に大きく浮かび上がる。
 ぎらり、と。鋭いくろがねの反射が眼に飛び込んだ。闇の奥に何かがいる。ランプに照らされた影が、くろぐろと伸び上がった。魁偉な甲冑をまとい、剣を手にした、おどろおどろしい形。
「……!」
 リヒトは息をのんだ。

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