クロイツェル

5 帝国図書館 最深部マサク・マヴディル

「……何だ、リヒト。貴様、びびったのか?」
 鉄の人形をひたひたと手で叩きながら、ロゼルが笑い出す。がらんどうな音がした。目の前にあったのは、鉄で作られた衣をまとい、両手に剣と小箱とを持った聖女の像だった。ランプの明かりが、像に施された細かな装飾を照らし出す。
「そんなことあるか。少し驚いただけだ。失敬な」
 馬鹿にされる筋合いはない。リヒトはロゼルを睨み付けた。
「お前……さっきからべたべた触ってるが、それが何なのか分かってるのか」
「ああ、これか? 昔からこの部屋にあるぞ? 甲冑か何かの入れ物じゃないのか?」
「……知らないで偉そうに言っていたのか。救いようのない馬鹿だな」
「何だと!」
 ロゼルは声を荒らげた。
「じゃあ貴様は知ってるんだな? 言ってみろ」
 リヒトは含み笑みを浮かべた。たちまち挑発に乗ってきた友の表情がどのように変化するのかを興味深く観察する。
「昔、これとよく似たものを、ロレイアの王宮で見たよ」
 ──暗闇の中に、黒く、赤く、鈍色に光る怪物が潜んでいた。哀れな囚人が引きずられて来る。扉が開けられ、中へ閉じこめられる。やがて、鉄扉を乱暴に閉める音がしたかと思うと、世にも恐ろしい絶叫が鼓膜を突き破るように響いて、一瞬で止んで、それから、床にだくだくと血が──
 リヒトは蘇りかけた陰惨な記憶にすばやく蓋をした。余計なことは思い出さないほうがいい。そうやって忘れることで、今まで生きてきたのだ。
 書庫室は、壁一面に作りつけられた書棚に埋め尽くされていた。部屋の中央に、頑丈な石造りの机がひとつ。椅子がひとつ。床も石張りだ。
「王宮で……見た?」
 声が急に小さくなる。ロゼルはへっぴり腰で周りを見回した。
 奥まで照らせば、台座に乗せられた同じ形の像がいくつも並べられているのが見て取れた。どれも、おぞましく赤く錆びついている。
「人間を中に入れて、蓋をすると、内部に仕掛けられた釘が全身に突き刺さる仕組みだ。いわゆる”鉄の処女”だな」
 巨大な殺人人形が、幾度となく血の涙を流したであろう眼で書庫室を睥睨している。
「うっ!?」
 ロゼルはぎくりと表情を変えた。先ほどまで無遠慮に叩いていた手を、ゴムひものように引っ込める。以降は二度と手を出そうとしなかった。
「別に、どうということもなかろう。どうせ異端審問の歴史史料として置いてあるだけだ。それよりこんなところに何が」
「……そうだな。とっとと用件を済ませよう。”さ迷える錬金術師レムレース”に取り憑かれるのだけは御免だ」
 ロゼルは青い顔でつぶやいた。
 いったい、この部屋に、何が隠されているというのだろう。陰鬱な表情をちらりと横目で見やる。
 ロゼルはそれ以上何も言わなかった。無言で書架へと歩み寄り、収納箱を手にして戻って来る。
「何だ、それは」
 ロゼルは厳重に布で縛られた箱の梱包をほどいた。中に収められた記録簿を取り出す。
「自分で見ろ」
 顎だけをしゃくって言う。リヒトは記録簿を受け取った。震える指で記述をたどる。四桁の数字、朝摘花カルペ・ディエムの月。帝国歴だ。頭の中ですばやく逆算する。
「十四年前、ロレイア」
 記録簿をひもとく手が止まった。愕然とした声が漏れる。どうしたらいいか分からず、助けを求める目線をロゼルへ向ける。
「何の記録だ……?」
 心臓が喉元までせり上がってくるのを感じた。食い入るように記録簿を見つめる。
 故意に感情を消した声でロゼルが説明する。
「フラター・カートスに関する資料は、すべて、父が燃やした。現存した記録簿は偽物だ。従って、あの手紙のような”真実”の証拠が、他の異端審問記録と混じっているわけがない。何者かが俺たちをこの部屋へ誘導するために”故意に混入させた”のでもない限りはな」
 息をすすり込む喉の音が、異様に大きく響く。リヒトは声を押し殺した。
「いったい、何があったんだ? フラター・カートスとは何者だ?」
 ロゼルは苦虫をかみつぶしたような顔で首を振った。
「つい数ヶ月前の話だ。フラター・カートスは匿名でなされた告発の手紙で受け取った。何者かがセラヴィルに闇市を立て、”存在してはならぬもの”を売りさばいている、との密告だ。彼は数名の従者を率いて調査へ向かった」
「セラヴィル……? 先ほど言っていた、異端審問官が殺害された街のことだな」
「そうだ」
「何を売っていたんだ。闇市と言うからには、奴隷か、麻薬か、それとも黒魔術的な異端の品か……」
「”奇蹟マグノリア”」
 ロゼルの口から出た言葉は、恐るべき異端の妖輝を放って闇に吸い込まれた。
「奇蹟……?」
 やにわには理解しがたい。暗闇の中、映るはずもない鏡をのぞき込んでいるような気がした。本来ならそれは、光に満ちた礼賛の言葉であるはずだった。なのに、まるで罪深き闇を仰ぎ見るかのような、底知れぬ戦慄を言外に孕んだ意へと変えられている。動悸が早まる。リヒトは、用心深く眼をほそめた。
「そんなもの、誰がどうやって売るんだ」
「彼はセラヴィルを含む一帯の領主でもあったからな」
 ロゼルはちぐはぐな答えを返した。口にしてはならない言葉を、巧妙に回避している。
「領地内に、奇蹟を”売る”市場が立った、という噂だけでも、それを見過ごせば神への冒涜と見なされる。大主教が見回りに来る前に、何としてでも彼自身の手で闇市場の首謀者を捕らえ、市場で売られたという”奇蹟の断片”を回収し、焚書に処さなければならなかった」
 言葉を頭の中で反芻する。
 断片。回収。焚書。どす黒く燃える書物、ちぎり取られた紙の束──脂汗の滲むような幻視が脳裏に浮かんだ。”禁書”だ。
「……で、どうなったんだ」
「あの手紙を見ただろう」
 ロゼルはうんざりと目をそらした。
「始末されたよ」
 ふと、”象の檻《ドグラ》”での血腥い記憶が呼び覚まされた。
「……生きながら首を切られたのか」
 ロゼルは、壊れた人形のように、ゆっくりとリヒトを見返した。
 鏡を見ているのか、と思った。ロゼルはひどく青ざめていた。眼が大きく見開かれている。笑う死人のようだった。おそらく自分もまたロゼルと同じ顔をしているのだろう。
「父に聞いたのか」
 リヒトは首を横に振った。
 ロゼルに”あの真実”を告げることはさすがにためらわれた。知れば、きっと、ロゼルは傷つくだろう。
 再び、記録簿へと意識を向ける。
 扉のページには、そっけない字体で表題のみが書かれていた。記述者の名はない。
 ”ロレイア王女失踪及び乳母殺害についての記録”。
 頭の中が、白漆喰で固められたかのように塗り込められて動かない。目に見えている文字が、意味のある文章や言葉ではなく、ただの表意文字の羅列のように思えた。ロレイアの”王女”。
 知らない単語に思えた。唾を飲み込む。喉がひりついた。リヒトは、他人事のようにしか思えない事件の記録簿を見つめた。
 これは、いったい、何の記録なのだろう。
 少しずつ、霧が晴れたように過去の記憶が蘇り始める。泥をかぶった歯車のように、馬鹿になって動かなくなっていたものが、ようやく元通りに回転し始める。判断力が戻ってきた。
 リヒトは記録簿を繰った。
 さらわれた王女は当時二歳。ロレイア宮中の者が忙しく立ち働く時間帯、午後のまだ明るい時間だったという。
 そよそよと森の香りをふくんだ風に眠気を誘われたのか、幼き王女は乳母に添い寝をせがんだ。その日は朝から殊のほか機嫌良く、侍従たちとお歌を歌い、笑いすぎて喉がからからになるほどだった、とのことであったから、よほど遊びつかれたのであろう。乳母は慈愛を持って許可し、ともに寝室へと向かう。
 眠る王女。見つめる乳母。
 しかし、昼下がりもすぎて、いつまでも起きてこない王女を心配した侍女が迎えに罷り出たところ、寝室は血の海になっていた。
 乳母の五体は、ばらばらに切断されていた。傍らに、斧を握った腕が落ちていた。残る手足と胴体は引きずり出された臓物で十把一絡げにくくられ、首は取り出した臓物の代わりに胴体へ押し込んであった。顔は砕けて判別もつかない。壊れて首のもげた人形を、何とか折り縮めて隠そうとしたかのようだった。
 侍女の悲鳴に衛兵が駆けつける。悲鳴を上げた当の侍女は、続きの間で失神しているところを発見された。
 王女の姿は、跡形もなかった。煙のように忽然と姿を消している。
 やがて誰かが部屋の異様さに気づいた。
 部屋の、どこにも。
 足跡がない。
 殺戮現場を目撃した全員が証言した。血の海の中央に死体が浮いていた。誰の足跡もなく、何の痕跡もなく。まるで、殺された乳母本人が、自らの死体を──自らその場で解体し、投げ捨てていったかのようだった、と。
 誰が、どうやって、乳母を殺したのか。
 誰が、何のために、王女をさらったのか。
 何一つつまびらかにされないまま、月日だけが過ぎていった。国中をくまなく捜索しても王女の行方は杳として知れなかった。
 流れてゆく時間の途中に突然、不気味な黒い穴が開いたようだった。触れることものぞき見ることもできない闇が生まれた。
 やがて国王は、人が変わったように闇を恐れるようになった。受け入れがたい凄惨な死の恐怖に怯え暮らすより、いっそ狂気の安寧へと逃げ込んだほうが楽であったのだろう。魔物が王女を食らったのだと信じ込み、謎の教団の教えに耳を傾けるようになった。どこの誰とも知れぬ異様な集団を王宮へと招き入れた。夜な夜な祈祷に耽溺し、闇に籠もり、人知れず狂気の儀式に加わった。王女をさらったのは悪魔であると頑なに信じ悪魔よけの火を焚いた。おぞましき呪紋を王宮のありとあらゆる柱へと刻ませた。見かねて注進しようとした近臣の首をことごとく刎ねた。屍骸は冒涜の印を押され王宮の隅にうち捨てられた。鴉が寄り集まりネズミが走り回り疫病が広がった。それもまた魔物のせいであるとされた。
 魔よけと称した水銀と青銅の刺青を全身に施された王妃は、皮膚が膿み爛れる病にかかり、やがて死んだ。リドウェルとリヒト、二人の幼い王子も同様の刺青を背にうがたれ──

「妹?」
 衝撃さめやらぬ口ぶりで、リヒトはつぶやいた。
「私に、妹がいたのか?」
「覚えてないのか?」
 逆にロゼルが驚いた声を上げる。
 リヒトは闇に埋もれた記憶をたぐった。
 背筋を冷たいものが伝い降りる。
 あるべき記憶が、過去が、ない。
 反射的に惑乱しそうになるのを、強靱な理性で押さえつける。
 そんなことなどあるはずがない。だが、どれほど意識を集中させてみても、それ以上記憶の源泉へさかのぼることはできなかった。
 ある時点で、ぶつり、と断ち切られたかのように途切れている。
 思い出せるのは、身の竦むような恐怖を感じ続けていたことだけだ。
 兄と二人、拷問台に縛り付けられ、阿片の煙を吸わされてもうろうとなった記憶から始まる日々。
 深紅と暗黒にゆらめく炎。絶え間なく続く悪魔的な朗誦。
 鳴り渡る叩鉦の音に正常な意識を奪われながら、激痛と快楽の波に翻弄され、銀の毒を塗った針で血まみれの背中に闇の紋様を描かれ続けた──
「ないな」
 すかさず、恐怖に蓋をする。
「何もない、ってことはないだろう。本当に覚えていないのか? まったく? 現場を見た記憶もない?」
「覚えていない。妹がいたことさえ、今の今まで忘れていた」
「馬鹿な。そんなに幼かったわけでもないだろう」
「私のことはどうでもいい」
 リヒトはすばやく話をそらした。
「それよりも、フラター・カートスの事件だ。この記録と何の関係がある?」
 ロゼルはリヒトの手から記録簿を奪い取り、ページを素早く繰って、現場の状況を克明に記載した部分を指し示した。
「この部分だ」
 示された箇所に目を通す。ランプの明かりがちらちらと揺れて、屈み気味になった顔を赤くふちどる。読みすすめるにつれ、胸が悪くなった。
「……つまり、フラター・カートスは、この記録簿にある乳母と同じく、”バラバラにされて殺された”と?」
「正確にはそれどころじゃない」
 顔が嫌悪でゆがんでいる。
「カートス事件の真相を知るものは少ない。ほとんどいない、と言って良い。言っただろう。殺害方法があまりに冒涜的にすぎたため、事実を記した資料は即時廃棄が決定され、焼き捨てられてしまったとな。俺が事件のことを知っているのには、理由がある。実は、ちょうどそのとき、訳あってセラヴィルに滞在中で……」
「何だと? お前が?」
 意外な発言にリヒトは声を高めた。
「そうだ」
 ロゼルは暗い顔でうなずいた。
「とある高貴な女性と一緒だった」
「高貴な……」
 女性と言った──
 つかの間、辛い沈黙が訪れる。首まで氷水に浸かったような気がした。冷たさが這いのぼった。

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