クロイツェル

5 帝国図書館 最深部マサク・マヴディル

「貴様、ちゃっかりどこ触ってる」
 ロゼルの面持ちが緊張の度を増す。口元が吊り上がった。
「覗きにしちゃあ、少々、大胆すぎるな」
 ふてぶてしくつぶやく。
 板張りの天井に、甲高いひび割れの音が走った。木くずが降りしきる。
「ん?」
 ロゼルは、用心深く周囲を見渡した。
「廊下か?」
 怪訝な表情のまま入り口にまで歩いていき、手を壁にかけて廊下へ首を突き出す。
「誰もいないぞ?」
 左右を見渡して首をかしげる。
 次の瞬間、ロゼルの頭上が、みしりと音を立てて、あからさまに傾いた。リヒトは反射的に怒鳴った。
「上だ!」
「……上?」
 きょとんと天井を見上げる。その眼が驚愕に見開かれた。
 金属の火花を散らす音が轟く。天井が突き破られた。滑車の空転する音をたてて黒い壁が滑り落ちて来る。断頭台の刃のようだった。
「ロゼル……!」
 目の前が轟音に呑み込まれた。
 砂塵が巻き上がる。
「ロゼル!」
 最悪の予感が身を貫く。
「どこだ」
 つんのめって走り出す。頭上から滝のような砂埃が降りしきっていた。全身砂まみれになるのも構わず、灰色の暗闇を突き進む。叫ぶたびに、砂混じりのいがらっぽい空気が喉へ流れ込んだ。
「大丈夫か! 返事しろ、ロゼル……!」
 必死に呼ばわり、耳を澄ます。返事がない。恐ろしさに息が詰まる。心臓に砂利を擦りつけられたかのような痛みが走った。もし、返事が帰ってこなかったら──
 背中がつめたくなる。ふいに、咳き込む声が聞こえた。
「痛ってぇ……!」
「ロゼル!」
 反射的に振り向く。砂塵が眼に飛び込んだ。まともに開けていられない。それでも滲んだ涙を何とかぬぐって、土煙の向こうを窺う。くろぐろと立ちふさがる壁が見えた。
「くそっ、なんだ、今の音は。びっくりした。死ぬかと思ったぞ」
 ロゼルはしりもちをついていた。頭から砂埃をかぶっている。くしゃみすると、盛大に粉塵が舞い上がった。
「うわっ、なんだこりゃ」
「びっくりしたのはこっちだ!」
 目の前の床に、ちぎれた太い鎖が長々ととぐろを巻いている。出入り口は完全に鉄格子でふさがれていた。
「おう、リヒト。無事だったか」
 ロゼルはへらりと笑って手を上げた。砂をかぶった真っ白な頭で笑っている。リヒトはロゼルに駆け寄った。
「何言ってる。私のことはどうでもいい。お前こそ怪我はないか?」
「最悪だ。動けない」
 その言葉に息が止まりそうになる。
「どこをやられた!」
 ロゼルは腰を折り曲げて唸った。
「ケツ打った」
「け……?」
 尻をさする姿に一瞬、唖然とする。ロゼルはニヤリとした。
「ケツ痛い」
 動揺を押し殺せない。ロゼルが何を言っているのか分からないまま、リヒトは息詰まる勢いで立て続けに尋ねた。
「けつ……けつって、出血したのか? 痛くないか? 立てるか?」
「いや、そこは突っ込むところだろ。ケツだけにせめてクソを見るような目をするとか何とか」
「冗談なんて言ってる場合じゃ……!」
「ん? 何だその顔? 眼が赤いぞ?」
 いきなりくいと顎を摘まれる。
「触るな。何でもない」
「へえ……?」
 したり顔のにやにやが近づく。リヒトは内心焦って、ロゼルの手を振り払った。
「これは、眼に砂が入っただけで……!」
「あっそう。じゃ、そこは特別に貸しってことにしておいてやる。後で利子付けて返せよ」
「勝手に決めつけるな」
 痛くもない腹を探られ、リヒトは憤った。顔を赤らめ、突っかかる。
「言いがかりは止せ。すごい砂煙で、目が開けられなくて、そのせいで……!」
 自分では極めて冷静にふるまったつもりだった。が、ロゼルはまったく動じていない。
「分かった分かった。そんなに怒るな。無事だったのは、貴様の声が聞こえたおかげだ。さもなくばマジでやばかったかもしれん。まったく、大きなお世話だ。二人っきりで閉じこめてくれるなんて。いったい何が降ってきたんだ。鉄格子か?」
 ロゼルはよいしょと自分にかけ声をかけ、片膝をついて立ち上がる。
「せっかくいいところだったのにな」
 恨めしげに言い散らしながら、砂まみれの法衣をはたく。白い埃が舞い散った。
「いいところって……冗談ばっかり言ってる場合じゃ……」
 リヒトは咳き込み、手で煙を払った。笑うに笑えず、苦笑いに焦燥を混じらせる。ロゼルは精悍な表情でリヒトを見下ろした。額に脂汗がうっすらと光っている。
「しょうがないな。後は脱出後のお楽しみだ」
 余裕たっぷりに平然とウィンクされる。
「まったく、俺ともあろうものが、こんなにあっさりと閉じこめられるとは。ロゼル・デ・アルトーニ一生の不覚」
 素知らぬふうを装って周りを見回している。つまり、余裕ぶっこいて虚勢を張る以外、どうすることもできないということだ。
「またか。お前の一生の不覚とやらは、いったいいくつあるんだ?」
「数え上げたらきりがないな。これだから人生って奴は侮れん」
 巨大な石臼を回すような音が聞こえた。
「いかにもな音だよなあ、ああん? 何の音だ、あれは?」
 ロゼルは冷や汗混じりにあざ笑った。
「知るか。考えたくもない」
 ろくでもない予感ばかりがひしひしとこみ上げる。リヒトは自分の馬鹿さ加減を笑い飛ばしたくなった。不快な冷や汗が、脇の下を小蛇のように伝う。
 板張りの天井が異様な形に波打った。すさまじい音響が回転し、よじれ、軋み削れる。はいずり回っている。
「おい、リヒト」
 轟音の合間をついて、ロゼルが肘でリヒトの脇腹を小突いた。口を寄せ、耳元で怒鳴る。それぐらい傍で怒鳴り合わないと聞こえない。顔が強がった笑いに引きつっていた。
「もし、この状況で……天井が落ちてきたらどうする?」
「ふん」
 馬鹿げた妄想だ。鼻先で一笑に付す。
「馬鹿だな。思い過ごしに決まってるだろう。そういう、起こりもしないことを無駄に心配しすぎるのを”杞憂”というんだ」
「へーえ? 詳しいな……じゃあ、あれは何だ?」
 こわばった笑いの形に口の端が貼り付く。いきなり、頭上の板が危険な音を立ててへし折れた。
「っ……!」
 頭上から板が落ちてくる。ロゼルが咄嗟にリヒトの腕を掴んで引き寄せた。足元に尖った木片が散らばる。冷や汗がこめかみを伝った。息が詰まりそうだった。
「天井が落ちることを何て言うか、って話か?」
「ああ、そうだ。これぞ杞憂って言うんだよな? 天井も空も落ちてきたりしないよな? そうだよな? 頼む、リヒト、杞憂だと言ってくれ!」
 また、石臼の回る音がした。ぼろぼろと崩れる天井の様相に、最悪の予感が迫り来る。軋る音が耳を聾する轟音へと変わる。
 天井板が次々に剥がれ落ちた。崩落の速度を速めてゆく。残骸が降り注ぐ。
 リヒトは歯を食いしばった。
 呻きが漏れた。鳥肌が立った。声も出ないまま、壁際へと追い込まれる。
「……当たり前だ。そんなもの落ちてくるわけが……」
 突然、めきめきと音を立てて、天井が破れた。その奥に見えたのは、人の腕ほどもある鉄の槍がぎっしりと下向きに植えられた鉄板だった。
 ぎりぎりと鎖のよじれるような音がするたび、槍の生えた鉄板が危うすぎる軋みをあげて下がってくる。
 中の一本が、バネではじかれたような音を立てたかと思うと、天井から床へと滑り落ちてきた。床に突き刺さり、砕けた石くずを飛ばしながら直立する。
 心臓が止まったかと思った。動悸が狂ったように早まる。槍天井だ。
「……撤回する」
「あきらめるの早ぇよ!」
 ロゼルが自暴自棄の笑いを放った。言葉汚くわめき散らす。
「くそ、畜生め。誰だ、こんなくそったれな泥棒避けを作りやがったのは? 捕まえて虫かごに放り込んだ後は、串刺し標本か、ぺしゃんこの押し花になるか、好きな死に様を選べってか!?」
 じりじり後ずさり、額の汗を拭う。ロゼルは顔半分をひきつらせ、荒々しく唸った。もはや笑うしかなかった。
「唯一の出口である扉は鉄格子でふさがれて出られない。壁に貼り付いていても、頭上から槍が落ちてきてしまえば一巻の終わり、泣いても笑っても最後は降りてくる天井に潰されるというわけだな。はっ、まったく良くできた処刑装置だ!」
 絶望的な運命の予感に、互いに顔を見合わせる。緊張のあまり膝が震えた。笑えて来る。どこにも逃げ場はない。
 拭っても拭っても冷や汗が伝い落ちた。全身の筋肉がこわばってうまく動かない。リヒトは無理な冗談で恐怖を笑い飛ばそうとした。
「ということは、何分か後には、私たち二人ともフラター・カートスの手紙みたいになるわけだな」
 言った端から、心底、肝が冷えた。まるで笑えない。顔に屍衣のような恐怖の仮面が貼り付く。
「持して待っていても無駄だ。とにかく外へ出る方法を探すしかない」
 ロゼルは息を詰めた。
「体当たりしてみるか」
「分かった」
 目配せの合図を交わしあい、息をそろえて鉄格子に体当たりする。金属の残響が甲高く鳴り響いた。だが鉄格子は床の溝に深く突き刺さっており、リヒトとロゼルがどれほど体当たりを繰り返してもびくともしない。
 また、一本、さらに一本、と鉄の槍が降り注いでくる。このままでは、いつか逃げ場を失って移動すらできなくなる。
「……っ!」
 眼前に槍が突き刺さった。身をのけぞらせ、後ろへと飛びすさる。
「こっちへ来い」
 ロゼルが怒鳴った。リヒトは肌に感じる気配だけを頼りに降り注ぐ罠を避けた。続けざまに槍が滑り落ちてくる。きりがない。いったい、いつまでこの地獄は続くのだろう。あきらめろ。もう助からぬ。馬鹿め。そうやって無様に足掻いているがいい。どうせ死ぬ──悪魔が耳障りな嘲笑を吹き込んでくるのを、リヒトは振り払った。冷や汗を手荒く拳で拭う。
「書架の隙間に隠れるってのはどうだ」
「無理だ」
 ロゼルは焦りに弾んだ息を喘がせた。
「あれだけぎっしり書類が詰まってるんだ。隙間なんかあるわけない」
 互いにかばうようにして身を寄せ合い、背中を壁に押しつける。これ以上逃げ場がないと分かった背中は、火に焼かれたように熱かった。息が乱れる。そうしている間にも、天井の鉄板はますます下がっている。無理して手を伸ばせば天井に届きそうだ。天井が低くなってくれば来るほど、落ちて来る槍を交わすことが難しくなる。
「こんな、部屋全体が拷問道具みたいなところから、どうやって逃げ出せと言うんだ……?」
「とにかく考えろ。悠長に構えてる暇はない」
 ロゼルはリヒトの腕を掴んだ。爪が食い込む。圧迫された痛みが、刻一刻と命が削れてゆくのを実感させた。
 石作りの机に、槍が突き立った。甲高い音を立てて跳ね返る。
 鮮烈な残響。リヒトは、はっとなった。あわただしく天井を見上げる。
 絶え間なく落ちてくるのは、罪人の目の前で交差し、きらめく剣戟を跳ね返らせる処刑の槍だ。行く手を阻む漆黒の鉄格子。闇の向こうでは、慈しむ女の形をした拷問具が、刃の生えた腕を愛おしげに広げている。孕んだ死を闇へ産み落とす、死の聖女。血の流れる眼が、微笑みを浮かべる。
 死と生の境界が一瞬の判断の向こう側にあった。飛び込んだ先がどこへ繋がっているか、それは神が振るう死の鎌だけが知っている。過てば、文字通り首が飛ぶ。
 ひときわ甲高い音が軋んだ。死の幕が切って落とされた。対角線上にある一列すべてが、一気に壁となってなだれ落ちてくる。
「ロゼル、あそこだ」
 リヒトは轟音と不安に飲み込まれまいとして、なおいっそう声を張り上げた。ロゼルの腕を掴み返す。気ばかりが急いて、喉がかれて、まるで背中に焼けつく火かき棒を押し当てられているかのようだった。
 もしこの判断が誤っていたら。追い立てられる思いに、身体が竦む。
「どこに!?」
「あの机だ」
 リヒトは息せき切って部屋の中央を指さした。記録簿を置き放しにした頑丈な石の机。あの下に隠れたら、もしかしたら。
「机の下に隠れるんだ」
 動揺しきった声で口走る。
「あの机の下なら間違いなく槍を避けられる」
「机の下だと」
「そうだ、あの机なら、もしかしたら、天井の重みにも耐えられるかもしれない!」
 ロゼルは、すばやく石の机に眼を走らせた。青い眼が恐怖にぎらつく。
「あんなところに……?」

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