クロイツェル

5 帝国図書館 最深部マサク・マヴディル

 迷ってる暇はない。早くしないと間に合わない。だが、声は意に反してかすれるばかりだ。リヒトはロゼルの手を引いた。
「あの机の下ならきっと大丈夫だ。あそこに逃げ込みさえすれば……だから、早く……!」
「だめだ」
 恐れを知らぬ鋭い目が現実へと引き戻す。ロゼルはリヒトの腕を振り払った。
「何が駄目なんだ?」
 金属の反響が鼓膜を突き刺す。否定されるなど思いもよらなかった。リヒトは反発して声を高める。
「だったらどこへ逃げろと言うんだ? 机の下に逃げ込むほかないだろう。早くしないと二人とも押しつぶされる……!」
「それぐらい俺だって見りゃ分かるさ。”他に逃げ場はない”。誰だってそう思う」
「だったら……!」
 リヒトはロゼルの腕を掴んで揺すぶった。焦燥にあおられ、咳き込む。
「まあ、そうあわてるな。死ぬにはまだ早い」
「ふざけてる場合じゃ……!」
「いや、マジで言ってるんだ。大丈夫だ。落ち着け。そんな顔するなよ」
 ロゼルはリヒトを軽く押しやった。憎らしいほどに落ち着き払っている。
「らしくないぞ? そんな顔されたら、いくら俺でもつい、ぎゅうーと抱きしめて大丈夫だ任せとけ! って言いたくなっちまうだろ?」
「は?」
 さすがにあっけにとられた。ぽかんとする。ロゼルはリヒトの表情に気付き、鼻先で笑う。
「貴様があんまり可愛いこと言うからだ」
「笑ってる場合か!」
「……おっと、そうだった」
 ロゼルは白々しくとぼけてぽんと手を打った。不敵な表情で石の机を見やる。
「そこにしか逃げ場がないからこそ危ない、と思わないか」
「どういうことだ……?」
「いいから着いてこい」
 ロゼルは腕を振り上げてリヒトをうながした。槍が降ってくる寸前を見計らい、右に左に避けつつ慎重に走り抜ける。リヒトは虚を突かれ、後を追った。
「どういうことだ?」
 息を切らしてたずねる。ロゼルは、部屋の奥の壁へと走り着いた。鉄の処女アイアン・メイデンの像の足元へと転がり込む。
「ここに何があるって……!」
「貴様も手伝え」
 ロゼルは荒々しく笑った。空洞の拷問具を、力任せに台座から引きずり落とす。
「こいつに、俺たちの身代わりになってもらう」
 拷問具が金属の悲鳴をあげて床を転がる。台座には中空の像をはめ込んだ跡がこすれているだけだ。
「何する気だ、そんなことをしている暇はないぞ」
 リヒトは噛みつくように怒鳴った。ロゼルの意図が分からない。
「人柱代わりだ。こいつが安全なら、俺たちもあの机の下に逃げ込める。それが分かるなら安いもんだろ」
 ロゼルは中空の像を部屋の中央へと転がしてゆく。
「そんなことをして何になる」
「”机の下しか隠れるところはない”。この状況で絶対に殺したいと思ったら、俺だったら間違いなくそこへ罠を仕掛ける。こんなふうにな!」
 鉄の拷問具が、石の机の真下へと蹴り込まれる。
 重みがかかった瞬間、机の下の床が断層のようにずれ、凹んだ。床板が割れる。落とし穴だ。開いた闇の底に仕掛けられた刃が見えた。心臓が握りつぶされたかのように止まりかける。
 石の天板が、机の脚からはずれて床へ落ちた。地響きが床全体に伝わった。潰れた鉄の軋みがつんざく。
 机の下に転がった鉄の処女アイアン・メイデンの上半身部分は、分厚い天板の下敷きになっていた。石の重みで完全に潰れ、原形をとどめていない。
「ほら見ろ、くそったれ」
 ロゼルは壊れたように笑い出した。喉に詰まっていた恐怖ごと、哄笑をまき散らす。
 リヒトは反論すらできず、ただ、立ちつくした。喉の奥で呻く。
 息苦しさに、声も出ない。背筋が、ぞっとした。もし、机の下に逃げ込んでいたら、今頃は──想像すると同時に悪寒がこみ上げた。冷や汗が滲む。首の後ろが痛いほどこわばる。
 引きつった表情で、ぐしゃぐしゃになった鉄の塊を見つめる。
 目の前に槍が滑り落ちてきた。床に白く火花が跳ね返る。金属音がつんざく。唐突に全身が総毛立った。
 こわばったリヒトの身体を、ロゼルが抱き寄せる。
「ん? どうした。怖いのか?」
 リヒトはこみ上げてくる寒気に耐えきれず、息を詰まらせた。唾を飲み込む。手足の先が氷のように冷えきる。
「手が震えてるぞ?」
 まさぐり抱き寄せられる。その腕にすがりつきたくなるのを、リヒトは必死にこらえた。
「……ロゼル、私は……どうしたらいい」
 絶え間ない轟音から逃れたい。
 耳を塞いで、うずくまって、悲鳴を上げたい。
「自分では男のままでいるつもりだったが……どうやら違うらしい……」
 こみ上げる恐怖を拭いきれない。全身が惨めに震え出す。身体だけではなく、心まで女みたいにちぢこまって、おびえて──
「案ずるな。俺だって死ぬのは怖いさ」
 耳元に荒ぶる吐息がささやかれる。
 天井が、凄まじい音を立てて、また一段階下がった。
「ロゼル」
 リヒトは胸が痛くなるぐらいに息苦しさを感じながら、喘いだ。
「何だ?」
「もし……もしもの話だが」
 声が無様に震える。リヒトは、ロゼルの腕に無意識にすがりついた。寒々とした表情を強がりの笑みでごまかす。
「もし……死ぬと決まったときは、お前の腕の中で死なせてもらってもいいか」
 槍が地響きを立てて床に突き刺さった。天井が下がる。生存領域が狭まってくる。生から死へ、命が押しつぶされ、削られてゆくような気がした。追いつめられた笑いがこみ上げる。絶望の笑いだった。 
「断る」
 ふいにロゼルは傲慢な笑みを浮かべた。抱いていたリヒトの腰をぐいとさらに引き寄せる。
「誰が貴様と心中なんかしてやるかよ」
 落ちてくる死を眼前にしながら、ロゼルは猛々しく言い放った。唇をなめ、猛禽のようにするどい目線を四方へと走らせる。その視線は、闇を貫く光のようだった。
「安心しろ。言っただろ。最後まで俺が守ってやる。怖いのは同じだ。男も女も関係ない。自分が何ものなのか、選び取るのは貴様自身だ」
 振り返った眼の奥には、力強い決意の光が宿っていた。
「選ぶ……?」
「ああ、そうだ」
 足元に折れた槍が転がってきた。甲高い音が跳ねる。ロゼルは足で槍を蹴り返した。
「俺は自由に生きると決めた。教えのくびきから離れると決めた。もう、親父の人形じゃない。俺の人生は、俺が決める。他人ごときに勝手に変えられてたまるか! 貴様もそうだろう? 父親だか教団だか知らないが国を勝手に滅ぼされて、帝国に無理矢理連れてこられて。今度は”狐”だ”狼”だと勝手に生き方を決められて。挙げ句の果てには流されて引きずられて潰されて終わりか? 両性具有だから何だ? 女だから何だ? 貴様は貴様だ。自分で自分を狭い枠をはめ込む必要なんてなかろう」
「だったら、どうしろと言うんだ」
 怒濤のように強い言葉を浴びせかけられる。リヒトは泣きそうな声で呻いた。
「お前の腕の中だろうが、猊下の掌の上だろうが、鉄の処女の腕の中だろうが、天井に潰されてしまえばどうせ──」
 ふいに、リヒトは口をつぐんだ。
「”鉄の処女”……?」
 自分が口にした言葉に、はっとする。
 電撃にも似たひらめきが脳内を走り抜けた。
「……どうした?」
 ロゼルがきょとんとする。
 もし、”考えたとおりならば”。
 脱出の方法がひとつだけ、存在するかもしれない……!
 壁際にずらりと立ち並ぶ鉄の処女アイアン・メイデンを振り返る。リヒトは息を詰め、声を引き絞った。
「助かる方法を思いついた」
 槍が床に突き刺さる金属音に、振り絞った説明がかき消される。
「どうだ?」
「やってみる価値はある」
 ロゼルは目を瞠った。互いに力強くうなずき交わす。
「どうせ死ぬなら誇り高く死のうぜ?」
 ロゼルは額の汗を荒々しく拭った。ふてぶてしく笑う。ふたたび、床が持ち上がった。がたがたと揺れる。天井が大きく斜めに傾いた。吊り天井のからくりが重みに耐えきれなくなったのか。致命的な音がした。鎖のはじけ飛ぶ、けたたましい断末魔の金属音が頭上を走り抜ける。
「二手に分かれよう」
 ロゼルが怒鳴る。
「俺は鎖を取ってくる。貴様はつっかいになる槍を何本か拾え」
「了解」
 ロゼルは、迫る天井をかいくぐって走った。
 その行く手を、死が遮る。
 文字通り車軸を流すようだった。黒光りする槍がいっせいに滑り落ちてくる。見るだけで冷や汗が顔から吹き出そうだ。視界が鋼の槍で埋め尽くされてゆく。
 ロゼルは飛びすさり、跳ね飛び、身を低くして疾駆する。
 唯一の可能性。もし、それが幻想だったら。また、間違っていたら。リヒトは先ほど机の下でつぶれた鉄の処女を思い描いた。
 だがもう考える暇はない。萎縮する思いを振り払う。無駄に悔やむ一秒、失敗を恐れるその一秒すら惜しい。
 床に転がる槍を拾い上げた。すばやく数本をたばね、ベルトでがっちりと縛り上げる。
 息を切らしたロゼルが駆け戻ってきた。太い鎖を引きずっている。耳障りな音が響き渡った。
 準備終了。目配せを交わす。
「よし、やるぞ!」
 ロゼルが怒鳴った。リヒトは壁際にずらりと並んだ拷問具へと駆け寄った。端から順に一体ずつ押し倒してゆく。
「ひとつめ!」
 台座から転がり落ちる。金属音が響き渡った。何もない。
「ふたつめ!」
 二体目が倒れる。金具がバラバラになって飛んだ。これも違う。
「みっつめ!」
 三体目は転がっていった先で、槍に貫かれ、無惨にひしゃげ果てた。
「四つめ……!」
 次々に押し倒してゆく。
「神でも悪魔でもいい、欲しければ俺の魂をくれてやる!」
 やはり駄目なのか。
 むなしい希望に押しつぶされるのか。
 ロゼルの声に逼迫の響きが混じった。最後に一つ残された鉄の処女は、手に、不思議な小箱を持っていた。力任せに突き押しても、どうやっても倒せない。
 リヒトは震える手で箱をこじ開けた。鍵が入っていた。ひったくるようにして鍵を取り上げる。いったい、どこの、何を開くための鍵なのか。
 はっとして、拷問具の横に下がった錠前に目をやる。鍵を差し込むと回った。音を立ててはずれる。リヒトは錠前をむしり取って投げ捨てた。
 錆びた音を立てて、鉄の処女の蓋が開く。
 拷問具の内部は、びっしりと尖った棘に覆い尽くされていた。
 そして、拷問具が立っていた台座には──
「ロゼル!」
 声を振り絞って呼ぶ。
「これだ!」
 頭上から、めきめきと支えが砕ける音がした。天井が異様な残響をあげた。分厚い鉄板が次々に崩落してくる。床に突き立った槍が、斜めにかしいだ天井に押しつぶされ、飴細工のようにぐにゃりと曲がった。
 床が揺れた。振動で身体が跳ね上がる。
 部屋全体が揺れ動く。
 轟音が吹き上がった。
 土煙が滝のように流れ込んだ。もう、ほとんど何も見えない。
 ロゼルが、狼のような咆哮を上げた。力任せに鉄の処女《アイアンメイデン》の胴体部分へと槍束を突き刺す。拷問具が音を立てて破壊された。
 台座には、井戸のような黒い穴が開いていた。槍にしっかりと結びつけた鎖が、暗黒へ滑り落ちてゆく。水の流れる音が聞こえた。中へ木くずを投げ込む。
 跳ね返る水音が、天井の崩れる音にかき消される。だが確かに聞こえた。
「急げ、間に合わない……!」
 突然、黒い穴から、手が伸びてきた。リヒトの胸ぐらを掴んで、闇へと引きずり込んでゆく。頭上に、ねじ曲げられた棘が見えた。
 暗黒が視界を覆う。
 次の瞬間、天井全体が崩れ落ちた。

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