クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

1 憎しみを導く者

 帝国聖教会に何名の”狼”が所属し、うち何名が天寿を全うしたのか知るものはいない。異端審問部の頂点に立つアルトーニ枢機卿でさえ、自ら放った”狼”の総数とその生死についての即答は出来かねるだろう。だが、少なくとも、今現在、帝国の暗部に潜んでいる二匹の”狼”が、たかだか一般の帝国軍兵士を相手に後れを取る可能性に関してだけは絶無といえた。
 追撃すると決めた五分後には、すべてが終わっていた。
 音もなく暗闇から襲撃され、気を失ったもの。
 悲鳴を散らす間もなく、絶息させられたもの。
 鈍い音を立てて最後の兵士が転がる。
「任務完了」
 ロゼルは、倒れ込む兵士の身体の下から少年の身体を引きずり出した。首がぐらりとかしぐ。気を失っているらしい。
「哀れなる魂に平安あれかし」
 ロゼルは親指を立て、暗黒の祈りをつぶやいた。印を引き切る素振りをし、立てた親指を下へ向ける。その間にリヒトは殺した兵士全員から軍服をはぎ取った。所持品を漁って金目の物を奪い、残りを下水へ蹴り込む。下水道に巣くう無法者の仕業に見せかけるためだ。
 恐ろしく手慣れた作業をこなすうち、少年が身じろぎした。
「気が付いたぞ」
 ロゼルが呼ぶ。リヒトは作業の手を止め、壁にもたれかけさせた少年の傍へかがみ込んだ。
「う……」
 少年はかすんだ目を開ける。焦点が定まっていない。目線が空を泳いだ。
「……俺は何もやってない……」
 前歯が何本か折れている。痣だらけの顔は痛々しく腫れ上がっていた。
「大丈夫か?」
 リヒトは玲瓏な笑みを浮かべて少年に語りかけた。
 金色に灯る瞳でリヒトは少年の眼をのぞき込んだ。燃えさかる松明の火を少年の顔のすぐ横に押しつける。
 赤く照らされた壁に火の粉が降りかかった。じりじりと髪の毛が燃えた。少年は魅入られたように瞳を見返し──周辺に転がる死体の山に気付いて口を大きく開けた。
「ひっ……死んでる……!」
 悲鳴を上げそうになった少年の口を、背後からロゼルが容赦なくふさいだ。
「声を立てるな。騒ぐと殺す」
 ロゼルは残忍な口ぶりを装って少年を脅した。兵士から奪った剣を喉元に差しつける。少年は開けたままの口をわななかせ、動かない。
「心配しなくていい。素直に協力してくれれば、危害は加えない。二つ三つ、話を聞かせてもらうだけだ」
 リヒトは怯える少年に微笑みを向けた。
「まず、君の名前から教えてもらおうか」
「ラ、ラ、ラルフ……」
「素直に答えてくれて嬉しいよ、ラルフ」
 リヒトは声を上げて笑った。手を伸ばし、ハンチングをかぶったラルフ少年の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「では、ラルフ。なぜ追われていた?」
「あ、あんたらの馬を……盗んで売っ払おうとしてたら……兵隊に追いかけられたんだ」
 歯の根がかちかちと鳴っていた。総毛立つまなざしを食い入るようにリヒトへと向けている。
「なぜ、”私たちの馬”だと知っている?」
「……」
 ラルフは答えようとして言葉に詰まった。すぐさまロゼルが背後から腕を回して少年の喉を締め上げる。小さな身体がじたばたと宙に浮いた。
「そんなひどいことするなよ、かわいそうだろ」
 リヒトは白々しくロゼルをいさめた。ラルフに向かって笑いかける。
「すまないね。彼は、何というか……そう、”殺人狂”でね。止せばいいのに聖堂で貴人を相手に粗相をしてしまって、兵士に追われているんだ。君が盗んで売り払った馬は、彼の馬だ。だから、こういうことになる。分かったかな?」
 少年の背後でロゼルが憤然と鼻をゆがめる。誰が殺人狂だ? と言いたげな顔だ。リヒトは眉を吊り上げ、うるさい黙ってろ、と目配せを送った。勝手に決めつけるな! とロゼル。似たようなものだろ静かにしろ気付かれたらどうする! とリヒト。ひそひそと眼だけでいがみ合う二人を、おずおずとラルフが遮った。
「……あんたと眼があって……」
 ラルフは震える声で言った。
「だから、気付かれたと思って……」
「ああ、道理でね」
 リヒトはようやく得心がいって笑みをこぼした。あのとき覚えた違和感は、この少年のせいだ。
「からくり人形の振りをして時計台から覗いていたのは、君だったんだな?」
「何? いつだ!?」
「ほら、図書館前の広場にあった大きな時計台だ」
 リヒトは微笑んだ。
「一カ所だけ、なんだか妙に人間っぽい人形が見えたような気がしたんだ」
「全然気付かなかったぞ」
 ロゼルがぶすりとそっぽを向く。
「ということは、図書館でもずっと通風口をたどって、我々を覗いてたんだな? ずっと妙な音や声がしてたしな」
 少年はぶるぶると震えながらうなずいた。
「……そうしろって言われてるんだ……図書館には金目の本があるから……黒い服の坊主じゃなくて、聖教会の白い服を着た奴らが来たらいつでも、そいつらが読んだ本を盗んで持ってこいって……」
「やれやれ、泥棒はいけないな、泥棒は」
 リヒトは首をすくめた。
「ということは、記録簿の中身を抜き取ったのも君だな」
「……」
「答えないと殺人狂の”彼”が暴れるよ」
「そうだよ!」
 少年はやけっぱちの声で怒鳴った。
「それはどこに保管してある?」
「時計台の中だ」
「案内してもらおう」
 リヒトは間髪をいれずに命じた。

 時計台の内部は、巨大な振り子と階段とで空間のほとんどが占められていた。壁に添って作られた古めかしい階段を上ってゆく。ラルフは、一番上の階に機械室が据え付けられているのだと説明した。
「この大時計は、君が管理しているのか?」
 リヒトは澄まし顔でたずねた。ラルフは首を横に振った。
「まだそこまでは任されてねえ。いまんとこは徒弟扱いで、親方の代わりに泊まり込んで、時計機構が壊れないよう油差したり、磨いたり、おもりを巻き上げたりしてるだけだ」
 松明を手に上ってゆく途中、手すりから身を乗り出して階下を見下ろす。目眩がするような光景が見えた。巨人の振り下ろす槌のような振り子が、風切る音を立てて、右に、左に重々しく揺れている。傍らには巨大なおもり入りの木箱を鎖で吊り下げた巻き上げ機が見えた。
 最上階は機械室になっていた。振り子と繋がった時計機械が、黒ずんだ鋼鉄の歯車をぎりぎりと回転させている。回転するドラム、音を立てて一目盛りずつ動く歯車。軋む機械。油の匂い。文字盤のからくり人形に繋がる心棒が、がたがたと音を立てて動いている。
「ということは、この機械の設計図も見たことがある、ということだね」
「図書館にあるのは勝手に忍び込んで見たよ。一度それで図書館の黒ずくめのやつらに捕まって大変な目にあった」
「それで、こんなことを始めたのか」
「やりたくてやってるわけじゃねえって!」
 後ろ手に縛られたままのラルフは哀れげに鼻を鳴らした。
「頼むよ、ほどいてくれよぅ……」
「まだ駄目だ。ということは、あの吊り天井のことも知っていたんだな」
「天井裏に潜り込んだことはある」
「なるほど。だから我々があの罠にかかった、死んだと確信して、馬を盗んだのか」
「そうだよ」
「なかなか冴えてるじゃないか」
 リヒトは感嘆のまなざしで時計塔内部をまじまじと観察した。巨大かつ精巧な時計を裏側から見るなどという機会は、おそらく二度と訪れまい。
 文明そのものであり、未知の知性そのものである”動く金属”は、”象の檻ドグラ”で見せられた悪魔的な光景とかけ離れた存在でありながら、表象的にはほとんど同じものであるかのように思える。なぜそうなるのか分からないという、根源的な一点において。
「本当に、盗んだ本を見せれば許してくれるんだろうな……?」
「そのつもりだけどね」
「いつ盗んだ?」
「さあ……ちょっと前だ」
「ここにいる彼が以前閲覧した記録簿の中身を盗んだ、という認識でいいんだな?」
「ちげーよ」
 ラルフはむすりと横を向いた。
「そいつじゃねえ」
「誰なんだ?」
「いちいち名前まで知るか。いろんな奴が入れ替わり立ち替わり来るんだから」
 ラルフは自棄になって怒鳴った。
「分かるわけねえだろ」
「口の利き方に気をつけろ、クソガキ」
 ロゼルが弾のこもっていないライフルの銃口をラルフの鼻先に押しつけた。凄みを利かせて脅しつける。
「ひいっ!?」
「鼻の穴の数が倍になるぞ?」
「まあまあ、穏やかに行こうじゃないか」
 リヒトは苦笑いした。ライフルの銃口を指先で押しやる。ラルフは鼻のてっぺんにこすりつけられた煤の臭いに、今にも卒倒しそうな顔をして震え上がった。
「そもそも、誰に命令されてそんなことを始めたんだ?」
 ロゼルが尋ねた。
「誰が、どの資料を見たのかを調べるなんてやり口が陰険すぎるだろう」
「図書館にいる黒服のじじいだ。聖教会の白い服を着た奴らが見た書類を、持ってこいと言われたからやってるだけで、理由なんて知らない。図書館の本を図書館の奴に言われたとおり持ち出して、返すだけなんだから、ほ、本来の意味では、その、盗んだとはいえないんだ……」
「詭弁を弄するな。この手紙に見覚えは?」
 ロゼルは、持ち出したフラター・カートスの手紙を示した。ラルフはびしょぬれの犬のように首を振った。
「知らねえ」
「嘘をつくと鼻の穴が……」
「マジで知らねえってば!」
「そんなはずはない」
 リヒトはするどく目を光らせて問いただした。ラルフは何か言おうとして、リヒトの顔をまじまじと見た。ふいに表情を青ざめさせる。
「い、いや、あの、ホントに知らねえって……信じてくれよ」
 魅入られたように口ごもる。今までは呑気に縛られていたのが、突然落ち着かない仕草で足踏みした。後ろ手に縛られた指先をじりじり動かし、ほどこうとする素振りすらを見せる。
「どうした」
「お、おしっこ……!」
「我慢しろ」
「漏れる……!」
「知るか。勝手に漏らしてろ」
「あああ! 全部ちゃんと喋るからさ!」
「話が終わったらほどいてやる」
「ううっ……!」
 ラルフは、動かない手で機械室の隅に積み上げてある書類の山を示した。膝を揉み合わせ、へっぴり腰でくねくねしている。
「あ、あれだ、盗んだものは全部、そこにある。勝手に見りゃいいだろ。俺は、白い服の奴が見た書類を持ち出しただけなんだよ! ホントだってば。信じてくれよ……マジで漏れるってば……!」
 リヒトは記録簿の束を確かめた。ぱらぱらとめくったあと、ロゼルへと手渡す。ロゼルはポケットから眼鏡を取り出してかけた。真剣なまなざしを聖刻文字の文書へと落とす。
「確かに本物だ。間違いない」
 神妙にうなずいて記録簿を閉じる。
「だが、ここに、こんなふうに放置されているということは、資料そのものにさしたる重要性はないということだ。ならば、ますますこの手紙の存在が怪しい。わざわざ記録簿を盗ませておきながら、これを敢えて残すと思うか?」
 リヒトは尿意に身もだえるラルフを放置したまま、怪訝な視線をロゼルへと向けた。ロゼルは眼鏡をはずし、眉間に皺を寄せた。指先で眼鏡をくるくると回しながら考え込む。
「ラルフが記録簿の中身を抜き取った後、”誰かが、故意に、紛れ込ませた”と……?」
「も、もしかしたら、あいつらかもしれねえ」
 ラルフが唐突に口を開いた。唇が青くなっている。
「あいつら?」
 不審に思い、聞き返す。
「思い出したんだよ。ついこの間だ、変な奴らが来たんだ。きっと、そいつらだ」
 ラルフはどもりながらも、息せき切ってまくし立てた。こめかみに冷や汗が滲んでいる。
「不気味な二人組だった。修道女の格好をして、わけのわからない、呪文みたいなことをまくし立ててた。若いのと、そんなに若くはないのの二人組で。”呪わしき我が魂よ”とか”なんというひどい、罪な”とか、ずっとまじないの祈祷みたいに、手を繋いでくるくる回ったりぶつぶつ歌ったりキンキンわめいたりして……ほ、ほ、ほら、正直に白状しただろ、だからおしっこ行かせてくれ……!」
「”罪”?」
 たちどころにロゼルは盛大に眉をしかめた。何やら思い当たるふしがあったらしい。助けを求めるような、情けない目線でリヒトの意を探ろうとする。
「まさかとは思うが……な?」
「私は知らんぞ」
 リヒトはあわてて他人事を装い、目をそらした。
「おしっこ! 漏れる! ああやばい、マジで、ああっ漏れちゃう……!」
 けばけばしい光と嬌声の記憶が脳裏に流れ込んでくる。瞼の裏に、キンキンと火花を散らす記憶が──かしましい、おびただしい迫力に圧倒された記憶が蘇る。思い出すだけで体力を消耗させられる。まさか。そんなはずはない。まさかあの”レディたち”が再臨──
 だが、ロゼルのげっそりした顔を見て、リヒトも観念した。ロゼルはため息をついた。
「……おとなしく参上したほうがよさそうだな」
「どこへ」
「トイレだよトイレ! ああああもう駄目だ、ああ……!」
「うるさい黙ってろ。言わなかったか? ”セラヴィル”だ」
「セラヴィルって、まさか」
「トイレええ……!」
「案ずるな。そのまさかだ」
「そんなあまさかってホントに漏れちゃ……ああああ俺終わった……じょぼじょぼじょぼ……」
 ラルフが解放された卑下の呻きを上げる。どうやら、レディたちの正体を改めて確かめる必要はなさそうだった。

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