クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

3 ソロール・アンジェリカ

 ロゼルは眠っている。穏やかな、深い眠りだ。
 面影が月明かりに青くかげっている。しばらくは目を覚ましそうにない。
 リヒトは手を伸ばし、身体を寄り添わせて眠るロゼルの胸に触れた。起きあがろうとして、思うようにならないことに気付く。抱きしめられているのだ。
 暖かい。ゆっくりと息を吸い込む。ロゼルの匂いがした。ほうっと吐息が漏れる。心地良い。
 リヒトは眼を閉じた。額をロゼルの裸の胸に押しつける。
 何だか、どきどきしてくる。
 朝になって、ロゼルが眼を覚ましたら、何と言えばいいのだろう。目を合わせられるだろうか。恥ずかしくてうつむいてしまったりしないだろうか……いや、初心な生娘じゃあるまいし。いっそ、肌を合わせたことなど全然気にしていない素振りをして、「ふふふ、昨夜はお楽しみでしたね」とか何とか適当に冷やかしてごまかしてしまえばいいのだろうか。
 確かに、昨夜は……
「あああ……!」
 無性に気恥ずかしい。問題はロゼルに告白させられた、あの後だ。さんざんに冷やかされ、からかわれて……
 何を口走ったか、思い出すだけでごろごろ七転八倒、悶絶して頭を抱えたくなる。
「何で、あんなことを言ったんだ、私は……!」
 あれをしらふの時に突きつけられたら、とうてい耐えきれない。
 忘れよう。
 うむ、そうしよう。
 リヒトは頬をあからめながら記憶にさっと蓋をした。考えるのをやめて身を起こす。
 足元にくしゃくしゃとわだかまった毛布が塊になっている。手を伸ばして引っ張りあげた。ロゼルの肩にきちんと掛け直す。
 ロゼルは反対側へごろりと寝返りを打った。
「……こらあリヒト……てへへエロいことすんなよ……えへへへ……?」
 どうやら、勝手にいかがわしい夢を見ているらしい。
「ハハハこやつめ……かわいいこと言いやがって……待て待てえ……?」
「……そのまま世界の果てまで転がっていけ」
 せっかく掛けた毛布が、寝返りを打つロゼルの身体に巻き付いて、はらりとはだける。
 月影に男らしい肉体が浮かび、青く染まる。黒く落ちる陰影との対比に、思わず見惚れた。心を奪われる。
 余分なたるみは一片もなかった。そぎ落とされた肉体のナイフのような美しさ。計算され尽くした彫刻を思わせる体躯。男の身体だ。聖職者のくせに、いつどこでどうやって鍛錬しているのだろう。
 うらやましい、と思った。
 ほのかな月明かりに照らされた自分の裸身を見下ろす。
 男の痕跡は、下腹部のそれ以外、ほとんど残っていない。
 自分で自分の身体にそっと手を滑らせてみる。
 やわらかい。女の肌、女の身体だ。記憶にある男としての自分の肉体とはまったく違う。
 奇妙な夢を見ているようだった。たぶんきっとロゼルも同じ夢を見ているのだろう。
 ロゼルに抱かれれば抱かれるほど、肉感的になり、情緒的になる。普段、両性であることを意識していないときには気付かないが、ロゼルに抱かれると如実に女体化が進み、理性が感情に圧迫されてゆくように感じる。
 ならば、逆に男としての野生を取り戻すためには、女を抱けばいいのか。
 女を抱く?
 ぴんと来ない。それどころか、男としての本能がまったく反応しないことに、逆に動揺する。
 本当に、このままでいいのか。
 快楽に流され、ロゼルに抱かれ、ロレイア再興の夢も捨てて、身も心も”ただの女”として生きる──
 リヒトは暗いまなざしをロゼルへと向けた。
 それは、できない。ロゼルに言ったとおりだ。
 ロレイアに秘め隠された謎を解き明かさない限り、祖国を忘れ去ることなどできない。 
 身体が元に戻れば、ロゼルもまた夢から覚める。しばらくは快楽の記憶を二人で共有することもできるだろうが、追いつ追われつのほとぼりが冷めれば、やがて”それ”が愛ではなかったことに気付く。
 激しければ激しいほど欲望はうつろいやすい。後に残るのは嫌悪だけだ。
「お前にそんなふうに言ってもらえるほど、私は、ぜんぜん可愛くなんか……」
 リヒトは口も眼も閉ざし、ためいきをついた。
 結局、自分はこうなのか。
 気後れに立ち止まったまま、ずっと、こんなふうに思ってはためらい、後ずさって──砂を噛むような、うちひしがれた夢を繰り返し見続ける日々がつづくのだろうか。
 ロゼルの寝顔が月明かりに照らされる。
 金色の髪がくしゃくしゃと寝乱れている。無防備な寝顔が愛おしい。
 まるで子供のようだった。さっきまではあんなに荒々しかったのに。そう思うと、なぜか奇妙なおかしみがこみ上げる。
 そっと近づいて耳を澄ます。規則正しい寝息が聞こえた。
 傍らに手を突く。耳を寄せる。頬に吐息がかかる。ささめくような寝息。
 どきりとする。距離が近い。
「ロゼル」
 ふと、大胆にささやいてみる。
 頬が奇妙に熱い。
 ロゼルがねぼけた声をあげて笑った。
 ぎくりとする間もなく、リヒトはロゼルの万力のような腕に抱き取られた。ベッドに引きずり込まれる。
「ちょっ……離せ、おい、ロゼル!」
「おはようのキッス……おはようのキッスぅうう……」
「馬鹿! まだ夜中だ」
「してくれないと寝ない……」
「そういうのは朝になってからするものだ」
「ん……分かった……やくそくだぞ……えへへへ……?」
「馬鹿な夢見てないで、さっさと寝ろ」
 ロゼルの寝顔を見ただけで、張りつめていた心の帳があっけなく崩れ落ちたような気がした。
 無理矢理ロゼルの腕を押しのけ、代わりに枕を抱かせて、乱暴に毛布をかぶせる。毛布の塊が毛虫のように丸まった。もごもごと声がこもって、聞こえなくなる。
 リヒトはすうすう寝息を立てる毛布の山を見つめた。
 昨夜、このうぬぼれやの毛布は──全身でリヒトを受け止めてくれた。
 胸に溜め込んだ毒杯を飲み下してやる、と言ってくれた。自分で勝手に壁を作ってちぢこまって、怯えていただけのことだと教えてくれた。自信を持て。信じろ。そう言ってくれた。
「……愛してやる、か」
 力強い言葉が、胸にじわりと広がる。リヒトは眼を閉じた。静かな喜びに身を浸す。
 ロゼルの言葉が、驚くほど素直に受け止められる。砂地に雨が吸い込まれるように、すう、と心に染み入ってくる。
 純粋に嬉しかった。
 普段の自分ならきっとひねくれたふうに打ち消して、聞かなかったことにしてしまうだろう。余計なお世話だとか、本当は男なのにとか、どうせ一時の気の迷いに違いないとか、べたついた恋愛感情など戦場で持て余すだけだ、とか。堂々巡りするばかりの、やたら回りくどい言い回しをこねくりまわして。
 傷つくのが怖くて。
 変わってゆく、弱くなってゆく自分を、認めたくなくて。
 愛しているにも関わらず、その思いを否定されるのが怖くて。
 口に出して言えばたった一言で済むものを、臆病なあまり、何とかしておくびにも出すまいと必死になっている。
「お前のそういう、無駄に自信たっぷりなところ、本当に羨ましいよ。何でもはっきり言える。私も、それぐらい言えたらいいのに」
 リヒトは毛布越しにそっと手を触れた。言いよどむ。汗ばむ手で、すがるように毛布を握りしめる。
「……お前が……」

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