クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

3 ソロール・アンジェリカ

 声を飲み込む。油断して、つい余計なことを口にしてしまうところだった……
 リヒトはかすかに頬を赤くした。もし、”好き”だなどと一言でも面前で言ってしまおうものなら、このロゼルのことだ──言質を取ったとばかりに図に乗って、あの手この手で冷やかしてくるに違いない。好色な笑みを浮かべ、舌なめずりするように迫ってくるさまがありありと思い浮かんだ。
 もしそんなことになったら。
 ぞくりとする。
 きっと、もう、我慢しきれなくなって……。
 リヒトはどきりとして頭を振った。まとわりついて離れない想像を、あわてて脳裏から追い出す。
「そんなこと誰にも言うなよ。いいな」
 別に誰が聞いているわけでもないのに、焦って念を押す。リヒトは自分で自分の言葉にあわてふためき、逃げるようにベッドから滑り降りた。頬が熱い。
「さてと、のんびり寝てる場合じゃない」
 不寝番に立つ予定だったのに、どれほどの時間を無為に眠って過ごしてしまったのか。手早く着替えをすませ、黒い革手袋を嵌める。
 真夜中の静寂が娼館を押し包んでいる。
 リヒトは道中、乗り合わせた商人たちから買い求めた舶刀《カトラス》を手に取った。まだ実戦では一度も使われたことのない刀だ。鞘から抜いて月明かりに透かしてみる。
 なめらかに湾曲した刃を幾度か舞わせ、手にしっくり来るかどうかの収まり具合を確かめてみる。重みは十分だ。刃こぼれもない。油を引いて磨けば、もっとよく光るだろう。朝が来るまで、時間はたっぷりある。
 きぃ、とかすかにちょうつがいの軋む音がした。
「何だ……?」
 リヒトは眼を上げた。顔を廊下側の扉へと向ける。風の吹き抜ける音が聞こえた。廊下を誰かが歩いている。
 ちらりとロゼルを見やる。眠っている。鍵は掛けてあるから、いきなり侵入される恐れはない。起こすべきかどうか迷ったが、予感だけでは判断しかねた。
 足音が近づいてくる。
 耳を澄ます。足音が部屋の前を通り過ぎてゆく。リヒトはカトラスを強く握りしめた。手に汗をかいている。
 ぎぃ……、
 ぎぃ……、
 ひどくゆっくりと床が鳴る。
 月が雲の向こうに隠れた。部屋が薄暗くなる。
 ふっ、と音が止んだ。リヒトは息を殺した。心拍数が跳ね上がる。扉の向こうに誰かがいる。いったい、何をしているのか。中の様子を窺っているのか、それとも。
 リヒトは扉の取っ手に手を掛けた。と、床の軋みが、再び聞こえはじめた。ぎぃ……、ぎぃ……何かを引きずるような音とともに、足音は遠ざかる。
 リヒトは勢いを付けて扉を開け放った。逃げ去る人の気配はない。すばやく廊下へと滑り出て、左右を見渡す。
 かすかな香気が鼻をくすぐった。この臭いは──
 嗅ぎ覚えのある匂いだ。なのに即座に思い出せない。
 行く手の角を人影が曲がったような気がした。廊下に、濡れた足を引きずったような黒い跡が残っている。一瞬、血かと思った。
 駆け寄って屈み込む。指を黒ずみにつけ、鼻に寄せて確かめる。腐臭と香水とが入り混じったような悪臭だ。リヒトは鼻をゆがめた。
 リヒトは足跡をそのままにして、気配を追った。庭に面した廊下を足早に進む。角を曲がったところで立ち止まった。開け放たれたテラス窓から、床や壁に青白く月の光が差し込んでいる。誰もいない。
 さらに追おうとして、リヒトはふいにロゼルのことを思い出した。
 眠ったままのロゼルを、部屋に置き去りにしてきてしまった。用心して戻るべきか、それとも先に進むべきか……ためらって立ちつくす。
「あいつら、どこ行った」
 突然、暗闇に荒々しい男の怒声が響いた。はっとして振り返る。
 雪崩を打つ物音が響き渡る。どっと足音が乱れた。
 突然、目の前に黒い影が現れた。蛇のような噴気音をたてて飛びかかってくる。
「おっと」
 リヒトはすかさず身をかわした。
 影はつんのめって倒れた。じたばたと床を這って逃げようとする。その背中を思い切り蹴りつけた。
「ぐえっ」
 影は壁にぶち当たってくずおれる。
「逃がすか」
 剣をぎらりと光らせ、振り上げる。
「ひいいいい俺っちだってば! ちょ、やめて姉ちゃん、死ぬうっ!」
 賊は、顔を半分隠す覆面を自ら剥ぎ取った。哀れがましく命乞いする。リヒトは相手の顔に見覚えがあると気付いて、鼻白んだ。
「サルかと思ったらお前か、ローロ」
「サルはねえだろ、サルは」
 ローロは冷や汗混じりに剣を指さした。
「頼むから剣を引っ込めてくれ。知り合いのよしみで」
「あいにくだが、薮から棒に襲ってくる知り合いはいない」
「そいつはねえって! 頼むからさ……」
「盗人め、どこ行った!」
 まだ怒鳴り声が響いている。廊下の向こうで光が乱高下した。
 リヒトはちらりとローロを見下ろした。指を鉤の形に曲げて冷ややかに片眼をほそめる。
「お前か?」
 ローロはこすっからい笑みを浮かべた。肩をすくめる。
「やだなあ誤解よ、誤解。俺っち無実よ?」
 へらりと笑う。その手に何かきらりと光るものが握られている。ローロはあわててポケットに光り物を滑り込ませた。
「何の騒ぎだ……?」
 寝ぼけ眼のロゼルが部屋から顔を突き出す。裸の身体にガウン一枚を引っかけただけのしどけない格好だ。ローロは仰天した声を上げてのけぞった。
「うへえっ、ロゼルの旦那!?」
「手癖の悪いサルを一匹捕まえたんだが、どうする」
 リヒトはくすりと笑った。ロゼルはあくびをした。
「吊し上げてやれ」
 くるりときびすを返す。リヒトはロゼルの言わんとしていることに気付いてうなずいた。
「中に入れ」
「あの、いえ、俺っちはその……二人でお楽しみのところおじゃまする趣味はねえっつうか……三人でピーーーッってのもやぶさかではないんですが……」
 ローロは上の空で明後日の方角を見上げつつ、手を揉みしぼった。じりじり後ずさる。リヒトはにやりと笑った。
「心配するな。いたぶられるのは貴様だけだ」
「うっ……」
 問答無用で剣で背中を突いて、中へと押し込む。
 ロゼルは腕を組み、にやにやと笑って立っていた。
「また会ったな、ハイラムのローロ」
「はは、奇遇ですねぇ……」
「こそ泥め。お仕置きの青あざ一つじゃ足りなかったか?」
「えへへ滅相もねえ、あれは姉ちゃんに夜這い掛けようとしただけで、別に旦那の巾着を切ろうとした訳じゃねえんで……」
 ローロは脂汗まみれの引きつった顔をくしゃくしゃのミイラみたいにした。
「ちっ、とんだ貧乏くじ引いちまった」
 お追従笑いを消して小声でぼそりと吐き捨てる。リヒトは笑った。
「盗んだものを出せ。そうすれば見逃してやる」
 ローロは恨めしげにリヒトを見上げた。
「だから俺っち無罪……」
 そらとぼけて何気なくポケットから別の場所へ移し替えようとするその手つきを、リヒトは剣の切っ先で押しとどめた。
「油断も隙もない奴だな。何だ、その手は?」
 にやりと笑う。
「ポケットの中身が邪魔なら、手と一緒に穴を開けてやろうか」
「うっ……」
 ローロが顔をこわばらせる。ロゼルは身をかがめてポケットの中身をのぞき込んだ。
「ん? 何だそれは? 何か入ってるな? うわーたいへんだーこんなところに盗んだ宝石がー」
「あああ、しー! しーってば! 分かったってばよ!」
 しぶしぶポケットから布に包まれた金の腕輪を出してくる。
「左のポケットも」
「ちっ……これだけだぞ!」
 これだけと言っておいて、出るわ出るわのざっくざく、目もくらむような宝石にネックレス、リング、イヤリング、ブローチ、チョーカー、ティアラ……宝飾店からそのまま、濡れ手に粟で掴み取ってきたかのようだ。
「それで全部か。ずいぶんな戦利品だな」
 リヒトは口の端を吊り上げた。ローロはよよよと泣き濡れてへたり込んだ。
「ああ俺っちの華麗なる本日の稼ぎが……!」
「懐に入っているのは何だ」
 ぼそりとロゼルがつぶやく。
「……ああくそっめざといな、ちくしょう!」
 ローロはがらりと態度を変えて舌打ちした。拗ねた表情で胸元の内ポケットから金貨のたっぷり入った財布を掴み出す。
「これでいいだろ、これで全部だよ!」
「じゃあ、リスみたいにほっぺたに入れているのはいったい何だ?」
 リヒトは薄笑いを浮かべた。剣の先で頬を突く。ローロは青い顔でほっぺたを押さえた。
「これは虫歯が腫れて……あいたた……」
「出せ」
「鬼! 悪魔! 可愛い顔して姉ちゃん、あんた無慈悲な夜の女王かよ!」
 ローロは半泣き顔で口の中のものを掌の上にぺっと吐き出した。小鳥の卵ほどもありそうな、真っ赤なルビーの指輪だ。さすがに取り上げる気にはならない。リヒトはロゼルと顔を見合わせた。
「それは……触りたくないな……」
「じゃ、これは元に戻すってことで!」
 ローロは指輪を口に放り込んだ。眼を白黒させながらごっくんと音をさせて飲み込む。喉仏が上下した。
「うわっ、こいつマジで飲み込んだぞ」
 ロゼルが目を丸くする。
 廊下の外を走り回る足音が聞こえた。低く怒鳴り交わす声がする。
「ずいぶん物々しいな」
「ああ、あいつら、主教館の従者連中だってよ」
 ローロはにやっと笑った。手の甲で口の端をぬぐい、げっぷをする。
「こんなちんけな街の木っ端役人がそろいもそろってどんちゃん騒ぎとは、ずいぶんと羽振りのおよろしいことで。何かよからぬことでもしてなきゃいいんだけど、ねえ……?」
「ふん、こそ泥ふぜいが世直し気取りの義賊ごっこか? 調子に乗るんじゃない」
「もういいでしょ。出すもんは全部出したんだから、そろそろおいとまさせてもらいたいんだけど」
「どうする」
 目を見合わせる。ロゼルは肩をすくめた。
「別に構わないだろう。俺たちには関係ない」
「そうだな」
「じゃ、そういうことで新婚ホヤホヤ、ハネムーンでホヤッホヤの幸せなお二人さんに、俺っちからささやかな祝福を!」
 どこにひそませていたのか、小さなかんしゃく玉を床にたたきつける。たちまち目に染みる煙が広がった。
「ハネムーンじゃない!」
 ロゼルが咳き込みながら怒鳴った。眼を押さえている。
「くそっ、前が見えん。恩を仇で返すとは、こざかしい真似を!」
「おっと、婚前旅行でしたか。へへっ、旦那も隅に置けませんなあ?? では改めまして子作りの続きをどうぞーーーっ!」
「おいコラ待ていっ!」
 ロゼルが赤い顔でげふんげふんと煙を吐き散らす。
「子作り言うなぁっ!」
「じゃあ、おまん……」

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