クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

3 ソロール・アンジェリカ

「ぐあああああ貴様、少しは言葉を選べ!!」
「ハイハイそんじゃおまたー!」
 ローロは軽業師のような身のこなしで身をひるがえした。煙の中を泳ぐように駆け抜けて行く。
「待て、ローロ」
 リヒトは小柄な背中に声を掛けた。
「さっき、私たちの部屋の前を通り過ぎなかったか」
「ほえ?」
 ローロはテラスへ飛び降りようとした格好のまま振り返った。首をかしげる。
「いや、こっちに来たのはたまたまだけど?」
「それならいい」
 リヒトは煙を振り払った。カトラスの剣先でテラスの先を指さす。
「ここから庭へ降りて逃げろ。盗品は返しておいてやる。後は勝手にするがいい」
 ローロは猫のような甘い笑みを浮かべた。ぺろりと舌を出す。
「見逃してくれてありがとうよ。不肖ハイラムのローロ、受けた恩義は忘れねえ。この礼はいつか必ず一万倍にして返すぜ」
「ふん、典型的な詐欺師のしゃべり口だな。盗っ人猛々しい。とっとと失せろ」
 催涙ガスに目をやられたロゼルが憤然とまぜっ返す。ローロは人好きのする笑顔で手を振った。
「分かってるよ。でも、まさか……”奇蹟”騒ぎにあんたらまで関わってるとは思わなかった」
「何!?」
 ロゼルが顔色を変える。
「おい、ちょっと待て、ローロ!」
「あばよ!」
 言うや否や、ローロはくるりと跳ね飛んだ。あっという間に姿をくらましてしまう。
「今なんて言った?」
 ロゼルが後を追おうとする。リヒトは肩をすくめて止めた。
「追いつけないよ」
「まったく人騒がせな……」
 ロゼルは苛立たしげに唸って月に照らされた庭を見渡した。ローロの姿はもう影も形もない。
「……だが、あいつ、いったい何者だ?」
「とにかくこれを何とかしよう。このままだと私たちが疑われる」
 リヒトは床にうず高く積み上がった宝石の山を見やった。さすがにうんざりする。たった数時間で、よくもこれだけの品を盗んだものだ。
「何だ、返すのか? もったいないな」
 ロゼルがにやにやと奇妙な笑みを浮かべる。リヒトは耳ざとく聞きつけた。じろりと睨み返す。
「聖職者がそういうことを言って良いのか」
「元聖職者だ。そこのところだけは間違えるな」
 ロゼルはふんと鼻を鳴らした。リヒトはあきれた吐息をつく。
「後は任せてくれ。構わないからお前は寝てろ」
「いいのか?」
「気にするな。うるさくして悪かったな。ほら、おやすみ」
 ロゼルの背中を押してベッドへと戻らせる途中、余計なことをされる前に、さっさと自分から背伸びして、頬にかるく唇を当てる。
「う?」
 ロゼルは頬に手を当て、妙にぎごちなくリヒトを振り返る。
「おやすみ、ロゼル」
 微笑んでベッドへ押し込み、毛布を掛けてやる。ついでに額にもキスを落とす。
「う、うん……?」
 寝かしつけられていることに気付いていないのか、まるでなすがままだ。キス二つであっさりとロゼルをベッド送りにすると、リヒトは宝石を手近にあった布にくるんで、廊下へ持ち出した。
 光が廊下の向こう側をさしかかった。
「誰かいないか」
 リヒトは声を上げた。
 娼館全体が騒然としている。どうやら客という客がローロの被害にあったらしい。浮かれっぱなしのお調子者だとばかり思っていたが、とんでもない盗賊だ。
 リヒトの声に気付いたのか、メイドが急かされた足取りでやってきた。
「ミストレスを呼んでもらいたい」
 メイドがすぐさまレスタリスを呼んでくる。深紅のガウンをまとった姿が現れ、近づいてきた。
「お騒がせいたしまして申し訳ございません。盗人が入りまして、あちこちで悪事を働いたようにございます。まさかこちらにも被害が……」
 暗がりに手燭の炎が揺れた。憔悴しきった表情がゆらめいて見え隠れする。
 リヒトは手にした包みをレスタリスに渡した。
「ええ、私たちの部屋にも忍び込んで来ました」
「まあ、何て事でしょう。本当にご迷惑をおかけして申し訳……」
「運良く気付いて捕らえたのですが、あいにくすばしこい奴で、結局は逃げられてしまいました」
「まあ」
 ほどいた包みの中から出てきた品々に、レスタリスは歓声を上げた。
「盗人から取り返して頂けたのですね」
「ええ、ポケットのものは全部出させました。どうぞ、元の持ち主の方にお返ししてください」
 レスタリスは何度も頭を下げた。
「ああ、これは、本当に助かります。半分は店の女たちの飾りですが、お客様の中にも被害にあった方がいらっしゃいますので。すぐさまお返しして参らねば。ありがとうございました。ところでお連れ様は? 後ほどお礼にうかがってもかまいませんでしょうか?」
「いえ、あの、内密の旅ですし、大事にはしたくないと申していました」
 リヒトは手を振り、レスタリスの礼を丁重に断った。
「さようでございますか」
 レスタリスは用心深く四方を見回した。誰にも見られていないことを改めて確認する仕草だった。”運良く”盗まれた宝石が返ってきたからと言って、それを娼館の女主人がわざわざ客に返すだろうか。リヒトはすこし可笑しくなって笑った。あわてて表情を隠す。疑っていることを知られてはならない。
 レスタリスは頭を下げた。
「では、お返しして参ります。後ほど、お時間のいただけるときに、改めて御礼を申し上げさせて頂きますわ」
「ミストレス」
 リヒトはレスタリスに声を掛け、引き留めた。
「何でございましょう?」
 妖艶な食い込みを見せる胸元が、白く眼を射る。
 廊下の足跡のことを尋ねようと思ったが、あやういところで思いとどまる。
 レスタリスの胸元にちらちらと見え隠れする小さな紋様が、気後れの危うい香りを漂わせている。
 黒いアザミの刺青。
「いえ、何でもありません。連れが明日、所用にて出かけたいと申しているのですが……しばらくの間、あの部屋を使わせて頂いても構いませんでしょうか」
「ええ、ええ、もちろんですわ。わたくしどもの名誉まで守って頂いて、そのうえ花代をいただくなど、滅相もございません。どうぞ、いつまでも逗留くださいませ。ご遠慮などなさいますな。先ほど街に人をやって確かめさせましたの」
 レスタリスの如才ない表情が、ドレスの照り返しのせいか赤く染まる。
「まだしばらくは宿屋に空きが出そうにもないとのことでございますわ。前の主教様がお亡くなりになって大分たちますのに、跡継ぎであらせられますアルフレッド様への冊封がとどこおって、なかなか都伯に叙せられないでいらっしゃるとのこと」
 問われもせぬのに、よどみなく答える。リヒトはレスタリスの言葉を怪訝に思った。ローロが言った内容と微妙に符合しない。数ヶ月もの間、給金を払う主がいなかったにも関わらず、従者が大枚をはたいて登楼できるものだろうか。記憶にとどめ置く必要がある。
「そうだったのですか。それは困りました」
「ですので、差し支えなければそのままおいでてくださいますよう、さようにお連れ様にもお伝えくださいませ」
「分かりました。ありがとうございます。では、私はこれで」
「クロイツェル様」
 ひそやかに呼び止められる。リヒトは気付かずに部屋へ戻ろうとした。
「あの、もし?」
 帰る気配を見せた直後の、何気ない隙を狙われる。
「クロイツェルさま?」
 重ねて名を呼ばれる。リヒトは身をひそかにこわばらせた。即座に反応しなかったことを見抜かれたかもしれない。
「何でしょう、ミストレス」
 リヒトは緊張を気取られないよう、用心深く身構えた。
 レスタリスは胸を揺らして微笑んだ。甘い香りが近づいてくる。
「こんなことを申し上げるのは……ぶしつけかと存じますが、殿方を魅了する魔性の瞳をお持ちですのね」
 何種類かの香水を混ぜたような、不思議な香りだった。指輪を嵌めた手が、そろり、と思わせぶりにリヒトの手を撫でる。
「どちらのご出身かしら。闇に瞬く金の瞳。ラメを混ぜたような白い肌……とても綺麗。こわいぐらい美しいわ」
 手が、触れるか触れないかの感覚を保って、リヒトの腕に重ねられる。襟ぐりのゆるやかに開いた胸元が近づく。
「それほどでもありません」
「もし、何かお困りのことがありましたらいつでも……わたくしを頼ってくださいまし」
 小鳩の鳴くような笑いが、レスタリスの喉から漏れる。
「……わたくしがお世話できますことでしたら、なんなりと手配させていただきますわ……お望みのことがあれば、ですが」
 頬がちりちりと熱くなる。リヒトはわずかにうろたえた。
「あいにくですが、その」
 レスタリスは悪びれもせず、ほのかに笑った。
「ええ、分かっていますわ。お連れの殿方はとっても素敵なお方ですものね」
 また、廊下の向こうが騒がしくなりつつある。
「……すてきね」
「いえ、その、お褒めにあずかるほどの大げさなものでは」
「私が申し上げているのは、貴女の瞳のことですわ」
 手を取られ、柔らかく握られる。意表を突かれ、リヒトは眼をみはった。何と答えて良いものか分からない。
「……道ならぬ恋……それでも愛してらっしゃるのね、あの方を」
 ベラドンナを差したような、黒く潤む大きな瞳でひたと見つめられる。添えられた手の感触が生々しかった。指がからみつく。白い蛇が這っているかのようだ。
 身体のどこかが、ぞくりと冷える。
 リヒトは呆然と口ごもった。まだ手を握られている。
「あの……」
「ふふ、ごめんなさいね。からかったりして。どうか、わたくしのことを手癖の悪い女だなどとお思いにならないでくださいませね」
 気恥ずかしげに笑って手を離す。赤いドレスの裾がひるがえる。甘い夜の残り香がたなびいた。
「ご安心くださいませ、お二方のことは堅く口を閉ざして、誰にも口外いたしませんわ。たとえ、セラヴィルの新しい支配者さまであろうとも」
 レスタリスは優雅に会釈して去った。
 リヒトは掌に異物感を覚えて、見下ろした。
 リングが残されていた。二匹の蛇がからまった形の指輪に、小さなルビーがひとつ。血の星のようにきらめいている。
 意図が分からない。
 手燭の明かりが遠ざかる。レスタリスが光の溜まった廊下の角を曲がると、明かりが壁に遮られ、すうと縮んだ。入れ替わりの闇が周囲をひやりと包む。
 リヒトは去ってゆくレスタリスの後ろ姿を黙って見送った。

 翌朝、ロゼルは朝早くに目を覚ました。大あくびし、びっくりするほど長々と背伸びする。
「目が覚めた」
「昨日は騒がしくして悪かったな。あの後、よく眠れたか?」
「いつ寝たか記憶にないぐらい寝た」
 憑き物が落ちたような、すっきりした顔でリヒトを見やる。ロゼルは身を起こした。自分の頬を指でつついて示しながら、もったいをつけて言う。
「ほら、寄こせ」
「何を?」
「昨日約束しただろ?」
「……?」
 朝日が白く差し込んでいる。小鳥のさえずりが聞こえた。渡り鳥が白む空を鳴き交わし、飛んでゆく。リヒトは小さな声で尋ねた。
「何のことだ?」
 ロゼルはじろりとリヒトを睨んだ。
「えー! 忘れたのか。今さら、何を、とは言わせないぞ」
 リヒトは眼をさあらぬ方角へと泳がせた。そう言えば昨夜、事件のどさくさに紛れていろんなことを約束させられたような、させられなかったような──
 奇妙にしんとする。
 そろそろごまかせたかと思って眼を上げると、また眼があった。半ば笑い、半ば凄む目線が見つめている。リヒトはうろたえて再度うつむいた。まったくごまかせていない。
「……今すぐじゃないとだめなのか?」
 横を向いたままたずねる。知らず知らず頬が赤く染まる。ロゼルはからかうように微笑んだ。
「お、ちゃんと覚えてたんだな? えらいぞ」
「確かに思い出しはしたが……」
 リヒトはたじろいだ。
「だったら約束通りにしてもらおう。一回たりとも反故にすることまかり成らぬ。場所はここ。ほれ、ここ」
 ロゼルは横柄にふんぞり返った。首を突き出して頬を指さし、横を向く。さっさとやれ、と言わんばかりの態度だ。
 そのうぬぼれた態度に、リヒトは抵抗をあきらめた。
「分かった。約束は今朝の、この一回だけだからな」
「うん?」
「一回こっきりだぞ。それだけしかしてやらないからな。いいな?」
 何度も何度も念を押す。ロゼルはくつろいだ姿勢になって、気安く請け負った。
「ああ、いいぞ。今日のところはそれで勘弁してやる。俺だって悪魔じゃない。貴様がちゃんと契約を果たしてくれさえすれば余計な文句は言わん。……ん? なんだか不満そうな顔だな。何だ?」
 怪訝そうに畳み掛けられる。リヒトは黙り込んだ。何と言い返せばいいのか分からない。
「別に文句なんか……」
「そんなに不満なら、今日だけじゃなく明日もしていいんだぞ」
「いいのか?」
 思わず顔を上げて尋ねる。ロゼルは驚きと新鮮な喜びに声をあげて笑った。
「そっちかよ!]
「別に無理にさせろとは言っていない」
 あわてて言い直す。ロゼルは笑み崩れた。
「何だよ、遠慮するなよ。したいのは明日だけか? あさっても、しあさっても、その先もぜんぜん構わないぞ?」
「本当にするぞ? いいのか?」
 大盤振る舞いに思えた。困惑して畳み掛ける。ロゼルの真意を確かめたい。
「もちろんだ。貴様が望む限り、好きなだけずっと」
 ロゼルが身を起こして手首を掴んだ。笑い声が近づく。
「あ……」
 引き込まれる。小さな声がもれた。ロゼルが狼のようにニヤリと笑う。藪蛇だ。また下らない遊び心に火を付けてしまった。次第に頬が赤くなって、顔全体から火が出そうになっている。が、それすらこの際どうでもよかった。
 いたずらな微笑みが降りかかる。
「……いや、待てよ。これじゃだめだ」
 出し抜けにロゼルは渋い顔をした。触れるのをやめる。突き落とされたような心地になって、リヒトは顔を上げた。
「何がだめなんだ……?」

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