「俺が急かしてやらせるんじゃ意味がない」
ロゼルはこの上なくにこやかに断言した。
「貴様が自ら望んで申し出たかたちにしなければならない。いやしくも元聖職者たるもの、強引に朝貢関係を迫るなどもってのほかである」
前髪を掻き上げ、うぬぼれた微笑を浮かべる。よもや断られるだなどとは微塵も思っていないのだろう。唯我独尊、いかにも帝国貴族らしい自尊心に満ちあふれた、いつものロゼルだ。
だが、これだけ好き勝手に振り回されると、さすがに少々、癪に障る。
「ああ、そうだな」
リヒトはロゼルを押しのけた。うんざりと言い放つ。
「お前のご高説は聞き飽きた。そこまで言うなら私にも考えがある」
「何だ、考えって」
ロゼルはわずかに身を退いた。
「ロゼル。お前、まさか、私が西も東も分からないぐらいお前に夢中になってると思ってないか」
「違うのか?」
リヒトは答えず、計算高い笑みを浮かべるのみにした。ロゼルは困惑の面持ちで黙り込む。
「まさか途中でやめたから怒った……とか?」
先ほどまでの思い上がった微笑はどこへやら。まるで叱られた子犬のような顔でリヒトを見上げている。
リヒトは心の中でにやりと笑って舌を出した。ざまあみろ。少しは振り回される側の気持ちを思い知れ、だ。勝ち誇った表情を見透かされないよう、仮面の無表情下に隠して、平然とたずねる。
「知りたいか」
「うん」
「じゃ、しばらく眼を瞑ってろ」
「分かった」
ロゼルはしゅんとうなだれ、素直に応じた。眼を閉じる。
「いいか、動くなよ」
リヒトはベッドに片膝を突いた。白い朝日が逆光になってまぶしい。眼をほそめ、しばたたかせる。
手を伸ばして、ロゼルの頬に触れる。
「ん? 何だ?」
「じっとしてろ」
頬に唇を寄せようとする。ロゼルはすかさず身をよじって唇へキスを受けようとした。
伸びかけの髭がちくちくと唇をかすめる。かるく唇を当てるだけのつもりが、ぬらりくらりと逃げられてなかなか思いを遂げられない。
「ちょこまか動くな。キスできない」
「うん? 何ができないだって?」
声に笑いが混じっている。やはり食えない奴だ。しょげた顔をしていたかと思ったらもう元通りに復活しているとは。
「動くなって! くそ、馬鹿、眼を瞑ってろと言っただろう。そんなにじろじろ見るんじゃない」
ロゼルはひょいと顎をそらしてリヒトから逃げた。
「まだか? なあ、まだか? うずうずして我慢できないんだが!」
「逃げてるのはそっちだろう。何にやにやしてるんだ? キスしたくてもお前が動けば動くほどできなく……」
「この状況を一秒でも長く楽しみたいんだよ! おはようのキスだぞ? おはよう! ああ、まさにあこがれのおはよう……!」
「動くな!」
「えっへへへぇぇ何てこった、マジかよ、これから毎朝リヒトがおはようのキスをしてくれるなんて! あひゃひゃ起きるのが楽しみすぎて眠れやしない!」
「うるさい、子どもかお前は。静かにしろ。押し倒すぞ! じたばた逃げ回らずにさっさとキスさせ……ん……」
互いに押し問答しているうちに、うっかり唇を重ねていた。不安定な体勢で長々とキスしすぎたせいで、身体がよろける。
「ぁ……」
ロゼルが笑って抱き止めてくれる。リヒトは眼を閉じた。うっとりと抱かれ、口元がほころぶ。笑みがこぼれる。
「ずっと……こんな朝がくるといいな」
「……うん」
ひやりとする朝の空気に触れて、ロゼルがくしゃみした。赤い顔で鼻をこすりあげる。リヒトはあわてて身をもぎはなした。
「いつまでも裸でいるからだ」
無愛想な顔を取り戻して、ロゼルにシャツを手渡す。
「ほ、ほら、終わったぞ。さっさと着ろ。メイドに聖職者らしからぬみだらな様を見られてもいいのか」
ロゼルはひゅうと口笛を吹いた。
「のぞき見か……ぞくぞくするな!」
「黙れ変質者」
ひとしきりいちゃついたあと、ロゼルは部屋の隅の洗面所へ行き、顔を洗った。手ぐしで鏡を見ながら髪を整える。
「さてと、朝の準備体操も終わったことだし、出かけようか」
「そんなにすぐに?」
「尼院の朝が何時に始まるか考えたことはあるか」
「ないな」
ロゼルは苦笑いして窓の外を見上げた。ライフルを手に掴む。
「朝飯は外で食おう。少なくとも俺が寝た時刻にはもう始まってたはずだ。今頃のこのこ出かけていっても蹴飛ばされるだけだな」
レスタリスに挨拶をしてから出ようと思ったが、あいにく女主人は出かけている、とのことだった。しかたなく挨拶を抜きにして娼館を出る。
朝まだきの花街は、見るからに薄汚かった。あれほどまぶしく、享楽の喜びに満ちていたはずの花園が、今は化粧の剥げたあられもない寝起き姿を晒している。まるで悪い夢から覚めたかのようだ。こぼれた酒や、饐えた残飯の臭いが鼻を突く。
「昨夜の話だが」
一刻でも早く悪臭から遠ざかろうと、足早に花街を通り過ぎる。リヒトは嫌悪に顔をゆがめた。昨日の夜中に起こったことを話す。
「ローロが飛び込んでくる前、妙な足音が部屋の前を歩いていったんだ。気になって後を追ったんだが見失った」
「酔っぱらいがフラフラほっつき歩いてたんじゃないのか?」
「だったら良いんだが」
リヒトは言いよどんだ。廊下に立ちこめていた、奇妙な香りのことが頭から離れない。レスタリスに渡された指輪の意味も。
「しかし、まさか、あんな盗人にまで”奇蹟市場”の噂が広まっているとはな」
苦々しく舌打ちする。
まだ朝早いというのに、朝市はもう、賑わっていた。あちこちに朝食を出す屋台が出て、バター入りの
「それは良いが、ロゼル、いったい尼院なんかに何の用だ?」
「あれ、言ってなかったか? まあくわしい話は飯食ってからにしよう。えーと、確かこの辺だったなあ……おっと、あったあった。そこの店なんだが、旨いの何のって」
「はぁい、お待たせいたしましたぁ~~!」
道の端まで良く通る、鼻に抜けたような甘ったるい声が伝わってくる。雑踏の端に、赤とピンクと白の派手な傘を差した立ち売りの店が見えた。紺色のメイド服にピンクのリボンタイを結んだ少女が愛想良く立ち働いている。
「マーサのミートパイ、特大焼き上がりでえっす!」
たちまち行列が崩れた。明らかに食欲とは別種の、異様な熱気をむんむんと醸し出させた若い男の集団がいっせいに群がってゆく。
「うおおおハンナちゃぁぁぁあん~~!」
「はいはいはい俺三つ!」
「俺四つ!」
「俺五つ!」
「貴様、汚い手で俺のハンナちゅわんに触んじゃねえっ」
「何だと俺が先に注文したんだっ!」
「うっせえ横入りしてくんじゃねえこっちが先だっての死ねボケカス!」
「お黙りガキども!」
背後から、ドスの利いた声が降りかかる。
「うちの可愛い看板娘に迫るんじゃないよ! それから言葉遣いは丁寧に! 食べる前には神様に感謝! 命よ今日もありがとう! 分かったかい! ほら返事は!」
屋台の裏からでっぷりと太ったおばちゃんがすっ飛んで来る。勢いでどすどすと地面が揺れた。
「相変わらずだな」
ロゼルは腕を組み、懐かしげに見やった。
「朝食というのはあれか?」
「うむ」
真面目な顔をしていたはずのロゼルの顔が、でれでれとたるんだ。
「うまいんだ、あれが」
一つ前に並んだ客が、香ばしく焼き上がったミートパイにかぶりついていた。さっくりと焼いたパイ生地に包まれた、とろっとろのあっつあつ、今にもじゅうじゅうと音が聞こえてきそうな肉汁あふれる具が、パイの端からはみ出すぐらいたっぷり詰め込まれている。香辛料の利いた香りが食欲を最大にくすぐった。
「ああ、ついに食える時が来た! 人生至福の時! この瞬間をどれだけ待ったことか!」
「ほんの五分ぐらいだ」
「うるさい。貴様にとってはたったの五分かもしれないが、俺にとっては人生最長の五分だ! ということで特大ミートパイ五つくれっ!」
ロゼルはわくわくと目を輝かせ、元気よく挙手して宣言した。いやが上にも期待がふくらみ、最高潮に達する。
「はぁい、特大五つうけたまわり……」
メイド服の少女がにっこりと復唱する。
屋台の裏から包丁を手に持ったおばちゃんがぬっと顔を突き出した。ぶんぶんと首を激しく横に振る。
「だめよハンナ、売り切れ!」
「えー?」
メイド服の少女は困った顔で眉根を寄せた。指を唇にちょんと押し当て、うーん? と人形みたいな仕草で小首をかしげる。
「でもぉ、特大ミートパイならまだぁ……」
「いいから店じまいだよ!」
おばちゃんはひそひそと叱りつけた。
「その人と関わっちゃいけない」
「ええっ? 何で?」
屋台の向こう側で言い合いをしている。リヒトはひそかに聞き耳を立てた。何やら訳ありのようだ。
「何が何でもだよ!」
「ぇぇぇ、でもぉ……」
「シッ! 声が大きいよ、ハンナ」
だが、リヒトの視線に気付いた途端、おばちゃんはあわてふためいて口をつぐんだ。ぷいと背を向ける。
メイド服の少女は仕方なさそうに出てきて、頭を下げた。
「ごめんなさぁい、今日はぁ、ここで売り切れでぇっす」
「えっ!?」
「すみませぇん、本日の『マーサのお店特大ミートパイ今だ超け特価! ほかほか大安売り! 限定三百個限り!』はおかげさまで完売いたしましたぁっす! お待ちいただいてるみなさまには申し訳ございませんがぁ、本日はこれにて閉店、店じまいでぇっす……」
目の前に、どんっ、と。これ見よがしに馬鹿でかく「売り切れ」と書いた札を置く。
「はあっ!?」
あまりの衝撃にロゼルが声を裏返らせた。
「ちょっ、ひどい……」
「ああん、ホントにごめんなさぁいですぅ、ハンナもこんな悲しいこと言いたくないんですぅ、でも売り切れでぇっす、また明日お願いしまぁっす!」
メイド少女は申し訳なさそうにぺこぺこしている。屋台の奥のおばちゃんはというと、いつの間にかいなくなっている。
ロゼルは失意のあまり、がっくりと肩を落とした。
「せっかく楽しみにしてたのに。ぁぁ、俺のミートパイ……」
「そんなに落ち込むなよ。他の店で買えばいいだろう」
「うん……」
ロゼルはしょんぼりときびすを返した。とぼとぼと歩き出す。そこまでがっかりしなくてもいいだろうに、と半ばあきれつつ、リヒトはロゼルの後を追った。
「売り切れだったんだから仕方がないだろ。ほら、元気出せ。私が買ってやるから」
「うん……」
ロゼルは意気消沈してふらふらと裏路地へ入って行く。
「お、おい、ロゼル……?」
「いいから来い」
ロゼルはふいに声を低め、リヒトの腕を掴んだ。しっ、と唇に指を押し当てる。
背後から誰かが近づいてくる。
リヒトは怪訝に思って振り返った。
「……!」
路地の向こう側に、包丁を手にした黒い影が見えた。どすどすと足音も荒く駆け寄ってくる。
リヒトはすばやくロゼルをかばって前へと回り込んだ。後を追ってきたに違いない。カトラスの柄に手を置く。
「何者だ……?」
包丁を握った黒い影が目の前に迫ってくる。
「大丈夫だ。心配には及ばない」
ロゼルがリヒトの両肩に手を置いた。緊張をほぐす笑い声を交え、ひょいとリヒトを引き戻す。
近づいてきたのはやはり、屋台のおばちゃんだった。腕に紙袋入りのミートパイをほかほかと抱えている。
「ああ、若君」
手を揉みしぼり、地面に這い蹲らんばかりにして平伏しようとする。
「申し訳ございません、人目があるとはいえ恐れ多くも若君を追い返すとは……何とお詫びをしてよいやら!」
「差し支えない。分かっている」
ロゼルはおばちゃんを支え起こして首を振った。
「何事だ?」
屋台のおばちゃんはすすり泣かんばかりの声を上げた。ミートパイ入りの紙袋をロゼルに押しつける。
「どうぞ、ミートパイでございます!」
「……いやそれは有り難いが、この状況で食い物優先はおかしいと思うぞ」
「もしセラヴィルへおいでならば、必ず市場にお立ち寄りくださって、若君がご幼少の頃より大好物であらせられたミートパイをお求めくださるはずだと、そうせぬ限りは決して先にお知らせできようはずもない、と夫が私をしかりつけるように申しますもので、それどころではないと思いつつ、泣く泣く信じて、若君がおいでになるのを、あの場所に店を出してお待ちしていたのでございます」
「待て、いったいどういうことだ」
リヒトは口を差し挟んだ。
「この方はどなただ? お前の知り合いなのか?」
「マーサ・ベイルフォードだ。ずっと母に仕えてくれている。ご主人は母のお気に入りの厨房長で、アルトーニ家のシェフだったんだ。というか若君はやめろ」
ロゼルは口早に説明した。
「もうアルトーニ家のロゼル坊ちゃんじゃないんだから。フラター・ロゼルと呼べと言ってるだろ……それはいいとして、俺に知らせたいこととは何だ」
マーサはすでに半ば泣き崩れている。
「奥様が大変なのでございます」
「何だと。どういうことだ。くわしく聞かせてくれ」
表情をするどくさせて問いただす。
「ああ、私の口からはとうてい申し上げられません。わたくしどもがお訪ねしましても、お目通りすら叶わず、お屋敷にずっと閉じこもられて……何という、おいたわしいことでございましょう……」
マーサは両手で顔を覆った。
ロゼルはろくすっぽ話も聞かず身を翻した。
「すぐ行く。修道院ではなく屋敷のほうだな。分かった。リヒト、行くぞ」
「了解」
「若君、お待ちを!」
マーサが背後から叫ぶのも聞かず走り出す。
「ですから、うかつに近づいては危のうござりまするとソロールからお伝えするよう……あああ、お待ちくださいませ、若君!」
だが、マーサの悲鳴はごった返す喧噪にまぎれ、ロゼルには届かなかった。
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