クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

3 ソロール・アンジェリカ

 足早に郊外へ出る。中心部から離れるにつれ人の往来がなくなり、畝の続く畑に変わり、やがて森になった。
 薄暗い林をくぐり抜けると、まぶしい視界が開けた。見渡す限り、なだらかな草原が広がっている。青草の茂る小川のほとりに、うろこを貼り付けたような屋根の水車小屋が建っていた。粉ひき小屋だ。足元を粉まみれにした老女が座っている。
 傍らに、鉄で作られた鳥かごがぶらさがっている。鳩がうずくまっていた。
 女はロゼルが行き過ぎても無反応だった。顔も上げなければ、会釈ひとつしない。石のように地面を見ている。
 ロゼルとリヒトは足早に老女の前を通り過ぎた。
 水車の回る軋みが、背後から迫ってくる。
 木立の向こう側に、石造りの小城が見えた。こんもりと濃い緑の森を背景にした、古い屋敷だ。
「いったいどこまで行く気なんだ?」
「……目の前に見えてるだろ」
 リヒトは息を呑んだ。美しく刈り込まれた青い生け垣が、幾重にも取り巻いている。思わず、感嘆のためいきがもれた。
「……ホールじゃないか……!」
コテージだよ。皇帝をもてなすこともできん家など城とは呼べん。この辺りにはろくな狩り場もないしな」
 平然ととんでもないことを口にする。
 アルトーニ家は帝国南部の半島に領地シノンを持つ帝国有数の一族である。領地のほか、幾多の荘園、数多の称号を有する。
「元は、避暑用の別荘だったんだ。俺が子どものころ、しょっちゅう遊びに来てた」
 ロゼルは懐かしげに周りを見回した。手入れの行き届いた庭園の隣には、果物の生る果樹園や放牧地が青々と広がっている。緑の草原に点々と白く動くものが見えた。羊の群れだ。
 羽ばたきが頭上を通り過ぎた。鳩だ。弧を描き、方向を定めて飛び去ってゆく。リヒトは空を見上げ、鳩の行方を眼で追いかけた。
「おい、リヒト。どういうことだ、あれは?」
 ふいにロゼルが怒りを交えた声をあげた。棘のあるまなざしを前方へと向ける。
 邸宅へ至る鉄の門を、煤を塗られ漆黒に汚された板と茨の蔓が覆い尽くしている。不治の病に感染した患者を隔離しているかのようだった。
「まさか、監禁されているのか……?」
 冷ややかな怒りのこもったつぶやきをもらす。
 リヒトはロゼルの切羽詰まった面持ちと、煤けた板を打ち付けられた門扉とを見比べた。
「あの屋敷にはいったい誰が……?」
 ロゼルは静まりかえった古い城を見上げた。
「レディ・リピトゥル。神に身を捧げてからはマテル・レイア」
 唇を噛む。
「──俺の、母だ」
「……ああ」
 やはり、そうだったのか。ようやく腑に落ちた。ゆっくりとうなずき、ロゼルと肩を並べて城を見上げる。
 あの扉の向こうにいるのは、ロゼルの母──夫の出世のために離縁され、都から遠く離れた北方の街に暮らすことを余儀なくされた女性だ。
 そう思うと、胸の奥がつんと痛くなった。
 自分の知らないところで、ロゼルがセラヴィルに足しげく通っていたのは、きっと好きな女がいたからに違いない、と。ロゼルの優しさを確かめようともせず、一人で勝手に思い込んで、くよくよしていた。いたたまれない思いがこみ上げる。浅はかな話だ。よりによって、不遇の身にある御母堂に──やきもちをやいていた、なんて。
「ロゼル、早まるなよ」
「分かってる」
 ロゼルの表情が、暗がりにひそむ兵士のようにこわばった。
「いくら俺でも、真正面から突っ込んでいくような馬鹿な真似はしない」
 ロゼルの焦る気持ちは痛いほど分かる。分かるからこそ、無謀な行動だけは差し控えさせなければならない。リヒトはうなずいた。
「確かに、御母堂のことは心配だが、ここはしばらく様子を窺ったほうが」
 ロゼルはふいに肩をそびやかせた。
「様子を窺え、だと?」
 一変したロゼルの口調に、リヒトは驚いた。眼を押し開く。
「は? 今、馬鹿な真似はしないって言ったばかりじゃないか」
「真正面からは行かない、と言ったんだ。田舎の家なんか、生け垣のどこからでも侵入できる。潜り込めるのが分かってて、そんな悠長に構えていられるか。リヒト、貴様、俺と付き合うようになって何年目だ?」
「付き合ってる覚えはないが」
「えーー!? 何だよ、今さら恥ずかしがるなよ可愛い奴だな。素直に言えよ。ずっと好きだったんだろ俺のこと」
 ロゼルはとたんに表情をだらしなくゆるめた。リヒトはうんざりと身をかわした。つっけんどんに言い返す。
「アホづらを晒すな。恥ずかしい。時と場合を弁えろ。御母堂を助けたいんじゃなかったのか?」
「そりゃあそうだが」
 ロゼルはばつの悪そうな顔をして続けた。
「貴様こそ、ガキのころから腐れ縁やってるくせに、未だに俺のことが分かってないとは何事だ!」
「ああ、せっせと嫌がらせばっかりしてくれてたっけな」
「それも貴様を友と見込んでのことだ。獅子は我が子を千尋の谷へ突き落とすというではないか」
「大きなお世話だ。そのせいでこっちは何度死にかけたことか。っていうかそんなこと今はどうでもいいだろう……」
「貴様がつれなかったからだぞ。男が細かいことを気にするな」
 さすがに、かちん、と来た。さんざん下らない軽口を叩いたあげくにこの台詞とは。リヒトは、目を吊り上げてロゼルを睨み付けた。
「な、何だ……?」
 ロゼルがたじろぐ。
「……」
「何だその目。俺、何か言ったか?」
「……」
 なおいっそう腹立たしい。リヒトは冷たい表情を崩さず、横を向いた。
「何で返事しないんだ」
「別に」
「ちょっ……その態度、何だよ」
「……」
 完全に無視を決め込む。ロゼルは狼狽えた。
「あ、あの、俺、何か悪いこと言いましたっけ……?」
 まったく分かっていない。ますますむっとする。
「もういい。お前なんか嫌いだ。知るか。ふん!」
「何ぃ? 俺に対してそんな言い方が許されるとでも思ってるのか?」
「……ロゼルの馬鹿!」
「ええっ、何でそうなる?! っていうか、そもそも何で怒ってるんだ……? ちょ、何、その目、怖いからやめて……あいたっ」
 リヒトは手を伸ばし、ロゼルの耳朶をきりっとつねった。
「いててて、分かったからごめん! ほら、謝ってるだろ、落ち着け……」
「分かってないから怒ってるんだろう! 落ち着けって言われて落ち着けるぐらいなら最初から怒ったりしない!」
「ちょ、貴様、最近怒りっぽいぞ……わわっ、分かった、痛い、だから何!」
 リヒトはもがくロゼルの耳を、唇が届く高さにまで強引に引き寄せた。今にも触れそうな距離からつけつけと険しくささやきかける。
「やっぱりぜんぜん分かってない! お前、さっきから聞いていれば、私のこと、さんざん……!」
「……そこの破廉恥な二人」
 思いも寄らない別人の声が、いきなり降りかかった。
 ぎくりとする。
「人目もはばからずにいちゃいちゃと……高貴なレディの屋敷の御前で、そのような振る舞いをするとは何事ですか」
「な、何だ……?」
 リヒトは身体をこわばらせた。顔を赤くして、ぎごちなく周囲を見回す。
 メイド服を着た少女が、水を汲んだ木の桶を運ぶ足を止めて立ち止まっていた。水色のリボンを胸元に結び、きちんと両手を重ね、礼儀正しく背筋を伸ばしている。
「このお屋敷には、とある高貴なお方がお住まいです。何人たりとも、許可なく立ち入ることは許しません。すみやかにお引き取りください」
 マーサの店で見た少女にそっくりだ。だが、先ほどとはまったく雰囲気が違う。つんと冷ややかな表情だ。
 ロゼルは眉をひそめた。
「貴様、何者だ……?」
「あいにくではございますが」
 少女は、あたたかみのかけらもない眼をロゼルへと向けて言った。
「どこの馬の骨とも知れぬ変質者ごときに名乗る名前など、たとえ侍女の身であろうとも、小指の先のハナクソほども持ち合わせてはおりませんの」

「で……何なんだ、あの小娘は!」
 ロゼルは怒り心頭に発して怒鳴った。頭に大きなたんこぶができている。
 リヒトは木にもたれ、腕を組んだ。苦々しい口ぶりでいさめる。
「子ども相手に大人げない」
「これが怒らずにいられるか! めちゃくちゃに引っかき回されたのはこっちだぞ!」
 ロゼルは八つ当たり気味に傍らの木の葉を片っ端から引きむしっている。むきになるのも仕方がない。大の大人が、謎のメイド一人にしてやられたのである。
「全く、末恐ろしいな。子ども相手と思って甘く見たのが敗因だよ」
 リヒトは苦笑いした。確かにとんでもない娘だ。あの後、何がどうなったのか──肩をすくめて思い返す。
「聖職者ともあろうお方が、公然とみだらで自堕落なふるまいをするなどもってのほか」
 謎のメイドは、そう言って、あからさまに侮蔑の表情を向けたのだった。
 ロゼルは唖然とした。
「何だと。おい、娘。俺を誰だと思ってる……!」
 リヒトはとっさにロゼルの腕を引いた。べらべらと正体を明かされては堪らない。
「滅多なことを言うんじゃない」
 少女は、慇懃無礼な冷笑をロゼルへと突きつける。
「奥様は喪に服しておいでです。どなたさまともお会いになれません。どうぞ、お引き取りくださいませ」
 少女はかたくなに繰り返す。たとえ相手が何者であろうが関係ない、と言わんばかりだ。ロゼルは強引に押し通ろうと一歩前へ踏み出した。
「俺はマテル・レイアに会いに来たんだ。わけのわからん新顔の侍女ごときに邪魔される覚えはない。さっさと取り次いでもらおう」
「さようでございますか」
 少女は身をかがめる。
「引き下がっていただけないのでしたら、こちらにも考えがございます」
 ひしゃくを手に取った。ちゃぷん、と水が跳ねる。
「……何だ?」
「悪霊退散」
 いきなりひしゃくで水をすくって打ち始めた。
「えい。えい。えい!」
「うわ!」
 リヒトは降ってくる水を振り払った。
「お、おい、ロ……じゃない、とにかくこの場は逃げよう!」
「いいいい嫌だぞ俺は。敵に背を見せるは聖職者の恥! ええい、このいまいましい侍女め、主人に泥水をぶっ掛けるとは如何なる了簡……」
「お前の従者じゃないだろう。意地を張るのは止せ!」
 リヒトはロゼルの襟首を引っ掴んだ。
「退却だ、いったん退却!」
「あら、ごめんあそばせ? またのお越しをお待ちしております」
 這々の体で逃げ出す。メイド服の少女は、逃げるロゼルの背中に向かって顔を突き出し、無表情にあかんべーした。

「……さんざんだったな」
 結局、その後、数回に渡って忍び込もうとしたものの──
 侵入を試みる度、猛犬をけしかけられ。
 毛虫でいっぱいの落とし穴に落とされ。
 尖塔のてっぺんから強烈な放水銃でねらい打ちされ……
 どうあっても防衛線を突破できず、仕方なく屋敷が見える林道の木陰に潜んで偵察することにしたのだった。
「くっそ、あの小娘、マジで何様だ! このままでは腹の虫が収まらん! こうなったら何が何でも絶対に侵入してやる。おめおめと逃げ帰ってなるものか」
 ロゼルは憤懣やるかたなく拳を掌に叩きつけた。衝撃で、はらはらと木の葉が舞い落ちる。
「完全に本末転倒だな。御母堂が心配なんじゃなかったのか?」
「ええいうるさい。やると言ったら絶対にやる!」
 憤然とロゼルは吐き捨てる。リヒトはあきれて目をそらした。
「まったく、どっちが子どもだか……」
 そのとき、背後の木が、がさりと音を立てた。
 リヒトは即座に腰を落とした。剣の柄に手を置く。
「追っ手か」
 何者かが近くにひそんでいる。うなじに毛羽立った電流が走った。
 暗がりになった木の陰から、低く押し殺された女の声がした。
「……”神の御名をも恐れぬ異端の狼”」
「誰だ!」
 ロゼルが鋭い声を放つ。
「動くな、”逃亡者ロゼル・デ・アルトーニ”」
 四方を見渡す。明らかに作り物とわかる声が、いんいんと伝わってゆく。
「どこにいる!」
 いったいどこにひそんでいるのか。
 ざわざわと枝が揺れる。木の葉がこすれ、ひしめく。風が、不穏に吹き抜ける。全く敵の気配を察知できない。
「油断したな」
 リヒトは、薄笑いを浮かべた。
「こんなところで下らん油を売ってるからだぞ」
 背筋が緊張でこわばった。ひそかにほぞを噛む。
「ふ、言われなくても分かってる。って、ホントに分かってるんだからもう耳は引っ張るなよ。頼むぞ、マジで」
 ロゼルと二人、背中合わせになり、痛いほど神経をとがらせて四方を窺う。
「お前こそ足を引っ張ってんじゃないぞ」
「うっせえ。こんな、クソろくでもないときでさえ、俺の背を快く貴様に預けてやるんだ。有り難く思えよ」
 平然と強がりを口にする。ロゼルは背中のライフルを下ろした。唇をゆがめる。
「まさか、”教団やつら”か……?」
 舌打ちし、安全装置をはずす。
 硬質な金属音が鳴る。冷や汗がにじんだ。

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