クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

3 ソロール・アンジェリカ

「油断するなよ」
 じりじりと身体をねじろうとしたロゼルの背中に、思い詰めた声が突き刺さった。
「裏切り者は今すぐこの場から立ち去れ!」
 ロゼルが顔色を変える。
「その声は……」
「動くな、”狼”!」
 鋭い声が鞭のように飛んで、風を切り裂く。ロゼルは罰を与えられた幼子のように身をちぢこめた。
「……誤解です」
 青ざめた唇を引き結ぶ。ロゼルは顔を上げた。
「話を聞いてください、姉上」
「弁解など聞きたくありません」
 震えかけた声が精一杯の憎悪を込めて放たれた。
「アルトーニの名を汚し、父上の名を辱め、母上を──苦しみと悲しみのどん底に突き落とした! 反逆者であり異端者であるお前のような人殺しの怪物など、もう姉でも弟でもない。顔も見たくない……その場を動くなと言ったでしょう!」
 弓を引き絞る切羽詰まった音が聞こえた。
「一歩でも動いたら、殺します」
 びん、と弾ける弓弦の音がしたかと思うと、ロゼルの耳元を木の矢がかすめ走った。髪が音を立てて切れる。
「ロゼル……!」
 リヒトは息を呑んだ。ロゼルの頬にかすれた血の跡がひとすじ、滴っている。
「”彼女”の言うとおりにしろ。決して逆らうな」
 ロゼルは避けようともしなかった。険しい表情を真正面に向け、視線を暗がりの一点に釘付けにしたまま、しわぶきひとつたてない。
 再び弓に矢をつがえる音がした。
「今すぐセラヴィルから出て行って」
 ぎりぎりと引き絞られる。脅す声がうわずり、なぜか懇願に近くなった。
「もう、二度と顔を見ずに済むように。罪深い名を聞かずに済むように。わたくしたちの前から消えてちょうだい。そうすれば今だけは見逃してあげる。だから……さっさとどこかへ行って!」
 リヒトは身じろぎした。次は警告では済まないだろう。剣の柄を握る手にひそかな力を込める。
 即座にロゼルが火のような一瞥をくれた。有無を言わさぬ態度で命じる。
「貴様は手を出すな。傷一つ付けることは許さん」
「……分かった」
 言葉が胸に突き刺さる。リヒトはこわばったロゼルの横顔を見つめた。
「……俺の話も聞いてください」
「お前とは口も聞きたくない! いいこと、弓で狙ってるのよ。わたくしの弓の腕は知ってるでしょう。昔おまえを庭の木の前に立たせてリンゴを頭の上にのせて……」
「リスが飛び降りてかっさらっていってくれなかったら、リンゴごと脳みそが破裂するところでしたよ」
「とにかく、そこから一歩でも動いたら、粉々のりんごみたいになるだけじゃすまなくてよ!」
「……姉上」
 ロゼルは遠い過去を振り返る穏やかな眼で虚空を見上げた。なつかしい過去。二度と戻らない日々。
 手にしたライフルを見下ろし、吐息をつく。身をかがめて、地面へと置いた。
「悪い、リヒト。頼む。武装解除してくれ」
 視線を交わさぬまま、押し殺した声で言う。リヒトはうなずいた。ロゼルが置いた白いライフルに重ねるようにして、剣を放り出す。金属の音がした。
「懐のナイフも出せ。全部」
 リヒトはわずかに口元をゆがめた。隠しナイフまで取られたら完全に丸腰だ。しかし、ロゼルの険しい面持ちを見た後では従うしかなかった。アルトーニ枢機卿から賜与された銀の飾りナイフを置く。
「そのナイフ……父上の?」
 美しい装飾と紋章に見覚えがあったのか。木の上から聞こえてくる声がふと、不安を抱いた響きに変わった。
「アルトーニ枢機卿から直接授かったものです」
 リヒトはすかさず言った。
「父上から……?」
 声に希望と疑問が入り交じった。一縷の望みを見いだしたかのような、すがるような響きだった。リヒトは一呼吸置いてロゼルを見つめた。
 今から言おうとしていることは決して嘘などではない。枢機卿は”人”のなれの果てとも言うべき”首”をリヒトに見せ、絶望を教えた。行く手にあるものは決して希望などではない、真実にたどり着くためには心を殺すほかはない。良心の呵責を捨てろと迫った。そうしなければ決して生き抜くことなどできないだろうと言って。
「枢機卿に命じられました。ロゼルに同行せよ、と」
 視線に気付いたロゼルと目を見交わす。ロゼルが心外そうに目を見開いた。いったい何を言い出すのか、と言いたげだ。リヒトは表情を和ませた。微笑み返す。
 たとえ、真実がどこにあろうと──その点においては枢機卿に礼を言わなければならない。”狼”として生きることを余儀なくされたせいで、もう一つの真実を見いだすことができた。何よりも大切なものに気付かされたのだから。
「父上が、そんなことを?」
 がさり、と音がした。
「それは本当なの……?」
 リヒトは声の聞こえてくる方向を探した。たじろくことなく、はっきりと断言する。
「誓います」
「……それでも、犯した罪に変わりはないわ。ロゼルが追われていることも、帝国聖教会に背いたことも。ぜんぶ事実だわ」
 声の主はまだためらっているようだった。ロゼルは声を低く押し殺した。
「濡れ衣です」
「……そんなことは聞かなくても分かってる。わたくしは、本当のことが知りたいの」
 声はなすすべなく震えていた。
 木の上から小柄な姿が飛び降りてくる。かろやかな身のこなしにリヒトは眼を瞠った。黒ずくめの修道服に白いベール。手には小振りな弓。胸に白と黒、二つの月の飾りを下げている。一目でアルトーニ枢機卿の血を引くと分かる。強い意志を秘めた鋼の瞳。帝国図書館で見た知の女神ソフィアナに生き写しだった。息を呑むほど、美しい。
 修道女は、ロゼルとリヒトを見つめ、立ち止まった。手にした弓矢を、爪が食い込んで青白くなるほど固く握りしめている。
「もし、言いたいことがあるなら、今、その場で申し開きしなさい」
「姉上……」
 ロゼルは一歩前へ進み出ようとした。
「近づかないで」
 修道女は声をふるわせ吐き捨てた。すばやく弓に矢をつがえ、構える。
 弓弦をぎりぎりと引きしぼる。今にもすり切れそうな音が聞こえた。震える怒りの矛先、矢の先をロゼルへと向ける。
「お前の口から、本当のことが聞きたいの」
 かろうじて表情を覆い隠していたベールがふるい落とされる。白銀の髪が背中にひるがえった。鋼色の瞳が、絶望と希望の狭間で大きく揺れ動いている。泣いているかのようだった。
 ロゼルは短く息をついた。
「ならば申し上げます」
 固く握りしめていた拳を何度も開き、握ってはまたほどく。
「俺は誰も殺していません。無実です。噂はすべて事実無根。何者かに罠に嵌められただけです」
「……本当に?」
 ロゼルは毅然と顔を上げた。断言する。
「俺を信じてください」
「……神に誓える?」
 わななくような、かぼそい声。ロゼルは一瞬、言葉を失った。
 自らを律する誓いを捨てたとき、聖職者であることも同時に捨てた。教導の道をはずれた背教者の身で神にすがることは許されない。だが、もし、他の何にも代え難い微笑を取り戻すためだとしたら? 愛する人を励まし、力づけてやるためだとしたら……?
「誓います。アルトーニの名にかけて」
 きっと神も、偽善者の嘘を見逃してくれるだろう。
「ああ……ロゼル!」
 修道女が声を詰まらせる。先ほどまで怒りにくるめいていた鋼の眼が、ふいに涙でくもった。胸につかえていたものが押し流されたかのようだった。震える手でつがえていた矢を下ろす。
「本当に……どうしようって……思ったんだから」
 膝が力なく萎え、その場にへたり込む。ロゼルはすばやく駆け寄った。背中に手を回し、支える。
「大丈夫ですか、姉上」
「大丈夫なわけないじゃない、もう……」
 涙の詰まった鼻声を振り絞り、かろうじて返事したのも束の間。修道女は、いきなりロゼルの頬に平手打ちした。盛大な音がぴしゃんと鳴る。
「……ロゼルのばか!」
「痛っ」
「ホントに、もう、ばかじゃないの! どうしてもっと早く、ちゃんと言ってくれなかったの? みんなをこんなに心配させて、困らせて……ホントに……!」
 泣き笑いの涙を振り払う。
 修道女はまばゆい笑みを浮かべた。感極まってロゼルの首に腕を回し、うんと伸びをして赤くなった頬にキスする。ロゼルは苦笑いして、身をかがめた。
「申し訳ありません、姉上」
「ばか! あほ! とうへんぼく!」
 次から次へと悪態を繰り出すその笑顔は、しかし、重くたれ込めた雲間からようやく差し初めた太陽のようだった。

「んもう、まったく。相変わらず考えなしの、無鉄砲の、思いこんだら一直線のおバカなんだからロゼルは」
 修道女は指の背で涙を拭い、照れくさそうな微笑みを浮かべた。こほんと咳払いする。
「街でマーサに話を聞いたでしょう。まさか本気でいきなり突進していくとは思わなかったわ。ハンナが急いで伝えに来てくれなかったら大変なことになるところだった」
「実際、大変な目に遭いました」
 修道女はいたずらっぽく鼻をつまんだ。ころころと鈴を振るように笑う。
「ええ、それはさっきお前に近づいたときにした井戸水と枯れ葉とかめむしの臭いが教えてくれたわ。やっぱりアンナ最強ね。でもお前が悪いのよ。みんなぎりぎりのところで耐えてるっていうのに、お前一人が勝手に突っ走ろうとしたんだから」
「はい……すみません。……くそ、さんざんだな」
 ロゼルは完全に打ちのめされ、うなだれた。やつれきった眼をリヒトへと向ける。
「それはいいとして、さっきから気になってたんだけれど、こちらの勇ましいミストレスはどなたなの?」
「ああ、こいつは……」
 言いかけた途端、修道女は、表情をいきなり険しく変えてロゼルを睨んだ。
「こいつって何? まさかよそさまのお嬢様をこいつ扱い!? さすがにそれは聞き捨てならないわ」
 ロゼルは思わず吹き出した。直後、いきり立った炎のまなざしに気付いてあわてふためく。
「あの、これには少々込み入った理由がありまして、その……」
 しどろもどろに取りつくろうも、鋭い目はごまかしきれない。
「またコレって言う! 口を慎みなさい、けがらわしい!」
 ロゼルは頭を抱えた。
「ああ、もう、完全に誤解されてる気が……ですから違いますって」
「だから何が違うのかはっきりおっしゃい」
 修道女は、勢いを付けて身をひるがえした。きっと眉を吊り上げ、リヒトを睨む。
「”貴女”も”貴女”よ。だめじゃない。もっと自分を大切にしないと。父上に命令されたかどうか知らないけど、どうせ、ロゼルに口八丁手八丁でころっと騙されて、連れてこられたんでしょう。大丈夫、わたくしが修道院にかくまって差し上げますわ、この極悪非道なケダモノが本性を現す前に!」
「ちょっ……ケダモノって……」
「藪蛇だな。私が説明する。どいてろ、ロゼル」
 リヒトは苦笑いしてロゼルを押しやった。修道女の前にゆっくりと歩み出る。
「ご無沙汰をいたしております、ソロール・アンジェリカ」
 あいまいだった記憶の断片がひとつひとつ合わさり、目の前の女性の形となってぴたりと符合する。
 あれは数年前──
「はい? ご無沙汰って?」
 修道女は目を丸くした。喜怒哀楽がめまぐるしく変わる表情。明るい瞳。まるで万華鏡のようだ。とても年上とは思えない。
 ロゼルに無理矢理エスコート要員として連れ出され、エルフェヴァインの劇場で観劇した折。さんざん頬にキスされ、首にかじりつかれ、きゃあきゃあ喚かれひっぱたかれ迫られたあげく、ぐでんぐでんの酔っぱらいと化したレディたちをかろうじて馬車へ押し込んでホテルへと返した──お忍び旅行とは名ばかりの、台風みたいな貴婦人たちの一人、ソロール・アンジェリカ。
「どうしてわたくしの名前をご存じなの?」
「お忘れですか、姉上」
 ロゼルが、苦々しい渋面で言い添える。
「一度、都で会っているはずです。母上と一緒にオペレッタを見に行ったとき」
「んー……?」
 アンジェリカは困ったように小首をかしげた。
「えっと……あのときは確か、ロゼルのお友達の方がエスコートしてくださったのよね。うん、彼なら覚えてるわ。リヒト君だったかしら。素敵よね。優しくて紳士的で物腰が柔らかくて、ホントお母様も絶賛なさってたわ。全っっ然、気が利かないどこかのでくのぼうとは違って」
 褒めちぎった舌の根も乾かないうちに、掌返しで皮肉の矢を雨あられと浴びせかける。
「あら? そう言えば彼にそっくりね……ということはもしかして……!」
 アンジェリカは疑わしげにじろりとロゼルを睨んだ。
「彼の妹さんってこと? まさかロゼル、彼を見殺しにしたあげく、妹さんを人質にしてここまで逃げてきたんじゃないでしょうね! まあ、何てことなの! 信じられないわこの人間のくず! 変態! ばかばかばかっ!」
 導火線みたいだった。ちょっとつつくだけであっという間に発火する。アンジェリカは怒りを爆発させた。手にした弓を棒きれのように振り回してロゼルを追い立てる。ロゼルは子どものように頭をかばって逃げまどった。
「ちょっ……違います! というかなぜ変態あつか……痛っ、リヒト頼む代わりに説明……いっ!」
 リヒトは咳払いした。ちらりと横目にロゼルを見やる。
「普段の素行があまりにも悪すぎるから、すぐにそうやってあらぬ疑いを掛けられるんだろうが」
 冷たく突き放しはしたものの、さすがに哀れだ。見かねて助け船を出す。
「誤解です、ソロール」
 アンジェリカの前に、すっと膝をつく。アンジェリカは口を開け、眼をぱちくりとさせた。裏表のまるでない表情に、つい笑い出しそうになる。リヒトはあわてて失礼な反応を噛み殺した。
「誤解って、何が?」

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