クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

4 悪意との再会

 狭い鎧戸の隙間の窓から見下ろしているせいで、全員の姿は見えなかった。修道院前の門扉周辺が不穏にざわついている。パーレ聖堂所属の衛士の姿が数名。その他にも聖職者らしき法衣をまとった姿が幾人か見受けられた。
「これはいったい、何の騒ぎですの?」
 つかつかと歩み出て行ったアンジェリカの声が凛と響く。
 馬車から白の聖衣を着た男が降りてきた。尊大な態度で周囲を見渡し、アンジェリカに目を留める。
「これはこれは、親愛なるソロール。ごきげんうるわしゅう」
 ロゼルが舌打ちした。
「……くそ、あいつか」
 うすい唇。酷薄な表情。嘲笑を帯びた青灰色の瞳。門扉の上部に這わせた薔薇の花を勝手に折っている。
 リヒトは声を忍ばせて尋ねた。
「知ってる顔か?」
「参事官のネロだ」
 ロゼルは振り向かずに答えた。
「トルツィオーネの腰巾着だ。あいつ、パーレでアルフレッドと話し合っていたんじゃないのか? 本人よりも早く着くとはどういうことだ。まさかわざわざ先回りしてきたんじゃ」
「……お会いできて光栄です、フラター・ネロ」
 さすがに驚いたのか、応対に出たアンジェリカもあわてている。まさか来訪者が参事官だとは思いもよらなかったに違いない。
「良い香りだ。以前に増してお美しいな」
 参事官のネロはじろじろとアンジェリカの全身を眺め回しながらぶしつけに言った。アンジェリカは事も無げに視線を跳ね返した。
「お褒め頂きまして恐縮ですわ。街の者たちが毎日、労働奉仕に来てくれますの。皆で力を合わせ、丹誠込めて作った薔薇園ですもの、恐れ多くも参事官に褒めて頂いたと聞けば、さぞや喜ぶことでしょうね」
「修道院の薔薇水がどれほど珍重されているかはよく聞き知っている。遠くエルフェヴァインにまで運ばれているとか。もちろん薔薇も美しいが、私が申し上げたいのは……」
「いくら美しくても、花の時期が過ぎれば無駄に立ち枯れてしまいますわ。アルフレッドはもう半年も待たされています」
 アンジェリカは毅然と口を差し挟む。ネロは鼻持ちならない態度で笑った。先ほど勝手にナイフで切り落とした薔薇の枝を、気取った奇術師のようにアンジェリカへと手渡そうとする。
「もちろん分かっているとも。私も常々、貴女を喜ばせたいと思っているのだからな。貴女も私と同じ気持ちでいてくれると嬉しいのだが」
「クソ、近づくなヘビ野郎」
 ロゼルが舌打ちする。憤慨のあまり今にも窓枠を粉砕しそうだ。
「あの野郎。姉上にべたべたと気持ち悪い色目を使いやがって。それでも聖職者か」
「大声を出すな。聞こえるぞ」
「うるさい。もう勘弁ならん! 何が”同じ気持ち”だ、こんちくしょう、ぶっ飛ばす!」
「馬鹿、ホントに静かにしろ!」
 リヒトはロゼルに飛びかかって口を手でふさいだ。ロゼルがじたばたともがく。
「天誅だ、天誅……!」
「それにしても、かぐわしい。私もいずれ、薔薇の青きつぼみを手折る栄誉に浴したいものだ」
 ネロは獲物を見つめる蛇のように眼をほそめた。花の先でアンジェリカの頬を馴れ馴れしく撫で上げ、背後に回り込んで、肩を抱こうとしながらヴェールのフード越しに髪の香りを嗅ぐ。アンジェリカはさりげなく身を退いた。微笑みを絶やさず、答える。
「あら、まあ、ありがとうございます」
 ネロの手から花を受け取る振りをして、わざと棘の部分にちくりとひっかける。ネロは顔をわずかにゆがめた。
 アンジェリカは素知らぬ顔で平然と微笑んだ。
「薔薇は病害虫に弱い植物ですの。ですから、薔薇園に入る前に、必ず消毒薬を浴びて頂くことになっているんです。少々目に染みますけれど。それでもよろしければ、薔薇園をご案内いたしますわ」
「結構だ」
 ネロは突き刺さった棘の痛みをさすりながら、憮然と顔をそむけた。灰まみれの無様な有様で歩き回る気にはさすがになれないらしかった。
「それには及ばない。期待に添える形になるよう、ともに神へ祈ろう」
「へっへーんだ! エロ参事、ざまあねえなあ!?」
 ロゼルが憎々しげに浮かれて手を叩いた。はやし立てる。リヒトはうんざりと額に手を当てた。
「子どもか、お前は。口を慎め。まったく、帝国貴族ともあろう男が……」
 棚の上の黒猫が、さも同意、と言いたげに野太いだみ声でぶみゃあと鳴いた。
「ところで」
 アンジェリカの用心深い声にリヒトは現実に返った。注意を引き戻される。
「そちらのお方はどなた? 随分慎み深い装いをなさっておられますのね」
「エルフェヴァインから来た助任主祭だ。ソロールにご挨拶をしたいと申しているので連れてきた。助祭には、重要、かつ、困難な仕事を担当してもらうことになっている」
「重要なお仕事……とは?」
 アンジェリカは、困惑の表情を浮かべて首をかしげる。
 ロゼルはぎくりとして声を飲み込んだ。
「エルフェヴァインからだと。まさか、異端審問官か」
 疑わしげにリヒトと目を見交わす。
 参事官のネロが身を片側へ寄せる。飾り気のない黒い法衣に身を包み、フードを深くかぶった男が前へ進み出た。
 男はうやうやしく身をかがめた。アンジェリカが差し伸べた手に唇を押し当てる。
「お会いできて光栄です、ソロール・アンジェリカ。ご高名はかねがねうかがっています」
 フードの下の眼が底知れぬ色に光っている。
「今の声……」
 リヒトは背筋がぞくりと冷えるのを感じた。
 フードに隠れ、男の顔は見えない。だが、その声には確かに聞き覚えがあった。嘲笑の混じったような、人を小馬鹿にしたような声。
「まさか、いや、そんなはずは……」
 ロゼルの表情がこわばる。
 アンジェリカは、相手が誰なのかまったく知らない様子だった。にこにこと表裏のない、完璧な微笑みをうかべて歓迎の意を表す。
「まあ、とんでもない。それより、よくいらっしゃいました。ようこそ、リピトゥル女子修道院へ。でも華やかなエルフェヴァインからこんな片田舎においでだなんて、いったいどんなご用命かしら」
 嫌な汗が首筋をつたう。どうか思い過ごしであってくれれば。そう願う思いもむなしく、背後から暗い影がみるみる追いすがって来るかのような寒気にかられる。
「フラター・ネロのご指導のもと、祈りと教導の日々を過ごすとともに、セラヴィルの信仰篤き人々のため全力で街の浄化につとめる所存でおります。以後お見知りおきを」
 助祭は、書き付けを読み上げるような白々しい口上とともに、黒いかぶりものを背中に払い落とした。隠されて見えなかった顔が、ようやく白日の下にさらされる。男は微笑んでいた。だが、作り物の笑みであることは一目で分かった。
「セラヴィルのために……?」
 ソロール・アンジェリカの顔から表情が消えた。息を呑み、愕然と男を見つめている。
「どういうことですの、フラター・ネロ……?」
「ネロの野郎」
 ロゼルは窓の枠をぐっと握りしめた。男の顔を見据えながら、低く吐き捨てる。引き結んだ唇が色を失っていた。
「とんでもない奴を連れて来やがった……!」
 アンジェリカを見つめるネロの目が、暗くつめたくなった。
「セラヴィルは治安維持のためしばらくの間、戒厳状態とし、異端審問官の管理下に置かれることとなった」
 アンジェリカは声にならない息を呑んだ。ネロが無表情に話の続きを引き取る。
「なお、異端審問にはギウロス助祭があたる。これは大主教の決定である。以上、通達。よろしいな、ソロール・アンジェリカ」
 ロゼルが呻き声を上げた。リヒトもまた、声を失う。
 見間違いではなかった。助任主祭を名乗った若い聖職者の顔。それは、二度と会うはずもないと思っていた男。死んだモルフォス主教の甥、ギウロスだった。

 ギウロスと参事官のネロを乗せた馬車が去ってゆく。方角からして、おそらく丘の主教館へ向かうのだろう。仮の主であるアルフレッド・カートスが不在と分かっていて、その主よりも先に館を訪れる理由は一つしかない。
 ロゼルは荒々しい息を吐いた。表情が硬い。
「行くぞ」
「どこへ」
「ここにいてはならん」
 その顔は今まで見たこともないほど険しかった。
「ギウロスがセラヴィルにまで来たとなると、事は一刻を争う。俺を匿うだけで姉上が異端の罪に問われることになる。間違いない、駅馬車で同乗した連中のうちの誰かに密告されたんだ。確かめてやる。まずはローロだ。あいつが一番あやしい。あの男に違いない。探し出してぶち殺してやる」
「ローロは南国人だ。私たちの秘密を知っているわけがない」
 リヒトは暗鬱な声でロゼルを押しとどめた。
「我々が逃亡者だと知っている者はセラヴィルには誰もいないはずだ」
「俺もそう信じていた。だが現実は違った。あるまじき出来事だ。誰も知らないなら、なぜギウロスがセラヴィルにいる。それも、こんなに早く」
 ロゼルは苛立たしげに舌打ちした。拳で壁を殴りつける。衝撃で漆喰が剥がれて粉のように落ちた。
「参事のネロも、アルフレッドも、俺を知っている。おそらくネロは、俺がエルフェヴァインで罪を犯し逃亡中だとギウロスから聞かされて、わざとアルフレッドをパーレに引きとめ、時間稼ぎをして先回りしたに違いない。二人がかりで俺の罪状をあげつらって姉上を脅す気なんだ。あの野郎、よくも姉上の回りを嗅ぎ回るような真似を……!」
 言い置きざまに部屋を出て行こうとする。リヒトはその前に立ちふさがった。
 ぶつかりそうになってもロゼルは止まらない。手で振り払われそうになる。
「どけ」
「まずはその沸騰した頭を冷やせ。お前が暴走しても全員が迷惑するだけだ。我々が追われる身であることを忘れたのか」
「放せ。これは俺の問題だ。貴様に指図される覚えはない」
 ぞっとする声音。息の根が止まりそうだった。
「行くな」
 リヒトはロゼルの手首をすばやくつかんだ。低く殺した声で押しとどめる。ロゼルは食いしばった歯の間からうなり声を押し出した。
「手を放せ、リヒト。邪魔をしたらただでは済まさん」
「そんな戯言を私が本気にすると思っているのか」
 リヒトは金色にゆらめく瞳でロゼルを冷たく見据えた。ロゼルは獰猛な犬のように唇をゆがめた。
「姉上に罪が着せられるのを、指をくわえて黙って見てろとでも」
「誰もそんなことは言っていない。何のためにセラヴィルに来たか、その理由を思い出せと言っているんだ。見境ない行動で、何もかもが無駄になってもいいのか」
 抗うロゼルの腕に、凄まじい反発の力がこもった。鋭い目に警告の光がぎらつく。
「離せ」
 ぎりぎりと押し返される。骨の軋む音がした。恐ろしい力だ。腕がへし折れそうだ。リヒトは骨のゆがみそうな痛みを、おくびにも出さずに耐えた。平然と、冷ややかな声を保つ。
「私たちは、真実を探りに来たんだ。罪に怯えて逃げ出してきたわけじゃない。私に永久の忠誠を誓わせておきながら、そのお前が、自分の為すべき事を忘れてどうする」
 自分でも驚くほど、饒舌な言葉が滑り出た。
 思いもよらないギウロスの出現に動揺しているのは自分も同じだ。どこで、何が、どう繋がっているのか。本当の敵は誰なのか。
 矢も楯もたまらず突っ走ってしまいたい気持ちはよく分かる。
 だが、先が見えない今は息を潜め、冷静に周囲の状況を見極めてゆくしかない。一歩ずつ進むしかないのだ。足元に道があるかどうかさえ分からない今は、なおさら慎重に、用心に用心を重ねて。
 ロゼルは押し殺した声で低く言った。
「俺たちと、姉上とは違う。俺は人の道を捨てた。誰に狙われようが、無法者におちぶれようが構わない。だが、姉上は修道女だ。神に仕え、母上を守るために、この街とともに生きる覚悟をしたんだ。逃げられないんだ。もし、俺のせいで姉上が異端の罪に問われるようなことになったら」
 青い瞳が凄絶な光を放つ。
「俺は、一生、自分自身を憎み、呪い続けるだろう」
 リヒトは胸元に手をやった。
 指に鎖を引っかけ、”狼”の免罪符を引き出す。アルトーニ枢機卿によって与えられた、”異端殺し”の許可。
「これを見ろ」
 白と黒にきらめく牙のペンダント。ロゼルは眼を獰猛にすがめた。
「何のつもりだ……?」

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