クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

4 悪意との再会

「ロゼル、何やってるの」
 険のあるアンジェリカの声が響いた。腰に手を当て、肩をそびやかせて睨んでいる。ロゼルはぎくりとしてリヒトから身を放した。
「うっ!?」
「外にまで声が聞こえたわよ。恥ずかしいと思わないの!?」
「いや、その、これには訳が……」
 顔を赤くして言い訳する。
「さすがに鍵を掛けさせたのはやりすぎかと思ったけど、お前には丁度良かったのかもね」
 アンジェリカは苦々しく舌打ちした。日の差さない薄暗がりの中で、銀の髪だけがまっすぐな刃のように輝いている。
「あっち行けだの、死ねだの、友達同士でそんな罵り合いなんてするもんじゃないわ。いい加減になさい。鍵を開けっ放しにしておいたら、それこそ柵をぶっ壊す闘牛みたいに一直線にすっとんで行ってたんでしょう」
「は……?」
 運が良いことにどうやら肝心なところで聞き違えてくれたらしい。
「そんな物騒なことしたら、次から首輪付けるわよ。ねーリヒト君?」
 アンジェリカは表情をようやくやわらげ、リヒトにだけ微笑みかけた。
 何が可笑しいのか、リヒトは肩を震わせてくすくすと笑った。そっぽを向いている。ロゼルは鼻に剣呑な皺を寄せた。
「笑うな」
「罵り合いはよくないな」
「黙れ、姉上の威を借るとは卑怯だぞ」
「卑怯はお前だ、ロゼル」
「ぐうう!」
「そんなことより、ロゼル、出かけるわ。ついていらっしゃい。今すぐよ」
 アンジェリカがぴしゃりと促す。ロゼルはあわてて居住まいを正した。聞き直す。
「お伴いたします。しかし、どこへ」
「アルフレッドを迎えに軍道の駅へ行くの。彼が何の前知識もないまま主教館に行ってしまわないように。あの二人があるじのいない主教館で我が物顔に振る舞っていることを、今すぐアルフレッドに告げなければならない」
 冷静と強気を装った、はっきりとした声。だが、語尾がかすかに震えていた。ロゼルは迷子の子どもを見つけたような心地になって立ちつくした。声を噛み殺す。
 リヒトが肘で背中を突いた。
 ロゼルは息をついた。自分を取り戻す。自分がうろたえていては、アンジェリカを支えることもできない。
 アンジェリカの背後に目を走らせる。すこし離れたところに、メイド姿のハンナが立っていた。じっと見つめる。
 見つめられたハンナは最初きょとんとしたあと、困ったような顔をして小首をかしげた。考え込んでいる。さらに視線が追いかけてくることに気付くと、今度はポッ♪ と頬をあからめた。
 違う、と思わず怒鳴りそうになるのを噛み殺す。リヒトがまた鼻の先で笑った。ロゼルはリヒトの横顔を睨み付けた。ひそひそと怒鳴る。
「……他人事だと思ってこの野郎……!」
 背後でリヒトがカップを片手にお茶を飲む振りをした。目線をアンジェリカへと向ける。
 ハンナはようやく目配せの意図に気付いて、ああ、と眼をまるくした。
「ソロール、その前に、暖かい紅茶をお持ちしますです」
「ありがとう。でもお茶をのんびりたしなんでる時間はないの。すぐに駅に行かなくちゃ」
「あの、いえ、すぐにお持ちしますから。すぐです、すぐ。待っててください」
 ハンナはぎごちなく笑ってアンジェリカを押し戻した。視線でロゼルに援護を求める。ロゼルは重々しくうなずいた。
「確か、アルフレッドが帰ってくるのは夜と聞きました。まだ少し時間があります。闇雲に動くより、いったん落ち着いて、計画を練ってから行動を開始すべきかと思います」
「私も同感です」
 リヒトもすかさず口添えする。
「でも……」
 アンジェリカは不平そうに唇を尖らせたが、誰も同意してくれないと気付くとしぶしぶうなずいた。
「リヒト君までそう言うんじゃ仕方ないわね。じゃ、ハンナ、お願い。ついでに下へ行って、マーサに貸し馬車をつかまえて来てくれるよう頼んでくれない?」
「はあい、わっかりましたぁ!」
 ハンナがさっと姿を消す。アンジェリカは子鹿のようなメイドの後ろ姿を見送った。気むずかしい表情で指の背を噛む。
「とにかく今後どうしたらいいかを考えなくちゃ。街の顔役の誰かに相談してみるというのはどうかしら……」
「なりません、姉上」
 ハンナが出て行くのを待って、ロゼルは意見を言った。
「ギウロスがネロと結託していると知れた以上、街の者を巻き込むのは危険です」
 アンジェリカは不安そうに眼を押し開いた。結んだ拳を唇に押し当てる。
「どうしてその名前を? あの助任主祭を知っているの?」
「死んだモルフォス主教の甥です」
 それを聞いたアンジェリカは、愕然と息を呑んだ。
「もしかして、わたくしたちのことを疑っている……?」
 声が震えている。ロゼルはすぐに答えるのをためらった。
 階段の横に暖かな日だまりがあった。赤いビロード張りの長いすが置いてある。いつの間に先回りしたのか、黒猫がけだるい姿勢で寝そべっていた。
 ロゼルはアンジェリカを、日の当たる明るい窓辺へと連れていった。猫は背伸びをして身震いすると、どこかへ立ち去った。
 長いすに腰掛けさせる。
「ありがとう」
 アンジェリカの視線が心許なげに床を這った。顔色が悪い。受けた衝撃の大きさを物語るにあまりある顔色だった。
 すがりつく手つきで、胸に下げた月の飾りを握りしめている。
「ロゼル、これを、ソロールに」
 リヒトが他の部屋から柔らかな毛糸のケープを持ってくる。
「すまない」
 ロゼルは短く礼を言って受け取った。震えるアンジェリカの肩にかける。
 ハンナが湯気の立つポットを乗せたワゴンを押して戻ってきた。
「ありがとう。はちみつもお願いね、ハンナ」
 白いポットに砕いた薔薇の実を入れ、花びらを浮かせる。アンジェリカは弱々しく微笑んだ。
「おいしそう。良い香り」
 ハンナは銀の盆を胸に抱え、お辞儀をして下がっていった。
「まずは、いただきましょ」
 アンジェリカは口元をほころばせた。赤いはちみつをたっぷりと入れる。
「リヒト君におごちそうするのは初めてよね? これはね、薔薇園でとれたはちみつなの。毎年、父上を通じて聖下にも献上させていただいてるの。ことのほかお喜び頂いてて、何度もお褒めの言葉を……」
 アンジェリカは黙りこくった。紅茶に浮かべた花びらを無言で見つめている。
 ロゼルは、気がかりな視線をアンジェリカの手元へと落とした。カップを握りしめた手が小刻みに震えている。
 紅茶の水面が揺れて、波紋が広がる。
 記憶のさざ波が揺れ動く。
 ──ロゼルにとって、アンジェリカは、いつだって”アンジェリカ”だった。
 いつも頑張っていて、いつも笑っていて、いつも負けん気が強くて。人前では泣き顔など見せたこともない。
 セラヴィルで過ごした幼少の頃、いつだって泣かされるのはロゼルの方だった。
 おやつを取られては泣いた。棒で追い回されては泣いた。弓の練習台にされては泣いた。
 ロゼルがよその子と喧嘩したと聞きつけては相手をぶん殴りに行き、その凶暴さが逆に怖くて、いじめっ子と一緒に謝りながら泣いた。
 アンジェリカと一緒に森で迷子になったときも──そうだった。
 あれはいつだっただろう……アルトーニ枢機卿がまだ帝国軍の将軍職にあったころだ。父は周辺国の掃討作戦にかかり切りで、何ヶ月も出征しては家を空けることもしばしばだった。
 今もおぼろげに覚えている。
 薄暗い森の中を、二人っきりでさまよった。
 ロゼルだけがわんわん泣いて。
 アンジェリカは、泣きもせずに、歯を食いしばって、帰り道を探していた。
(うぇぇぇん怖いよう……暗いよう……あねうえぇぇぇ……)
(泣くんじゃありません。北方面軍司令官アルトーニ将軍の嫡子ともあろうものが! おまえもいずれは父上と肩を並べるような、帝国を背負う大将軍になるんでしょ? しっかりなさいな!)
(うえぇぇぇぇん……ぼく……やだよ……暗いの怖いよ……せんそうこわいよ……はんらんぐん怖いよ……ひっく……!)
(お姉ちゃんは怖くありません! お前もお父様を見習いなさい! ずっと異教徒どもと戦っていらっしゃるのよ? 帝国に徒なす蛮族の民と!)
(そんなの怖いよ……ふげっ! 痛いよう、足ひっかいた! ああん、あねうえ痛いよう……!)
(泣かないの! みっともない!)
 年齢だって、一つしか違わないのに。しっかり者の姉らしく、小さな手どうしを痛いぐらい強く繋いで。『男の子がめそめそ泣くんじゃありません!』と怒って、それからポケットに入っていたビスケットを二つに割って、分けてくれた。
 やっと帰り道を見つけたときも、『ほうら、ごらんなさいな! お姉ちゃんの言ったとおりでしょ! ばーかばーかロゼルのばーか! 帰り道も分からないなんて!』などと勝ち誇られて、また泣かされた。
 姉が泣いた顔など、一度も見たことがなかった。

 ──”あの日”が来るまでは。

 やがてアンジェリカは微笑んで顔を上げた。
「ほら、せっかくハンナが淹れてくれたんだから。冷めないうちにいただきましょ? 飲んで飲んで。今はくよくよしたって仕方ないわ」
 くるくるとスプーンでお茶をまぜ、ほがらかに声を立てて笑う。
 声に回想を破られる。もう、先ほどの繊細で気弱な面影はどこにもない。ことのほか気丈に振る舞って、辛いことなどとっくの昔に忘れてしまったかのようだ。
 ロゼルは、用心深くアンジェリカの横顔を見やった。口元は笑っているが、眼はまったく笑っていない。
 誰にも言えない孤独のかげりが、影となって足元に落ちている。
 帝国図書館で襲われたことと、一連の異端審問官襲撃事件は、リヒトが言ったとおり間違いなく繋がっている。フラター・カートスの不名誉な死は、アルトーニ枢機卿の手によって完全に抹殺され、隠蔽されたはずだった。だが、カートスの死を、”教団”の目指す恐怖の象徴として、世の明るみに出させたい者がいる。
「姉上」
 存在するはずのない”手紙”は、禁忌の国ロレイアから差し出された血まみれの招待状だ。
 姉だけは、絶対にこの事件に巻き込むわけにはいかない。
 ロゼルは心を決めた。押し殺した声で続ける。
「ギウロスのことですが、お耳に入れてもかまいませんか」

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