クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

4 悪意との再会

「いいわよ、話してちょうだい」
 アンジェリカはカップを握りしめた。
「腹をくくれって言うんでしょ。何だって平気よ」
 震えるまつげを伏せたまま答える。
 ロゼルはためらった。
 余計な真実を教えれば、ただでさえ怯えている姉を、さらなる不安へ陥れるようなことになりはしないだろうか。
 このまま、姉に何も告げずにいられたらいいのに。大丈夫です、俺に任せてください、すぐに解決できると思います──そう言うことができたらどんなにか。
 だが、避けることはできなかった。心許ない視線をリヒトへと走らせる。リヒトは短く、だがしっかりとうなずいた。黒い瞳が雄弁に物語っている。
 下手に事実を隠蔽すると、今はごまかせても、いずれもっと危機的な状況にさらしてしまうことになりかねない、と。
 目配せを交わし合う。
「奴は俺たちを憎んでいます。どこでかぎつけたのか知りませんが、セラヴィルに母上や姉上がいらっしゃることを調べ出して、悪意を持って近づいてきたのかもしれません。俺に復讐し、父上に復讐し、アルトーニ一族へ復讐するために」
 ロゼルは真意を悟られないよう、慎重に言葉を選んだ。
 ギウロスを起用したのは、もしかしたら当のアルトーニ枢機卿自身かもしれない。ロゼルを執拗に追う”狼”役としてなら、ギウロスは誰よりもうってつけだ。
 父を仮想敵と見なす──想像するだけでぞくりと肝が冷える。だが、もう、覚悟は決めた。自分は罪人だ。父に追われる身だ。油断すれば寝首を掻かれる。庇護も慈愛も期待してはならない。相手はギウロスではない、”アルトーニ枢機卿”だ。信じれば裏切られる。
 自分自身を、そしてリヒトを守るためには、決して感情に走ることなく、冷徹に状況判断していくほかなかった。アルトーニ枢機卿ならば、それが息子の粛清を命じる書類であっても、ためらいを見せることなく平然とサインするだろう。かつて、妻や娘を切り捨てたように、今もまた。
 胸がかすかに痛む。生きることは不公平だ。死は皆に平等に訪れるというのに。
「奴だけならばまだ対処できると思いますが、ネロがどのように動いてくるのかが問題です」
「どちらかがセラヴィルの都市伯の座を狙っている、ということ?」
「あるいは主教の座も同時に」
「でも、そんなこと、トルツィオーネ座下がお許しになるかしら」
 鋼色の瞳が思案の光を放つ。
「セラヴィルの主教になるには、女子修道院の院長である母上の推挙が必要だし……セラヴィル都市伯にいたっては代々、カートス家がつとめているのよ。この街が森と山と岩場だらけの荒れ地だったころから。誰も、アルフレッドから、いいえ、カートス一族からセラヴィルの領地を奪うことなんてできない」
「法に基づいたうえでは、確かに。ですが姑息な手段によって称号を剥奪しようとする可能性も、ないとは言い切れません」
「アルフレッドは法を犯すような人じゃないわ。それに、アルフレッドを裏切ろうとする者なんて、セラヴィルには一人も……」
「誰も信じてはならない、とおっしゃったのは姉上です」
 ロゼルは唇を湿した。
 もしだれかが、アルフレッドから伯位を奪うためだけに、犯してもいない罪を捏造しようとしたら。
 もしだれかが、自らの保身のためだけに、喜々として偽証台に立ったとしたら。
 裁定を下すのは正義ではない。異端審問官のギウロス本人だ。
「……そうだったわね」
 アンジェリカは青ざめた片笑みを浮かべてうなずいた。
「忘れないようにする。ありがとう。他人を信じないことが美徳になる時が来るなんて思ってもみなかった」
「それともうひとつ」
 ロゼルは当たり障りのない表情を取りつくろった。
 ポケットから折りたたんだ血まみれの手紙を取り出す。
「我々は帝国図書館で犯行当時に書かれていたとおぼしき、フラター・カートスの手紙を発見しました。血で半分以上消えていますが……できれば筆跡を確認して頂きたい。これを記録簿に挟んだのは、姉上と母上ですね」
「知らないわ。何のこと?」
 赤茶けた色に怯えた表情を浮かべる。アンジェリカは身を退いた。首を横に振る。
「我々をセラヴィルへ導くための手がかりとして挟み込んだのではないのですか?」
 続けて聞くとアンジェリカは眼を瞠った。
「フラター・カートスの手紙が残ってたってこと? 残念だけどそれはあり得ないわ。事件に関する証拠や手紙は全部、父上が燃やしたはずよ。お前も手伝ったでしょう」
「しかしラルフが……俺たちが帝国図書館で会った少年が、姉上と母上を地下の閲覧室で見たと」
「ええ、図書館には確かに行ったわ。でも、フラター・カートス事件の調書なんて見てない。見たのはシド・ベルネイブスの記録よ」
「は? 異端審問記録?」
 ロゼルは頓狂な声を上げた。
「何でまたそんな酔狂な真似を」
「何言ってるの。全部、お前のせいよ」
 アンジェリカは、むっとした顔で頬を膨らませた。
 結局のところ、カケスにつつき回される哀れな毛虫みたいに扱われても文句ひとつ言えないのは、何か言うたび、そんな顔をされるせいなのだ。笑ったり、ふくれっ面したり、罵倒されたり。忙しく変わる表情の温度変化についていくだけでも精一杯だというのに、うかうかと余計な口を挟もうものなら百倍になって返ってくる。藪蛇以外の何ものでもない。
「お前、いつもいつも”伝説の異端審問官ベルネイブス”の話をしてくれてたじゃない。なのに、いつも必ずいいところで尻切れトンボになってしまうものだから、もしかしたら実は本当のオチを知らないんじゃないかって話になって……じゃあ、この際だから見に行ってみようってことになったのよ」
「相変わらず無駄に行動力だけは……で、それはいつの話です」 
「フラター・カートスがご存命の時。以前から何度も図書館に通っていらっしゃるってお話だったから、連れて行ってくださらないかどうかお願いしてみたの。そうしたらびっくり、やっぱり最後の部分だけがないの。カートスも悔しがってたわ。メゾネアに彼の万有知の書パンソフィアが聖遺物として残されている、もしかしたら欠けてる部分の写しがあるかも、なんておっしゃって。……結局、その後、あんな事件が起きて、見に行けなくなったけれど」
 アンジェリカは声を沈ませた。
「……だから、この事件とわたくしたちとは何の関係もないと思う」
「何て事だ。道理でいくらベルネイブスの資料を探しても見つからなかったはずだ」
 リヒトが腑に落ちた顔でうなずいた。
「ラルフの奴が知らずに持ち出してたに違いない。あいつ、聖刻文字が読めないから、自分が何を持ち出してるか分かってなかったんだ」
「とすると、間違いなく返し忘れてるな。だが、だとすれば……」
 不安がよぎる。
「姉上じゃないとしたら、いったい、いつ、誰が、どうやってあの手紙を仕込んだんだ?」
「……分かった。お父さまが手紙を寄越されたのは、きっとそのせいね」
 アンジェリカは考え込んだ。指の背をきつく噛んで、思いを噛み殺す。
「わたくしがこっそりお前と通じて、逃走の手助けをしたと思われたんだわ。それでお叱りの手紙を寄越してきたのよ。余計なことをするなって」
「まさか、違うでしょう。お二人が危険にさらされるのを恐れてのことだと思います。父上は、遠く離れた母上や姉上のことをいつも気に掛けて……」
「やめてよ。そんな嘘っぱち」
 アンジェリカは手を振った。疲れた笑みでいなす。
「お父さまがそんな方じゃないことぐらい、わたくしだって分かってる。いつだって一族のため。その次に跡継ぎであるお前のため。それ以外にはないわ。それが正しいって事もね」
 アンジェリカは華奢な指をかたく組み合わせた。過去と現実の間に否応もなく横たわっているものへと目をこらす。向こう岸の見えない、暗い川の流れ。それは時間であり、決して手の届かない距離だった。手だけではなく、おそらく声も。
「あのね、”あの日”より前のことだけれど、昔、父上が、わたくしとお前が逆だったらよかったって母上に仰ったんですって。何のことだと思う?」
 無邪気にたずねられる。ロゼルは答えられなかった。
「髪の色と、目の色と、性格。その話を聞いて笑いそうになったわ。父上ともあろうお方が、そんな些細な外見にこだわるなんて、って」
 アンジェリカは自分の銀色の髪をつまんだ。鋼色の眼にかすかな悲しみの色をたたえ、ふっと吹き飛ばす。
「でも、こんなことになって、思ったの。……お前は母上似ですものね。優しいところも、優しすぎるところも。結局、わたくしであること以外の全部がお前であれば良かったんだわ。そうすれば、母上だってわたくしの顔を見るたびに父上のことを思い返してお辛い思いをなさることもなかった。お前がもっと父上似だったら、わたくしたちのことをいつもいつも気に掛けてくれたり、何かと顔を見せに来てくれたり……わたくしたちのことを忘れずにいてくれるようなこともなかった。ホント、ぜんぶ逆だったら良かったのよ」
 ロゼルは声を呑んだ。
「そんなことは絶対に──」
「こんな、氷みたいな髪の色、大嫌いよ」
 アンジェリカは髪をちぎろうとしてやめた。指に髪を巻き付け、ほどいてはあそばせる。
 細い吐息が聞こえた。
「わたくしたちに許されてるのは、お父さまやお前の足を引っ張らないように、できるだけつつましくひっそりと生きることだけ。神に仕えるという美名の元に親兄弟の縁を切られても、アルトーニの名を捨てさせられても、それでも自由になれず、自分の足で歩き出すことも許されなくて。十年もたってるのに、未だに父の捨て駒の一つとして生きることしかできない。年老いて死ぬまでずっと……どうせひとりぼっちのまま、つめたい石の街に縛り付けられ続けるんだわ」
 揺れ動く瞳はまるで、そぼふる雨の中、ずぶぬれになって彷徨う子犬のようだった。跳び越えられない水たまりを前に、震え、立ちすくんでいる。
「神様って、残酷ね」