「……姉上」
ロゼルはうなだれた。
「本当に、申し訳なく思っています。俺が余計な面倒事に巻き込まれてしまったせいで、姉上や、母上にお心苦しい思いをさせてしまって」
「ううん、何言ってんの。お前が謝る必要なんてないわ」
アンジェリカは、表情を明るくした。
足元に黒猫が戻ってきて、アンジェリカに身体をこすりつけた。膝に乗せろ、乗せろ、と野太い声でずうずうしく鳴く。
「ばかね。図体ばっかり大きくなって。ほら、あっちにお行きなさいな、レガート。お前みたいな”おでぶちゃん”はもう重すぎて抱っこできません」
アンジェリカはまとわりつく巨大な黒猫を優しく追い払った。猫は身体をふるわせた。
不満げに低く鳴く。
まるで、”だいすきなソロールがそっけないのはおまえのせいだ”とでも言いたげだ。ほそめた横目で、じろりとロゼルを睨む。
「レガートはもう重すぎてとても抱っこできないけど、お前は別。お前を守るためなら何だってできるわ」
アンジェリカは愛おしげな声を上げてロゼルの頭をくしゃくしゃとかきまぜた。頭から抱き寄せ、ぎゅっと胸に押しつける。
「ちょ、姉上!」
ロゼルはかすかに顔を赤くしてもがいた。
「猫と一緒にしないでください……!」
「いいの。大丈夫。お前の心配なんて、もう、毎度のことすぎて、いちいち謝られたぐらいじゃ全然足りなくてよ?」
くすくすと声を立てて笑う。
「どうせ謝ってもらうなら、お前が生まれてからずっと今まで、お姉ちゃんやってる間の心配事をぜーんぶまとめて謝ってもらわなきゃね」
震える声をわざと平気そうな顔で押し殺して笑いかける。ロゼルは、はっと声を飲み込んだ。
「ね? そうよこの際だからリヒト君にもお願いしておこうかな。うん、そうしましょ」
独り言のようにぽつんとアンジェリカはつぶやいた。聞かれているとは思っていないらしい。自分で自分にうなずいて、アンジェリカはリヒトを見上げた。
「リヒト君、ひとつお願いしても構わないかしら」
「どうぞ、ソロール。何なりとお申しつけください」
リヒトは高貴な女性と向かい合うに相応しい態度で頭を下げた。アンジェリカの次の言葉を待ち受ける。
「ありがとう」
アンジェリカは礼を言って続ける。
「お願いと言ってもほとんどお詫びみたいなものね。ロゼルのことだから、リヒト君にいろいろと迷惑を掛けてると思うの。ごめんなさいね」
「ロゼルは大切な友人です」
「おいこらリヒト、俺の許可なく勝手に姉上と話をするな!」
リヒトがちらりとロゼルを見やった。ふっ、と鼻の先で笑う。
「おいこらリヒト、貴様、今、笑ったな」
「微笑ましいなと思ってね」
「馬鹿にしてるだろう貴様」
「お前は黙ってなさい。大事な話してるんだから」
ほっぺたをつねられる。
「ひててて……!」
ロゼルはもがいた。アンジェリカは素知らぬ顔で柔和に微笑む。
「ありがと、リヒト君。そう言ってくれるとお世辞でも嬉しいわ。ロゼルったら、ちっちゃなころから何だか頼りなくてね。背が伸びるだけならいいけど態度まで無駄にでっかくなっちゃって、みんなにこんな心配ばっかり掛けさせちゃって、ホントにねえ……」
「子ども扱いしないでください。くそっ、何で俺がこんな目に!」
ロゼルはアンジェリカの手を振り払った。
眼の隅にリヒトの視線を感じる。振り返るとリヒトと目が合った。
「何だよ文句あるのか!?」
リヒトはわずかに口の端をつりあげた。何やら言いたげな目配せと微笑みをよこしてくる。ロゼルはしぶしぶ視線を戻した。
「ロゼルは誰も信用するなって言うけど、でも……」
アンジェリカは表情をかげらせた。寂しげに微笑む。リヒトを見つめる鋼色の瞳が、石を投げ込まれた水面のような不安のさざ波を広げていた。
「それでも、やっぱりわたくしの大事なたった一人の弟には違いないから……だからリヒト君、どうか、わたくしにあなたを信用させてください。わたくしの弟を守ってやってください。ロゼルのこと、くれぐれも助けてやってください。お願いします。自分たちのことばっかりで、わがまま言って、本当にごめんなさい。でも、どうか」
すがりつくように、一気に口にする。
「ご心配には及びませんよ、ソロール」
リヒトはこともなげに肩をすくめた。
「もちろん、こいつは私に守られるなんてとんでもないと思っているでしょうけれど」
アンジェリカの目を盗んで、つかみどころのない不埒な笑みをちらりとロゼルへ走らせる。ロゼルは傲然と肩をそびやかせた。言い返す。
「当然。俺は守ってやる側。貴様なんかに守られる覚えはない」
「ああ、私もそう思うよ。お前がいなければ、私は今頃、象の檻で異端審問を受けていただろう」
反論するかと思いきや、リヒトは神妙に引き下がった。拍子抜けする。リヒトはロゼルからアンジェリカへと視線を移した。
「我が剣は我が身のためにあらず、ただ、我が友のために。どうかご心配なきよう。その代わり、と申し上げては僭越ですが、そのお言葉は、私にではなく誰よりもソロールの御身を心配しているであろう我が友ロゼルにこそ、かけてやってくださいませんでしょうか」
ロゼルはあっけにとられた。
思いも寄らないリヒトの言葉に、アンジェリカもまた眼をぱちくりさせる。
「お嬢様。馬車が参りました」
階下からマーサの呼ばわる声がした。
「ええ、ありがとう。ちょっと待っててね。すぐに行くわ」
アンジェリカは階下に声を返した。
「いったい何? 言いたいことって」
「ほら、言え、ロゼル」
リヒトが愛情のこもった乱暴な仕草で背中を叩いた。ロゼルはつんのめった。前へと押し出される。
何を言われているのか分からず、うろたえてリヒトとアンジェリカとを見比べる。
「言えって、何を」
「お前の本心だよ」
リヒトは笑みを消した。ロゼルは口ごもった。
「そんな、別に、とりたてて言うようなことは……」
「お前がさっき私に言ったことを、そのままソロールに伝えればいい。それがお前の偽らざる気持ちなんだろう? 私に言えてソロールに言えないのは間違ってる」
「俺が、貴様に言ったこと……?」
有りもしない何かを探して無為にポケットの中をまさぐる。自分でも何を探しているのか分からない。仕方なく、ハンカチを所在なく握りしめる。ハンカチはすぐにくしゃくしゃになった。
リヒトは告白を迫っている。ロゼルがリヒトに言わせたように、秘めた思いを、隠した思いを、あらわにしろ、と。解き放たれてしまえと。
昨夜、リヒトと交わした激しくも狂おしい告白が脳裏をよぎった。
リヒトの中には、いまだに魂を食い荒らす恐怖が残っている。”幸せであるべき子ども時代”を奪った亡霊への恐怖だ。言葉少なに、恐怖の断片を語るリヒトを見ていると、居ても立ってもいられなかった。本気で守ってやりたい、と思った。だからリヒトにもそう言った。
そのせいかどうかは分からないが、今のリヒトは、心なしか変わったように見える。昨夜を境にして、少しは恐怖に縛られた過去から解放されたのかもしれない。もちろん自分の力だなどと思い上がるつもりはない。リヒトの心を解き放てるのは、リヒト自身だけだ。
振り返って自分自身を見つめ、アンジェリカを見つめる。
傍から見たリヒトの眼に、自分はどう映っていただろう? 頼りない男に見えていただろうか? 大人になっても未だに姉に頭の上がらない”弟”。姉を気遣って、本当のことを伝えられない”弟”。
いつだってそうだった。アンジェリカは、”気の強い姉”で、自分は”泣き虫の弟”。
アンジェリカの気の強さも。髪の色も。目の色も。すべてが父に生き写しだった。なのに”あの日”すべてが変わってしまった。アンジェリカ自身は父にそっくりなまま、何一つ変わっていないはずなのに、いつしか──
姉より遙かに背が高くなっている自分に気付いた。
強い、と思っていた姉が、本当は自分より遙かにか弱い”女”だったことを知った。
迷子になった時、本当の胸の内はどうだっただろう……?
ぶるぶる震える小さな手。
ともすれば竦んで、動かなくなる足。
手と手をつないで。必死に前へ進んで。
(大丈夫よ、ばかロゼル。わたくしを誰だと思ってるの? お前のおねーちゃんなのよ……?)
暗い森を歩きながら、強気一辺倒の減らず口をたたいて、さんざん小馬鹿にしてみせたのは、果たして本心からだっただろうか……?
本当は、怖くて、おそろしくて、一緒にわんわん泣きたくてたまらなかっただろうに、”泣き虫の弟”を守れるのは”姉”の自分だけだ、と、幼心を必死に奮い立たせて守ろうとしてくれたのではなかっただろうか。
「姉上」
アンジェリカから向けられたとまどいの視線をさえぎる。ロゼルは胸に手を当てた。
大きく息を吸い込む。
決意の背筋を伸ばし、こわばった口を開く。
「確かに俺は馬鹿です。たとえ姉上や母上を泣かせることになろうとも、父上に命じられた通りに生きるのが正しいと、ずっと思っていました……でも、もう、そんな生き方はやめます。自分の目で、自分の足で、自分の行くべき道を探したいんです。俺はもう、姉上の後ろで泣いてた臆病な”弟”じゃありません。だから、俺を一人前の男として認めてください。俺のことをもっと、信じてください」
ロゼルは一瞬、声を飲み込んだ。
そんなアンジェリカの張りつめた強さに隠された脆さを、ロゼルは、ずっと知らずにいたのだ。
──十二年前。”あの日”が来るまで。
遠い過去の声が聞こえたような気がした。
(嫌。ひとりでセラヴィルなんか行きたくない! 置いていかないで。うそだって言ってよ。おねがい、ロゼル。何とか言って。そんなの嫌。何でもするわ。女がだめなら男になる、今からでも銃の練習をする、軍隊にも入る、だからお願い。わたくしも連れて行って。わたくしはお前のお姉ちゃんなのよ! だから、わたくしをひとりにしないで。みんな、いなくなっちゃうなんて、嫌……!)
後にも先にも、アンジェリカが泣いたのはその一度だけだった。それまで、姉の泣き顔など一度も見たこともなかった。
いつだって一番、誰よりも強いと思っていた姉が。
子どもみたいに、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。
声を上げて泣きじゃくっていた。
まるで──森に捨てられた迷子みたいに。
心の中に残っていたためらいを振り捨てる。
「俺が、姉上を守りますから」
アンジェリカは眼を大きくみはった。息を呑む。
「お前が、わたくしを……?」
困ったような、泣いたような、いろんな思いがないまぜになった目でロゼルを見上げる。
「ロゼル、やだ、ちょっと何、そのせりふ? お前がそんな格好良いこと言ってくれるなんて、そんなのって、まるで」
ふいに、顔全体が泣き笑いの形にゆがんだ。
「……ロゼルじゃないみたい」
それからは堰が切れたようだった。アンジェリカはお腹を抱えて笑い出した。とめどなく笑って、半分泣いて、声が裏返る。ロゼルはむっとした。
「何で笑うんです。そこは笑うところじゃないでしょう」
「ごめんなさい。あんまりびっくりしちゃったものだから……」
笑いながら謝りかけたアンジェリカの眼に、大粒の涙が浮かんだ。アンジェリカは指の背であわてて涙をぬぐった。
「まったくもう、びっくりさせないでよ。おかしくて涙が出ちゃう」
くすんとしゃくりあげ、顔をくしゃりとさせて、愛らしいはにかみ笑いを浮かべる。
「それとも、もしかしてやっぱり素直に受け取っておくべき?」
「そうしてくださると嬉しいです」
「うん、分かった。そうする……」
アンジェリカは何度もうん、うん、とうなずいた。ほうっと、重い肩の荷をおろしたような吐息をつく。輝くような微笑がこぼれた。
「お前の言うとおりにするわ。リヒト君もありがとう。ロゼルの友達でいてくれて。本当によかった。わたくしにもそんな友達がいてくれたら良かったのに……ううん、大丈夫。わたくしにもいるわ。うん、そうよね。みんないるじゃない。一人きりじゃないわ。みんなで協力すれば、きっとアルフレッドの力になれるはずよ」
「どうぞ、お手を。姉上。マーサが下で待ちくたびれてますよ」
ロゼルが手を出すと、アンジェリカは微笑んだ。
「ええ、そうね。すっかり遅くなっちゃった。大丈夫かしら、超過料金を払わされなきゃいいけど」
「大丈夫ですよ……たぶん」
「あらそう? じゃ、払っといてね。お任せするわ」
「えっ?」
アンジェリカはロゼルの腕に手を絡め、親しげに身を寄せた。優雅に立ち上がる。
「最高。二人も頼もしいナイトがいるなんて。こんな幸せな修道女は世界中できっとわたくしだけよね」
いたずらっぽく舌を出して笑う。
「ハンナ、留守をおねがいね。誰も修道院にいれちゃだめよ。もし何かあったら、アンナみたいに放水銃ばんばん使っちゃってちょうだい」
「はぁい、ソロール。お任せくださぁい!」
物影に控えていたハンナが安堵の笑顔で応じた。その隙にロゼルはリヒトへこそこそと耳打ちした。
「おい、リヒト、小銭持ってるか?」
「持ってない」
「俺も持ってないぞ! どうする? チップ払えないぞ?」
「……質屋へ行こうか」
「まさか、貴様、俺のライフルを質に入れろって言うんじゃあるまいな! 最新式なんだぞ! 絶対に無理!」
「銃弾買う金も火薬買う金もない最新式に何の意味がある」
「うっ」
「今ならまだ、そこそこの値段はつくな。よし売ろう」
「いやだ!」
「……」
アンジェリカはうつむいた。歩きながら、どことなくさびしげな微笑みで窓の外の薔薇園を見やる。
薔薇は誰に褒められることもなく、ただ薫り高く咲き誇っている。美しい色も、香りも、薔薇が花の女王たらんとしてまとったものではない。ただ赤く咲きたくて咲いている。アンジェリカはゆっくりと息を吸い込んだ。
「良い香り」
眼を閉じて、もう一回深呼吸する。表情に再び微笑みが広がった。
「うん、大丈夫、きっとそうよ。ひとりじゃないわ」
聞こえないよう、何度もちいさくうなずく。
「別に髪なんて何色でもいいんだわ。わたくしはわたくし。アルフレッドだって前にそう言ってくれたじゃない。”この色がきみの色なんだ”って。”父上の色なんかじゃない”って。でもどうせなら髪の色じゃなくてわたくしのことを褒めてくれればいいのに。あのひとったら、髪がきれいだとか目がきれいだとかオイルのいい香りがするとか、そんなことしか言ってくれないんだものね、いくら他に褒めるとこないって言ったってねえ……?」
「姉上、急いでください」
アンジェリカは顔を上げた。もう、すべて解決したような笑顔で、小走りに駆け出す。銀の髪がふわりとたなびいた。
「分かってますって。そんなに急かさないでよ、いじわるね。アルフレッドはそんなこと言わないわよ?」