クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

5 ハイラムカーニバル

 扉の向こうからうら若い男の呻き声がする。一度ならず二度も、三度も。そこにいるのがトルツィオーネではないと知って、レスタリスは微笑む。聞き慣れた声だ。
 大主教トルツィオーネは帝都エルフェヴァインへ出かけていると聞いた。今度こそ苛立たしい決意を秘めてパーレに戻り、出迎える若者がいなくなった静けさに現実を知るだろうか。それともまた作られた微笑みの前に老いらくの口をつぐむか。
 心の小さな、愚かな聖人。彼が眼をかけてやった若い参事官がセラヴィルでだらしのない羽を伸ばすだろうことを承知の上で、わざと目を離した。
 取り次ぎの小姓が遠慮がちにノックする。
「フラター、お客様がお見えです」
 セラヴィルの主教館を訪れたのはこれで何度目だろう。
 ここは、娼館の女主人が昼間から訪れて良い場所ではない。たとえ参上を許されたとしても、足を踏み入れようだなどと一度も考えたこともなかった場所だ。少なくとも偉大なる先代、ああ、荒野をさまよえる彼の魂に平安あれ──フラター・カートスが生きていた頃には。
 フラター・カートスは厳格な領主だった。すべての娼婦は街の一角に集められた。赤線地帯外での売春は厳罰に処せられる。レスタリスはその管理を命じられていた。違反した者、すなわちレスタリスの許可なく街角に立った女は、たとえどんな理由があろうと顔に醜い火傷を負わされ街を追放された。レスタリス自身の安全、そして娼婦組合の繁栄のためにも、目こぼしはあり得なかった。
 レスタリスは笑みを消す。フラター・カートスがいたころのセラヴィルは、清らかで冷たい、石造りの天使のような街だった。だが、もうセラヴィルにカートスはいない。秩序はすべて破壊された。焼け野原の夜に蔓延しているのは、自堕落な放蕩、自制心のかけらもない野放図な愛欲だ。それは目に見えない伝染病となって広がりつつある。
「入れ」
 ようやく、扉の向こうで参事官ネロが横柄に言った。声がわずかにかすれている。
 レスタリスは細く開けた扉をすり抜けて中へ入った。書類が机の回りに散らばっている。男の臭いがした。レスタリスは顔色一つ変えない。
 傍らの長いすに聖職者が腰掛けていた。皺になった黒い法衣の裾を直している。
 仮面のような顔をした男だった。こちらへちらりと眼をくれて、挨拶するでもなく、無言を通している。
 顔立ちは凡百。決して醜くはないが、驚くほどつまらない。どこにでもいる帝国貴族、いずれ黒以外の色の法衣をまとうことを生まれながらに許された貴族の子息だ。それでもレスタリスは立ち止まり、輝く微笑みを彼らへと向けた。この街でもっとも美しく力のある男たちだと信じているかのように。訪れるたび、より贅沢に、奢侈に飾り立てられてゆく部屋よりも、男たちの姿の方が遙かに輝かしく見えてでもいるかのように。
「何の用だ、レスタリス」
「至急お伝えしたいことがございまして、取り急ぎ参りました。ご主人様ミ・ロード
 胸元が眼にとどまるように、優雅に膝を折って身をかがめる。
「報告しろ」
 ネロはレスタリスに近づこうともしなかった。レスタリスもそれ以上近づかない。取り次ぎが部屋の扉を閉めた後は、だれひとり身じろぎしなかった。物音一つしない静けさが緊張に取って変わる。
 ネロは葡萄酒を飲んだ。
 レスタリスはさりげなく切り出した。
「昨夜、主教館の従者の皆々様がおいでになられました」
「下の方は満足させたか」
「町中の女という女をかき集めました。みなさま、腰も立たぬほどに酔いつぶれていらっしゃいます。いささかもめ事がございましたので、しばらくはお屋敷へお戻りになられぬかもと思い、その旨をミロードへお伝えしていただきたい、とのことでございました」
 レスタリスは顔を伏せた。暗く微笑む。彼らはこの世の快楽のすべてを味わった。浴びるほど甘い酒を飲み、女の身裡の中で果てることになる。そう──文字通り。
「新たな領主からの心付けだと分かっていような」
「仰せのままに」
 あくまでも礼儀正しく、慇懃に。胸の内はおくびにも出さない。
「酔っぱらっていても構わない。そいつらは全員たたき出せ。用心棒を配置して余計な連中を近寄らせるな。酒臭い臭いをさせる薄汚い連中はすべて追い出せ。街をきよらかに取り繕え。壁の嫌らしい飾りを取り払え。作り替えろ。それから女どもの化粧はすべからく薄くさせよ。紅も薄く。決して粉の臭いをさせてはならない。いやらしく膨れた胸を隠せと言え。剥き出しにせずにな」
 ネロはレスタリスのドレスの胸元へ目をやった。
「今夜からは別の男を引きずり込んで欲しい」
「承知いたしました」
 レスタリスはこともなげに応じる。
 頭を垂れ、膝を折る。欲望の館は男のすべてを飲み込む。底なしの穴だ。美しい花びらを開かせ、甘い蜜の香りを漂わせる。あとは女を食い物にしようと寄り集まってくる哀れな獲物を待つばかり。
「宿屋は空きが出ないよう、手の者に押さえさせました。街を出入りするものはすべてわたくしどもの妓楼にお泊まりいただいております」
「……怪しい連中を見なかったか」
 見知らぬ聖職者が口を開いた。
「男二人連れで、異端審問官と軍人。一人は属国人。相当に目立つはずだ」
 レスタリスは貴婦人のように頭を振ってみせた。
「わたくしの知る限り、さような方々はいらしておりません」
「よもや匿ってはいまいな」
「黙っておれ、ギウロス。横から差し出口をたたくな」
 ネロは苛立ちのまなざしで聖職者を見た。眼の奥に毒がある。
「申し訳ございません」
 聖職者は再び黙り込んだ。
「まあ良い。教養のある、極上の女をそろえて、妓楼でなすべきことをせず、修道院の女を囲っているかのごとくにせよ。上品で小柄な”銀の髪の女”を選りすぐって、微笑みで仕えさせろ」
 レスタリスは顔を伏せた。
「父親に捨てられ、貧しく孤独に育った身の上と思い込ませろ。さびしさゆえに、昼間、どれほどきよらかな信仰を持つ女であっても、夜になれば肉欲に苛まれると、男を欲する身体に火が点いて苦しいのだと思い込ませろ。罪を犯させるのだ」
 赤く塗られた爪が、掌に食い込んだ。表情から笑みが消え、血の気が失せる。蝋のように白く。
「幸運な地獄に堕ちる殿方のお名前をうかがっても構いませんでしょうか」
 ネロは眼も上げなかった。
「……言わずもがなだ」
「承知いたしました。仰せのままに、偉大なる方マジェスティ
「あれの狼狽えるさまが、まざまざと目に見えるようだ。そうではないか?」
 葡萄酒の入ったグラスを揺らしてもてあそぶ。赤いグラスにゆがんだネロの笑みが映り込んだ。喜悦の表情を浮かべている。
「いくらあの女が強くとも、たかが女だ。いずれは没落した己の現実を知らされることになる。皆があの女を裏切ったことを、誰も傍にいなくなったことを知り、我が前に膝を屈するしかないことを知るのだ! いずれはパーレの大主教になるであろうこの私を馬鹿にした女……必ず後悔させてやる。屈辱に身もだえし、顔を涙と怒りに染めて、ふるえながらも私の前にまかり越すことになるだろう。這いつくばって我が身を差しだし、涙ながらに許しを請うことになるのだ。あの女が頼れる者は、もはやこの街にはこの私以外、誰一人として”いなくなる”のだからな」
 一気に葡萄酒を飲み干す。
「見ていろ。鼻持ちならないあの女を、ただの娼婦へと引きずり下ろしてやる……!」
 ネロはほとばしる感情をこらえきれなくなったのか、けたたましく笑った。
「他に何か問題はないか」
「昨夜、鼠が一匹、罠にかかりました」
「早く言え。どうなった」
「主教館から持ち出された宝物がすべて”盗まれて”しまいました。おそらくは従者に身をやつした盗人の仕業かと思われます。いくつかは取り戻せましたが──闇市場に流れてしまってはもはや探し出すこともかないませんでしょう」
 ネロはうつむいたままだった。口の端が裂けるように吊り上がっている。笑っているのだ。
「盗まれた──まさか、追い出されて暮らしに困ったアルフレッドが”聖遺物を盗ませ、売り払おうとした”か? ふむ、となるとさすがに看過できぬな。後ほど調べに行かなければならぬ。分かった。罪人を見つけ次第、私に報告しろ。褒美は何が望みだ」
「別に、何も」
「欲望に代価を求めぬ者は疑われても致し方ないぞ」
 レスタリスは慎み深いふりをした。
「ささやかな夢でございますれば」
「娼婦の女主人が夢だと?」
 冷血な嘲笑が降る。
 この男は、権力の有無で無意識に相手を分別している。一方には媚びへつらい、一方へは傲慢に残酷に振る舞うことに慣れすぎて、もはや人の心が分からなくなっているのだろう。人に、いや、女にも心があることも忘れた者が神の教えを説くなど、それこそ失笑以外の何ものでもない。
 男は女をしとねに忍ばせる。女の微笑みは武器だからだ。だが、自らを武器にできない女は男の道具にしかなれない。剣をとれない男も同じ。
「笑わせてくれる。男に身をひさぐ以外、娼婦の身で何の夢を見るというのだ」
 レスタリスはネロの視線を切り捨てる。自らの野心は正当化し、女のそれは浅はかと切り捨ててあざ笑う。愚かな男だ。トルツィオーネが男色家と知るなり彼のいちもつをくわえた男に笑われる筋合いはない。
「殿方に抱かれて女は一夜の夢を見ます。たとえそれが永久に叶わぬ夢であったとしても、心の中で愛を夢見ることだけは誰にも止められませんわ」
 密談を終え、レスタリスは主教館を後にする。
 歩きながら微笑む。胸の刺青に手を添える。黒いアザミの刺青。微笑みがあざとく深くなる。すべては一夜の夢。だが、夢のためなら命をも捨てられる。
 柱の影に、はためく青い衣が見え隠れしている。
 レスタリスは素知らぬ顔で立ち止まった。ドレスの飾りをいじり、胸当ての布を持ち上げて、指先でそぞろにととのえる。
 だれにともなくつぶやく。
「”奇蹟”なんて本当に起こるのかしら。一度、失敗したのに」
「信じれば必ず。今は待つの。それがあなたの役目」
 男とも女ともつかぬ、なめらかな声が歌うように答える。異国ふうの発音だ。
 風が吹きすぎる。いつの間にか気配は立ち去っていた。
「果たして本当にそうかしら」
 レスタリスは無垢な少女のように微笑んだ。柱の影から消え失せた闇に向かって、ぽつりと独り言をつぶやく。
「もうすぐよ、シルス。もうすぐ夢が叶うわ。聖女ヴァンプは”奇蹟”を与え給う。必ず、取り戻してあげるわ」
 手を胸元で祈るように結び合わせる。その指に指輪の赤い光がきらめいた。
「”奇蹟よ、汝の翼の蔭の下で”」

 軍道へ向かう大通りはやたらと混み合っていた。馬車は限りなくのろのろと進み、かたつむりより遅くなったかと思うとやがて完全に立ち往生した。根が生えたみたいにまったく前へ進めなくなる。
「もう、ちょっと、どういうこと!」
 アンジェリカがいらいらと御者側の小窓を叩いて小言を言う。
「全然前に進まないじゃない!」
「申し訳ありません……」
 馭者は恐縮しきって小さな声を上げる。
「道が混んでおりまして、その」
「じゃあ回り道すればいいじゃない!」
「それが、その、びくとも動けない状態で……」
 返す言葉もない馭者のために、ロゼルは馬車の窓を開けた。
 前方がぎっしりと人、行き場を失った馬車、荷車、等々に埋め尽くされている。太鼓に笛に鉦の音がかまびすしい。
「なんだこりゃ」
 反射的に現実逃避し、窓をぴしゃりと閉める。ロゼルは苦虫をかみつぶしたような顔でアンジェリカを見やった。
「この際、歩いた方が早いかと思いますが」
「何よ、どういうこと? わたくしに歩けと言うの? かよわいわたくしに?」
「まあまあ姉上、そうカッカなさらず。せっかくのかよわい主張が台無しです」
「おほほほぶん殴るわよ」
「痛ぇっ! ぶん殴ってから言わないでください」
 どうやら、さっきの一件以降、アンジェリカの中の何かが吹っ切れてしまったらしい。ロゼルは頭を押さえて唸った。
「しかし、これじゃにっちもさっちも行きませんよ。とにかく外を見……リヒト、お前説得しろ」
「……お前、端から説得をあきらめてるだろ」
 リヒトは座席から身を乗り出した。ロゼルを押しのけて窓を開ける。
 騒音が奔流となって流れ込んでくる。
「うわ、何だこの音は」
 たまらず耳をふさぐ。
「いったい何なんだ、この騒ぎは?」