クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

5 ハイラムカーニバル

 リヒトはわざとらしく背中を押された振りをしてロゼルから離れようとした。間にどんどん見物人が割り込んで詰めかけてくる。その数はますます増すばかりだ。
「ふん」
 リヒトはふいと横を向いた。心の中で悪態をつく。
 まったく、気に入らない。こいつは昔からこうだ。さらりと皮肉を言い、しれっとからかい笑って、心のど真ん中にまでずかずかと土足で踏み込んでくる──逆らえないと分かっていて、わざと。
「リヒト、逃げるなよ。恥ずかしがってないで俺の胸にどーんと飛び込んでこい! あ、こら、ちょっと待て。マジでどこ行く気だ。俺が迷子になってもいいのか」
 ロゼルは情けない声を上げた。押し合いへし合いする人々に、後ろから小突かれてよろめく。
「あいたっ!」
 姿が雑踏に飲み込まれた。人垣の向こう側へと押し流されて行く。
 リヒトは流れに逆らい、踏みとどまろうとした。だが、すぐに揉みくちゃにされそうになる。
「どこだ、ロゼル」
 頭一つ飛び出しているはずのロゼルの姿をなぜか見失う。リヒトは焦って振り返った。
 やはり見あたらない。
「ロゼル……?」
 緊張した声を押し殺す。不安はすぐに現実に変わった。やはりいない。まさかつまづいて転びでもしたのだろうか。こんな混雑したぎゅうぎゅう詰めの中で転倒したりしたらそれこそ怪我だけではすまされない。
「大丈夫か、ロゼル? どこにいる?」
 心許なく呼ばわる。背後から人が一斉に押し寄せてきた。
「きゃあっ……!」
「馬鹿、押すな、倒れる!」
「危ない!」
 剥がれた壁のように人が斜めになって倒れかかってくる。リヒトは反射的に押し戻そうとした。重みがのしかかる。耐えきれない。
「ロゼル……!」
 思わず助けを求めてロゼルの名を口走る。どうっと将棋倒しになりかけた瞬間、ロゼルの顔が、ぬっと横からのぞき込んできた。
「呼んだか?」
 にやりと不敵に笑ってリヒトを抱き止める。リヒトはよろめいた。
 ロゼルの苦笑いが近づく。
「だから言わんこっちゃない。意地っ張りめ」
 近づく青い瞳に息がつまりそうになる。
「ば、ばか、急に顔を出すな。びっくりするだろう……!」 
 頬を紅潮させ、何とか言い返す。その背中を誰かがぐいぐいと容赦なく押した。
「あ、あ、押される……!」
 つんのめるようにしてロゼルの胸へと倒れ込む。
 人がどっとなだれを打って押し寄せてきた。押すな押すなの大騒ぎになっている。もみくちゃにされ、ろくに身動きも取れない。半ば公然と抱き合う形でロゼルの胸に押しつけられる。
「ぁ……!」
 勢いに押され、なおいっそう強くロゼルにもたれかかる。一方のロゼルは混雑をものともせず、リヒトの身体を悠然と支える。
「大丈夫か? 凄い込みようだな。息苦しくないか?」
 くすくすと笑って周りを見回す。
「不用意に俺から離れるなって言っただろ?」
 顎を指先でくいと持ち上げられ、リヒトはどきりとした。
「別に、好きでお前とくっついているわけではない。これはあくまでも不可抗力だ!」
「そうか? さっき、助けてーって言ってたように聞こえたが」
「踏まれて怪我でもしてないかと思っただけだ!」
「俺のことを心配してくれたのか? 嬉しいね」
「別に、お前だけの事じゃない、怪我人が出たら大変だからそう思っただけで……!」
 人込みの圧力に、さらに背中を押される。のけぞった身体が浮き上がる。思わず爪先立ってロゼルに身をゆだねてしまう。
「あ……!」
 吐息が唇の端をかすめた。腕が腰に回された。ぐいと抱きかかえられる。心臓がきゅっと萎みそうだった。息が止まる。
 ロゼルが嬉しそうに笑った。ささやきかけてくる。
「その体勢は、もしかしてどさくさまぎれにキスしてもいいってことか?」
 リヒトははっと我に返った。顔を赤らめる。
「ばか、いちいち言うな!」
「さっき勝手にしたら怒っただろ」
「それはお前が不意打ちばかりするから……!」
「おう、良いぞ、怒れ怒れ」
 ロゼルは声を上げて笑った。ふっと笑みを深くさせて、唇をリヒトの耳元へ寄せる。
「怒った瞬間にキスするのが、何とも言えずたまらないんだよな。最初、びくぅっ! ってなって、じたばたして、そのうちに突っ張る手の力が抜けてくるんだぜ? マジで可愛いったらないぞ? ちくしょう、姉上がいない今しか堂々といちゃいちゃする機会がないというのに、よりによって公衆の面前だとは、悔しいにもほどがある。これで二人きりなら間違いなく、今すぐにヤっ──」
「ちょっと! お前、何やってるのそこで!」
 尖った声が藪から棒に聞こえた。
「うぇっ!?」
 棘のある怒鳴り声だ。手足を巻き付けるようにして密着させていた身体を、反射的にぱっと放す。リヒトは赤くなった顔を隠して頬を押さえた。あたふたと周囲を見回す。
「今の声は……まさか」
 アンジェリカが血相を変え、腕を振り回しながら突進して来る。
「まずいぞ、ソロールだ」
 リヒトは青くなった。息を呑む。
「何いっ」
 ロゼルもぎょっとした顔になって首をねじ曲げた。
「まさか見つかった……」
「お前、また貞節の誓いを破ってるのね!?」
 甲高い怒りの声が怒濤のように頭上を突き抜ける。
「見たわよ、何、今の!? またどこぞのお嬢さんにみだらな真似を! ……ちょっとそこをどきなさい、ええいどきなさいって言ってるでしょっ」
 ロゼルはびくっと首をちぢめた。
「うっわ、マジで怒ってる! やばいぞ、逃げろ、リヒト!」
 リヒトの手を掴んで逃げ出そうとする。引っ張られながらもリヒトは焦って振り返った。
「何そんな訳の分からないことを言ってるんだ。ソロールを探しに来たんじゃなかったのか。本末転倒だぞ?」
「素直に捕まってガミガミ怒られろってことか? あの勢いだと貴様だって無事では済まないぞ? 冗談じゃない」
 ロゼルはへっぴり腰で後ずさった。顔をぴくぴくと引きつらせている。
「いいから逃げるぞ、来い!」
「わたくしから逃げようったってそうは行かないわよ! お前と来たら、ちょっと目を離したらすぐに、いやらしくからみあったりして……! 恥を知りなさ……」
 背後から迫ってくる声が、突然、消えた。押し寄せる人のかたまりに飲み込まれて見えなくなる。
「きゃっ」
「痛えっ」
 くぐもった悲鳴が聞こえた。どうやら誰かとぶつかったらしい。
「ごめんなさい。急いでたものだから……」 
「はあ? 急いでただぁ? 修道女さまだか何だか知らねえが、俺様の足を踏んでおいて何だその態度は」
「ロゼル、ちょっと待ってくれ」
 リヒトはたたらを踏んで立ち止まった。即座にロゼルが人をかき分けて戻ってくる。
「何やってんだリヒト、早く逃げないと」
「ソロールの身に何かあったみたいだ。声が聞こえた。面倒事に巻き込まれたらしい」
「何だと、どこだ? 畜生、姉上め、声ばかりでかくて背がちっこいから全然見つからん」
「失礼な言いぐさだな」
 ロゼルが見回す間にも、再び声がした。
「だから謝ってるじゃない。何でそんなに怒ってるの」
「はあ? てめえ何様のつもりだ」
 剣呑なしわを眉間に寄せた巨漢がぎょろ目を剥いて仁王立ちしている。団子っ鼻に分厚い唇。袖をまくり上げた腕には刺青がずらり。腰には大工道具のぶらさがったベルトを巻いている。巨漢は姿の見えない相手に対し、拳をつくって凄んでいる。
「生意気な女だ。ひとつ口の利き方ってもんを教えてやらねえとなあ? ああんっこわい、たすけてぇ、とか、よう?」
「あっちだ」
 雑踏の向こうにアンジェリカの銀髪がちらちら反射するのが見えた。声の方向を指さしたつもりが、振り向くともうそこにロゼルの姿はない。舌打ちし、あわてて後を追う。
「あっ、いつの間に!? くそ、まずいな、馬鹿な真似をしてなきゃいいが」
 リヒトは押し寄せてくる群衆を押しのけながら、もがくように走った。間に合えば良いが、と焦る気持ちばかりが先走る。こんな混雑した中で暴れられたら、ただでさえ押しくらまんじゅう状態だというのに、押し倒されて大混乱が生じかねない。
「口の利き方ぐらい知ってます」
「はあん? 俺様の聞き間違いかあ? ずいぶん生意気な言いがかりが聞こえたみてえだけどよ、ソロールのお嬢ちゃん、もう一回言ってみな?」
 巨漢はアンジェリカの顎をぐいと掴んだ。無理矢理に顔の角度を上げさせている。
「何度でも言ってあげるわ」
 アンジェリカは喉の手を振り払った。気丈に言い返す。
「足踏んだのはごめんなさい。わたくしが悪かったわ。謝ります。でもいきなりそんなふうに居丈高な態度を取られる覚えはないわ。見かけだけで人を判断すると痛いめに遭うわよ」
「おうよ、俺のなには、泣くほどでけえからよう、さぞかし痛い目に遭っちまうかもなあ、げぇっへっへへぇ……え?」
 ぽん、と巨漢の肩に誰かが手を置いた。
「へーえ? 痛いのが好きなのか……変わった趣味だな」
 低い声。
 指の関節を鳴らして不気味に迫る影。
「な、何だ……?」
 巨漢はぎょっとした顔で振り返った。
「そんなに好きなら、今すぐ泣くほど痛い目に遭わせてやるよ……!」
 青い眼が凶悪に光る。巨漢はのけぞった。逃げだそうとして青ざめる。
「おい、ちょっと待……!」
「悔い改めるがいい!」
「ぎゃぶ! ぐほぇ! ぁびょあ!」
 哀れな巨漢の悲鳴とロゼルのため息とが折り重なった。
「これに懲りたらもう余計な真似などしないことだな」
 さんざんぶん殴ったあと、ロゼルは巨漢を放り投げた。巨漢は眼の回りに大きな青あざを作ってひっくり返っていた。背を向ける。
「さてと、これで一件落着……」
「ロゼル、後ろ!」
 アンジェリカが緊迫した声を上げた。ロゼルがはっと身構える。
 いつの間にか巨漢がぬうっと立ち上がっていた。巨拳を振り上げる。
 ロゼルはとっさに身を投げて避けた。一瞬前までロゼルがいた空間を、凄まじい拳が通り抜ける。周りで見ていた観衆が悲鳴を上げた。右往左往して逃げまどう。ロゼルは毒づいた。
「やめろ、こんなところで暴れる奴があるか!」
「抜かせ! てめえのことだけ棚に上げてんじゃねえ! おとなしくやられてたまるかってんだ!」
 巨漢は吠え猛った。目の回りに青あざができている。
「ぶちのめしてやる!」
 拳を振り上げる。
「ちょっと待って」
 するどい声が響く。アンジェリカだった。さっとすばやく動いて、間に割り込んでくる。
「あ、姉上……!」
 ロゼルが絶句する。
「危険です……」
 拳がアンジェリカめがけて振り下ろされそうになる。アンジェリカは果敢に微笑んだ。怖じ気づいた様子も見せず、手にした何かを相手に向けて差し出す。
「これを使ってちょうだい」
「な、何だよ、あんた……!」
 巨漢は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、動きを止めた。ぽかんと口を開けて、アンジェリカが差し出したものを、まじまじと見入る。
 それは、真っ白なレースのハンカチだった。
「ひどい青あざになってるわ。大丈夫? かわいそうに……痛かったでしょ?」
 とんとんと小さな香水瓶から薔薇のオイルをハンカチに出して染みこませ、怪我をした巨漢の顔を拭いてやる。
「まぶたがちょっと切れてるみたいね。傷が残るといけないから、あとで女子修道院の施術院にいらっしゃいな? 怪我の治療をしてあげる。もちろんタダよ。安心してね」
 怪我をハンカチでそうっと押さえる。巨漢は呆然とした。
「いけねえよソロール……きれいなハンカチが汚れちまう……」
「ハンカチのことなんて気にしないの」
 アンジェリカは、にっこりと微笑んだ。巨漢の手を両手でやわらかく包み、おっとりとささやく。
「神はすべてをお許しになりますわ。この大きな子羊にどうか愛としあわせをお恵みくださいますように。皆さんもどうかわたくしと一緒に、この方のために祈ってさしあげてくださいな」
 アンジェリカは天使のような笑顔で周りを見回した。光り輝く慈愛の微笑みを、祝福の聖水のようにきらきらと振りまく。
「いいですか? ”この大きな子羊ちゃんに、愛としあわせをお恵みくださいますように”。三回繰り返すのですよ。では声を合わせて、いち、に、さん、はい!」
「このー大きなー子羊ちゃんにー」
「このー大きなー子羊ちゃんにー」
「愛としあわせをお恵みくださいますよーにー!」
「愛としあわせをお恵みくださいますよーにー!」
 その場にいた全員がつられて、すばらしい和音のハーモニーを熱唱する。何と美しい光景であることだろうか──見ず知らずの者たちが寄り集い、声をそろえて、過ちを犯した罪人のために祈りを捧げるとは。
 巨漢は、子どものように感激し、わっと泣き伏した。
「何て優しい、心の清らかな修道女さまなんだ……俺みたいな悪党のために祈ってくれるなんて……!」
 感動のあまり声がうちふるえている。
「なのに俺ときたら失礼な口をきいちまったりして。ほんと申し訳ねえことをしちまった! ああ、永遠に輝く美と叡智とあんたの名に賭けて誓うぜ! 今日から俺は生まれ変わって、心優しい大きな子羊ちゃんになる!」
 おいおいと泣きむせびながら去っていく。
「見たか、今の……」
 固唾を呑んで見守っていた街の人々が、ひそひそと顔を見合わせた。
「自分で騒ぎを引き起こしておきながら、逆に丸め込んで懐柔するとは……!」
「薔薇のソロール……何て恐ろしいひと……!」
 口々に驚嘆の声を上げ、散って行く。リヒトもまた同感だった。
「ああ、びっくりした。何事もなくてよかったわ」
 当のアンジェリカは、ほっとためいきをついた。安堵の表情をにじませて、疲れた笑みを浮かべる。
 ロゼルは手の埃を払った。腰に手を当て、苦笑混じりにアンジェリカを見つめる。
「うまく収まったからいいようなものの……そもそも誰のせいだと思ってるんですか。はた迷惑な」
「そうよ、思い出したわ! 誰のせいだと思ってるのロゼル!」
 アンジェリカは途端に肩を怒らせ、すごい剣幕で振り返った。人差し指を突きつける。
「ちょっとそこへお直りなさい。見たわよ、聖職者ともあろうものが、公衆の面前で女性と分別のない密着の仕方をして。また卑猥な行為をしようとしていたでしょう! さっきの女性はどこ? 二度とお前みたいなふしだらな男に捕まって泣かされないよう説教してあげるわ! 何が一人前よ! ちょっと大きいからって一人前の男になったみたいな顔をしないでちょうだい! もう、今度という今度は許しませんからねっっっっ!」
「姉上、その物言いには何かと誤謬と誤解が……!」
 たちまちロゼルはたじたじとなった。後ずさる。
「ソロール、怒ってる場合じゃありません」
 リヒトはあわてて間に割って入った。アンジェリカの気を引こうとして肩を叩く。アンジェリカがきょとんと振り返る。
「あら、リヒト君。こんなところにいたの?」
 温厚な反応に、リヒトは内心ほっとした。運が良いことに、”分別のない密着”をしていた相手が誰だったのかは気付いていないらしい。
「ロゼルなんか放っておいて、あっち見てください、ほら」
 広場のたまねぎドームを指さし、微笑みかける。
「始まりますよ」
「えっ、何が?」