血と薔薇のシャノア

2 巡察使ラトゥース

 窓も、洒落たあかりもない。じりじりと油臭い煙をくゆらせた真っ赤な蝋燭一本だけが灯っている。壁の棚には木彫りを施した櫃がいくつかと邪悪な刃物、鞭、道具が転がり、脇のテーブルには飲みかけの酒瓶と中身のこぼれたグラスがあった。部屋の中央には薄汚い布を積み上げたベッド。
 ふいに、突き飛ばされてきた男がベッドに倒れ込んだ。その背中に黒い法衣が投げやられる。鬱金のサッシュが無力に床へと滑り落ちた。それは数時間前、酒場でハダシュとすれ違っていた男だった。
「とんでもない背教者ですな。マイアトールの神官ともあろうお方が」
 両手首を背中にねじり取られていては、ベッドにうつ伏せ、弱々しく身じろぎするしかない。まとった荒麻の衣は、受けた暴力の痕跡をまざまざと残して破れ、血をにじませていた。
「驚きました。サヴィスどの、まさか、貴方のような清廉潔白な御仁が、卑しき高利貸しのもとにおいでになろうとは」
 太い声が残酷にせせら笑う。銀の指輪をはめた手が、無理やりねじ向けた神官の顎を形が変わるほど乱暴に鷲掴んだ。神官は男と真正面から向き合い、その顔形を認めて驚きの声を上げた。痩せた背中に肩胛骨のかたちが陰惨な影を浮かび上がらせていく。顔をつかまれ、動けなくなって、神官は悲痛に呻いた。
「カスマドーレ……謀ったのか」
「口がすぎますぞ神官どの」
 恐ろしい声とともにぴしゃりと鳴る平手打ちを頬に見舞われ、神官は絶句した。銀の指輪をはめた男は、ことさらに侮蔑の声を投げつける。
「貴方がローエンにご自身を売り、そして私が貴方を買ったのです。今さら逃げることは許しません」
「このような真似をして私が屈するとでもお思いか」
 神官はかたくなに言い張る。男は目を酷薄にほそめ、肩を揺らして含み笑った。
「そんなこと言えたお立場ではないでしょう。もう遅いのです。あの金をどうなさるおつもりですか。貴方が手を着けた、あの金。どうやって穴埋めしようというのです。ご自分がなさったことを胸に手をお当てになって思い出されませ」
「それは」
 神官の声がわずかにうわずる。首にかけたペンタグラムがベッドに転がり落ちた。
「ご心配なさいますな」
 男は懐に手を入れ、勿体を付けた仕草で銀の鍵束を取り出した。じゃらりと鎖が鳴る。冷たい笑いが眼の裏奥をかすめた。
「そこにある櫃の鍵です。この鍵を差し上げましょう。足りなければもっと」
 ひたひたと頬に押し当てる。神官は蒼白な顔をなおいっそう背けて、弱々しく強がった。
「断る。あなたの施しだけは受けぬ」
「ほう」
 男は櫃を開け、中の装飾品をざらりとすくいあげると、わざと指の隙間からこぼれ落ちるがままにしてそれを見せつけた。貴石の粒が跳ねて転がり、床にみだれ散る。透き通った音が雨だれのように続いた。
「気位だけは高くあらせられる。さすがは元騎士、といったところですか。はてさて、レグラム総督には何をどのようにお伝えしたものか」
 男はわざとらしい思案のため息をついて見せた。神官はそれを聞いてぞくりと身をすくませた。目が恐怖と惑乱に見開かれる。わななく視線が男に向けられた。
「何のことだ」
 男は残忍な確証を得たのか、にやりと一歩進み出た。
「いけませんな、聖職者ともあろうお方が後ろ暗い過去をお持ちとは」
「後ろ暗いことなど何もない。勘ぐるのは止してもらおう」
「いいのです。人間とはそういうもの。何もかも存じ上げておりますよ、神官どの。例えば、貴方が」
 男は声をひくめ、手を扇のかたちに添えてひそひそと耳打ちする。神官の顔がみるみるうちに青ざめた。
「でもそれを責めたりはいたしません。あなたはこの街に必要なお方。あなたがいなければ聖堂に集まる貧しいものたちはどうなります。あなたを慕ってやってくる子供たちは。あなたがいなければ皆死んでゆくでしょう。そうでしょう。そうお思いになりませんか。なればこそ」
 心の裏側に忍び込むような声だった。
「眼を瞑るのです」
「何がいいたい」
 神官は顔をゆがめたが、その声はすでに抵抗を無くし、力なくよどんでいた。
 男は棚にあったナイフを取り、やや不器用な手つきで神官の手の縛めを解き放った。神官はねじられた腕が戻る痛みにうめき、ベッドにつんのめった。
「眼を瞑るのです。たとえ何が起ころうとも。そうすれば、今後ともずっと慈善事業を続けていられましょう。今までと同様に、何ごともなかったかのように」
 吸い込まれるような酷薄さが男の声に混じる。
 神官はふいに身体を大きくふるわせた。
「それはできない」
「神官殿。申し上げたはずです。もう遅い、と」
 口調が嘲弄の熱を帯びる。
「あきらめなさいませ。貴方はもう、罪を知ってしまわれた」
 神官は男の宣告に凍りついた。絶望にうちひしがれ、弱々しく首を振る。男はその様子に慇懃な薄笑いをつくってみせた。
「色好い返事をお待ちしておりますよ、神官殿。それでは」
 いつ立ち去ったものか、気が付けば薄暗い部屋に神官はひとり取り残されていた。
 ぎごちなく掌をみつめ、うめいて。ふいに顔を覆う。
「神よ」
 罪深い手の中で自身を追いつめ、他にすがるべき言葉も無くうつむく。
「神よ、私は」
 神官は身体をよじらせ、ベッドを拳で叩いて声にならない叫びをあげた。

 ここにシャノアを評する二つの言葉がある。
「欲望の街」、
「二つの顔」。危険きわまりない船旅で鬱憤をため込んだ船員たちが、歓楽街で常軌を逸したらんちき騒ぎを起こしてまわる一方、瀟洒かつ機能的な各領の商館が整然と立ち並ぶ港界隈は、治安のひとつも乱れる様子がない。むろん、その裏には至極まっとうな理由がある。誰も指摘しないだけのことだ。
 それらの中で有力とされるギルドは、銀を商うギルドである。銀ギルドの商人は、シャノアに集中した大陸産物資を、海を隔てた隣国バクラントに産する銀と交易する。今ではその銀が王国の貨幣経済を支えていると言っても過言ではない。
 それゆえシャノアはルイネード侯領にありながら国王より直々に任命される総督および議会を中心とした自治体制を布くことにより、ラグラーナ王国の直轄的支配下におかれている。現在、シャノア総督の任にあるのはレグラムという官僚だった。
 そのレグラムのもとに、今、二組の客が訪れている。一方は招かれざる客だった。

 開けはなった窓からは、太陽の光を反射して金鱗のようにかがやく紺碧の海が見下ろせる。さらに遠くへ目をやると、さまざまな地方独特の模様に染め分けられた帆をたたみ停泊する優美な帆船や、近海沿岸をたどってやってくる底の広い貨物船などが数十隻、沖に碇を降ろして入港を待っているようすが見てとれた。
「で、巡察使どの、本日はどういった御用向きで」
 突然の訪問に、レグラムはせわしない仕草で汗を拭き、すでに空となった鬱金のゴブレットを再度口に運んだ。
 王国巡察使。自治区の内情を調査する任務を帯び、時には強権を持って不正を弾劾する国王直属の調査官とその部下。ある種の人間にとっては疎ましい部類に入る職名だ。
「黒薔薇が表立って活動していると分かっていて、なぜ何の対処もなされていないのか、それをお聞きしたいのですわ」
 ラグラーナ王国巡察使ラトゥース・ド・クレヴォーは、青くきらめく瞳でレグラムを見つめた。おっとりと品の良い顔立ち、喉元まである清楚な若草色のドレス姿にレースの手袋をはめ、白いつば広の羽付帽子を膝に置いている。さながらサロンへ赴くかのような出で立ちではあったが、あからさまにちらりと威光を垣間見せて憚らぬ王国紋章入りのサーベルを携えている。
 レグラムは目をそらし、卓上の呼び鈴を振った。現れたメイドに冷たいはちみつ果水をなぜもっと早く持って来ないのかと八つ当たりし、うろたえる背中にとげとげしく追い打ちをかけて追い払い、さらにまた汗を拭く。
 一方、レグラムの隣には、本来の客である男が座っていた。銀ギルド長カスマドーレである。胸元に金ラメを散らした薄絹の襟巻きをいれ、たっぷりした緑のガウンを着て、傲岸な姿勢で手を腹に乗せ、長椅子にもたれている。太い指には驚くほど大きな銀の指輪がはめられていた。
「いやなに、黒薔薇と言われましてもね。実際は何の後ろ盾もないような連中が、何かそれらしき組織の名をかたりさえすれば脛に傷持つ者どうし恫喝できるということがまかり通ってまして。そういった連中の要求額と言えば、遊ぶ金ほしさのゆすりたかりのようなもので、すぐ見分けがつくと言えばつくわけで、さような訳ですから治安が悪いと言ってもさほど最悪というわけではなく、別段改めて書類に起こすとかご報告申し上げるなどしてお手を患わせるまでもなかろうというのが、われら議会と自警団共通の認識であり議決なのです」
 銀ギルドの長は、レグラムの狼狽ぶりとかけ離れた逃げ口上をのらりくらりと述べ立てた。なるほど、顔は笑っているが眼の奥底はまるで違う。ラトゥースはいかにもな表情で何度もうなずいてみせた。
「なるほど分かりました。そういうことならば特に調査する必要もありませんね」
 レグラムの顔が思わず安堵にゆるむ。ラトゥースはすかさず続けた。
「ではもう一件。シャノアから奴隷が輸出され、代わりに何処かより密輸入された麻薬が蔓延しつつある、と聞いております。とくにここシャノアでは」
 ラトゥースは短く言葉を切って、相手がどう反応してくるかを観察した。
「見るに耐えぬ有様との噂。というのも、本来ならば水際で摘発すべき側にある役人の大多数が、奴隷商人、麻薬商人から賄賂を得て黙認しているとかいないとか」
「断じてそのようなことはない。失敬な」
 突然レグラムは激昂して立ち上がった。ラトゥースを威圧するかのようにテーブルを叩き、怒鳴りつける。はずみで空のゴブレットが倒れた。底に残る薄黄色の果水がこぼれ、コースターに染みてゆく。ラトゥースはこぶしを振り上げるレグラムを含みのある目線で見上げた。涼しげに笑ってみせる。それでいて何も言わない。
「総督、落ち着きなさい」
 ラトゥースの口元が皮肉に微笑んだのを見たのか、銀ギルド長は鼻白んだ口調でレグラムをいさめる。レグラムは苦虫をかみつぶしたような顔で押し黙った。
 声を荒げれば脅しに屈するとでも思っているのか。ラトゥースは内心、呆れ果てた。つまらない小心者もいたものだ。実際のところラトゥースにとっては、その程度の脅迫など日常茶飯事にすぎなかった。若すぎる年齢とたおやかな外見は、特にこういった任務を遂行するにあたって足元を見られやすい。だがそれゆえ相手が油断してつい高圧的に恫喝したり、あるいは本性をのぞかせてしまうことも少なくない。このいけ好かない官僚のように、だ。
「基本的に、シャノアにはくずのような人間が多すぎるということです」
 カスマドーレは組んだ指から人差し指だけをほどき、かすかにいらいらと突き合わせた。幅広の指輪が陰鬱な銀の色に光っている。
「働きもせず、酒を飲み騒ぎ治安を乱しては無闇にはばかる連中がおります。我々の眼が行き届かぬ裏路地、城壁の中、排水溝はドブネズミの巣となる一方。足がつかぬのを良いことに、そういう輩をわざわざ好んで悪事に飼い使う者もおるとまで聞き及びます。それががもし寄り集まり騒ぎ出せば何をしでかすか分からないというのに、どういう了見か、
「困っている人を見捨てないでほしい、クズどもに仕事をまわせば治安が良くなる、議会も救民に協力せよ」だなどとつまらぬ不平ばかりを言ってくる愚か者もまたいるのです。ご存じのように当市には
「救民法」が存在します。健康でありながら仕事をせぬ者に公共の仕事を与える法律です。これ以上の恩恵はないでしょう。もし黒薔薇とかいう組織が存在し、シャノアで奴隷狩りを行っているとしても、考えようによっては
「救民法」でさえ救えない犯罪者予備軍を一掃するに等しく、我々善良なる市民としてはつまり」
「つまり奴隷売買は公然とした事実であり、しかも誰一人としてそれをとがめようとしない――あるいはできないとお認めになるのですね」
 ラトゥースはカスマドーレの言葉尻を捕らえた。そのくせレグラムだけを見つめて言う。レグラムは鼻髭をいじりながら尻すぼみに答えた。
「とにかく被害の訴えがありませんので、我々としてはどうにも……」
「分かりました」
 ラトゥースは天真爛漫な微笑みをうかべ、傍らに立てかけるようにして置いていた剣を取って立ち上がった。
「そういうことでしたら。では失礼。貴重な執務時間を割いていただき有り難うございました。シェイル、行きましょ」
 ラトゥースは後ろに控えた大柄な女軍人をうながし、部屋を出た。総督館を出て、表に待たせていた黒塗りの二頭立て馬車に乗り込む。
「お待たせ、ベイツ。出して」
 ねずみ色の外套を着込んだ御者が馬に鞭を入れる。馬車はゴトゴトと走り出した。
 長年にわたり増改築を重ねたせいだろうか、いつの時代の何様式かも分からなくなったかつての海城、シャノア総督府を後にする。
 城から市街地へ抜ける馬車道は狭く、入り組んで、たいそう進みづらかった。古い石造りの城壁と海水を引き込んだ壕とが、さながら迷路のように行く手を阻んでいる。運河を挟んですぐ目の前に跳ね橋が見えているのに、いつまでたっても目的の地点へたどり着けない。橋を一本渡り間違うと、もうどこをどう走っているのか、さっぱり分からなくなるのだった。
 通算五度めの迷子になったあと、御者はよれよれしたコートをはためかせ、すまなそうに首をねじって振り向いた。
「すんませんお嬢さん、また間違うてしまいました」
「いいのよ。今度来るときはこっそりと城郭地図を用意しておくわ」
 さすがに申し訳なく思って、ラトゥースは御者に慰めの声を掛けた。
「その呼び方は止せ」
 シェイルが苦々しく戒める。ラトゥースは笑ってシェイルをなだめた。装いに似合わぬ仕草で肩をすくめる。
「呼び方なんてどうでもいいわ」
 手にした包みをほどき、座席に放り出す。なめらかにきらめく銀白地に金象眼をあしらった、こしらえの良いサーベルが現れた。
「それにしても、あのギルド長、何て言ったかしら。カスマドーレか。信じられない。この私に向かって、こともあろうにあることないことよくもまあぬけぬけと」
「同感です」
 女軍人のシェイルは腕を組み、つんとした顔で同調した。
「ふざけた連中かと」
「治安が悪いのは、市政を預かるものに良くしようという気がないからよね」
 ラトゥースは向かい側の腰掛け下部を蹴飛ばした。気のない音がした。
「いくら表向きの肩書きが銀ギルド長だからって、あの調子じゃ裏で何やっててもおかしくない。というか、もしシロなら、私には人を見る眼がないってことだ。無実の人に濡れ衣を着せ歩く前に陛下に申し出て職を辞させていただいて、婿探しのパーティにでも夜ごとお勤めした方がましよ。ひらひらしたドレスにプンプン香水ぶっかけて
「マアなんて素敵な王子様じゃなくって!」とか何とか言ってさ」
「おたわむれを」
 シェイルは相変わらずの仏頂面で受け流す。
「調べますか」
「そうね、少なくとも銀ギルド長御自らレグラムを訪ねる理由ぐらいは」
 その口調はむしろうきうきと楽しそうだった。白日に曝すべき秘密のありかを求め、青い眼が勢い込んで輝いている。
「いくら相手が総督とはいえ、たかが賄賂の受け渡しにギルド長みずから出向くわけがない。何か他の用事があったに違いない。もっと重大な何かが」
 車窓の景色が軽快に流れ出す。馬車はどうにか跳ね橋の迷路を抜け、シャノアの港に近い倉庫街を走っていた。山と積まれた麻袋を積んだ荷車を引くロバや、自分の身長よりも高い荷物を平気で担いで歩く荷役夫などが次々に行き過ぎ、または馬車道を平気でのろのろ横切ってゆく。ラトゥースは何気なく続けた。
「黒薔薇の連中が動いてると分かってて、見て見ぬ振りしてるのだけは許せないの」
「袖の下をつかまされているのでしょう」
「まったく。こっちはそれどころじゃないっていうのにね」
 ラトゥースは大げさにため息をつくと、ぼんやりと首を傾けて、遠い東の空を見つめた。
「もし、本当に黒薔薇が陛下のお命を狙う何者かのたくらみに荷担しているのだとしたら。それだけはどうしても阻止しなければ」
 半分開けた窓から差し込む陽が、馬車が揺れるたび、定期的に行き過ぎる影となって、ラトゥースの表情を明から暗へ移ろわせてゆく。
「そのためだったらどんな手を使うことも厭わない。たとえこの身を投げ出すことになろうとも、ね」
「姫、それは」
 柳眉をつりあげて反論しかけたシェイルに気付いて、ラトゥースはふっと表情を和らげた。
「ごめんね、シェイル。あなたにはいつも心配を掛けて申し訳ないと思ってる。でも、本当のところ、黒薔薇のこと以外はどうでもいいの」
 つばの広い帽子をとり、くしゃくしゃと端を丸めながら、飾りの白い羽根とビーズを指先でいじる。ほんのり淡い光をはなつ金色の巻き髪が、襟足から柔らかくこぼれてはねた。
「昨日の赤毛も、もしかしたら……」
 どこか上の空でつぶやくラトゥースの眼が、ふと街のある一角で止まった。倉庫街の入り組んだ路地の合間から、見慣れた形のしるしを戴いた尖塔が一瞬のぞく。ラトゥースは眼を輝かせるなり、がたがたする窓をいっぱいに引き開け、上半身を乗り出した。まばゆい南国の風が、髪をさあっと吹き散らかす。
「あっち、ほらベイツ、見て」
 ほがらかにラトゥースは叫んだ。帽子をつかんだ右手を大きく振りまわす。後方へと流れていく視線が、幾台かの馬車越しに併走する地味めな服装の騎兵を捕らえた。
 御者台のベイツが仰天した顔で振り返った。
「うわっお嬢さん何っ、危ないって」
「ベイツ、戻って。塔が見えたわ。マイアトール神の聖堂よ」
 叫んだとたん、石畳の隙間に落ち込んだのか馬車は壮絶に跳ね上がる。ラトゥースは潰れたカエルもどきの声をあげて天井に頭をぶつけ、あわててつり革にしがみついた。
「やっぱりね。思った通りだわ」
「は?」
「いやいやこっちのことよ。それよりまわれ右してちょうだい」
 言いながら頭を引っ込める。ラトゥースは上気した微笑みを浮かべ、シェイルを見つめた。
「思いきり後をつけられてたわ」
「レグラムでしょう」
 シェイルは面白くもなさそうに答えた。そう言いつつ、手はとうに剣の柄頭に置かれてある。
「無理はなさらない方が」
「うん。でも表の地位をふいにする危険を冒してまで、私たちを排除する勇気はないんじゃないかしら。胡散臭い部分を嗅ぎ回るのではないかと危惧していて、それで後をつけ回す。と、思うのだけれど」
 ラトゥースの意見を聞き、シェイルはやや遠い眼をした。好ましくもない記憶を呼び起こされたような顔でうなずく。
「確かに奴は昔からこざかしい卑怯者でしたが」
「知ってるの」
 ラトゥースが尋ね返すと、シェイルの張りつめた眉間に露骨な皺が刻まれた。
「王都ハージュ守備隊の禄を食む身であったはず。端役でしたが、とある問題を起こして」
「知らなかったわ」
 ラトゥースは声をかたくした。
「でも、それなら少しはクレヴォーの名に反応してもよさそうなものだけれど。何、それって私が無視されたってこと?」
「相当前の話ですから。過ぎた、あるいは終わった出来事だと思わせるには十分すぎる年月です」
 シェイルは言外の意をにおわせながら諦めた口調で答える。
 やがて馬車はマイアトール聖堂門前で止まった。車止めに寄せたあと、ベイツが外から木窓を叩く。
「着きましたで。どないしますの」
「もちろん降りるわ。ありがとう」
 ラトゥースがにこやかに応じている間、シェイルは馬車の天蓋に手を掛け、身体をかがめて先に降りた。反動で馬車があやういほど傾く。片輪があきらかに浮いた。御者席の足下から薄汚い革袋が滑り落ちかける。砂埃によごれた黒い靴がとっさに革袋を踏みつけた。
「えへへ、えへへ、わし、ここで待っとくんで」
 ベイツはしわくちゃになった革袋を大事そうに拾い上げた。中から水のゆれる心地よい音が聞こえてくる。シェイルは、ほどけかけた結び目からのぞく古ぼけた緑の瓶とコルク栓に眼をとめた。無言で睨み付ける。
 ラトゥースはシェイルに手を取ってもらって馬車から降りた。回りの景色を見渡し、感嘆の声を上げる。
「うわあ、綺麗。まるで湖みたい」
 一直線に敷き詰められた石畳が、青緑の光をきらきら反射している。左右の街路樹がおとす木漏れ日もまた、春の日の湖水のように柔らかく揺れていた。
 大聖堂前通りの突き当たりは鬱金の瓦で葺かれた門になっている。向かって右に、憤怒の火を剣にまといつかせた黒大理石の聖騎士像、左には竜笏を手にした白大理石の隠者像。せり上がって立つ二聖像の視線は、父なる太陽神の境内へ立ち入ろうとする者の魂を射抜かんばかりの神々しさだ。ラトゥースは手をかざし、敬慕のまなざしで伝説をかたどった神像を見比べた。
「姫、あちらを」
 シェイルが押し殺した声を上げた。ラトゥースは声にうながされ、木立の向こうに点在する堂の彼方へ眼をやった。その顔がふいに曇る。さして広くもない聖堂前の広場を、薄汚れたぼろを身にまとったものたちがうめつくしている。
 ラトゥースは眉をひそめた。この街の二面性は誰もが知るところだ。銀を商う豊かさの一方で、繁栄から追いやられた人々の暮らしは荒んでいる。ラトゥースは足早に広場を横切り、彼らに近づいていった。ところがいざ傍に寄ってみると、その集団は、意外なほど整然としていて、気がおけない笑い声さえ聞かれるほどだった。皆、生活に疲れ果てた様子ながら、それぞれが欠けた椀や錆びた深皿を手に、顔を明るくさせている。視線を行列の先頭に転じると、人々が楽しそうにしていられる理由が分かった。経堂の前に広げられたテーブルに、蔦編みかごに山と積まれた固焼きのビスケット、土鍋いっぱいにとろけるチーズ、とりどりの色にゆでられた野菜、スープの甘い湯気が立ちのぼる大鍋が並んでいる。辺りはふくよかに漂うサフランの香りでいっぱいだ。
 ゆったりした墨衣に鬱金のサッシュをしめた、マイアトール神官独特の装いをした者が数名、一人一人にビスケットを手渡し、次々差し出される椀にスープを注いでまわっている。
「ちょっと美味しそうかも……」
 ラトゥースは目を丸くし、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「お見苦しいことはおやめください」
 シェイルが苦々しく咳払いする。
 近づく声に気付いたのか、神官の一人がふと顔を上げてラトゥースとシェイルを見た。黒いまなざしが不穏に見開かれる。だが、列の先頭にいたものが声をかけると、その変化はたちどころに消えて失せた。神官はぎごちなく笑い返し、何でもないと言うかのようにかぶりを振ってみせる。神官の態度から、皆がラトゥースと、そして威圧的な軍衣を身につけたシェイルに気付いたようだった。列にざわめきが広がり始める。さして後ろめたくもなかろうに、それぞれ隣り合った者どうしが何ごとかをひそひそと耳打ちしあっている。ついに、黒い目の神官は意を決した目をラトゥースへとむけた。木杓子を鍋に置き、手を濡れ布巾でぬぐう。
 マイアトールの神官は、表情を堅くしたまま、ラトゥースの前へやってきた。
「何か問題がございますでしょうか。本日の行事については議会にも自警団にも届け出済みですが」
 左のこぶしを右手で包み込み鼻先まで持ち上げて、膝を軽く折る。胸元に黒い石をあしらったペンタグラムが揺れていた。
 ラトゥースは優美にドレスをつまんで礼を返した。
「申し訳ございません、私は王国巡察使、ラトゥース・ド・クレヴォーと申します」
 その名を耳にしたとたん、神官の表情に薄暗い影が射した。だがすぐに神官は取りつくろいの微笑みをうかべてしまい、一瞬の動揺も同じく秘め隠された。
「それはそれは、ようこそおいで下さいました」
 どこか執拗な視線が追いかけてくる。ラトゥースは不覚にも受け止めかね、たじろいだ。
 列を離れたところでは、既に食事を終えた子供たちが棒きれや板を持って駆け回っていた。乱暴に殴り合ったり突き転ばしあったりしているようにも見えるが、それは大人の目線でしかない。ころころと笑い声が響き渡っている。
「これは、何の行事でしょう?」
 神官はふと、疲れたため息をついた。陽のまぶしさに眼を細めながら、手をひさしにして子供たちの歓声をみつめる。
「ご視察おそれいります。不定期ではありますがたびたび行われております慈善の行にございます」
 神官の刺々しい気配が少し薄れてきたように思って、ラトゥースはほっとした。
「素晴らしいことです。マイアトールの慈愛に触れ、人々の信仰もまたいや増すでしょう」
「神の思し召しなれば」
 神官はかすかに目をそらした。なぜかシェイルが矢を射るようなするどい気配を神官へと突き立てる。その態度、気に掛からないと言えば嘘になる。だが、畏れ多くも太陽神マイアトールの神職にあるものに対し、罪人に対処するがごとく問いつめるのはさすがにはばかられた。
「ギュスタさま」
 気配を感じ取りでもしたのか、周辺の子供たちが寄り集まってきた。顔を煤で汚した少年が、思いつめた顔で神官の袖を引っ張る。
「どうかしたか。顔色、悪いぞ」
 神官はぼんやりと子供を見下ろし、我に返った様子でふと目を瞬かせた。
「ああ、リカルド。元気でしたか。みんなも」
 年の頃は十前後、といったところか。リカルドと呼ばれた少年が履くズボンは膝までしかなく、色の褪せた継ぎが当てられていて、それもまたほつれて左右互い違いになってしまっている。靴も同様にすりきれ、割れた爪先からは指がのぞき見える始末で、もはや靴とは名ばかりの足袋にすぎない。他の子供たちも似たようなもので、男も女もその点に関してだけはさしたる違いを持っていなかった。
「メイレルの具合はどうですか」
 犬のような臭気を放つ栗色の髪を、だが神官は優しい手でくしゃくしゃと撫でた。
 少年は唇を曲げ、ためらいがちにかぶりを振る。
「あんまり」
「そうですか。じゃあ、後で私の部屋へおいで。薬を調合してあげよう。他には何もなかったね。危ないことはなかったかい」
 神官は腰をかがめ、ゆったりと膝をついて少年の目の高さにまで降りる。
「もう、食事はすませましたか」
「まだ」
 無愛想な返事。だが、決まった仕事を持たず、庇護してくれる親も後見人もない子供が、半ば群をなした野良犬のように生きてしまうのは致し方ないことなのかもしれなかった。
「ギュスタさま、おれ」
 リカルドは団子鼻の下を指の背でこすった。息苦しげに言葉を継ぐ。
「神官様の言われた通り、今週、ずっと働いた。湯屋のさ、火焚き。メイレルが……いた店。かっぱらい、しなかった」
「ああ、リカルド。それはとても良いことです。マイアトールのお導きだ。おなかもすいているでしょう。早く食事をしていらっしゃい」
 神官は少年を抱き寄せ、頬を寄せて、こころから希望の嘆息をもらした。リカルドは一瞬、照れくさそうに身じろぎした。赤いくちびるがわずかにゆるみ、子供らしい表情をのぞかせる。
 しかし少年の眼はすぐに陰気な色に染められ、くらくなった。何か恐ろしい光景を思い出しでもしたのだろう。リカルドの顔は大きくゆがんだ。声がふるえる。
「ヴェラーノが、捕まった。やめろって言ったのにさ。あいつ、盗みに入ったんだ。そしたら、大人に殴られて。蹴られて。血だらけで連れて行かれちまった……帰ってこないんだ」
「リカルド」
 神官は強い力で少年を抱きしめた。
「私の部屋で待っていてください。みんなにも来るように言って。院長様にお許しをいただきました。人さらいが――増えています。これから夜はずっと私の部屋にいていいのです。どこにも行ってはいけません」
 リカルドは力なくうなずいて、去っていった。よろよろと肩を落として歩いていくその後ろ姿を、神官は殺伐とした眼で見送った。そのまま眼を堅くつむり、うつむく。
「彼らは何を怖れているのですか」
 ラトゥースの声に、神官はようやく顔を上げた。
「すべてをです」
 神官の声はやましさと後悔にあふれていた。
「シャノアは、彼らのような子が生きて行くにはあまりに惨すぎます。盗みをせねば生きて行けない。それゆえ良識ある大人に疎まれ、悪辣な大人には弄ばれる。なのに、私は」
 ラトゥースは苦々しい面もちで港を振り返った。
「かどわかされ奴隷として売られてゆく子たちがいるとも聞いています。もし、何かご存じなら」
 神官は顔をそむけた。
「申し訳ありません……リカルドが待っています。行かなければ」
 そのとき行列の最前列、テーブルの前から数人の言い争う声が聞こえた。たちまち人だかりができる。揉みあった拍子に誰かがテーブルに倒れ込んだ。大鍋の中身が今にもあふれ返りそうなほどに揺れる。あちこちから情けない悲鳴があがった。ラトゥースが何事かと目を向けた時にはもう、近くにいた神官が割って入り、袋叩きに遭いかけていた一人を助け出していた。
 その男はどうやら酔っているらしく、不届きにも神官の手を振りほどき、深皿を鍋に投げつけた。椀は鍋の中に落ち、中のスープを跳ね散らして、テーブル全体をびしょぬれにした。 列の中途から不穏なうなり声があがる。神官たちがいそいで人々をなだめる。ぎすぎすした場の雰囲気が収まるころ、当の男はいつの間にか姿を消していた。
「では最後に一つだけ。こういった慈善活動はどうやって行われているのでしょう」
 神官は言いよどんだ。眼が偽りの彼方を探して泳いでいる。
「この施しは、とある篤志家による寄付でまかなわれております。ですが、そのお方は故あって名を出すことも、あるいは聖堂に対し喜捨が行われていることさえ口に出すことを喜ばれません」
ラトゥースは用心深く肯いた。
「分かりました。今はお役目中の身ゆえ、何のお力添えもできませんが、生国へ戻った折りには必ず、シャノアの窮状を陛下と宰相閣下に直接お伝えし、対策いただけるよう、上申いたしましょう」
「何と。それはまことですか」
 神官は心からの驚きと微笑を浮かべ、ラトゥースの手を両手に取って強く握りしめた。が、握った掌がやんごとなきものであることを思い出したのか、我に返って手を離し、あとずさり膝をつく。
「失礼をいたしました。エルシリア侯姫の御手をつい」
 おそれ畏まった神官を見てラトゥースはあわてて手を添え、立ち上がらせにかかった。
「どうか顔をお上げください。神に仕える方が、わたくし如き世俗の者になど」
 その様子を察したか、別の神官が慇懃に近づいてきた。
「ようこそおいでくださいました。当院の長ダルジィが、もしよろしければ茶湯に招かせて戴きたいと申しておりますが」
「おお、それは忝ない、ありがたいお申し出ですが」
 心の底から残念だという気持ちを表しながら、ラトゥースは遠くの空を見上げてみせた。
「怪我をした仲間を宿に残しておりますので、そろそろ戻らねばなりません」
「それは残念」
「申し訳ありません。またいずれ改めてご挨拶に伺わせていただきます」
 残念そうな顔、気後れした顔、それぞれに見送られ、ラトゥースとシェイルは馬車に戻った。
 取り急ぎせねばならないことがたくさんありすぎる。今すぐ手を着けられる用件は目下のところ一つ――しかしそこから派生する問題と、行く手に立ちはだかるであろう無数の障害を思ってラトゥースは憂鬱になった。ところがのんきなことに御者のベイツは腕に葡萄酒の空き瓶を抱きかかえ、ごうごうといびきをかいていた。シェイルがその膝をこづいて起こす。
「ああ、お帰りんさい」
 大あくびをこらえ、ベイツは身を起こした。よだれを袖で拭き、酔っぱらった充血の眼でラトゥースを見返す。
「寝起きで申し訳ないけれど、宿までお願い。でも、くれぐれも安全運転でよろしくね」
 ラトゥースは馬車に乗り込み、帽子を横に置いた。背もたれに身体をあずけ、うんと小難しい表情をつくる。
「さてと、そろそろ目が覚めててもおかしくない頃合いだけれど、どう攻めたものかしらね、あの赤毛……?」

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