血と薔薇のシャノア

3 殺し屋と姫

 全身が燃えるように痛んだ。寝返りも打てない。悪夢が襲っては引いていった。黒服の殺し屋たちが、どこまでもしつこく追いかけてくる夢。不意をつかれ、襲われ、ぼろぼろに貪られ、闇に引きずり込まれる。全身に傷を負い、身動きひとつできないのに、地面から細い手が何本も伸びて足首をとらえ、首や顔に張り付く。
 手は身体中をまさぐり、皮膚を剥ぎ取る。ばらばらと音を立ててこぼれおちる肉と骨のかけら。欠けていく顔を涙で濡らしながら、はぐれた心と身体、それぞれの部品を必死でかき集める。闇にのっぺりと浮かぶ巨大な顔が見えた。見たくなくて、強く頭を振る。だが無数の手が強引に顔を真正面にねじ向けさせる。こわれた身体から、歯車とネジがぼろぼろ落ちる。砕け散るガラスのかけら。だらりと垂れ下がる操り人形の糸。前を見ず、後を顧みることもせず、ただ生かされているだけの人形――
 悲鳴を上げる。巨大な口が轟音を発した。
 眼を押し開く。部屋中が真っ赤に見えた。ハダシュは声をほとばしらせかけ、そのまま絶句した。飛び去った悪夢の代わりに、しみの浮かんだ茶色い天井が見える。
 開け放たれたままの鎧戸から見える風景は、いつもと同じ変わり映えのしないものだった。深い陰影に沈む街と、はるか遠くにきらめく透きとおるような夕暮れ。重厚な宗教音楽のように、街並みと切ない陽射しとがどこまでも連なっている。そぞろに鳴きかわす海鷲の声が聞こえる。巻き舌を震わせるのに似た、水笛のような鳴き声。
 生きている。それが、不思議だった。
 命があっただけではなく、安静な状態でベッドに横たえられ、拷問も暴行も受けずにすんでいる。その現実を受け入れられるようになるまで、ハダシュは呆然と天井を見上げ続けていた。ここがどこなのか、なぜ、こんなところに寝ているのか、全く覚えがない。
 とまどいつつ、わずかに首をねじる。枕元の台に小さな金だらいと縁に掛けられた手ぬぐい、陶器でできた薄緑の水差し、使いさしの包帯の残りや錆びたはさみ、血の付いた布切れ、それと茶色の瓶にはいった消毒用の薬――おそらくは酢かアルコール――それらの治療道具一式が、出しっぱなしで放置されているのが見えた。一瞬、レイス医師が助けてくれたのか、と考える。あのお人好しならもしかして、と。
 差し込む西日に、瓶の中の液体がきらきらと揺れ輝いている。そのゆらめきを見つめているうち、ぼんやりとではあるが気を失う直前までの記憶が戻ってきた。背筋がぞくりと冷たくなる。ハダシュは自嘲のため息をつき、運命を呪った。生き長らえさせる理由があるとすれば、それは苦痛を長引かせる他にはありえない。むしろこんな現実なら悪夢の方がまだましだった。
 まずは起きあがるために、ゆっくりと身じろぎする。腕は自由なままだが、足は動かない。添木をあてられ、包帯できっちりと巻かれている。無理やりに膝を折ってみるが、待っていたのは灼熱の激痛だけだった。歯を食いしばり、無様にうめく。
「あら、お気付きになられましたのね」
 軽やかな声が降りかかった。
「お加減はいかが?」
 歯切れの良い足音が部屋を横切り、窓辺に回り込んでくる。どうやら感覚が鈍っているらしい。声がするまで、人の気配など微塵も感じなかった。さらに、その事実に気付いた後でも恐怖がわきあがって来ない――殺される可能性もあるというのにだ。
 心の平衡が壊れているのかもしれなかった。それもいい。恐怖は自衛本能の一種だ。命に重みを感じられない人間は、恐れも痛みも覚えないだろう。そうなれば簡単に死ねる。命を棄てられる。ハダシュは、声の来る方へぎごちなく顔を向けた。
 手に湯気の立つカップを包み持った少女が、葡萄茶色の長椅子にふわりと腰をおろす。 ハダシュはわずかに目を瞠った。一目見るだけで、違う、と分かった。微笑みの柔らかさが、住む世界が、呼吸する空気が違う。何もかも違う少女。
 一直線に差し込んだ真紅の夕日が、やわらかな金の髪を陽炎のようにゆらめかせている。まるで絵の中からそのまま現れ出でたかのようだった。印象的なまなざし。見たことも、言葉を交わしたことすらない、遠い光の彼方にいるたぐいの――
 逆光が優しげな表情を秘め隠した。
「どうしたの。まさか怒ってるんじゃないでしょうね」
 少女はハダシュの刺々しい視線に気付いて、皮肉に口元をゆるませる。
 言い返そうとしたが、うまくいかなかった。声が出ない。喉に綿が詰まっているような気がする。少女はいたずらな子狐のように笑った。
「私が助けを呼んでこなかったら、たぶん今頃は、どこかその辺の海にぷかぷか浮かんでる最中だと思うの」
 貴族の令嬢がおいそれと口にできる類の台詞ではない。が、それだけは事実だと認めるしかなさそうだった。どういう意図があるにせよ、治療もされている。戦闘で破れた服は脱がされ、打撲の後には膏薬が、無数にできた裂傷には血止めの布と包帯をあてがってある。だが、守るもののない剥き出しの両肩はやけにこころぼそく、うすら寒かった。
 ハダシュは苦々しいかすれ声をしぼり出した。
「さっきのクソ餓鬼か」
「何それ」
 とたんに少女はむっとした声でさえぎった。どうやらそちらが本性らしい。
「どさくさに紛れて、さ、触ったくせに」
「触って分かるようなものには触ってない」
 ハダシュはひねくれた笑いを浮かべた。馬鹿にした目で少女を見返す。
 少女は耳まで真っ赤に染めた。
「ぶっ無礼な、エルシリア候姫に向かって何という」
 今にも噴火しそうな顔で息を喘がせる。
 状況の情けなさにもかかわらず、ハダシュはつい身を堅くした。少女は今、エルシリア、と言った。都のある東国の地名だ。黒薔薇が口にしたことを聞きとがめられたか。答えを見いだせないまま、その場のごまかしもかねて、何とか起きあがろうと無駄な努力を重ねる。少女はため息をひとつして、ハダシュをしょんぼりと見た。さすがに手を貸してくれる様子はない。
「どうして俺を助けたりした」
 とりあえず媚びてさえいれば状況は悪くならないだろう。ベッドに身を預け、ぼんやりと天井をながめる。黄ばんだ染みの形が、歯を剥き出して笑う悪霊の顔に見えた。
「どうしてと言われても」
 少女はやや皮肉っぽく青い目をみひらいた。
「困っている人はそれを助けよ、でしょ。太陽神マイアトールの教えよ。献身的で義侠心あふれる、いかにも騎士道精神に則った行動だと思うけど」
「そんな甘っちょろい考えで寝首を掻かれた奴なら、腐るほど知っている」
 ハダシュは半ば自棄的に呟いた。
「ずいぶん荒んでるのね」
 少女は肩をすくめ、カップに口をつけた。甘いミルクの香りが漂う。
「ま、それはいいとして。あなたのお名前を聞かせていただこうかしら。何であんな連中に襲われてたのかも、よければね。ついでに言っとくと私はラトゥース・ド・クレヴォー。生まれは東国エルシリア、この地を統べるラグラーナ王家に仕えしクレヴォー家の姫にして法の執行者たる宰相閣下のしもべ、なぁんちゃって」
 ハダシュは笑えないまま眼を伏せた。
「馬鹿か、てめえは」
 奇妙な間が空く。王家に仕える貴族あるいは騎士ということは、すなわち闇世界の住人の次に芳しくない連中――外部の役人ということになる。
「あら、そう、ごめんあそばせ」
 嫌な予感を感じてハダシュは顔を上げた。思いも寄らない、小悪魔的な微笑が眼に飛び込む。
「人を呼んだほうがいいみたいね。キャー誰か助けてー」
「ま、待て」
 ハダシュは思わず手を伸ばそうとして、全身をつらぬく痛みに顔をゆがめた。それ以上動くこともできず、ただ、うめく。
「うわ、大丈夫? ごめんなさい、ほんの冗談のつもりだったのに」
 あわてた素振りでラトゥースは屈み込んできた。大きく見開かれた青い瞳が、心配そうに揺れ動いて近づいてくる。
「来るな」
 ハダシュは乱暴な声でラトゥースを振り払った。澄みきった無垢な瞳が恐ろしい。いや――その眼にまざまざと映り込む自分の姿こそが、何よりも疎ましかった。
「そんなことよりもだ」
 吐き捨てるように声を荒らげ、話をすり替える。あの女の記憶が、惑乱する幻の痛みとなって心をかき乱していた。ヴェンデッタならたちどころにこの場所を突き止めるだろう。そうなれば、また。
「誰にも気付かれてないんだろうな」
 自分は良い。襲われても自業自得だ。だが。
 穏やかな微笑がラトゥースの口元に登った。
「心配しなくても大丈夫」
 ハダシュの思いを見透かしたか、ゆっくりと落ち着かせるようにかぶりを振る。冷静な仕草だった。
「なぜ分かる」
「なぜって言われても」
 ラトゥースは眼をぱちくりとさせた。表情に困惑の色が射す。
「見られないよう用心したからなんだけど」
「奴等を知ってるのか」
 畳みかけた問いの意図をそらすかのように、ラトゥースはあからさまにとぼけた素知らぬ顔でくすりと笑った。天真爛漫な人形のように、ちょこんと肩をすくめ、小首をかしげる。
「ま、それはともかく。今は何よりもまず怪我を治すのが先決だと思うの」
 ラトゥースは椅子の座面に手を突いて押しやり、勢いを付けて立ち上がった。
「あとで夕食の差し入れにくるわ。何か食べたいものはある?」
 ハダシュは答えなかった。
「もちろん、ご期待に添えるような大層なディナーは用意できないけど……」
 ラトゥースは答えを期待するでもなくカップを干して、テーブルへ置きに行く。破鐘のような銅鑼の音が、磯の香り混じる潮風に乗って遠く聞こえてくる。わずかに身をかがめた姿に夕日が遮られ、均整の取れた影が黒く浮かび上がった。
「何?」
 微苦笑混じりの問いかけに、ハダシュはようやく我に返った。無意識にラトゥースの動きを眼で追っていたと気付いて、わずかに狼狽える。
「別に」
「え、なになに、なあに?」
「うるせえ、黙れ。話しかけるな」
 ラトゥースはたちまちむすりとくちびるを尖らせた。
「せっかく治療してあげたのに。何その言い方」
「勝手にそっちが絡んできただけだろうが。誰が治療しろと頼んだ」
 さらに言いつのるかと思いきや、ラトゥースは唐突に口をつぐんだ。
「……本当にひどい怪我だったのに」
 言い放つなり、断ちきるように背を向けてしまう。
 ハダシュはたじろいだ。ラトゥースはうつむいて机に手をついたまま、じっとして動かない。風もない。人気もないせいか、外の物音すら聞こえなかった。ハダシュはベッドから身を乗り出そうとして、また唸った。謝るべきか、それとも。まんじりともせずにただ黙り込む。
「ま、いいか」
 ラトゥースは顔を上げた。
「それもそうよね。確かに恩着せがましいのはよくないわ。いけないいけない、気をつけなくちゃ」
 ローブの裾をふわりとひるがえらせて振り返る。微笑みが戻っていた。まるで猫の目のようだった。ころころと表情が変わって、そのどれもが万華鏡のように驚きの連続だ。
「そうそう、怪我と言えばその背中だけど」
 もう完全に話題が変わっている。高低差の激しさにハダシュは今度こそ呆気にとられた。先ほどの落胆は何だったのか、などと思う間もない。ラトゥースは無防備な少女よろしくハダシュの傍へと近づいてきた。
「見せて」
 とっさにあからさまな嫌悪を浮かべて身を引く。
「何よ、逃げなくてもいいでしょ」
 ラトゥースの頬に、皮肉な笑みの影が落ちた。悪戯なまなざしが、肩から背中へと続く異様の刺青に向けられている。
「見るんじゃねえ」
 ハダシュはいらいらと遮った。
「別に何もしないってば」
 ラトゥースはひょいと指を伸ばして肩の刺青に触れる。
 思わず振り払う。荒らげた声に怖れが混じっていた。それを気取られまいと、ハダシュはなおのことラトゥースを拒絶する。
「触るな」
「違うの。刺青じゃなくて。治療跡のほう」
「うるせえ」
 刺青のことなど考えたくもなかった。
「怪我の治療を、今まで自分でしてたかどうかを知りたいの」
 ほっそりとした指先が肌に触れる。
「身体中、古傷だらけなわりにはね。こっちの新しい傷はきれいに消毒されてるし、もしかして、かなり腕の良いお医者様がお知り合いにいらっしゃったのかしら、と思って。だとしたら……あれ、怒っちゃったかしら」
 ラトゥースは笑いかけながら、今度はなれなれしくベッドに腰を下ろして、足の傷に目を近づけた。包帯をわずかにずらし、傷の具合を確かめている。ハダシュは憎々しい視線をラトゥースへ突き刺した。
「シェイルが言うには、骨は折れてないんですって。でも本当にひどい傷だったし下手に動きまわって悪化したりするといけないから」
 そっと愛おしみ撫でるように手で触れ、そのまま顔だけを上げて人なつっこく微笑む。
「いろいろ気になることはあると思うけど、それは全部横に置いとくことにして、今はここで安静にしてて欲しいの。傷さえ何とかなれば、後のことは後で考えればいいから。ね? で、あなたの名前は」
 水ぬるむような、春の陽射しにも似た金色の髪。穏やかな声につられ、ハダシュはつい口を滑らせた。
「ハダシュだ」
 言ってしまってから、ハダシュは自分を呪った。よくもこんなばかばかしい誘導尋問にのせられたものだ。よほど気がゆるんでいたか呆けていたに違いない。
「ハダシュ、か。南国風の素敵な名前ね」
 当のラトゥースは得られた成果にこのうえもない純真な微笑で応え、ベッドからひょいと降りた。のんびりとしらじらしく窓縁に手を付き、暮れなずむ空を振り仰いでみせたりしている。
「……ありがと、信じてくれて」
 他愛なく振り返って言う。心底、嬉しそうな笑顔だった。ハダシュは舌打ちした。夕焼け空がまぶしい。忌々しいほどにまぶしかった。
 ラトゥースは帰る様子を見せた。空のカップを拾って窓辺から離れてゆく。
「明日もお天気だといいわね。では、またね。ごきげんよう、ハダシュ」
 茜色の空にかすれ雲がたなびいている。出港を知らせる銅鑼が鳴る。海鳥が啼いて、飛び回っている。返事の有無はもはや大した問題ではないようだった。ラトゥースは軽く小首を傾げると、にこにこ笑いながら目の前を横切った。
 微笑みの横顔が目に焼き付く。ハダシュは視線でラトゥースの後を追った。頭の後ろでひとつにまとめられた淡い金髪が風を含んでかろやかになびく。違う世界の人間。
 去り際にラトゥースはもう一度、唐突に振り返った。
「また来るから安静にしててね」
 手袋をはめた手をちいさく振って、しとやかに笑う。柔らかく宙に遊ぶ毛先が光に透け、うっすらと色づいた淡い影を肩に落としていた。
 薄い扉がラトゥースの無防備な背中を飲み込んだ。立て付けの悪い音とともに閉まる。あとに残ったのは、ぽつねんとした疎外感だけだった。
 ベッドのシーツが夕日に赤く染まって光っている。ラトゥースのいない部屋は妙に静かで、無駄に広く感じられた。やがてハダシュは居たたまれなくなり、自嘲のためいきをもらした。
「捕まっちまうとはな、この俺が」
 穏やかな口調の相手だからといって、味方とは限らない。おいそれと他人を信用できる状況ではなかった。そう考えれば、丁寧に施された治療でさえ、何かしら別の悪意を持つかのように思えてくる。自由を奪うが如く身体中をがんじがらめにした包帯、意識を混濁させる痛み止めの薬。すべてが、身の安全をゆだねるには危険すぎる現実を暗示している。ラウール配下の殺し屋だと知れれば、たちどころに自警団の衛士がなだれ込んでくるだろう。あるいは敵対する勢力、今まで手にかけてきた相手の仲間。ジェルドリン夫人の配下。そういった連中がいつ何どき報復に現れるやら分からない。だがラトゥースは、また来る、と言った。投獄するため人を呼ぶならまだしも、また、来ると――
 そこで、我に返る。気を許しそうになった反動か、逆にいらだたしさばかりが膨れあがった。
 ハダシュは曲がらない手首を根気よくひねって、包帯をゆるめにかかった。にかわで固められたかのように執拗に縛られ固定されている。ようやく動かせるようになると今度は足。脇の机にあったはさみを取り、包帯を乱雑に切り開いていく。逃げる途中に負った深い傷は、まったく塞がっていなかった。空気にさらされぬよう、傷をぴたりと覆った油紙が透けて、柘榴のような赤黒い血を滲ませている。最悪の眺めだ。
 だが、この油紙を患部に当てて保護する治療法は、変な軟膏を塗りたくってその上からべたりと豚の皮か何かを張るレイスのやり方とよく似ている。ハダシュは残った包帯を再びきつく巻き直した。見た目はろくでもないが治療方法としてはおそらく適切なのだろう。
 あるいは無理にでもそう思い込むために、安静にしていろと言ったラトゥースの忠告に逆らい、ベッドから足を下ろしてみる。重いばかりで動かない棒をぶらさげているようだった。膝から下を持ち上げることができない。動かない。腹立たしさの余り、わざと体重をかけてみる。膝から下に力が全く入らなかった。底の抜けた身体が前へつんのめる。とっさに脇のテーブルをつかみ、身体を支える。がたついたテーブルからはさみが滑り落ちた。鋭い鉄の音。
 ハダシュは苦悶のうめきを洩らした。歯を食いしばり、ベッドへと這い戻る。心のどこかが闇の助けを請うてじくじくと疼いた。後悔がのしかかってくる。あまりにも無様だった。
 どれほどの時間を要したのか。ふと気付くと、いつの間にか周囲は淡い藍色に変わっていた。開け放した窓の向こうから、雑然とした街の気配が聞こえてくる。物売りの間延びした声。通り過ぎる荷車。笑いながら群れて駆け去る子供の声。悪戯に気付いて怒鳴り散らす女。港に鳴り渡る銅鑼の音。いつもと同じ、それでいて今まで一度もまともに聞き入ったことのない、ごく普通の、当たり前の喧噪。それらが、じわりと耳に染み込んでくる。
 ハダシュはくちびるを噛んだ。闇にけだものの眼を走らせる。こんなことをしている場合ではない。我知らず、眉間に深い皺を刻む。ラトゥースとかいう娘のせいだ。馴れ馴れしく近づいてきたかと思うと、一気に心の内側にまで踏み込んできた。あのまっすぐなまばゆさで、暴かれることすら望まぬ事の子細を照らし出そうとした。腐り果てた汚物など、存在の底辺に投げ棄てて家畜の餌にでもしておけば良いものを。
 無意識に腰へ手をやる。だが、あるはずの手応えはなかった。所在なさに一瞬、身が竦む。
 怖気がこみ上げた。無いと知りつつ、腰のベルトを何度もまさぐる。ナイフなしでシャノアを渡り歩くのは、ある意味、裸でいるより心許ないことだった。殺されるのを侍するようなものだ。かき立てられた不安が、別の感情の呼び水となって形を変え、暗く迫る。
 一瞬、脊髄を針で突かれたかのような痛みが走った。悪寒が忍び寄ってくる。生ぬるい汗がじわりとこめかみに浮かんだ。ハダシュはわずかに身体をふるわせた。恐怖が近づく。また手先が震えた。止まらない。禁断症状が出始めている。必死に眼をそらし、身体を現実へ押しつけようとする。嫌な眩暈がのしかかった。生唾を飲み込む。
 欲しい。冷汗で濡れた額に、前髪が貼りついていた。背筋の底が、ぞくぞくと薄ら寒い熱を帯びる。ひどく喉が渇いた。あれが欲しい。あれが。相反する二つの快楽が連想でよみがえってくる。激痛と恍惚。瞼の裏に黒い薔薇の咲く裸身がうねり、乱れひらめく。忘我の熱い吐息。
 野葡萄色のくちびる。冷酷な嬌笑。偽りの微笑。熔け落ちる熱泥に身をゆだね、鞭打たれ、がんじがらめに縛られ支配されて、ようやく与えられる転落と解放。だらだらと無様に精を垂らした姿を嘲られ、罵られ、晒され、踏みにじられ、這いつくばって――ヴェンデッタという女の蜜と毒に犯され、牙を折られたけものと化して。壊れきった自虐の感覚が渦を巻く。
 しかし、もうひとつの記憶が、ハダシュの夢想に冷水を浴びせかけた。
 ジェルドリン夫人を殺した現場に残されたナイフを見れば、それが誰のものなのか、いやでも知れるだろう。夫人殺害後、仲間を殺し行方をくらましていることも。それらの噂はヴェンデッタによって裏切りと叛逆の意趣をまぶされ、まことしやかに流布されることとなる。
 ゆがみかけた意識を必死で回転させる。この後、どうやって身を隠すか考えなければならない。禁断症状が出てからでは遅すぎるのだ。ハダシュは恐慌状態に陥りかけた。再度、必死に理性で混乱を押さえつける。黒薔薇の追っ手から逃れるには生半可な隠れ家ではすむまい。まずは通い慣れた阿片窟が思い浮かんだ。
 苦い煙。陽の射さぬ洞穴のような、つめたい、黴臭い、剥き出しの壁。そこならとりあえず安物とはいえ薬も手に入る。何かと親身になってくれたレイスなら、頼めば薬も手に入れてくれるだろう。罵倒されるのも分かってはいたが唯一の友を殺した今となっては他に力を貸してくれそうな知り合いはいなかった。うらぶれた陰間部屋の片隅に身をひそめ、春をひさぎつつ、ほとぼりが冷めるのを待てば、あるいは――だがその幻想はすぐに破れた。下手な知り合いは他人よりたちが悪い。レイスに危険を冒させようと考えるのもまた心底外道な発想に思えた。
 結局考えつくのは、ラウールへ訴えることだけだった。どうにかしてラウールと直接会い、ヴェンデッタの本性を伝え、あの女を排除させる以外に生き延びる方法はない。
 絶望的なため息を漏らす。くだらない結論だった。行きたくない。あの冷たい目の男には会いたくもなかった。過去の痛みと今の記憶が混濁する。血の匂いしかしない男。薄明の中、冷酷にうそぶくラウールの声がよみがえった。
(わしを裏切るつもりか)
 ハダシュはうつろなかぶりを振った。分かっている。逃げられない。裏切ることなどできようはずもなかった。犬のように飼われても、なお。
 他の薬では効かないのだ。ラウールの売る凶悪なそれでなければ、もう。ラウールもそれを知っている。だからもう、人間を見る眼ではハダシュを見ない。モノだ。あれを殺せと言えば殺してくる。身体を売れと言えば売ってくる。その代償は金と薬と居場所。それだけの道具。ヴェンデッタの冷ややかな嘲弄が胸に突き刺さった。
(今の貴方はただの奴隷。あの男に飼われた犬)
 拳を握りしめる。こんなはずではなかった。何度、同じ言葉を心に繰り返しただろう。こんなはずではなかった。降りしきる鮮血の霧雨。ぐっしょりと骨まで濡れて、石畳の上でもがきながら、何かを探して。唐突に終わる下らない命。
 こわばった眼を、床に落ちたはさみへと向ける。この部屋に忘れ去られた、唯一の刃物。苦い思いを振り捨て、ハダシュは手を伸ばした。
 錆びたはさみを拾い、青ざめた顔で見入る。小刻みに震える手の中で、ゆるんだ刃が鳴る。こぼれた刃の手入れもされず、まだらに黒く赤く錆びるにまかせたそれをためつすがめつ調べ、詳細に見入る。先ほどの娘、ラトゥース・ド・クレヴォーを捕らえ、喉にこれを添わせて脅しつければ、あるいは強引に脱出できるやも――
 いや、無理だ。疲れたためいきがもれた。こんながらくたなどおそらく何の役にも立ちはしない。なぜかそんな気がした。あの娘は憎悪を恐れていなかった。目を見れば分かる。牙を折られた殺し屋の刃など、あの娘にとっては敵のうちにも入らないだろう。
 窓を見やり、金属の手すりを兼ねた格子を確認する。脱出可能ではあるが、今のところそこまでの気力はなかった。随分見くびられたものだ、とハダシュは苦笑した。はさみをテーブルに戻し、片足を引きずって部屋の戸口へと向かう。
 滑りの悪い閂を持ち上げ、用心深く横へ滑らせてゆく。驚いたことに鍵すらかけられていなかった。ゆっくりと戸を引き開ける。油の切れたちょうつがいが壊れそうな軋みを上げた。
 足音を忍ばせて廊下に滑り出る。窓のない廊下は、濃い闇に澱んでいた。見えない空間を隔てた前方左側から赤く斜めに射し込んでいる光だけが、その先に人の気配があることを教えている。さらに一歩踏み出す。床板が音を立ててたわんだ。身をこわばらせる。
 気味の悪い冷汗がにじみ出た。凄まじいまでの緊張と同時に相反する倦怠感が全身を押し包んでゆく。殺してでも奪わねばならない何かがあるような気がした。身体中の傷が熱を帯びて腫れ、痺れ出す。動揺がみじめな惑乱を生み、痛みとなって次第に大きくなってくる。
 緊張のあまり意識の半分が被虐的な飢餓感に占められてゆくのを何とか押さえ込み、歯ぎしりのような荒々しい息をひとつつく。
 左右を見渡し、近づく者の気配がないことを確かめる。怖れることはない。死は常に背後に潜んでいる。ハダシュは壁に添い忍び歩いて、角で立ち止まった。すぐ隣に扉があった。下の隙間から帯状に黄色く灯りが洩れている。陰謀めいた話し声が聞こえた。近づいて、耳をそばだてる。戸板はあちこち節穴が開き、その上に色の違う継ぎ接ぎをいい加減にあてただけというしろもので、迂闊に身体を預けでもしたら扉ごと倒れ込んでしまいそうだった。
「それ本当なの」
 唐突なラトゥースの声が漏れ聞こえる。
 ハダシュは息をつめ、それから我に返ってかぶりを振った。油断させられるいわれはない。気を取り直して節穴の一つに眼を近づける。細い光が眼に当たった。まぶしい。戸板一枚はさんでいるだけなのに、なぜか手も届かない遠い世界を双眼鏡で覗いているような気がする。
 部屋の中央に、テーブルを挟んで話し合っている二人の女が見えた。こちらに背を向けている金髪の少女は髪型や衣装からして先ほどの少女、ラトゥースだ。表情は見えないが、せわしなく資料をめくる苛立たしげな仕草から感情をうかがい知ることはできる。ハダシュは会話を聞き取ろうと全神経を集中させた。
「レグラムめ、大したことないみたいに言ってたくせに。何なのこの件数」
 言った終いに、ぱしりと紙の縁をはじく。
 ラトゥースと向き合っているのは顔立ちのきつい女軍人だった。襟の詰まった金筋入りの軍衣をきりりと着込み、長く伸ばした髪を後ろにひっつめて、一筋たりともほつらせることなくまとめている。ラトゥースに付き従うエルシリアの軍人と考えて間違いないだろう。
 軍人はラトゥースと書類を前に、苦々しく口を開いた。
「シャノアが奴隷取引の中心市場となっているのは間違いないと思われます。特に十五歳未満の子供に関して、これは良家の子女ということですが、男女問わず誘拐され金品あるいは身代金を奪われたにもかかわらず救出できず行方不明になったままという事件がここ一年の訴えだけで六十四件」
 ラトゥースの舌打ちが聞こえる。
「通常の神経なら、とうてい見逃せない数ね」
「シャノア外から拉致されてきた数も含めれば、被害者の人数はゆうにこの数十倍にのぼりましょう。拉致されたすべての被害者を確認することはもはや不可能です」
「ってことは、シャノアから出る奴隷船を拿捕する以外、防ぐ手だてはないってことよね」
 ラトゥースはため息をもらした。
「神官どのが子どもたちのことを心配されるのも当然だわ。ひどい状況だもの。といって奴隷狩りの部隊に直接接触するのもしばらくは無理。私もシェイルも敵に顔を見られてる。もしあれが本物の……だとしたら、だけど」
「レグラムとカスマドーレはいかがいたしましょう」
 ラトゥースはうんざりした仕草で資料をテーブルに放り出した。高貴な身分であると自称したわりにははすっぱな態度で手を頭の後ろに組み、疲れたふうにソファの背にもたれかかる。
「あれは、ね」
 いったん言葉を切ったのは、どうやら悪びれもせずひそやかに笑ったせいらしかった。
「間違いなく賄賂を握らされてる。だけど、その相手が黒薔薇かどうかの確証はない。かといって証拠もなく追及するのも難しい」
「では、あの男を」
 女軍人がひくく言った、そのとき。
「大変大変大変、えらいこっちゃですわ……あああっと!」
 闇の反対側から急にだみ声が放たれたかと思うと、建物中に響き渡る足音とともに、何者かが猛然と階段を駆け上ってきた。
 ハダシュは仰天して飛びすさった。駆け込んできた中年男もまたハダシュに気付き、奇声を上げてつんのめった。右手に酒瓶、左手には染みの付いた麻袋を下げ、コートはすりきれてよれよれ。武器を持っている様子はない。見つかった――ほぞをかむ間もなく、悲鳴を聞いたラトゥースと軍人がドアを蹴破るようにして飛び出してきた。
「ハダシュ」
 ラトゥースが絶句する。
 女軍人は酷薄に眼をほそめた。息を吐きつつ、わずかに腰を落とし、あからさまな敵意でサーベルの剣柄を押し下げる。
「貴様、なぜここにいる」
 ラトゥースはぎょっとしたふうに眼を押し開いて軍人の動きをさえぎった。
「待って」
「なりません」
 軍人は聞かない。銀の刃が血を欲してぎらりと鞘走る。
 ハダシュは顔をゆがめた。すばやく左右を見渡す。挟まれた。三対一。だが敵は二手にわかれている。一瞬の判断でハダシュは中年男に飛びかかった。腰めがけて当て身をくらわす。男はたまらずのけぞった。互いに体勢を崩し、絡むようにして倒れ込んだところに渾身の蹴りを入れ、踏みにじり、よれよれのコートを引っ掴んで盾にしつつ跳ね起きる。
 もがく男の手に握られた酒瓶が空を切る。ハダシュは本能的に瓶を奪い取った。
「だめ、やめて」
 ラトゥースが叫ぶのと、ハダシュが瓶を振り上げるのとがほぼ同時だった。逃げようと足掻く男の後頭部めがけ瓶を叩きつける。ガラスの割れる音が響きわたった。ワインと鮮血が入り混じって凄惨に飛び散る。男は壁にぶち当たって崩れ落ちた。まだらの色に染まった苦悶の呻きがつぶれ、そのまま、動かなくなる。
 ラトゥースのくちびるから悲鳴が洩れた。よろめき、進み出ようとしかけて、剣を抜き払った軍人にぐいと引き戻される。
 緊迫し、音を無くした闇の中で、痙攣する男の手が流れる血のワインをはねとばした。
「どうして、こんなことを」
 ラトゥースの眼から涙がこぼれ落ちる。
「どうして」
「お下がりを、姫」
 女軍人の声が塗り込められた闇を制した。怒りを潜めたするどい声が放たれる。
「危険です。近づいてはなりません」
 ハダシュは眼を上げた。その一言で、張りつめていた神経が切れた。青白く燃える眼と眼が壮絶にぶつかりあう。
「うるせえッ、それがどうした。騙しやがって」
 ハダシュは拳を壁へとたたきつけた。手負いの痛みごと人間らしさを振り捨てる。
「ちがう、そうじゃない」
 ラトゥースは眼に必死の色をたたえて何度も強くかぶりを振った。
「勘違いしないで。これはあなたのためなの。お願いだから、おとなしくして」
「黙れ。偉そうにしやがって。俺を売る気だったんだろうが」
 ハダシュは怒鳴りつけた。血の臭いを隔てて向かい合ったラトゥースは、先ほどのしとやかな、愛らしい雰囲気とはまるでちがって、総毛立つ戦慄に打ちのめされ、今にもくずれ落ちそうに見えた。
「違う。あなたを助けたいの。だから聞いて。分かってもらえるまで何度でも言うわ」
  ラトゥースは声を震わせながらも激しく口調をつのらせた。女軍人に押さえつけられながらも身を乗り出して続ける。
「今、ラウールのところへ戻ったら二度と帰れなくなる」
 ハダシュは絶句し、ラトゥースを見返した。部屋からさす光、廊下を満たす闇。二律背反する光がラトゥースの半身をそれぞれに切り取り描き出し、陰影深く浮かび上がらせている。さまざまに変化する表情は大人と子どもの狭間で揺れ動くもどかしさに似て、どこか不安なようでもあり、また逆に潔癖すぎる理想を追っているようでもあった。
「宝石商のジェルドリン夫人が黒薔薇と関わっていたことも分かってる」
 ラトゥースは堰を切ったように続けた。
「知らないとは言わせない。追われていたんでしょ、黒薔薇に」
 ハダシュの息が止まった。
「全部、なかったことにしてもいい。私があなたに関する全責任を負う」
 軍人の手から無理やりもがき出ようとしつつ、ラトゥースは悲壮にうめいた。
「だからこのままここに残って、力を貸して欲しいの。私にはどうしても黒薔薇のヴェンデッタを追いつめなくちゃならない理由がある。あなたの協力が必要なの。だから、お願い、ハダシュ」
 ハダシュは血の気の失せた表情で呆然と立ちつくした。声も出ない。唇がやけに乾いた。何度もなめて、湿らせる。だがそうすればするほど意識がひり付いて不快感が増していった。わけが分からなくなる。大切なもの、自分の居場所、助け合える仲間。自ら拒絶し、叩きつぶしてきたそれらを、どうして今さら手にできようか。
「ふざけるな」
 頭からはねつける以外に、返す言葉が見つからない。
 ラトゥースは胸に手を押しあてた。声を高くし、必死の面持ちでさらに強く言いつのる。
「だめよ、ハダシュ。このまま一生、闇の世界で暮らすなんて駄目。それが本当にあなたの生きるべき世界なのかどうか、もっとよく考えてみて。大丈夫、あなたならきっと戻れるわ。今が
「引き返すための黄金の橋」なの。自分を信じて、立ち止まって、考え直してみて。お願い、信じて」
 信じて。その言葉を耳にした瞬間、ハダシュは自分の中の何かがめりめりと音を立てて壊れてゆくのを感じた。信じられるものなど存在しない。自分自身の肉体さえ虐げ、ないがしろにしてきたというのに、他人のラトゥースがなぜそんなものを容易に信じろなどと言えるのか。
 狂気が燃え上がった。衝動的な激情がほとばしる。
「ふざけるな。てめえに何が分かる」
 手に残ったガラスの酒瓶を、拒絶の意図も露わにラトゥースの足下めがけて叩きつける。血に濡れたガラスが粉々に砕け散った。飛び散った破片に、凍り付くラトゥースの表情が映し出される。ラトゥースが小さな悲鳴を上げて頬を押さえた。
 指先に血の色がにじんでいる。偶像が壊れる。ハダシュは絶句した。まばゆい記憶の中の微笑みが嫌悪と恐怖に変わってゆく。
「ハダシュ」
 ラトゥースの眼に浮かんだ涙に、あきらかな戦慄が混じっていた。声が震えている。
「おねがい、信じて」
「うるせえッ」
 恐怖。ハダシュはラトゥースの目に浮かんだ拒絶の表情から逃げるようにして身をひるがえした。自らの過ちを写し出す真実の鏡。
「逃がすな。取り押さえろ」
 女軍人が叫んだ。
 ハダシュは追っ手にさえぎられる前に真っ暗な階段へと身を躍らせた。着地に失敗し、狭い階段を転がり落ちる。傷口が再び割れ、灼熱の痛みとなって足をつらぬいた。血がしぶく。
「奴を外に出すな」
 宿のそこかしこから扉を開け放つ音が響いた。衛視らしきいくつもの姿が飛び出してくる。背後から怒鳴り声が追いかけてきた。ハダシュは足を引きずって逃げた。血の跡をつけられようが構わなかった。
「ハダシュ、戻って来て」
 ラトゥースの悲鳴が追っ手の怒鳴り声にかき消されてゆく。
「行かないで。おねがい」
 ハダシュは声から逃げた。灯り一つない宿の廊下を一気に突き抜け、厳重に戸締まりしてある玄関の木戸を蹴破って外へと転がり出る。建て込んだ家々の塀をよじ登り、再び無様に転がり落ちながらも這いずり逃げる。潮の匂いがした。水の流れる音がする。運河が近い。ハダシュは闇雲に走り回って後を付けられる愚を怖れ、道端の側溝へと転がり込んだ。下水が流れてくるのも構わず、闇の中へと這い進む。間一髪、頭上を駆け抜けてゆくいくつもの光が見えた。
「探せ。まだ遠くには行っていないはずだ」
 先ほどの女軍人が怒鳴っている。
 歯を食いしばる。追跡の気配が遠ざかった。どうやら気付かれずにすんだらしい。ハダシュは再び悪臭漂う下水道の中を進み始めた。這いずり慣れた地獄をさらにたどってゆく。
 網の目のように張り巡らされた古代の下水道、時代に取り残された建物の壁と壁の間。そういった永遠の闇には、光のもとには決して現れないおぞましい生き物どもがうごめくことも少なくない。正常な判断力を持った人間ならば、決して足を踏み入れない場所だ。
 やがて前方に月の光が見えた。壊れた格子が立てかけられている。目の前は運河だった。水の中へと転がり落ちる。全身にまみれた汚物が潮に洗い流されてゆく。ハダシュはゆっくりと抜き手を切って運河の護岸へと泳ぎ着き、重い身体を持ち上げた。
 汚れた衣類を脱ぎ捨て、ざっと洗う。適当にうち広げて夜風に放置しつつ、全裸のままずるずると腰を落とし、膝を抱えてうずくまった。濡れた血の腐臭が海の匂いに混じって足元に広がる。これでは黒薔薇に殺されるより前に傷が腐って死ぬほうが早いだろう。レイスに見せたら今度こそ何を言われるか分からない。とはいえ無事に生き長らえて傷の治療を任せられる未来があるようにも思えなかった。結局どうでもよくなって自嘲気味に喘ぎ笑う。
「くそ、信じられるか。あんな」
 強がりでさえ最後までもたなかった。押さえても押さえても、破れた傷口から血が流れ出し、なまぬるく手を汚す。止まらない。
「あんな女」
 獣のように喘ぐ。取り返しの付かぬ、御しきれない思いがこみ上げた。
 振り返った瞬間の、ラトゥースのまぶしい笑顔が。
(戻って来て)
 暗転する。悲痛な声。
(行かないで)
 それは後悔だった。目頭が無性に熱い。決して届かない手の幻影が虚しく消えてゆく。なぜこんなことになったのだろう。ずっとラトゥースの言葉に耳を傾けていたはずだった。なのに、分別のない幼稚な苛立ちに行動を支配され、理性を投げ棄ててしまった。暴力の衝動に突き動かされて正義から逃げ出そうとした。こんなはずではなかった。なぜだ。なぜ……
 自問せずとも答えは分かっていた。愚かだからだ。
 堪えきれず膝を抱え、突っ伏す。押さえた口から呻きがもれて腕に伝い落ちた。叶わぬ想いと知りつつもいつか自由の日々が来ることを虚ろに夢みて足掻く日々はいつ終わるのだろう。来年か。それとも、今か。ローエンに訪れた思いがけない人生の末路はどうだ。何の希望もない未来、血に濡れた石畳の上で、こぼれる内臓を鷲掴みにしてのたうちまわりながら息絶えてゆく運命など誰が好きこのんで受け入れるだろう。鴉につつかれ蠅にたかられ、とめどなくうごめく白蛆にまみれた死体となって、どこかの掃き溜めに無様に投げ棄てられ――
 翌日にはまた素知らぬ太陽が昇り、自分以外の人々はつつがなく暮らしてゆく。ラトゥースもきっと消えた殺し屋のことなど忘れてしまうに違いない。そこに、自分の居場所はない。
 ハダシュはこみ上げてくる嘔吐感に何度も身を折った。何もかも抉り出してしまいたかった。

「追え。逃すな」
 声を荒げて手勢を呼び集めるシェイルの後ろ姿に、ラトゥースはようやく恐慌を振り払った。逃げたハダシュを追う騒然とした幾つもの足音が、ふいに降りだした孤独な雨のようにラトゥースを押し包む。
「刃向かうようなら容赦なく斬り捨てよ」
 数人の部下を引きつれたシェイルが、ごうごうと燃える松明とサーベルを押っ取り刀で引っ提げ、駆け出してゆく。ラトゥースはうわずった制止の声を投げかけようとした。
「私も行くわ」
 振り返ったシェイルの鋭い目がみるみるけわしく、細くなってゆく。
「なりません」
 ラトゥースは雷に打たれたかのように立ちすくんだ。うろたえ、息を呑み、おずおずと手を伸ばそうとして。
「私も、行く……」
 届かない声だけが空しく暗がりへと吸い込まれる。ラトゥースは追いすがることもできずに凍り付いた。女軍人の靴音が遠ざかる。
 切羽詰まった形相の騎士たちが駆けつけてきた。ハダシュに殴られ瀕死状態になったベイツの傍らに屈み込もうとして、飛び散ったガラスにうめき声を上げる。
「姫」
 しぼり出すようなベイツの声に、ラトゥースは無理やり自分を引き戻した。側に駆け寄り、ひざまづいて傷を労ろうとする。
「来たらあきません」
 ベイツは弱々しく払いのける仕草だけをした。
「お召し物が、汚れ……」
 ラトゥースはふいにこみあげてくる悲鳴を手でふさいだ。涙混じりに笑い、励まそうとする。
「大丈夫よ、もうすぐお医者様が来られるわ」
「それより、えらいことが」
 ベイツは断末魔の息をすすり込んだ。
「聖堂で……死人が……!」
「ベイツ!」
「……早よ行ってください……!」
 声がふいにかすれた。ラトゥースが支えようとしたときにはもう、ベイツはがくりと首を落とし意識を失っていた。壁にもたれかかっていた身体が力なく滑り落ちる。その跡に人の形をした黒ずみがまざまざとかすれついているのを、ラトゥースは張り裂けそうな眼で見やった。襲ってきた自責の念に耐えかね、片手で顔を覆う。
「ここは私どもにお任せを」
 宿のあるじがラトゥースを無理やりベイツから引きはがした。
「姫には止ん事無き使命がございます。医者ならば、馭者ならば、探せばいくらでも探し出せましょう。ですが、姫様の果たすべき務めを代われる者はおりませぬ」
 背後から腕をとられては、抗うべくもない。ラトゥースは反射的に相手を睨み、何事かを言いかけて歯を食いしばった。結局言い返せず、気を失ったベイツに目をやる。
「分かったわ。とにかく聖堂に行ってみます。後はお願い」
 惑乱する思いを押し潰して、きびすを返す。心許なさは変わらない。何が起こったのか。何が起ころうとしているのか。いずれすべてが荒れ狂う怒濤の中に呑み込まれてしまうかのように思えて、今は、何をどう考えればいいのか、まるで見当も付かなかった。

「ハダシュが裏切った、だと」
 豪奢なカーペットを敷き詰めた床に、月光の作る桟の影がくっきりと映り込んでいる。傍らに愛用の安楽椅子を置きつつ、今はソファに腰を下ろして膝に毛布を掛けた男は、パイプの煙を悠然とくゆらせながら、窓の外にゆれる港のあかり、眠らぬ快楽の街を見おろしている。その肩に黒い指輪をはめた手が置かれた。探るような仕草で胸元へと進んでいく。
「見張り役の男に重傷を負わせ逃走したとのこと」
 華奢な手から、淡く鳴るグラスが手渡される。ラウールはパイプを離し、グラスを受けとった。深いワインの薫りが立ちのぼった。
「見ていただけか。それを、お前は」
 ラウールが問うと、闇は乾いた笑い声をあげた。
「邪魔が入りましたの」
 ラウールはやや不興げな面持ちでさえぎった。
「エルシリアの犬か」
 ソファに深々と身を任せ、目を半眼に閉じて、ワインを空ける。
「ハダシュの始末はお前にまかせる。犬には手を出すな。先に片づけねばならん目障りがいる。分かっていよう」
「黒薔薇、ですわね」
 暗い色の唇が、ほんのりと扇情的に吊り上がる。
 ラウールは自身の背筋に走ったであろう冷たい感覚を別の衝動と誤解した。
「何がおかしい」
「いいえ、別に、何も」
 女の手のひらが、ラウールの太い首回りを、まるで猫を撫で回すように滑ってゆく。闇は身をかがめ、髪の毛が逆さまに流れ落ちるのもいとわず、背後から野葡萄色の唇を押し当てた。
「ハダシュから貴方という後ろ盾を奪ってしまったような気がして」
「馬鹿を言え」
 ラウールは太い指をヴェンデッタの髪の毛に差し入れ、そのたっぷりとした匂いを嗅いだ。
「それより、”あれ”はお前の仕業か」
 ヴェンデッタは微笑を浮かべたまま答えない。
「バクラントの竜薬だな。どこで手に入れた。イブラヒムの毒屋か」
「死も、絶望の海に身をゆだねる際には甘美ないざないとなりますわ」
 ヴェンデッタはラウールの背後で衣服を脱ぎ払った。着ていたものをテーブルに投げかけ、身体をよじりながら、黒い下履きをつまさきに滑り落とす。ラウールはガラスに映る妖艶な裸身と、その半身を覆い尽くす黒薔薇の刺青とを、飽くことのない欲望の視線で見つめた。
「お前の魂は闇と氷と裏切りの毒に満ちている。業が深いぞ」
「それも貴方を思えばこそ」
 ヴェンデッタは意味深に微笑した。薔薇の香りがくちびるを赤く染める。
「すべては、貴方のため。私を深い闇の底から救い出してくださった貴方の。絶望に囚われ、犯され、氷の海のような憎しみと痛みに切り苛まれ続けてきた私に、貴方が、愛という名の快楽を教えてくれた」
 黒猫のような仕草でもたれかかり、背後からラウールのガウンの胸をそっとはだける。
 互いがガラスを通して、舐めるような視線を絡ませる。完璧な肉体をいろどる闇が、屍蝋のごとく浮かび上がった。まるいというには、あまりにも重たげに柔らかくふるえ、痴情をそそるかたち。
「今宵も、また」
 触れれば消え、滴る毒に変わって溶ける微笑にも似て。
 ラウールは膝掛けを床に払いおとした。
「来い」
 ヴェンデッタはガラスに身を映したまま、くねるようにしてかしずいた。
「外から見られます」
 挑発する瞳が、黒く濡れて輝く。添えられた唇から、透き通りそうなほど白く歯がのぞいて、それもまた酷くなまめかしい。
「見られたく、ないのか」
 甘く洩れる声が、ラウールの声を深々と呑み込んだ。ラウールは手を伸ばし、女の髪を鷲掴む。ヴェンデッタはかすかな苦痛の声をたてて男から唇を放し、なすがままに引きずられて裸身をのばした。ゆったりと腰をすり寄せる。男の餓えたくちびるが揺れる女の乳房を無闇にまさぐる。老いた指が放たれる熱と香りをむさぼった。上気した喘ぎ声があふれる。
「愛しています」
 ぼんやりと射す薄明に照らし出され、妖艶な影が床に揺れる。
「貴方だけを」
「わかっておる」
 ラウールは、いつになく扇情的なヴェンデッタの行為に視界をふさがれ、身体をふるわせた。
「お前はわしのものだ」
 老いた鷹が、そう力なくうめいたとき。
 闇色の瞳に、暗い軽蔑が走った。虚空に白く手が伸びて、テーブルに脱ぎ捨てられた黒衣の下をまさぐった。冷酷な微笑が口元をかすめる。
「永遠に」
 声だけをあやしくかしずかせながら、ヴェンデッタの手がゆっくりと――すべてを凍りつかせる赤い毒の刃を引きずり出す。
 ラウールは深いためいきをついた。
「お前だけだ、わしを裏切らぬのは」
 その、刹那。声のない絶叫がほとばしった。水際立つ切れ味のナイフがラウールの喉を一文字に薙ぎ払う。喉から、口の端から、目もさめる驚愕と怨みの色が、凄絶な奔流となってあふれ出す。まるで引き倒された偶像のようだった。倒れていくラウールの眼だけが、茹で上がった魚眼のように裏返りつつヴェンデッタを追いかけた。手が虚しく空を切る。肉の骸が床へと倒れ込んだ。鈍い音がした。噴き上がった鮮血をヴェンデッタはのけぞって避ける。
 怨みの血のひとしずくだけが、ヴェンデッタの頬に奔りつく。
 月の光さえとどかない漆黒にまみれて、それはもはや何の意味もなさぬ老いさらばえた肉の塊となり果てていた。音もなく床にひろがる黒い弛み。残された安楽椅子が、ぎし、ぎし、今にも壊れそうな軋みをあげて揺れている。
「手応えのない男」
 ヴェンデッタは氷の微笑を浮かべ、死んだラウールめがけてナイフを振り捨てた。音もなく刃が背に突き立つ。一瞬、柄に刻まれた蠍の彫り物が月明かりに浮かび上がった。冴え冴えと光を映す刃から赤く、ねっとりとした滴が伝い落ちていく。
「業が深い、か」
 おもむろに指の背で頬の血をぬぐう。かすれた指先の汚れを、あやしくも美しい微笑みが見下ろしていた。
 狂騒状態で揺れる安楽椅子。忍び込む闇と風。しんと凍りつく、静寂。それらが一点に収斂し、残酷な棘を秘め隠す美しい黒薔薇の花弁となって、匂うがごとく凄絶に咲き誇る。
「笑わせないで」
 ヴェンデッタは冷ややかに吐き捨てる。激しく追いすがる渇望をたたえた瞳に、ぞっとするほど希薄な色がさした。
「貴方には何の価値もない。ただ、それだけのことよ」

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