血と薔薇のシャノア

4 後悔の首枷

 シャノアの闇を切り裂いて流れる猛々しい炎の帯。土煙と蹄鉄の音を蹴立てて疾駆する馬影が、聖堂の門前に猛然と突っ込んでくる。
 眩しく、人通りも多かった昼間の様子とはうってかわって、今は不気味などよめきに満ちている。正門へと続く通りの左右に広がる木立の足下に黒々とした影が落ち、それがざわざわと、まるで寄り集まった亡霊の姿でもあるかのように形をなしては散り、また現れては縁からほどけるように消えてゆく。ゆるやかに、不穏に。風が騒ぐ。
 ラトゥースは正門に立つ二体の聖騎士像の手前で手綱を引いた。ドレスのまま荒馬にまたがり、サーベルを佩く間をも惜しんで鞍に差した姿は一見、とんでもないうつけの風体ではあったが、悠長に着替える間がなかったことを思えば誰にどう思われようと構わなかった。
 四方に配された青銅の灯籠が、やや青みを帯びた光を放って像を浮かび上がらせている。夜の色に照らされ青ざめて立ちつくす聖者の像は、どこか張り詰め、怒りにうちふるえているかのように見えた。風影におびえたか、馬は前足を踏みならし、何度も頭を弓なりにそらして黒いたてがみをふるう。神経質な蹄の音が響き渡った。ラトゥースは馬に声を掛け、首をかるく叩いてから飛び降りた。ふわりとドレスの裾が舞い上がる。
 白のペチコートに半ば埋もれる革のガーターベルト、編み上げのブーツがあらわになった。ガーターには掌に入るぐらい小さな護身用ピストルのホルスターが留め付けられている。
 衛視に手綱を預け、白鞘のサーベルを手にひっさげて正門をくぐる。すこし離れたところに、手を結びあわせうろうろと落ち着かない様子で歩きまわっている神官が見えた。
 いったん立ち止まり、荘厳な灯籠の列に照らし出される聖堂を仰ぎ見る。無数の小窓から砂金のようにこぼれる光が、闇にそそり立つ鋭い形を静謐にいろどっていた。どこか遠くから、ひそかに階調を変えて忍び寄る不協和音の連なりのような、聞く者の落ち着きを失わせる音が伝わってくる。ラトゥースは身をふるわせた。耐えきれず、手を結びあわせて祈る。
 音に気付いて神官が振り向いた。
「どちらさまで」
 明らかに怯えている。
 ラトゥースは口元を引きしめた。
「王国巡察使のクレヴォーです。院長どのにお逢いしたいとお伝え下さいませ。何があったのです」
「おお、神よ」
 神官は手で口を覆い、かぶりを振った。節くれ立った指がぶるぶる震えている。
「私どもは何も存じませぬ。誓って本当でございます」
 ラトゥースはこわばった顔で周囲を見渡した。広場左手の奥に、さながら野戦病院のようなかがり火に照らされ不穏に浮かび上がる天幕が見える。その周囲を豆粒のような人影がいくつも行き交っていた。何人もの神官が手にさまざまなものを持ってあわただしく出入りし、こわばった顔で怒鳴りつけたり、右左と指さしては指示を飛ばしている。
 何かが天幕に運び込まれている。それも次々と。ラトゥースは嫌な予感にさいなまれつつ足早に駆け寄った。天幕に入ろうとしていた神官が、ラトゥースを認め、表情を変えた。水の入った手桶の縁に折り畳んだ布をかけ、それを脇にかかえている。それは昼間、出会って話をしたばかりのギュスタと名乗る神官だった。
「ラトゥース姫」
 ギュスタは後悔の枷に繋がれた罪人のような声をあげて立ち止まった。
 口を開きかけたとき、ギュスタの背後から恐ろしい呻き声が聞こえた。異臭が立ちこめている。ラトゥースは挨拶もせずギュスタを押し退けて天幕へと入り込もうとし、凍りついた。凄惨な光景が目に飛び込む。戸板に寝かされた数十人が苦しげな表情で喉を掴み、体をねじ曲げて呻いている。絶えることのない苦悶の呻吟、すすり泣き、悲鳴。天幕の内側は吐瀉物の突き刺すような酸と排泄物の臭いに満ち、この世の地獄のようだった。
 筆舌に尽くしがたい惨状に、ラトゥースは言いようもない恐怖に襲われ、絶句した。
「これは、どういう……」
 手で口元を押さえ、かぶりを振る。
「何なの、これは」
 突如、背後が騒然となった。
「道を空けてください」
 また新たに戸板に乗せられた患者が、乱れる足音とともに運び込まれてくる。粗末な板の端から腕だけがはみ出して、だらりと垂れ下がっていた。幼いその頬はもはや土気色で、目はうつろに濁ったまま見開かれ、吐いた血と汚物がどす黒く変色して口元を埋め尽くしていた。緑色に濁った泡がこぼれおちる。
 その子の顔を一目見たとたん、ギュスタは声を詰まらせた。
「リカルド」
 駆け寄って取りすがろうとするのを、別の神官が払いのける。
「吐いた物を取り除くのが先だ。胃の中のものを全て吐かせろ。そのあと洗浄」
 せっぱ詰まった声が次々に響きわたる。
「リカルド、ああ」
 ギュスタはその場に膝をついてくずおれた。髪を掴み、顔を掻きむしる。絶望のうめきがこぼれた。
「私のせいだ。私の」
 ラトゥースは総毛立つ眼差しをギュスタへ向けた。
「そこを、退いて下さい」
 ギュスタは弾かれたように顔を上げた。言葉の意図を掴めなかったのか、苦悶の視線で愕然と問いかける。ラトゥースは何も答えず、いきなりずかずかと天幕の奥へ踏み込んだ。生と、死。わずか衝立一枚で隔てられた生と死の狭間を前に、ラトゥースは立ちつくした。隅に追いやられている
「死」
 に、険しい目を走らせる。一歩踏み込めば、そこは死の領域だ。
「いけません」
 ギュスタが駆け寄ってきてとどめようとする。貴族が直接の
「死」に触れることは許されない禁忌だった。だがラトゥースはギュスタの手を振り払い、汚れた白布に覆われた者の横にひざまずいた。マイアトールの聖印を切り、額に指を押し当ててから、胆を据えてゆっくりと骸布を剥いでゆく。
 無言で死体を見下ろす。手足の末端や顔面などにに紫斑。緑がかった色の吐瀉物に汚れた唇の色。これは伝染病でも、ましてや食中毒などでもない。如実なまでの毒物反応。
 怒りが身体の奥底からこみ上げた。決して激しく燃えて爆発する怒りではない。はりつめた氷にも似た涙。理不尽な無言の暴力、罪なき者を見境なく殺す卑怯な手口に対する、それは根元的な怒りだった。それが逆にラトゥースを変えていく。悲しみを、怒りを、鉄の意志に変えて。ゆっくりと立ち上がる。ふと昼間の情景――揉みあう男たちに叩き出される浮浪者――が思い出されて、ラトゥースは顔を上げた。
「あの鍋は、もう洗われましたか」
 静かに逆巻く声でつぶやく。
 ギュスタは眼を押し開いて立ち上がった。
「余りを別の鍋に残してあります。」
 そのとき。
「どいつもこいつも不衛生きわまりない死に方しおって。浮浪者どもにエサを与えるのは勝手だが、その連中がそろって食あたりで死ぬのは、はなはだ迷惑な話じゃないかね」
 傲岸な胴間声が天幕を揺らした。
「ここで食事をとった者が、街で次々死んでいるとの報告がある」
 天幕に入ろうともせずそう決めつけたのは、腰で膨らんだ貴族風のキュロットに胴着を身につけ、オリーブ色の肩マントをなびかせた男だった。せっぱ詰まった状況が見えているのかいないのか、神官全員を強引に呼び集め、もったいをつけて話し出す。
 総督配下の役人と思われるその男は、油でねじったナマズひげをつまみながら色の薄い唇を疎ましげに吊り上げて、天幕の内から聞こえてくるうめき声に鼻をゆがめた。
「よいか、総督命令を伝える。施しなどと言う偽善的な行為は今後一切、禁止だ」
 役人は尊大に言い放った。
「貴様等の所業は大量殺人に値するぞ。不衛生な環境下において汚染された食物を配り歩いた結果、浮浪者どもがのたれ死んだのであるからな。ま、その方がシャノアの街の浄化になって良かったわけだが。とにかく、本来なら全員しょっ引いて罪に問うところであるのを、総督閣下のご厚情でお見のがし下さるというのだから、ありがたくご命令に従うがいい。施しなどという口先だけのきれい事をやってはみたものの、本心ではそろそろ懐具合が苦しくなってやめたいと思っていたのではないのか」
 その言葉を聞いたギュスタの顔がみるみる青白い怒りに染まった。ラトゥースはギュスタの握りしめた拳が震えるのを見て、静かに前へと進み出た。足下で砂利がざくり、と鳴る。
「何だお前は」
 身長の差は頭三つぶんほどもあるだろう。だが、ここで退くわけにはいかなかった。侮蔑する眼差しをくれた役人に向かい、ラトゥースはまず大きく深呼吸した。
「あまりにもそれは礼を失した発言だとお思いになりませんか」
 役人は憎々しげな嘲笑をうかべた。
「黙れ、女。総督の名代として来てやったこの私に」
 無礼にもラトゥースを突き飛ばそうと肉厚の手で押しやりかけ、触れる寸前、凍り付く。
 真実、あるいは悪を見抜く力を与する太陽と月の神、マイアトールとヌルヴァーナのしるし。ラトゥースは首に下げた鎖を指にからめ、ゆっくりと引っぱり出した。細い指先に、金銀の象嵌を施された勲章が、きらりと反射しながら回転する。精緻な魔法円の中、背中合わせに重なり合う二つの翼――陰と陽、光と闇――を意匠したその刻印は、この国を統べる高貴な血統をあらわす紋章そのものだった。
「お前ごとき木っ端役人を相手にしている暇はない」
 たじろぐ役人を前にラトゥースは恐ろしく静かに言ってのけた。
「総督に伝えよ。大法官シド・サズュールの名において、今後この事件は王国巡察使クレヴォー隷下にて改めるものとする。手出し無用。しかと心得よとな!」
「は、ははあっ! 申し訳ございませぬ!! よ、よ、よもや巡察使さまとはっ」
 役人はこめつきばったのように平伏し、たるんだ頬肉をひくひくと痙攣させながら逃げ帰った。その背中に向けてラトゥースは土を蹴り、邪な印を切る仕草をしてみせた。
「何て言いぐさなの、あいつ!」
「私が愚かでした」
 今にも消え入りそうな、小さい声が応じる。うつむいたギュスタの顔は目を疑うほど青白く血の気を失っていた。今にも倒れそうだった。
「クレヴォー閣下、シェイル隊長より伝令」
 どうしようもなく重い空気をかきわけて、密偵の男が駆け寄ってきた。略式の敬礼をし、失礼と断ってからラトゥースに何事かを耳打ちする。
「ラウールの屋敷」
 鋭い視線で舌打ちし、伝令を見やる。
「分かったわ。私も行く。案内して」
 言い置いて歩き出そうとし、ラトゥースはギュスタを振り返った。ほっそりと優しかった眉が険しく引き絞られる。打ちのめされたていの神官をひたと見つめる。そのまなざしは、さながらヌルヴァーナの翼先に灯る青白い鬼火のようだった。

 月さえもが顔を背ける、泥のような夜空の下を、ハダシュは熱に浮かされた足取りでふらふらとたどっていた。目指すのはラウールの屋敷。頭の中にあるのは、自我を奪っていく赤い煙のことだけだ。行き先は地獄。それが自分の首を真綿のように絞めることになると分かっていた。分かっていても、向かわずにはいられない。手が震え出す前、幻聴が聞こえ出す前に、どうしてもそれが必要だった。
 周囲に人の気配はない。港の花街ならともかく、夜のシャノアをうろつくなど、まっとうな人間のすることではない。誰もが鎧戸を堅く閉ざし、光すら漏れないようにして閉じこもっている。たとえ隣人が強盗に襲われようと助けに駆けつけるなどもってのほか、それどころか火事場泥棒に成り下がり、金目のものを根こそぎ剥ぎ取ってあざ笑うのだ。
 欲望の街。暴力の都。誰もが若く熱しやすく、思うがままに乱暴に生き、年老いて穏やかに生きる術を知る前に命を落とす。それでもこの街には、王国の大部分に残された封建制度とは異なる
「自由と活気、解放された文化の象徴」
 という表の顔があった。シャノアでの生活は、街の外に住む大多数の人々が置かれている半奴隷的な農奴暮らしと比べれば、はるかに魅力的で変化に満ちた生き方といえただろう。表と裏の顔。光と影をあわせ持つ街。シャノアとは、そういう街だった。
 ラウールの邸は奇妙なほど静かだった。シャノアの闇を統べる男の住処にしては閑散としすぎている。外から見える窓に灯りのついているところは一つとしてない。ハダシュは邸の裏手へ回り、先端を鋭利に尖らせた鉄柵を越えて忍び込んだ。しばらく息をひそめ、気配を探る。いつも庭に放たれているはずの番犬たちは、今夜に限ってなぜか鎖につながれたまま深く眠っていた。植え込みの影をつたって、ラウールの居間へつづく小部屋の下に立つ。
 いやな胸騒ぎがした。何かがおかしい。ハダシュは黒々と繁った木によじのぼり、枝伝いにバルコニーへと跳躍した。跳ね返った枝がざわりと揺れる。それでもまだ誰かに気付かれた様子はない。窓に鍵はかかっていなかった。そっと引き開けてみる。ちょうつがいが短く軋んだ。
 足音をさせないよう忍び入る。息を殺して隣の部屋をのぞいた。ラウールの安楽椅子だけがぽつんとあった。見慣れない純白の毛皮が敷かれている。いつもとは明らかに様子が違う。あれでは足の悪いラウールがつまずいてしまうだろう。車椅子も寄せられぬはずだ。新しく入った下働きの者が手際の悪い真似をしたのか、それとも――
 中途半端に閉じられたカーテンのドレープから半分はみ出した白いレースが、そぞろに膨らんではそよいでいる。隅の飾りテーブルには白亜に金蒼彩を施した壺が置かれ、異様に強く香る薔薇がたっぷりと生けられていた。誰もいない。ハダシュは心ならずも安堵の吐息をもらした。おめおめ逃げ帰ったと知れれば、どんな扱いを受けるかしれたものではない。思わず力が抜ける。それよりラウールの隠し持つ麻薬を探し出さなければ。部屋を見渡す。
 煉瓦造りの暖炉からもれる消えかけた熾火が、灯りのない部屋を朱色に染めている。灰の山には火掻き棒が斜めに突き刺さっていた。透き通る赤と黒の火だけが音もなくゆらめいて、床に細長い影を伸ばしている。毛足の長い敷布が足音を吸い込む。ほんの少量でいい。一日でもあの苦痛から遠のいていられるなら――そう思って、油断した足を踏み出したとき。
「呆れたものね」
 ひそやかな衣ずれの音が聞こえた。とっさに身をひるがえす。
 刹那、みぞおちに強烈な棒状の一撃が食い込んだ。ハダシュは胃が裏返りそうな痛みにつんのめり、がくりと膝を落とした。意識がかすむ。白い手が、甘い香りのする布をすばやくハダシュの鼻と口に押し当てた。馥郁とする罪の香りにひきずられる。ハダシュはつい息を止めることも忘れ、ふかぶかと揮発する麻薬をむさぼった。眼がくらんだ。ため息がもれる。
「なぜ貴方がここにいるのかしら」
 あえなくくずおれるハダシュを、ヴェンデッタは片手でかるく突き飛ばした。ハダシュはぐらりと体勢を崩して安楽椅子に倒れ込んだ。
「一人で生きるのがそんなに辛いの。そんなに脆い男だったかしら、貴方は」
 頭の奥が鉛のように重い。理性が叫んでいる。しかしもう脱力した身体も心も動かない。折れた意識が、深くよどんだ昏い海へと沈んでいく。ヴェンデッタはドレープのタッセルを抜きとってハダシュの両手首を縛り、吊り上げて安楽椅子の背もたれにきつく結びつけた。
「少しは抵抗する素振りを見せなさいな。じゃないと嬲り甲斐がないわ」
 冷然と眼を細める。暗い微笑みが近づいた。ぎしり、と木が鳴って、椅子が揺れた。手が触れる。ハダシュはぐらぐらと頭を振った。髪が甘くしなだれかかってくる。頭はぼんやりしていくのに、生身の感覚だけが何倍にも膨れ上がっていくような感じがした。ハダシュは震え、ヴェンデッタを肩で押しやろうとした。
「どうして。貴方と私の仲じゃない。今さら」
 ヴェンデッタの喉が、小鳩のような血の笑いを含む。細い指先がベルトに触れた。罪深い音が小さく鳴る。ほどかれ、手を差し入れられる感触だけで、身体が鋭敏な記憶に反応した。ほんの少し指先が触れただけで、ざわざわと総毛立ち、膨れあがってしまいそうだった。
「今さら何をおびえてるの」
 ヴェンデッタは焦らすかのように姿勢を変え、斜に背を向けた。深いスリットの入った黒いローブを肩からゆっくりとすべり落としてゆく。白い肩。はりつめ、今にも水となってこぼれおちそうな重みに揺れる胸。ガーターベルトの黒レースが眼に飛び込む。赤い暖炉の照り返しをうけた背中に、壮麗な黒薔薇の刺青が、とろりと艶を帯びて光っていた。官能の闇が匂い立つ。ヴェンデッタが屈み込んできた。いざなう爪が喉をつたい、顎から頬へ、ざわざわとかきたてながら這いのぼってくる。妖艶な微笑みが耳元にささやいた。
「酷い傷ね。身も心も傷ついて、ぼろぼろ。私を殺すことも、逃げきることもせず、ぶざまに戻ってきた。生きるすべを失った奴隷のように」
 突然、氷のように冷たいヴェンデッタの手が、以前負った深手の傷をつかんだ。
「……っ!」
 傷をまともに握りつぶされて、ハダシュは苦悶の呻きをもらした。逃れようと身体を跳ね上がらせるたびに激痛が突き抜ける。耐えきれず息を乱した。身体全体が熱を帯び、朱に染まって、息苦しく耐え難く脈打ってゆく。
「支配にすがって、踏みにじられながら生かされる道を選んだ。安易に。何も考えずに」
 闇の中にひそんだ暗い眼が、そそるようにぎらりと光った。
「そんなに欲しかったの」
 意地の悪い含み笑い。こぼれそうな乳房が眼前を横切った。揺れる残像が焼き付く。限界だった。欲望が息を呑むほどうごめいた。
「こんなにして」
 今にも触れそうなほどの確かさで、あばかれた下腹部に熱い息がかすめる。
 たまらずうめきが洩れる。
 誘うように。突き放すように。危険な欲望に満ちた愛撫が、波のようにのしかかってくる。欲望に濡れる影の向こう側から、潤みを含んで見上げる黒いまなざし。かすむ声で名を呼ばれ、毒の唇を寄せられて。
 とろとろ燃える情火の奥にひそんだ、氷のような眼。熱泥のようなささやきが少しずつ、少しずつ、近づいてくる。ハダシュは反射的に壊れた叫びを上げ、かろうじて自由な側の足を蹴り出した。踵がヴェンデッタの顔を狙って矢のように伸びる。だが不自然な姿勢からの蹴りはむなしく空を切った。ヴェンデッタはわずかに顔を背け、ハダシュの蹴りをかわす。
 髪が揺れている。軽蔑の表情が、ヴェンデッタのまなじりをうっすらと朱に染めた。
「まだそんな余裕があったの」
 ハダシュは呻吟をもらし、歯を食いしばった。もう、意識の半分は麻薬の快楽に溶け、うつろに漂い流れて、姿形をなさなくなっている。
「嫌なひとね」
 椅子が軋む。裸身が、肌にまとわりつく。とろり、とろり、と。抵抗を押しのけ、女の笑みが巨大に伸び、からみついてくる。苦みが口に広がる。すぐに感覚が消え、壊れ始めた。匂い立つ闇の情動に、全身がぶるぶると揺れ、崩れ落ち始める。狂気の感覚が薔薇の刺青の形を取って視界を覆い尽くした。うねりながら近づいてくる。逃れられない――
 ヴェンデッタは、熱く濡れた吐息を漏らした。
「私なら、たかが千スーで貴方を買うような真似はしない」
 何を言われても口答えできない。やわらかく、深く、呑み込まれ、うずもれてゆく刺激が、人間としての感覚をすべて奪っていく。渦巻く色、どろどろとゆがんだ熱気。一度でも、あのおぞましい享楽を呼び覚まされてしまえば、そこから逃れるすべはない。
 ハダシュは堕ちた恨みがましい眼でヴェンデッタを見上げた。息が激しく荒れて、しとどにみだれる。
「……私なら」
 ヴェンデッタは手に何かを持ち変える。それが何なのかようやく思い当たり、ハダシュは弱々しく逃れようとした。多くの血を吸って、暗い赤みを帯びた柄の木肌。見紛うはずもなかった。蠍の浮き彫りが入ったハダシュのナイフ――その刃が、まるで今しがた人を殺めて来たばかりの赤茶けた錆色に染まって、ハダシュの胸に突きつけられている。
「貴方の血で貴方を飼う」
 ヴェンデッタは残酷に笑ってハダシュの胸を左の指先で押さえ、ナイフの先をぴん、と跳ね上げた。細い血がしぶく。針金のような痛みが身体を裂いた。
「憎悪と苦痛の鎖で貴方を縛る」
 憐憫を表したつもりなのか、秀麗なかたちの眉をひそめてヴェンデッタが見下ろしてくる。華奢な指が傷をたどり、かと思うと爪をたてられ、ぎりぎりと傷を押し広げるほど力を入れられる。またナイフがひらめいた。今度はもっと深く一直線に身を裂かれる。ハダシュはうつろな声をもらして身をよじった。身体の震えが止まらない。こんなに切り刻まれていながら――
 濃密な牡と雌の匂いが血と汗にまみれ、たちこめていく。とっくの昔に壊された理性が、剥きだしの欲望をそのままに今はヴェンデッタの身体を求めていた。
「それが貴方の真実。貴方の望む姿」
 ナイフを投げ棄て、ヴェンデッタは首にかけていた細い銀の鎖をはずした。逆さになった髪から白いうなじが妖艶にのぞく。少し力を入れれば切れてしまいそうなほど細い鎖を左右の指にかけて、ひややかにハダシュを見下ろす。びん、と張られた鎖が、弦の音のような震える音を立てた。
 ヴェンデッタはハダシュの視線をがちりと捕らえたまま、唇に微笑みを浮かべて、その鎖をハダシュの喉にゆっくりとからめた。
 ハダシュは醜悪に喘ぎ、頭を振った。妖艶に揺れる肢体の描き出す軌跡に視線を吸い付けられて、眼を離すこともできない。匂うがごとく咲き誇る黒い薔薇。ヴェンデッタの微笑がいっそう深まる。その瞳の奥がぎらぎらと黒くあやしく燃え――
 鎖を引き絞られた瞬間、ハダシュは恍惚の呻吟をもらした。身体が痙攣する。もう、隠せない。身体を傷つけられれば傷つけられるほど、血と精液の臭いが立ちこめれば立ちこめるほど、魂が堕ちてゆく。瓦解してゆく。
 ヴェンデッタは口元をあやしい笑いに染めた。
「血と薔薇で貴方を支配する」
 豊満な身体が、鎖に縛られたままのハダシュを呑み込んだ。濡れた音、金属の音を立てて、上下に動き始める。
 ハダシュはつぶれたうめきをあげた。理性など、もうどこにもなかった。女に溺れ、その快楽にずぶぬれに溺れて、身体がどろどろに溶けてゆく。椅子が揺れ動く。汗みずくになった心のどこかが、もう堕ちてしまえ、狂ってしまえ、と叫んでいた。
「それとも貶められ支配されることに馴れすぎて、自分では何も考えられなくなったのかしら」
 ハダシュは、一瞬我に返り、喘ぎに息をつまらせながらヴェンデッタを睨んだ。麻薬と快楽にかすんだ眼では何の役にもたたないと分かってはいたが、どうしても睨み付けてやらずにはいられなかった。
「そう、その眼。ずっと、その眼で私を見つめていてくれるなら……貴方に殺されてあげてもいい」
 ほんの少し、ヴェンデッタの面影に淋しげな様子が混じった。
「私と一緒にどこまでも堕ちてくれるなら」
 ヴェンデッタは陶然とした表情を寄せた。舌を這わせ、熱い吐息もろとも耳元にささやく。
「キスして。早く」
 ハダシュの身に欲情の火をつけ、みずから妖艶に揺すり立てながら、熱を帯び溶けだした氷のように玲瓏に微笑む。
「貴方が憎い。何もかも奪って殺したいぐらいに」
 理性の欠けたささやきが脳裏を圧した。からめた舌がとろりと唾液の糸を引き合ってもつれあう。あふれる粘液が泡だった音を立てる。上も、下も、どろどろに溶け、濡れて練り合わされた欲望そのものだった。絶え絶えになった息が、白いのどからふいごのように洩れた。揺れ動く身体に悲鳴を上げるたび、混ぜ合わされた欲望が糸を引き、泡立ってぬめり、蕩けていく。
 本能だけに突き動かされる肉の塊。互いに命を狙い憎みあっていた者どうしが、餓え、発情しきった獣となって絡み合い、泥まみれの愛をむさぼりあっている。あるのはただ、すさんだ思いだけ。
 ふと、喉を鳴らして嘲笑う声が聞こえた。
「残念ね」
 汗に弾み、上ずった声が離れていく。ハダシュは最後の瞬間を逃されたことに気付いて息をすすり込み、身体をひきつらせた。
「続きは、お預け」
 忍び入る冷笑が、一歩下がる。
 そのまま無言できびすを返し、全裸のまま、燃え残りがくすぶる暖炉に近づいていく。
 くすんだ光を放つ火掻き棒を引き抜く。火の粉がぱらぱらと震え散った。深い陰影に沈む裸身を、残熱の朱色がほのかに照らしている。赤く熱せられた鉄の棒をレイピアのように払って、ヴェンデッタは振り返った。
「不様ね」
 次の瞬間、ヴェンデッタは熱した鉄棒をハダシュめがけて残酷に突き下ろした。
 内腿の肉と皮を焼き焦がす凄まじい音があがった。ハダシュは絶叫し、縛めすら引きちぎって身体を跳ね返らせた。支えを失った身体が、反動で椅子から滑り落ちる。
 悶え苦しむハダシュの腿にくっきりと、血を流す赤黒い家畜の数字が焼きついている。それを冷ややかに見つめながら、ヴェンデッタは焼きごてを床に投げ捨てた。カーペットが黒ずんだ煤で汚れていく。苦い煙がたちこめた。
「ハダシュ」
 呻き、ひきつる身体の上に身をかがめ、手を伸ばして。ヴェンデッタはやおらハダシュの顎をぐっと挟み、涙に濡れた顔を無理やりねじ向けさせた。
「貴方は私のもの」
 闇を孕んだ眼差しが、ぞっとする光を執拗に帯びて、ハダシュを見下ろしている。
「次は……貴方のすべてを手に入れる」
 やがてヴェンデッタは気配をゆるめ、薄く笑ってハダシュを突き飛ばした。それきり興味なさそうに目をそらし、ローブを片手にすくい上げて部屋を出ていく。足音が遠ざかった。
 あまりの屈辱に呻きがもれた。手足までが震え出す。ハダシュは自らのふがいなさに床を殴りつけた。拳が裂けて、血が飛んでも、止められなかった。

 どうやって悪夢から逃れたのか、記憶にない。ハダシュは這うようにしてラウールの屋敷から逃れ、街にまろび出た。頭の後ろ奥が嫌な熱を帯びて、破槌のような痛みを放っている。壁を頼ってよろよろと伝い歩く。逃げなければ、そう思いながらも身体がまともに動かなかった。
「冗談きついぜ」
 ふいに声が通りすぎていった。ハダシュは息を止め、壁に張り付いた。悪夢より息苦しい現実がぶりかえす。無くしていたはずの記憶が、忘却の彼方から揺り戻されてくる。過去と現在、未来までが混然と入り乱れた、吐き気にも似た、過去の記憶。
「賞金首ったってヤク中のキチガイ野郎だろ。関わりたくねえなあ」
 無意識に声の跡をつける。それは、街のどこにでもたむろっている浮浪少年たちだった。ふと、大昔の自分を見ているような気になる。カネになることはないか、何か壊せるものはないかと嗅ぎ回っては薄汚くうろついていた日々。
 幼い頃のいやな記憶が脳裏をかすめた。父の顔も知らず、母親には捨てられ、暗い森の中で獣に怯えて泣いていた。何もかもが敵だった。野犬に喰われかけていたところを猟師に拾われ、食い扶持代わりに領主の持つ鉱山へと売り飛ばされた。やがて看守を殺し、鉱山を脱走し、密航してシャノアの街に逃げ込んだ。闇に紛れては道行く者を襲い、金を奪い漁色に溺れ、春をひさいだ。人の痛みになどまるで関心がなかった。とめどなく荒れていくうちに気が付けば麻薬欲しさに売人を殺していた――ラウールの配下を。
「人を殺すのが趣味だと」
「ふざけた野郎だ。賞金いくらよ」
 ハダシュは少年たちの跡をつけるのをやめ、路地に戻って深呼吸した。じめじめした動悸を押さえきれず、眼をつぶる。
「どいつもこいつも」
 闇雲な怒りにかき立てられて、石壁を殴りつける。物音に驚いた猫が、戸口に捨てられたゴミの山から飛び退いた。おびえた両眼が薄緑色にぴかりと反射する。
「失せろ」
 八つ当たり気味に、小石を投げつけた。猫はすばやく身をかがめ、戸口の隙間をぬって消え失せた。長い尻尾が見えなくなる。あたりが静かになるとハダシュはさらに幻滅を感じて口をゆがめた。もう、どうなろうと同じだった。そのまま無防備に歩き出す。
 雲が切れて、月が顔を出した。目を覆いたくなるような薄汚い裏通りだ。道の端に汚物が掃き捨てられ、ネズミやゴキブリ、うごめく線虫の類が、びっしりと黒ずむほどにたかっている。
 喉がからからに渇く。水では癒せない乾きだった。こんな街のどこに何を求めていたのだろう。自由か、それとも自虐か。冷や汗の滲む額を手の甲で拭う。思いつめてハダシュは歩調を早めた。忍びやかな靴音が石畳に鳴る。影法師が自身から引き離されてゆくかのように長く伸びた。突然、ハダシュは足を止めた。ぎりりと唇を噛む。
 聞こえる。足音が近い。とっさに横飛んで路地へ駆け込む。焦った気配が駆け寄ってきた。誰かが追ってくる。武器を持っていないことへの恐怖がみるみるせり上がってくる。動悸が激しくなった。脂汗がにじむ。背後の暗闇が、何か物質のような重みと冷たさを持って吹き付け流れ落ちてくるような、そんな気がした。
 直後、路地を覗いた男と真正面から眼があった。うしろで一つにくくった銀の髪。白衣。
「レイス先生」
 思いがけぬ再会にハダシュは、愕然としてつぶやいた。神経質そうな銀縁の眼鏡。ふくらんだ革の黒鞄。それは場末の非合法医師、レイスだった。
「やっぱり、ハダシュ君か。どうしてこんな所に。いや、そんなことより」
 ぼろぼろに破れたシャツの下から滲む血の色に、レイスは眼鏡を押し上げて驚いた。
「ひどい、また血まみれじゃないか。すぐに治療しないと。往診の帰りでよかった。診療所へ戻るぞ。ほら」
「触るな」
 焦って闇から連れ出そうとするレイスの手を、ハダシュは本能的に払いのけた。
「ハダシュ」
「俺に関わるんじゃねえ」
 ハダシュは獰猛にうなり、後退った。
「そんなこと言える状態じゃないだろう」
 レイスは驚いた顔で言いつのった。
「いいから自分の姿を鏡で見てみろ。そんな傷で平然と歩き回っているほうが余程おかしいぐらいの……」
 ハダシュは逃げだそうとして、眼を押し開いた。レイスの背後。暗闇に、男が立っている。
 レイスは不思議そうにハダシュの視線を追い、何の気なしに振り返った。
「知り合いか?」
 困惑の面持ちで尋ねる。
 次の瞬間、男は口に手を持って行った。呼子だ。気づいたと同時に、身体が動いていた。思いのほか俊敏な身のこなしで突進をかわしたレイスの傍らをすり抜け、弾丸のように男へと駆け迫って口元の呼子を殴り落とす。
 相手の顔が恐怖にゆがむ。見慣れた表情だった。ハダシュは飛び退こうとする男の胸襟をつかんだ。足払いをくらわし、側頭部をぎざぎざの壁に削りつけながら闇に引きずり込む。
 逃れる間も許さない。一瞬で血だるまになってゆく男のベルトから幅広のナイフを奪い取り、喉へ刃を押し付けた。
「俺に何の用だ」
 凄みのある凍てついた瞳で男を見下ろす。
 相手の喉仏が、ごくりと上下した。擦り下ろされた顔半分から血がだらだらと垂れている。
「何してるんだ、ハダシュ君、喧嘩はやめたまえ……」
 レイスが動揺した声を裏返らせ、あたふたと駆け寄ってくる。
「来るんじゃねえ」
 怒鳴りつけようとした、その瞬間が命取りだった。痛烈な蹴りが鳩尾に突き刺さった。ハダシュははねとばされ、むせて、よろめいた。次いで背中から踵落としが落ちる。そのまま地面に叩きつぶされた。額が割れた。血が噴き出す。口の中にも同じ鉄錆の味が広がった。気が遠くなる。這いつくばるように体を起こすと、手と膝ががくがくと震えていた。眼の焦点が合わない。
「やめるんだ、おい、君、暴力はいけな……」
 制止しようと男の肩を掴んだレイスは、あっけなく男の拳に振り払われた。鞄の中身を盛大に撒き散らしながら路地の奥へと叩き込まれる。崩れるごみの山がレイスを埋めた。
 ハダシュは逃げるに逃げられず、よろめき、後退った。先ほどの一撃で失神したのか、ごみに埋もれたレイスの身体は、びくりとも動かない。男は腰にぶら下げていた太い棒を持ち出して構えた。一面に黒光りのする鋲が打ってある。あれで顔面を殴られでもしたら、頭蓋骨ごと顔の半分をごっそり持って行かれるだろう。
「二目と見られない面にしてやる」
 男が熊のような腕をさすって嘲けった。ハダシュは唾を吐いた。粗野な仕草で口の端をぬぐう。血と砂の混ざった嫌な味がする。錆び付いているのはどうやら身体だけではなさそうだ。死への嘲弄を取り戻さなければならない。ハダシュは奇妙な好奇心にかきたてられて尋ねた。
「俺の値段を聞かせてくれ」
「聞いてどうする。命乞いか」
「自分の価値が知りたい」
「ラウールも目端の利かんことだな、こんなヤク中のクズ一匹始末するのによ」
 男は舌なめずりをせんばかりだった。ハダシュは愕然とした。まさか、ラウールが、自分を。
 奥歯をぎりぎりと噛みしめる。男はその表情を見て、そっけない笑いを放った。
「もう、用なしだとよ」
 棒を振りかぶった。
「分かったら死ねや、クズ!」
 逃げようにも足が動かない。こんなことが。黒薔薇に殺されるならともかく、仲間に裏切られ、嬲り殺されるとは。……仲間? ハダシュは音も気配も凍りついた一瞬の間隙に立ちつくしたまま、呆然とかすれ笑った。何を信じていたのだろう。ラウールもローエンもヴェンデッタも最初から仲間などではなかった。
 分かっていたのに。最後はどうせこうなると、知っていたのに。後悔と、自嘲と。わずかな胸の痛みが渦を巻いて脳裏の闇に吸い込まれる。こんな奴らのことを仲間だと思い込んでいた自分が可笑しかった。とにかくこれで終わる。ヴェンデッタの言ったとおりだ。思い描いていたのと同じ、クズのような、虫けらのような――ローエンと同じ、不様な最期。
「おい、男」
 突然、男の急所に、恐ろしい音がめり込んだ。黒いブーツの踵が食い込んでいる。一瞬の静寂の後、男は糸の切れた操り人形のようにくずれ落ちた。
 股間を押さえ悶絶している男の向こう側で、額に手を当てなぜかうなだれる女軍人の姿が見えた。戯画化された悪魔にも似たかたちの影が、黒々と路地にうねっている。
「ああ、また男を足蹴にしてしまった……」
「蹴り一発だなんてすごいわ、シェイル」
 ぱらぱらと呑気な拍手が巻き起こる。緊張をほぐす間の抜けた笑い声が響いた。細身のサーベルを帯びた可憐な影が進み出てくる。ふわりとなびくドレスの裾。性急に駆けつけてきたのか、風にくしゃくしゃと乱れた金の髪。小生意気な仕草で腰に手を当て、半身に体重を掛けて、斜に構えてみせながら、こつん、と柔らかなヒールの音をさせて立ち止まる。
「でも、よかった。また逢えて」
 ハダシュはその声を聞いてうろたえ、また心のどこかで安堵する自分を感じた。
 ラトゥース・ド・クレヴォー。だが、別の記憶がハダシュを苛烈な現実へと引き戻す。
 エルシリア侯クレヴォーは国に列する諸侯の中で最も有力、かつ、王国の封建制度を支える立場であるはずだった。その貴族の名を冠する人間である以上、ラトゥースもまた単なる道楽の放蕩貴族ではありえない。黒薔薇と、それを追って現れたラトゥース。この街のどこかで、何かが動き出している。
「気づいてなかったの、屋敷を出てから、この男にずっとつけられてたこと」
 ラトゥースは、笑みながらもハダシュに絡めた険しい視線をはずそうともしない。ハダシュは暗澹のまなざしをラトゥースへとくれた。
「このままではまた脱走のおそれが……縄を打ちますか」
 気を取り直した女軍人が訊ねる。
 ラトゥースはわずかに口元をゆるめた。
「いいえ。そっちのチンピラだけお願いするわ。私は、彼に、話がある」
 シェイルは部下を呼び集めた。命じられたとおり自らの踵で金的を蹴り潰した男の後ろ手に枷をはめ、引っ立ててゆく。荷車の音が遠ざかった。ラトゥースは表通りを指差し、微笑んで歩き出した。
「馬車を待たせてあるわ。乗ってちょうだい」
 ハダシュはためらいがちにレイスの消えた闇を振り返った。
「待ってくれ。先生が」
「先生?」
 ラトゥースは不思議そうに尋ね、それから物音に気付いてハダシュの背後を見た。
「やめるんだ君たち、暴力は、いけない……」
 ぼろぼろになった白衣をひきずるレイスが、かろうじて壁にすがり、近づいてこようとしている。
「あの方ね」
 ラトゥースは微笑んだ。
 レイスもまた、ラトゥースに気づいた。一瞬の笑みが口元をかすめる。だがすぐにその笑みは困惑と入り混じり、やがて驚愕へと変わった。
「驚いた、いったいどちらの姫君がおわすのかと……えっ、姫君!?」
 意外な邂逅を、何度治しても斜めにずれてくる眼鏡のせいにしながら、レイスはらしからぬ頓狂な声を上げる。
「わたくし、ラトゥース・ド・クレヴォーと申しますの。どうぞお見知りおきを」
 ラトゥースは優雅に名乗った。レイスは緊張の面持ちで背筋をぴんと伸ばし、眼を泳がせて硬直した。
「自分は、レイスブルックと申……レイスと申す藪医者です」
「いいえ、先生のお噂はかねがね、そちらのハダシュさんからお伺いしておりますわ。徳のおありになる、素晴らしい名医でいらっしゃるとのこと」
 ラトゥースは屈託なく手を差し伸べた。
「どうぞこちらへ。見れば先生もお怪我をなさっておいでの御様子。どうか、わたくしどもとご一緒くださいな」
 レイスが唖然とハダシュを見る。
「ハダシュさん、だって。誰だ。君か?」
「うるせえ」
 ラトゥースがころころと手を口元に添えて笑う。ハダシュは気恥ずかしさを隠そうとわざと剣呑に鼻をゆがめた。なぜか、逃げる気にはなれなかった。
 ラトゥースにいざなわれるまま、のろのろと後について歩き出す。
 道ばたにすすけた色合いの一頭立て二輪馬車が停まっていた。屋根もない。年代物らしくあちこち塗りが剥げて、変色した木の色が剥き出している。御者が押さえる踏み台をラトゥースはかろやかに上った。奇妙にうきうきとした仕草で、振り返る。
「君が先に乗ってくれよ」
 恐縮するレイスに先を譲られ、ハダシュはしぶしぶ席についた。続けて、レイスがぎくしゃくと乗り込んでくる。
 ラトゥースは、そっぽを向いたハダシュの横顔を、向かい合った席からまじまじと見つめた。身を乗り出し、しかつめらしい顔をしてみせる。
「ひどい顔。それに、何て格好」
「黙れ」
 人前に晒せる風体ではないことぐらい自覚している。ハダシュは不機嫌に唸った。
「とりあえずこれで傷を押さえてて。どこもかしこも血だらけで、見るも恐ろしいわ」
 ラトゥースは傍らの可愛らしいポーチから丁寧に折りたたんだ白いハンカチを取り出した。手渡そうとする。ハダシュは躊躇した。血に汚れた手で触れるにはあまりにも白すぎる――
「遠慮なんて、らしくなくってよ」
 半ば強引にハンカチを投げて寄越してくる。ハダシュはハンカチを受け取り、ややためらって見下ろしたのち、無言で口の端を押さえた。急いで離し、汚れ度合いを見る。純白のハンカチがみるみる泥と血の色に変色してゆくのはあまりにも居たたまれない。無様な色だった。
「詰め所までお願い」
 ラトゥースが合図すると、御者はうなずき鞭をふった。馬車はとんでもなく跳ね上がってから走り出す。振り落とされそうになって、ハダシュもラトゥースもあわてて手すりにつかまった。カンテラが右に左に揺すぶられている。一方、レイスはまだ、まじまじとラトゥースを見つめている。馬車の振動にも気付いていないようだった。
「さてと、どこから話せばいいかしらね」
 がたごと揺れる馬車に揺られながら、ラトゥースはどこか嬉しそうに言った。身を乗り出すたびに夜風が金髪をくしゃくしゃと逆巻かせる。血の夜にはまるで不釣り合いな笑顔だった。
「昨日の夕方――あなたが目を覚ました後のことだけど、シェイルが自警団に行って話を聞いてきてくれたの」
 ラトゥースははす向かいにレイスがいるにも関わらず、驚くほどひやりとする声で続けた。
「独特な殺しの手口から推測するに、闇の犯罪史に名を連ねること数十回。仕事は大胆にして冷酷。それでいて、素顔を見たことのある者はほとんどいない。まさに”名も無き殺し屋”にして、シャノア史上最悪の快楽殺人者」
 笑みが削ぎ落とされる。
「それが、あなたの評価」
「何だって」
 レイスが愕然と呻いた。
「そんな馬鹿な。何かの間違いでしょう。ハダシュ君はそんな人間じゃない。変な疑いを掛けるのはやめてください。確かに、その、何だ、いつも怪我ばかりして、めちゃくちゃな事をしているのは事実だけれども、でも」
 ハダシュは首を振り、冷め切った笑いを浮かべた。
「妙な尾ひれが付いてるだけだよ」
「ハダシュ君、何言ってるんだ。誤解なら誤解だと、ちゃんと言わないと……!」
 レイスは手を振り回して反論する。ハダシュはうんざりと頬杖をついた。わざとレイスの抗議を聞き流す。心のどこかが自棄めいた吐息をもらす。
「どうしてジェルドリン夫人まで殺したの」
 ラトゥースは押し殺した口調で訊ねた。もう、顔も目も、口ぶりさえ笑っていない。
「さあな」
 ハダシュは疎ましげに答える。実際、殺しの理由など無いに等しかった。
「彼女が黒薔薇と結託してたことは当然知ってたはずよね」
 ラトゥースはかすかな笑みを取り戻した。
「黒薔薇の資金源になっていたことも。殺せば追われると分かっていて殺し……そしてその通りになった。あなたが追われていたという、その事実こそが、すべて仕組まれた上での出来事だったってことを示している。あなたは利用されたのよ。夫人から絞れるだけ絞り取って、利用価値がなくなるや切り捨てる。それも自分の手を汚すことなく」
 ふたたび馬車が大きく揺れて傾き、進路をそらす。レイスが間の抜けた頓狂な声を立てた。ラトゥースは遠いまなざしを車窓の闇へとそらした。こわばった声だけが風に乗り、吹き散らかされていく。
「私の使命は黒薔薇の実態を解明し、組織を壊滅させること。そのためなら」
 馬車は、不可解に入り組んだ路地を抜け、木立にかくされた引き込み口のある宿へと入っていった。馬止めに馬車を停めると、気配を察したか、黒い布をかけた灯りを下げた宿のあるじが戸を押し開けて現れた。慇懃に頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。こちらはレイス先生。お医者様よ。客間にお連れして」
「シェイルさまより、御伝言を言付かっております」
 あるじがひそひそと耳打ちする。ラトゥースはうなずいた。レイスを振り返り、いかにも取って付けたように微笑みかける。
「では、レイス先生。お部屋を用意させますので、しばらくおくつろぎになっていて下さいませ。のちほどお食事と湯殿のご案内をさせますわ」
「い、いや、私はその」
 レイスはたじたじとなった。
「そう、お話があるのではないですか」
「どうぞ、こちらへ、レイス殿」
 宿のあるじが有無を言わさずレイスを案内してゆこうとする。
「違う、そうじゃない、ちょっと、ハダシュ君、待ってくれ給え、私も同席しよう、やんごとなき姫君相手に粗相があってはならなっ……」
「どうぞ、こちらへ」
「いや、だから、その、姫君と二人きりとかずるいと思わないのか君は!」
「俺に行動の決定権があるとでも思ってるのか」
 ハダシュはあるじに伴われたレイスが半ば強引に連れ去られてゆくのを見送った。情けない声が廊下の彼方に遠ざかる。
「好待遇だな」
「あの方があなたの主治医様ってわけね」
「藪医者だ」
「凄腕の、でしょ」
 ラトゥースはそっけなく笑う。
「まあ、あの先生のことは気にしなくても大丈夫よ。こっちに来て」
 ふわりと髪を肩から払い落とす。ラトゥースは角灯を提げ、先に立って歩き出した。案内されたのは見覚えのある、あの部屋だった。中は真っ暗だ。ラトゥースはまず傍らの台に置かれた壁付きの燭台に火を移した。ぼんやりと病室の隅が浮かび上がる。閉じられたガラス窓に、くすんだ明かりの色が映った。じりじりと心無しか焦ったような朱影が揺れる。
「お前も相当な馬鹿だな」
 ハダシュは後ろ手で扉を粗暴に閉め、脅すようにつぶやいた。
「俺と一緒にいたら、てめえの命なんざいくらあっても」
「あら、うれしい」
 ラトゥースは妙に声を弾ませて手を打ち合わせた。
「私のこと、心配してくださってたのね。光栄だわ」
 ハダシュはうっとうしさを装って唇を曲げた。
「誰がそんなこと言った。俺がお前を殺すって言ってるんだ……」
「まあ怖い」
 ラトゥースは、てんで堪えていない様子で窓辺に寄り、ちらりと用心深く外を覗いてからカーテンを注意深く正した。
「とにかくは座って。話を聞かせてもらうわ」
 ハダシュはしぶしぶ従った。鈍重な足取りで部屋を横切る。ラトゥースの目が鋭く瞬いた。
「まずはローエンという名について」
 ハダシュは陰惨なまなざしをラトゥースへと突き立てる。ラトゥースがたじろぐ。
「誤解しないで。ずいぶんうなされて……うわごとで何度も繰り返してたから」
 やや神妙な口調で続ける。
「知り合い?」
「うるせえ、知るか。先――レイスの奴に聞けよ」
 ハダシュはベッドに身体を投げ出した。少しは跳ねるかと思ったベッドは、だが、厚みのまるでない板敷きの反発力そのままだった。肌触りの悪い薄っぺらなシーツがいらだたしさをいっそう助長させる。居心地の悪さが気に入らず、ハダシュはわざと当てつけに吐き捨てた。
「白豚と一緒に殺った」
「……ジェルドリン夫人のこと?」
「二度も言わせるな」
「それはおかしいわ」
 ラトゥースの青い目が棘のあるひそやかさで光っている。
「見つかったのは夫人の死体だけだった。間違いなくあなたの手口と分かる、即死に近い死に方をした、ジェルドリン夫人のね。でも、部屋全体に渡ってひどく争った形跡があった。まるで何者かが」
「うるせえ。知るか」
 ハダシュは溢れだしてくる記憶の濁流を無理矢理に塞き止めた。
「裏切り者は死んで当然だ」
 血走った青いローエンの目。組織を裏切り、黒薔薇に荷担した馬鹿な奴。だが、そう思おうとすればするほど、反対に声がわなないてゆく。まとわりつくラトゥースの視線が恐ろしい。
 ラトゥースはしばらくの間、何も言わなかった。ゆっくりとうつむき、考え込み、顔を上げハダシュを見つめてはくちびるを噛む。くしゃくしゃと柔らかい毛先が頬にあわく透ける疲れの影を落として、わずかなかぶりを振るたびにもの悲しく揺れていた。
「何とか言えよ」
 堪えきれなくなってハダシュが唸ると、ラトゥースはようやく窓辺の長椅子に腰を落ちつかせた。
「尋問してるつもりはないの」
「女は家でママゴトでもしてろ」
「少しは自分の立場ってものを考えて」
 さすがにむっとした返事が戻る。
「じゃ、とっとと縛り首にすればいいだろう。偉そうにしやがって気に入らねえんだよ……」
 ラトゥースは声を落とした。
「もしあなたが噂どおりの殺し屋だったら、とっくにそうしてる。私には断罪の権限があるし、もしなかったとしても、あなた一人の命ぐらいどうにでも」
 いったん言葉を切り、うつむけていた顔を上げて、ぐっと身を乗り出してくる。疲れも、痛みも忘れるほど――強い、まっすぐな視線だった。
「だから、私の話を聞いて欲しいの。信じて。聞いて。分かって欲しいの。私はあなたを助けたい。ううん、あなただけじゃない、この、シャノアの街全体を助けたいの」
 ハダシュは歯牙にも掛けずせせら笑った。
「それがどうした」
「ひとつ、聞いてもいいかしら」
 声がふと落ちる。ハダシュはラトゥースの瞳に映り込む炎の揺らめきに心を奪われた。ゆがみひとつない、まっすぐな炎。
「初めて人を殺したのは、いつ」
 沈黙。
「なぜ殺したのかも教えて欲しいの」
 なぜ答える気になったのか。とにかく気付いたときには返事が口をついて出ていた。
「金を盗んだ」
「強盗ね……いくら?」
「半スー」
「たったそれだけ?」
「うるせえ、悪いか」
 ハダシュは吐き捨てた。
「寒くて腹が減ってイライラしてたんだ。誰でも良かった。女の分際でお役人様やってござる腐れ売女には見当もつかねえだろうさ」
 ラトゥースはくちびるを噛んだ。が、あえてさらに問いかける。
「仕事にしたのはどうして」
 ハダシュは一瞬、答えようかどうしようか迷った。聞けばラトゥースはきっとうろたえるだろう。だが、逆に言えばラトゥースの純粋な心を酷く踏みにじり傷つけ嘲笑ってやれる、そんな思いが罪深くうずいた。優しさの前で卑屈になりかけた今の状態から逃れたかった。偽悪だろうが何だろうが、それで偽善を叩きつぶしてやれるのなら。そう、偽善に決まっている。
 ハダシュはわざとだらしない、みだらな格好をあからさまに晒してベッドにもたれ込んだ。
「ヘタ打って奴隷に売られてヤク漬けの慰みものにされてたところをラウールのおもちゃに飼われた」
 白々しくラトゥースを見返す。
「こう言えば満足か」
 ラトゥースは顔を歪めてうつむいた。
「ごめん」
「びくつきやがって」
 ハダシュは薄ら寒い侮蔑の表情を浮かべた。だが内心、思わぬ狼狽に襲われる。逆に自身の台詞こそが喉元へ突きつけられてきた諸刃の剣に思えた。
「そんな奴はいくらでもいる。カネとクスリと女欲しさに誰彼見境無く襲っては嬲り殺すような連中だ。いいか、クズは一生クズなんだよ。いちいち牢屋に放り込んでちゃ割りに合わねえ。だから殺すならさっさと殺れ。生かすの殺すのと、いちいちうぜえんだよ」
「……ってことは、やっぱり知らないのね」
 ラトゥースのかすれた声が遮った。ためらいがちに口をつぐみ、うつむく。
「そのラウールだけどね。たぶん、おそらく、もう、死んでる」
 ハダシュは眼を伏せた。
「馬鹿を言うな」
 ラトゥースの声はひくい。罪を犯してしまった者への哀れみが、その表情を大人びたものにしているのかもしれなかった。
「人足寄せ元締めのラウールが病気だとかで港の荷役が止まっていてね。でもそんな生っちょろい嘘、だれも信じちゃいない。とっくにシノギを巡る抗争が始まってるわ。あなたの首に掛けられた賞金もたぶんそういうことよね」
 その途端、ラウールの死の意味が、血をはらんだ破裂寸前の腫瘍のようにふくれあがった。一言で全てがほどかれ、目の前に投げつけられる。ハダシュは声もなく側にあった枕をつかんで床にたたきつけた。髪をぐしゃぐしゃにしてかぶりを振る。
「俺じゃねえ。ハメられたんだ」
「分かってる」
 ラトゥースはハダシュの投げた枕に手を伸ばした。
「たぶん、だけれど……黒薔薇に寝返ったあなたがラウールを殺したことになってるんじゃないかと思うの」
 気後れした様子で枕を抱きしめ、うつむくラトゥースの仕草が、何より胸を圧迫する。
「てめえには関係ねえ。ラウールが死んだから何だ。俺の知ったことじゃない」
 言い張る声が無様に震える。ハダシュは顔をそむけた。動揺した顔を見られたくなかった。
「私はいや。そんなの」
 ラトゥースは枕を置き直し、周辺の乱れたシーツを丁寧に伸ばしながら、ぽつりとつぶやいた。
「そうやって、ずっと本当の気持ちに蓋をして、無理をして」
 くしゃくしゃになったまま伸びない、元に戻らないシーツの皺を、何とかして、元通りのぴんと張った状態に戻そうと引っ張っていた手が、止まる。
「本当は、そうじゃないでしょ」
 思い詰めた声に、ハダシュは息を呑んだ。突然の沈黙があらぬ幻想を呼び起こしていく。
 深く澱んだ水の奥底に沈むガラスのかけら。傷だらけで泥に埋もれ、半ば壊れ、輝きをなくして。でも、誰かに見つけてもらえるなら、本当の姿を信じてもらえたなら、きっと――
「勝手に決めつけるな」
 知られたくもない弱さを暴かれた気がしてハダシュは声を荒げた。
「何が本当の姿、だ」
「私だって、最初は、そんな最悪な殺し屋の言うことなんてこれっぽちも信じる気はなかった。でも、覚えてる? あなたと初めて会ったとき、あなたは私を助けようとしてくれた。見ず知らずの私を。びっくりしたわ。でも、嬉しかった。それが本当のあなただと分かったから。だから」
 ラトゥースは顔を上げ、かすかに笑った。うるんだ眼を指の背で恥ずかしげにぬぐう。
 否定することも、眼をそらすこともできなかった。純粋に光る涙を、ただ呆然と見つめる。
「……私はあなたを信じる。立ち直ってくれると信じてる。この街も、あなたも、全部」
 ハダシュは眼を閉じた。ちぎれるような記憶の断片が、灰色の闇を紅に染めて静かに降り積もっていく。ローエンのこと。黒薔薇のこと。ラウールのこと。自分自身のこと。そのどれもが収まるべき場所になく、居場所を求めてもがきあっている。
「返事は特に急がないから、ね」
 ラトゥースはろうそくの火を手持ちのランプに移し、持ちあげた。
「私が言ったことを考えてくれさえすれば、それでいいの」
 ゆらゆらと淡くかげる陰影がラトゥースの赤く染まった頬に落ちる。くちびるがほのかに光っていた。やわらかな微笑みがハダシュを見つめている。
「ね、ハダシュ。それでいいでしょ」
 ハダシュはぼんやりとラトゥースのくちびるに見入っていた。疚しい名をためらいもせず呼んでくれる少女の清らかさそのものが、まだ、信じられない。さながら暖炉にくべられた火口のように、一瞬で燃え上がってゆく、小さな、その、思い――
「じゃ、また後でね。ごきげんよう。そうだ、レイス先生にもご挨拶してこないとね。せっかくおいで頂いたのにほったらかしにしちゃって。気を悪くなさったりしてないといいけど」
 ラトゥースは小首を傾げ、肩をちいさくすくめて笑った。小走り気味にぱたぱたと急き、髪をふわりとなびかせて部屋を出て行く。今回も前と同じだった。鍵を掛けようともしない。足音だけが確実に遠ざかってゆく。
 引き返すための黄金の橋。以前、ラトゥースが口にした不思議な言葉が脳裏によみがえった。
(今が
「引き返すための黄金の橋」なの。自分を信じて、立ち止まって、考え直してみて。お願い、信じて)
 行く手は、罪の底へと墜ちる断崖絶壁。だが、立ち止まり、引き返せば。それは 過去のあやまちを悔い、振り返り、正しい未来へ歩き出すために差し伸べられた救いの分岐路となる。
 もしそれが許されるなら――今が、引き返す最後の、そして唯一の分岐点だった。
 ハダシュは弾かれたように立ち上がった。鍵のかかっていない戸を開け、ラトゥースの気配を追って廊下へ顔を突き出す。ランプの灯りがちょうど角を曲がっていくのが見えた。
「待ってくれ」
 硬い声で呼び止める。なぜか名を呼ぶのは憚られた。
 炎の動きが止まる。静かに見つめ返す気配があった。じりじりと炎だけが揺れている。返事はない。ハダシュは鼻をこすり、咳払いしてから廊下に歩み出た。所在なくうろうろとし、壁にもたれてそっぽを向く。
「理由が分からねえ」
 壁を無為に睨みながら、心にもない反論をぶつける。
「何で俺なんかを」
「別に理由なんてそんなご立派なものはないけどね」
 ラトゥースの声だけが聞こえた。真っ暗な廊下を挟んで、ひそやかな、だが強い視線が交わされあう。火影に沈み、隠れた表情が、ほのかにゆらめいていた。
「私はあなたが何者かを知ってる。あなたがずっと苦しんで来たことも、たぶん。とはいえ、だからといって、たくさんの人を殺めてきた罪を許すつもりは、これっぽっちもないわ。でもね、もし、あなたが自らの罪を悔い、罪を償ってくれるなら」
 ラトゥースは蝋燭を手にしたまま背中を壁にあずけ、言葉を選びつつゆっくりと答えた。
「喜んで手助けをするつもりよ」
 ハダシュはうつむいた。
「……悔いて、償う、か」
 ずっと、どうすればいいのか見当も付かずにいた。罪に罪を重ねたその行く手が絶望であることを知ってはいても、どうすれば、そうではない自分に戻れるのか、分からなかった。いや、もしかしたらずっと待っていたのかもしれない。分かっていながら見て見ぬ振りをしてきた、その言葉が突きつけられることを。罪を認め、自らを省みることを、今、ようやく――
 深いためいきをつく。取り憑いていたものが吐息と一緒にどこかへ流れ出ていったような気がした。ハダシュは胸を押さえた。他人の痛みが、自らの愚かさが、どうでも良いと思えたさまざまな出来事のひとつひとつが、今はなぜか無性に息苦しい。
 ハダシュはためらい、声を呑み込んだ。
「さっきの……その、俺が……殴り殺しちまった……」
「ベイツのことなら」
 青い視線がハダシュに突き刺さる。
「無事よ。酷い怪我だけれど」
 ハダシュは目を伏せ、歯を食いしばった。言葉をしぼり出すようにして、ようやく言う。
「すまねえ。悪いことをした」
 顔を上げる。目があった。ラトゥースの口元がやわらぐ。ため息のような微笑みだった。
「伝えておくわ」
 ハダシュは声もなくラトゥースの手元を見つめた。暗闇に暖かく揺れる、ちいさなろうそくの火。消えそうで消えないそれは、ハダシュの行く手を照らす、はじめての道標だった。

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