血と薔薇のシャノア

5 引き返すべき黄金の

 いざ決断するとラトゥースの行動は早かった。あれよあれよと言う間にシェイルを呼び戻し、あるじとレイスにベイツを託して、夜も明けきらぬうちに何処かへと出立する。
 手枷をはめられたままのハダシュ、ラトゥースを乗せた馬車は、泥を跳ね上げながら走っていた。港から流れ込んだ朝もやが、街全体をしっとりした乳白色に濡らしている。さながら霧の海にゆらぎ沈む古の廃墟のようだった。白い闇に閉じこめられたシャノアの街はひっそりとして人気もなく、石畳に跳ねてうるさいはずの車輪の音を真綿のように含んで響かせない。
「姫、どちらへ」
 御者席のシェイルは、ラトゥースの気まぐれとも取れる行動に怒った様子もみせず淡々と訊ねる。ラトゥースはさらりと答えた。
「マイアトール聖堂」
 シェイルの渋い声が車輪の音に紛れて風に飛ばされる。
「なりません。不用意に動き回るべきではないと存じます。特に今は」
「大丈夫、形だけよ、形だけ」
 ラトゥースは、重い鉄枷に囚われたハダシュの手をちらりと見やった。
「お邪魔にはならないようにするわ。まだごたごたしてると思うし」
「馬鹿馬鹿しい」
 そうは言い捨てたものの、おそらく心底からではないのだろう。
「何度同じ事を言わせれば気が済むのです」
 紋切り型の愚痴を、ラトゥースは気にも留めず呑気に笑い飛ばす。馬車は聖堂前の広場を通り過ぎ、裏へ回った。人目に付かぬよう、ひっそりと車止めに滑り込む。ラトゥースの訪問を取り次いだマイアトール聖堂の神官は、ハダシュの手を縛める枷にとまどいを隠さなかった。
「いったい何ごとでしょう」
「この者には懺悔が必要です」
 話せば長くなりそうな気配を悟ったか、シェイルは説明の手間を綺麗さっぱりと省いて断じた。神官はシェイルの厳しい顔とハダシュの手枷とを交互に見すがめ、理解しがたい様子で口ごもった。
「ダルジィ院長に伺って参ります」
「ご一緒させてくださいませ」
 すかさずラトゥースが申し出る。神官はうなずいた。ラトゥースはちょっと待っているようにと念を押し、鬱金の帯を巻いた黒の僧形とともに立ち去った。
 遠くなるその後ろ姿を、ハダシュは所在なく見送る。無言のシェイルと二人きりで取り残されるのは、あまりにも居心地が悪かった。時が過ぎるにつれ、次第にむっつりと重い空気が流れだす。つい、いらいらとため息をついて地面を蹴る。白の砂利が散らばった。シェイルがあからさまな敵意の視線を走らせる。
「不穏なことをすれば斬って捨てる」
 声が尖っている。
腰の剣へ手を置く仕草を見て、ハダシュはまなじりを吊り上げた。
「俺が怖いのか」
「戯言をほざくな。罪人の分際で」
 シェイルは冷ややかな侮蔑の眼をハダシュの手へとくれた。
「姫はああいうお方だ。お優しすぎる。つい相手にほだされて立ち直らせることばかり考える。もし」
 低い声だった。
「姫のお気持ちを踏みにじるようなことをすれば、容赦はせぬ」
 シェイルはそれきり押し黙った。ハダシュも機嫌を悪くして黙りこくる。やがて神官ひとりが戻ってきて、ついてくるようにと言う。二人は最悪の雰囲気を保ったまま聖堂奥の小部屋へと案内された。敷物もない、鉤の字に無造作に置かれただけの木の長椅子が二脚。木彫りの造花を飾った粗末な机。壁一面を埋め尽くす書棚、古い壁鏡、灯されていないランプ、マイアトールを象徴する太陽の木を描いた額。質素すぎる部屋だった。
「何なのよ二人とも変な顔して」
 先に座っていたラトゥースが苦笑混じりに立ち上がる。
「子供じゃあるまいし。ほら、ご挨拶して」
 向かいに座っていた老神官が顔を上げた。他の神官と違い、ただ一人、マイアトールの象徴である鬱金の衣に黒の紐帯をしめ、首に聖帯をかけている。
「ダルジィ院長、この者が先程申し上げたハダシュです。なにとぞよろしくお取りはからいくださいますよう」
 紹介されてもハダシュは挨拶すらしなかった。むすりとした顔をそのままにそっぽを向く。ダルジィ院長は柔和な細い目でハダシュを見やった。口元にきざまれた深い皺が疲れた笑みを形作っている。
「よかったわね。罪を懺悔させていただけるそうよ」
 ラトゥースはこれ以上ない爽やかな口振りでハダシュに笑いかける。
 ハダシュはぎょっとしてラトゥースを睨み付けた。
「ふざけるな。誰がそんな」
「やれやれ、血の気が多いのう」
 ダルジィ院長は、ぽんと手を含み叩いて小坊主を呼んだ。丈の短い灰色の法衣を身につけた、髪のそり跡も青い少年僧がすり足で現れ、深々と頭を垂れる。
「ギュスタ神官に準備をするようお伝えしなさい」
 言い置いて院長は立ち上がった。手を胸に当て、祈るように眼を閉じて言う。
「犯した罪の重さを知り良心の呵責を知れば、魂もまた癒されるでありましょう」
「重ね重ね痛み入ります」
 ラトゥースは手を組み合わせ軽くひざを曲げる神式の会釈を返した。
 ハダシュは焦って横槍を入れる。
「待てよ、だから何でこの俺が」
「さ、行きましょ、ハダシュ」
 ふわりとやわらかな金髪をなびかせてラトゥースが促す。
「こら、てめえ、押すんじゃねえ……」
「もう、いいから急いで急いで」
 屈託のない笑顔で急かされ、腕を組まれて引っ張られる。そんな笑顔を見せられたら、後はもう、されるがままにするより他に無かった。

 シャノアのマイアトール聖堂は、翡翠色の屋根の大伽藍を中心に、白い玉砂利を敷き詰めた五稜型の回廊に囲まれ築かれている。さほど広くはないが、境内の中には神官たちの住まいや遠方からやってくる参詣者のための宿坊などもある。今はさすがに閑散としているが、マイアトールの太陽節や季節折々の聖なる日――夜と月の女神ヌルヴァーナの星夜節、英雄アリストラムとサヴァの祝凱節、あるいはかつて深い関わりがあったとされるバクラント竜神祭など――が営まれるときは、それはもう賑やかさをきわめ、聖堂周辺を鬱金の布を頭に巻き鈴を手にした巡礼がうずめつくすほどだという。
 先日の悲惨な事件のためか、回廊に参拝客の姿はなかった。小坊主に案内され、物珍しそうに壁の浮き彫りを見入りながら行くラトゥースに、すっかり観念したハダシュがうんざりと付いて歩き、さらにその後をシェイルが影のように付き従う。
 夜も明けやらぬ早暁のなか、浮き彫りの所々に埋め込まれた禍々しい形の骨や角は、かつてこの辺りの森に住んでいたとされる巨獣の怨念を今も訴えかけているかのようだった。回廊全体が、海の底めく青白さと凄涼な輝きに満ちている。
「見て、これ。竜岩だわ」
 ラトゥースは壁の化石に触れ、ハダシュを振り返った。
「本物よ」
「そんなもの海岸を掘り返せばいくらでもゴロゴロしてるだろう」
 ハダシュはつっけんどんに答えた。
「珍しくも何ともねえ」
 だが、ラトゥースは壁に鼻をこすりつけそうなほど近づき、指先で骨に触れ、ためつすがめつ、いつまでもしげしげと眺め続けていた。
「だってハージュの都じゃ竜岩は国の宝みたいに言われてるのよ。万病に効く”竜薬”の噂はあなたも知ってるでしょ」
「知るかよそんなもん」
 懺悔の塔は伽藍の裏手にあった。華やかな本堂とはうってかわって、ざわざわと風に揺れる木立に囲まれ、外界と遮られたひっそりと暗い空気の中に建っている。灰白石のざらついた壁に墨葺きの屋根という色合いは、潮の香りも冷たい朝霧に溶け込んだせいもあってか、質素というよりむしろ陰鬱で、隔絶された雰囲気さえあった。
「じゃ、私たちは表で待ってるから」
 塔の前で立ち止まったラトゥースはひらひらと手を振る。シェイルが念を押すように言った。
「……分かっているな」
「うるさい、デカ女」
「ハダシュ」
 ラトゥースが怒った眼で睨んでくる。
「喧嘩はだめって言ったでしょ」
 言い返せない。ハダシュはむっつりと横を向き、舌打ちした。
「どうぞ、お入りを」
 手枷を嵌められたままのハダシュの代わりに、案内の小坊主が、いかにも古めかしい塔の扉を引き開けた。首を垂れる。閉じこめられた臭いが洩れだした。窓もない控えの間は薄暗く、誰もいない。ハダシュはなかなか踏み込む決心が付かず、しばし立ちつくした。塔の地下へつながる階段は、人が一人ようやく通れるかどうかといった狭さだ。一直線に刳られた左右の壁に、無数の蝋燭がゆれている。焚かれる香の煙は胸に優しく、夜に聞くさざ波の音のようだった。
「どうぞ、奥へお進み下さい」
 どこからともなく声が反響して聞こえてくる。
 ハダシュは嫌悪の吐息を一つもらし、中へと踏み込んだ。背後で扉がばたりと閉め切られる。
 階段を降りきった先に部屋があった。横切る黒い衣が見えた。ハダシュはおもむろに狭い階段を降りていった。枷の音が耳障りに響き渡る。
「ギュスタと申します」
 待っていた墨衣の神官がふかぶかと頭を下げる。蝋燭の火を吸って朱のさざなみ色に映える鬱金色の帯がまぶしい。反響する声はすこしくぐもって、聞き取りづらかった。
「どうぞ、こちらへ」
 音のない閉鎖された空間に、あかるく、それでいてどこかあやしく、ひっそりと蝋燭の火が燃えている。壁に踊る、不穏にねじ曲げられた影。
 神官はゆっくりとその顔を上げた。次の瞬間――短いさけびを放って後ずさる。息を呑んで跳ね返った身体のどこかが壁際の台座に当たる。上に置かれていた青銅製の天使像がぐらりと傾いだ。手を伸ばす間もなく、天使像は悲痛な音をたてて床へと転がり落ちた。
 ハダシュは眼を鋭くし、神官を見つめた。胸のどこかで、何かが騒ぎ出す。記憶が揺り動かされる。暗い記憶。見覚えのある顔。突然、神官が身をひるがえした。逃げようとする。
「待てよ」
 とっさに追いすがる。手首を掴んだとたん、思いもかけず鋭い手刀が振り下ろされた。訓練された動きだった。反射的に体をひねり、かすめた腕を拉いで逆に引きずり寄せる。
 胸元にかかった黒い石のペンダントが狂ったように飛び跳ねる。神官は総毛立つ表情を浮かべ、激しくもがいた。ハダシュはいっそう腕をひねり上げ、背後から膝で押さえ込みながらまじまじと相手の顔を見下ろした。短く刈った黒い髪。怯えた表情。間違いない。
「お前、あのときの」
 信じがたい思いで眼を押し開く。あのとき――ジェルドリン夫人を殺した夜。ハダシュは確信した。確かにこの男だ。ローエンが整理屋へ連れてゆくとうそぶいていた――罪におののく眼をした神官。
 気配がみだれた。一瞬の間をおいて、遙か遠くに時を告げる荘厳な鐘の旋律が鳴り渡り始める。ハダシュは神官を突き飛ばした。息詰まる呻きがこぼれる。
 神官はくずおれ、膝をついた。床に落ちた青銅の天使像へと弱々しく手を伸ばす。天使の顔にできた醜い傷を、思いつめたていで見下ろしている。取り返しのつかない傷だった。磨いたぐらいでは取れそうにもない。だが、もしかしたらそれは今付けられたばかりの生々しい傷などではなく、もっと以前から人知れず刻み込まれ続けてきた後ろ暗い傷なのかもしれなかった。
 心許なく揺れてくゆる薄明に染め上げられ、懺悔の塔はふたたび異様な静けさへ戻ってゆく。ハダシュは恐ろしくこわばった表情を作って神官と向かい合った。
 神官は食い入るように天使像を見つめていた。
「クレヴォー様がお連れになった罪人というから、誰かと思ったら、まさか、カスマドーレの仲間だったとは」
 青白い顔で呻く。
「あの御方までが、まさか」
「ふざけるな」
 ハダシュは、神官の口からもれた名に暗い蔑みをうかべた。
「奴隷商人ごときとあいつを一緒にするな。てめえこそローエンとつるんで何をやってた」
 神官は言葉を呑み込んだ。黒のペンタグラムをまさぐり、握りしめる。
「ああ、そのとおりだ。何という冒涜を、私は」
 わななく声で悲痛につぶやく。神官の顔は陰鬱に深く沈み、自らの内部に潜む闇に抗えぬ懊悩を如実に刻んでいた。
「神に仕える身でありながら教えに背き罪に怯え罰を恐れ――こんなことなら、あの方にお会いしたその時に、汚れたこの身を投げ出し赦しを請えばよかった。真実を塗り隠し、罪に罪を重ねるぐらいなら、いっそ」
 掌が白くなるほど握りしめられたペンダントに、ハダシュはふとめまぐるしいほどの既視感を覚えた。確かにどこかで見た記憶がある。これとよく似た、だがまったく違う別の何か。分からない。思い出せなかった。しかし追い詰められでもしているかのような強迫感が心根の深い部分に食い込んで離れない。
「何のことだ」
 ハダシュは息を押し殺す。
 絶望の吐息が聞こえた。
「でも、もう遅い。知られてしまっては――何もかもが」
 神官は拾い上げた天使像を手に、ひどくゆっくりと振り返った。

 そのころ、ラトゥースは懺悔の塔に繋がる礼拝堂の席について、ぼんやりハダシュを待っていた。同じく隣で待つシェイルを見やる。珍しいことにシェイルは首を垂れ、こくり、こくりと居眠りをしていた。深夜におよぶ連日の激務に相当疲れが溜まってきているのだろう。ラトゥースはそっと自分のショールをシェイルの肩にかけてやり、周りを見回した。
 いつの間にか外はまぶしく白んでいた。天窓から射し込む光のほうが明るく感じられるほどだ。聖杯盆から泡立つ小さな音を立てて水がこぼれ、光るしずくを跳ね散らす。見上げる天井のフレスコ画もまばゆいばかりの色彩にあふれている。楽器をつまびく天使、一輪ずつの花を手にした妖精たち、眠る猛獣の隣で草を食む子羊。理想郷を描く壁画に、自らの夢想を重ね、敬虔に見上げる。鐘の調べが思いも寄らぬ近さで聞こえてきた。澄んだ音、低い音、それらが幾重にも重なり合って朝の空気をふるわせていく。
 ふと耳元をかすめた虫の羽音にどきりとして我に返る。知らぬ間にうたた寝でもして思い出を夢に見たのかもしれなかった。ラトゥースはつと立って、壁に掛けられた古めかしいランプをひねり消した。気を取り直して頭を振る。
「信じるって決めたんだから」
 迷い込んできたらしい甲虫が出口を求めてぐるぐると舞い、ガラス窓に突進しては、何度もぶつかって跳ね返っている。ラトゥースは苦笑いして立ち上がった。わざわざ窓を開けてやる。虫は羽音だけを残し、あっけなく飛び去った。
 ラトゥースは躊躇する自らに困惑し、ためいきをついた。断片的、刹那的な事件がいくつも連続して起こりすぎる。銀ギルド長のカスマドーレとシャノアの総督レグラムが癒着し、奴隷狩りや黒薔薇について何か隠しているらしいこと。ハダシュのこと、毒物混入事件のこと、死んだラウールのこと。一つずつ整理し順序立てて考えてゆかなかければ、次に何をすべきなのかも分からなくなりそうだった。
「とにかくしっかり聞き込んで回るしか……」
「おい、誰か」
 突如、何かめきめきと砕け折れる音が響き渡った。差し迫る危急のさけびがつんざく。ハダシュの声だった。声に驚いたシェイルがびくりと身を起こす。
「何ごとです」
「ハダシュだわ」
 ラトゥースは弾かれたように立ち上がった。
「ここを開けろ」
「な、何、どこにいるの」
「いいからさっさと開けろ、馬鹿」
 激しく壁を殴りつける音が続く。ラトゥースは立ちすくんだ。シェイルは制止の仕草でラトゥースを黙らせた。耳をそばだて、声の在処を探り当てようと左右に視線を走らせる。
「あちらです」
 シェイルが指し示したのは、アーチ柱で隠された北側の廊下奥だった。ほの暗い薄闇の隅に、天使の衣装をまとい腕に赤子を抱いたヌルヴァーナの礼拝所が設置されている。さざ波のような彫刻をほどこされたアーチ柱は、ヌルヴァーナのひろげる四対翼を模し、天井を支え、同心円状にせり上がる床と繋がる。その像の足下、台座の部分に四角く切られた扉の形があった。だがまさかそんなところに出入り口があるとは思いもよらず、ラトゥースはつるりとなめらかな扉の前で困惑した。こじ開ける術すらなく、ただ呆然とする。
「な、なにこれ。どうしたらいいの?」
「クレヴォーか。ここを開けてくれ」
 ハダシュのかすれた怒鳴り声が聞こえた。
「分かったわ。待ってて」
 ただならぬ予感にかられ、扉に体当たりしようとする。だがラトゥースの力程度ではたわみもしなかった。悲鳴ごとあえなく弾き返される。
「姫」
 シェイルが血相を変えて押しとどめた。
「無理をなさってはなりません」
「何やってんだ、馬鹿、もういい。こっちから扉をぶち壊す」
 扉の向こうのハダシュもまた、恐ろしく緊張していたに違いない。低く殺された声が動揺を孕んでかすかに震えている。
「誰が馬鹿よ」
 言いかけてラトゥースは息を呑んだ。中から金属で壁そのものを叩き壊すかのような凄まじい音がした。みるみる扉が張り裂け、蹴破られる。
「逃げやがった、あの野郎」
 土埃が立ちのぼるなか、傷だらけの銅像を引きずったハダシュが蒼然と現れた。手には枷がはめられたままだ。冒涜の仕草で像をうち捨てる。翼をもがれ、顔をつぶされた青銅製の天使像が点々と血の色を散らして大理石の床を転がった。ラトゥースは青ざめ、声を失った。
 ハダシュのこめかみから、ぞっとする量の血がしたたっている。血は耳裏を濡らし頬を伝い、肩口を真紅の網状に染めて、止まる様子もない。
「何が起こった」
 シェイルが声を荒らげる。
「答えろ、罪人」
「あの神官」
 ハダシュは手にからみついた枷の鎖を凄絶に鳴らし振り払って、血にまみれた獣のまなざしをシェイルへと突き返した。
「……黒薔薇の手先だ」

 結局、宿に戻れたのは、夜半をとうにまわった時刻だった。
「説明しろ、と言ってもどうせまたはぐらかされるんだろうな」
 応急処置を施しただけの、血にまみれた姿で顔を突き合わすなり、レイスは苦笑いを浮かべてそう言った。
 ハダシュは疲れた笑いでいなし返す。
「まだいたのかよ先生。いつまで居座る気だ」
「あの酔いどれ親父以上の怪我を持って帰ってくる馬鹿さえいなければ、今ごろはもう、診療所に帰ってるはずだった」
 とはいえ根掘り葉掘り余計な詮索をして来ないのは、いつもと同じだった。ぶつぶつと文句を言いながらも白衣の袖をまくり上げ、真鍮の水盤に張ったアルコールで手を消毒し、頭皮の裂傷を調べ、骨に異常がないことを手早く確認してから適当な消毒をして布を当てる。
「もうあまりにも毎度のことすぎて治療する気にもなれないがね」
 言いながら両手いっぱいにあふれる大量の包帯をカバンから取り出そうとする。
「待て、おい、何だそれは。ぐるぐる巻きにする気か」
 さすがのハダシュもたじろいだ。レイスは眼鏡の位置を直しながらにやりと笑った。
「会うたびに新しい怪我が増えているような奴は、いっそ全身拘束してベッドにくくりつけておいた方がいい」
「ふざけんな」
「本当にすみません、レイス先生」
 足元に大きなトランクを置き、爪先を斜めにすらりときれいに揃え長椅子に腰かけていたラトゥースが、済まなそうに詫びた。
「全部、私のせいですわ」
「何の、滅相もない」
 レイスはころりと態度を変え、愛想良く洗った手を拭きながら振り返った。
「いいんですよ、ハダシュ君なら。石頭ですから。殴ったぐらいでは凹みません」
「まあ、そうでしたの、やっぱり」
 ラトゥースは口元にそらした手を添え、楚々として笑った。光こぼれる声が響く。
「お前ら……人の傷を肴に何抜かしてやがる」
 ハダシュはうんざりと頭を抱えた。そこへ、控えめなノックがあった。治療が終わったのを見計らった宿のあるじが冷たい檸檬水を差し入れにやってくる。
「ありがとう」
 ラトゥースは、さらりと衣ずれの音をさせて立ち上がり、小走りにハダシュの傍らを駆け抜けて、手づから盆を受け取った。
「先生、お飲み物でもいかが?」
 よく冷えて水滴のついたゴブレットをレイスへと差し出す。
「有難く頂きましょう」
「ハダシュ、あなたは?」
「……もらってやる」
 ラトゥースは吹きだした。笑いながらゴブレットを差し出す。受け取ろうとしてハダシュはわずかに手をこわばらせた。指先がかすかに触れる。ハダシュはあわてて口の端をゆがめ、檸檬水がこぼれるのも構わず乱暴にひったくった。
 なぜか、思いも寄らぬ視線を感じた。レイスだった。手にした檸檬水に口をつけもせず、ラトゥースの動きを眼で追っている。先ほどまでの愛想の良い表情はどこにもない。
「そうだわ」
 にこやかさを保ったまま、ラトゥースは宿のあるじを呼び止めた。
「シェイルはもう戻ってるかしら」
「はい」
 あるじは慇懃に頭をさげた。
「調書をまとめておられます」
「そう」
 しばし、小難しい顔で握った手を顎に押し当て、何ごとか考え込んでいる。
 レイスが身じろぎした。咳払いし、診療鞄を引き寄せて居住まいを正しラトゥースを振り返る。
「ラトゥース姫、私もそろそろ、おいとまをさせて頂こうかと考えているのですが」
「あら、まあ」
 ラトゥースは手を結び合わせて眼をみはった。ハダシュはちらと横目でレイスを見やった。レイスの、いつもは寛容な面持ちに、今は影絵めいた笑みが覆い被さっている。
「どうしましょ。無理にお引き留めするのも悪いし、夜中にお帰り頂くのも申し訳ないし」
「私のことはどうぞお構い無く」
「でしたらお送りさせていただきますわ。馬車をお使いになって下さいませ」
「いや、お気遣いは無用です」
 眼鏡の表面が表情を秘め隠して白く光っている。
「とんでもない。ベイツの命の恩人をそのままお返しするなんて。どうぞ、こちらへ。そうだわ、ハダシュ、悪いけどお留守番お願いできるかしら」
「そこは留守番じゃなくて牢屋行きだろ普通」
 ハダシュが幻滅混じりに吐き捨てると、レイスは名状しがたい表情でハダシュの手の枷を見やった。
「そうか、君は官憲に拘束中の身だったな」
 傍らのワゴンにゴブレットを戻す。
「ではここでいったんお別れしよう。いずれ自由の身になったら診療所に寄ってくれ給え。必ずだよ。では、姫。私はこれにて」
 言い置くや、そそくさと診療鞄を手に部屋を出て行く。ラトゥースもまた愛想良く、何のおかまいもしませんでとか何とか、やたら気安い見送りの言葉を並べ立てながらレイスについていそいそと出て行った。笑い声と足音とが遠ざかる。ハダシュは半開きの戸を見やった。また開きっぱなしにしている。静寂がのしかかってくる。
 だが、ハダシュは動かなかった。
「馬鹿か、あの女」
 物狂おしく廊下の闇を眺め、舌打ちし、いらいらと頭を抱える。お人好しに付き合うのも、付き合わされるのも、もう、うんざりだった。試されている、と勘ぐられることにも思いが及ばないほど本気で信じ込んでいるのか。
 ついに堪えきれなくなり、ハダシュは椅子代わりにしていたベッドから立ち上がった。闇へと誘う半開きの戸を閉めようとする。だが建て付けが悪いのか、何度やってもきちんと閉まりきらない。ハダシュは戸を蹴ろうとし、思い直してやめた。逆に開かなくなったら困る。
 誰かの気配がした。乾いた靴音が響く。
「逃げないのか」
 シェイルの声だった。
「うるせえ。知るか」
 ハダシュは一段と苛立たしさを増す戸を強引に閉めようとした。
「あら、シェイル、良かったわ。ここにいたの」
 戻ってきたらしいラトゥースの声に、ハダシュはまた、口元をゆがめた。
「何、さっきからどんどん言ってたけど? 閉まらないの? 開かないの? 困った戸ねえ……ハダシュ、ちょっと、ここを開けて」
 ハダシュはしぶしぶ、戸を開けてラトゥースを迎え入れた。
「ああ、重かった」
 どこから運んできたのか、巨大な革張りのトランクを引きずっている。ラトゥースはがたぴしと壊れそうな音を立てるトランクを床に放り出すと、赤くこわばった手をぶらぶらとさせて情けない声をあげた。
「運んでくださると嬉しいのだけれど」
「そういうことは手が自由に動く奴に命令しろ」
 枷をはめられたままの、だらりと下げた手を見せつけながら、それ以上ラトゥースの顔を見ることなくふいと背を向けて長椅子に腰を下ろす。
「先生は帰ったのか」
 陰鬱に訊ねる。レイスがラトゥースへ向けた、あの表情――薄暗い、としか形容しようのない、不可思議な笑い。それが気掛かりだった。
「ええ、変わった方ね」
 ラトゥースはちいさく含み笑った。
「あれだけの医術を独学で習得なさったのだそうよ」
 ハダシュは答えなかった。
「姫」
 シェイルがためらいがちに口をはさんだ。
「実は、お耳に入れておきたいことが」
「ギュスタ神官の行方が分かったの」
 ラトゥースが表情を輝かせる。
 シェイルは首を横に振った。
「いえ、それは、まだ」
「そう」
 見るからにしょげかえった様子でラトゥースは肩を落とし、椅子に腰掛けた。
「どうして行方をくらましたりなんかしたのかしら。そんなことする必要なんてないのに」
 力無く頭を振る。居心地の悪い沈黙が続いた。シェイルもハダシュも、それぞれの思惑を秘めた眼でラトゥースを見つめた。ラトゥースの揺れる眼がハダシュを追う。
「疑うなら勝手にしろ」
 ハダシュは反射的に声を荒らげ、思い直して投げやりなため息をついた。
「疑われても仕方がないのは認める」
「ごめんなさい……そうじゃないの。信じたくないだけなの」
 ラトゥースは弱々しく手で顔を覆った。
「ギュスタ神官が黒薔薇の仲間だったなんて」
「少なくとも奴はローエンと」
 ハダシュは声を呑み込んだ。
「……黒薔薇の仲間と行動を共にしてた。それだけは間違いない。ジェルドリン夫人を殺した日に、店であの神官と会ったんだ。だから、奴は俺の顔を見て逃げた」
「分かってるわ。でも、どうしても分からないの」
 ラトゥースは声を震わせる。
 その様子を見たシェイルは、ついにどこか諦めたようなため息をついて言を引き取った。
「姫はギュスタ・サヴィスの正体をご存じない」
 ラトゥースは眼を押し開いた。揺れ動くまなざしでシェイルを見返す。
「どういうこと?」
「ギュスタ・サヴィスは」
 シェイルは思い詰めた声で口を開いた。
「かつてエルシリア出身の騎士として王国の騎士団に名を連ねる軍人でありました」
「何ですって」
 ラトゥースは驚いて唇を引き結んだ。
「そんな重要なことを、どうして今まで」
 シェイルの表情に苦悩が混じるのを見て、ラトゥースはささくれ立った声の調子を鎮めた。
「ごめんなさい。続けて」
「十年前」
 ためらいがシェイルの凛としたおもてをゆがませる。
「当時、サヴィス家には有力な後見人もおらず、若くして家を継いだギュスタの他には病弱な母とまだ幼い妹がいただけと聞き及びます」
 ふいに風が鳴った。壁にかけられた黒金の古いランプがすきま風に火を揺らがせる。今にも消えそうなほど細く、くらく、弱く。
「ギュスタは毅然とした、しかし孤独な騎士でした。王国も建国されたばかり、世情も今ほど平穏ではなく、国を支える立場としてエルシリア騎士の重圧は特に大きく――その中で暮らしに追いつめられ、責務をも果たせぬ状況に追い込まれたギュスタは、仕方なくレグラムの口利きで王都ハージュへと赴き、一下士官として騎士団への入隊を成したそうです。以前、申し上げたと思います。レグラムもまた当時ハージュの役人でした。ですが」
 陰火がゆれ、芯を焦がして、苦い煙を立ちのぼらせていく。
「その代償はあまりに大きかった」
 シェイルはランプに油をつぎ足すために席を立った。
「サヴィス家の女たちは、当主ギュスタへの恩義につけ込んだレグラムによって、自ら死を選ぶほかないほどの屈辱を味わされたと」
 ラトゥースは手で口元を覆った。
 長い沈黙の後、ふたたび灯りが戻ってきた。背を向けたシェイルの肩越しに、陰鬱な影と対照的な光がひろがっていく。
「誰もがレグラムの罪を分かっていたのに。法に、宰相閣下のお裁きに任せよと、そう言ったのに。サヴィスは――裁きの場に引き出されたレグラムを前に逆上してしまいました。制止を振り切り、何人もの警備兵を傷つけてでも自らの手で憎むべき相手を断罪しようとし――敵わず、逃走した」
 どこか遠くの闇から、悲鳴のような犬の遠吠えがきこえてくる。シェイルは壁に向かったまま、棚に手をついて振り向かない。
「救貧の施しでサヴィスに再会したとき、よほど、このことを申し上げようかと思いました。レグラムのいるこのシャノアにサヴィスがいる目的は一つしか考えられない。……ですが、神に仕え、罪を罪として背負い、償おうとしているのであれば、たとえ、過去がどれほど罪深くとも、その傷を暴くのは――あまりに忍びないと思いました。だからこそ敢えて申し上げませんでした」
 シェイルはゆっくりとハダシュへ目を移した。
「我々は、法を執行する立場にあるのです。人を許すのも役目だとは思いますが、過ちを正さない者を罰するのもまた法の役目。もし、ギュスタ・サヴィスがふたたび怒りと憎しみに身を委ね、罪に罪をもって応えるのであれば、法の名の下に彼は断罪されねばなりません」
 ラトゥースは力無い仕草で顔をうつむかせた。思いつめたかぶりを振る。
 部屋の隅へゆき、トランクをあける。中は雑然と放り込まれた荷物で埋まっていた。穴の空いた靴もあれば、もはや飲めるかどうかも定かではないような酒の小瓶まである。それらをかき分けて、一番奥底に埋もれていた古い錆色のケースをひきずりだす。
 注意深く留め金をはずし、ゆっくりと蓋を開ける。硝薬の臭いがほのかに漂った。布越しに垣間見える、冷たく重い金属の色。深紅のベルベットにくるまれたそれを、ラトゥースは声もなく手に取って見つめる。指先でベルベットの隅をつまみ、はだけると、木の銃床に施された華麗な金の装飾が垣間見えた。クレヴォー家の紋章が刻まれたフリントロックの短身銃。
 ラトゥースは銃をデスクの上にゆっくりと丁寧に横置きし、身につけたドレスにはまるでそぐわない、ごつごつとした革ベルトを腰に回した。留め具を通し、二、三度揺すって位置を落ち着かせる。ラトゥースは思いを振り切るようにトランクの蓋を閉じ、立ち上がった。銃をホルスターに納め、火薬と銃弾のポーチを提げる。
「もし、子供たちや病気の人に見せていたあの顔が全部嘘だったとしたら、私も、彼を許しません」
 それは王国巡察使の顔だった。

 
「妙薬あれこれ……イブラヒム」
 の看板の下、胸をはだけた白いシャツに腰高のベルトを締め、頭に極彩色のターバンを巻いて、悠然とキセルをふかす男が座っている。浅黒い肌、哲学者のような彫りの深い風貌はまさしく南国人風だ。男の後ろは鍾乳洞を思わせる間口の狭い店になっていた。毒気の入り混じった薬臭い空気がにじみ出してくる。
 気配を聞いて、男は黒い切れ長の眼を開いた。
「まだ生きてたかね」
「勝手に殺すな」
 柔らかくもつれる異国なまりに、ハダシュはニヤリと笑い返す。
 薬屋イブラヒムは、ずらりと白くきれいに並んだ歯を見せつけて応えた。
「残念、そう簡単に死ぬようなタマじゃなかったね」
 ハダシュは肩をすくめる。軽口に付き合うつもりはない。
「話がある。邪魔するぞ」
 親指で店の奥を指差す。薬屋は頷き、重い掛け声をあげて店へと戻った。
「カギは閉めさせてもらう」
 北側の細い窓から差し込む陽の光のほかは、明かりひとつない。さまざまな匂いのたちこめる暗闇に、ハダシュは目を細くした。後ろ手に戸を閉める。
「勝手にしな」
 イブラヒムは気にもしていない。大儀そうに店の奥のロッキングチェアーへと体を移している。
「殺し屋が今さら何の用だ。ラウール裏切って嬲り殺しにあったと聞いたが」
「だから勝手に殺すなと言ってるだろ」
 ハダシュはイブラヒムの正面、転がしてある酒樽に座った。目の前の棚にある小さな黒い瓶を手に取り、手慰みに揺すってみる。水の鳴る音がした。
「あー、それ、割ると死ぬね」
 イブラヒムは皮相な笑い声をたてた。ハダシュはぎょっとして瓶を棚へ戻す。
「ところで」
 話を始めるのに長々とした前振りは面倒だ。単刀直入に切り出す。
「聖堂で施し食った連中が次々に死んだって話だけど」
「ほう?」
 イブラヒムは浅い笑いをうかべ、何げに身を乗り出した。くっきりと彫りの深い、杏仁型の眼が鋭く光っている。ハダシュはラトゥースから説明された限りのことを話した。紫斑、嘔吐物の色。イブラヒムは苦笑いした。
「役人に転職したとは知らなかったね」
「嫌みは聞きたくない」
 店の奥から真っ白い毛並みの猫が悠然と現れた。媚びたように鳴きながらイブラヒムの椅子に身をこすりつけ、尻尾を揺らしている。
「よしよし、お腹空いたか。ちょっと待ってるね。殺し屋さん帰ったらね」
 ハダシュはくちびるをゆがめ笑った。イブラヒムは素知らぬていで猫に手をのばす。
「そいつはたぶん”竜薬”だ。竜の化石から獲れる毒だとか何とか」
 猫は気持ちよさげに身体を伸ばし、のどをごろごろと鳴らす。ハダシュは眉をひそめた。竜薬という言葉、どこかで耳にしたような記憶がある。
「噂じゃ、この街の総督が奴隷ギルド《カスマドーレ》に口利きしてやった見返りにバクラントから手に入れたとか聞くね。そんな嘘っぱちの噂、誰が流すかね。賄賂さえやって黙らせときゃ無害なのに、欲の皮でも突っ張らせたか」
「バクラントか」
 そこまで聞いて、ハダシュはようやく思い出した。聖堂の回廊に埋め込まれていた大量の化石。それとなく尋ねるとイブラヒムはいやらしく笑った。餌を催促してか猫が不満そうに身をよじらせはじめる。
「あれは単なる恐竜の骨だ。バクラントの竜岩はあんなもんじゃない。
「門外不出」だ。バクラント王さまの許可なくしてはハナクソほどの欠片といえど持ち出し不可。そのへんの有象無象が手に入れられる代物じゃないね」
 イブラヒムは猫をなだめて抱き上げようとした。しかし餌をもらえないと知った猫は、高慢な仕草でぷいと顔をそむけると、高くした腰と尻尾を振ってどこかへ消えていった。
「ラウールが死んで、港も裏町もガタガタしてるし。てめえの都合が良いように総督の首をすげ替えようって輩がいてもおかしくない」
 気取った腰つきを見送ってイブラヒムは苦笑した。
「そう言えば、待てよ、ちょっと前に、同じことを聞かれたな……誰だったか」
「もういいよ」
 これ以上の情報は引き出せそうになかった。ハダシュは引き上げることにした。欲しい情報はあらかた手に入った。あとは継ぎ合わせていくだけだ。ポケットに手を突っ込んで、王国銀貨を三枚、続けざまにイブラヒムへと投げやる。
「これで酒でもやってくれ」
 イブラヒムは銀貨を器用に受け止めると、すかさず舐めるような眼で目利きし、にやりと笑った。上目遣いでハダシュを見やる。
「あれはどうするね」
「要らねえよ」
 ためらわず断る。
 立ち去ろうとしたハダシュを、イブラヒムは手を伸ばして引き留めた。
「まあ、待ちな」
 粘っこい笑いに肩をゆらし、何かを握り込ませる。
「役人側に寝返るのはいいけどね。裏切ると後がキツイよ」
「勘ぐってんじゃねえよ」
 ハダシュはゆっくりと掌を開いた。しわになった茶色い油紙を目にして眉根を寄せる。
「いらねえと言ったはずだ」
 強引に突き返す。
「禁断症状キツイよ。後から泣きついても知らないよ」
「知るかよ」
「今のうちに恩着せがましくしとこうと思ったのに。いいや、この際、単刀直入に言わせてもらおう」
 黒い目に強欲の光がぎらぎらと宿っていた。
「もし”竜薬”を手に入れたら可能な限り融通してくれ。五万スー、いや、分量によっちゃ五十万スー出す。本気だ」
「考えとくよ」
 ハダシュはうるさくつきまとうイブラヒムを振り払い、苦々しく笑って店を出た。近くにいるはずのラトゥースを探す。
「ハダシュ、こっちこっち」
 少し離れた路地に、つややかな青い天鵞絨の帽子を目深に引き下げた姿が見える。薄暗い影に身を潜めているはずが、たっぷりと風にそよぐ純白の羽根飾りといい、いかにもおろしたてふうな汚れ一つない乗馬服といい、目立つことこの上もない。
 ハダシュはあきれた吐息をつき、近づいていった。
「もう少しマシな格好できないのか」
「静かに。声が大きいわ。見つかっちゃう」
 ラトゥースがあわてたふうに首を振った。立てた指をくちびるへと押し当てる。どうやら本気で身を潜めていたつもりらしい。笑うに笑えず、ハダシュはとりあえず話をそらした。
「イブラヒムは”竜薬”の可能性が高い、と言った。もし、聖堂での事件にギュスタ・サヴィスが関与してるとしたら」
 一瞬、緊迫の表情がラトゥースの目元を険しくさせる。
「それだけはないと信じてるわ」
 ラトゥースは、厚ぼったい雲のたれ込める海側の空を仰いだ。
「ギュスタ神官が、あなたのいう整理屋のローエンに連れられてカスマドーレの所へ行った、というのは、おそらく彼が身の丈を超えた借金を重ねてしまって、どうにもならなくなったからだと思う。でも、何のために? 自身の遊興費のため? 違う。ありえないわ。彼はそんな人間じゃない。むしろ反対だわ。ギュスタ神官から篤信を奪うために、何者かが故意に彼を巻き込んだのよ。足のつく可能性の高い門外不出の竜薬を使ってまでも、神殿の求心力を疎んじ、人々を遠ざけたがった者がいる。黒薔薇の仲間だったローエン、奴隷商人のカスマドーレ。竜薬。交わる点はただ一つ」
 一瞬の間をおいて、ラトゥースは鋭くハダシュを見返した。
「行きましょ。もう、これ以上、彼に罪を重ねさせたくないの」

次のページ▶

もくじTOP
<前のページ