2 (うんっ! ラウがんばってえろいおおかみになるっ!)

 アリストラムは動かない。あれからずっと、白く煙る月の粒子を浴びて眠り続けている。
 雪と氷と炎でつくられた、透き通る面影。白い肌。今、ラウの手にある刃と同じくあでやかに輝き立つ銀髪。無防備にはだけられた胸元は、男らしくも、中性的のようでもあり。
 それらを子供のようにさらけ出したまま、深い眠りの罠に囚われて。
 ――眠っている。

 遠い記憶がよみがえった。

 姉のゾーイはいつだって優しかった。他の誰よりも凶暴狡猾な白き牝狼。血の鮮麗に酔いしれ、欲望という欲望をすべて謳歌し、凄艶なるその爪で、剣で、牙で、敵を切り裂き、なぎ倒し、残酷に冷酷に踏みにじり貪り尽くすその瞬間さえ、この上もなく綺麗で、寒気がするほどに美しかった。
(ゾーイおねえちゃんっおかえりっ!)
(ただいま、ラウ。良い子にしてた?)
(うんっ! ラウすんごくいいこしてたよ!)
(ようし、じゃ、ごほうびにおやつあげる。ほら、ラウの大好きなお肉よ)
(うわあおにくおにくおにく! ラウおにくだいすき!)
(ゆっくり噛んで食べるのよ)
(えへ、ラウもいつかゾーイおねえちゃんみたいにえろかっこいいおおかみになるんだ!)
(ちょっと、誰!? ラウにエロカッコイイなんて言葉教えたのは! ……まあいいわ、もちろん、なれるわよ。だって)
 切れ長の妖艶な碧眼に紅を掃き、この上もなく肉感的な、はちきれんばかりの肢体を月にさらして魔狼の族長であるゾーイは笑っていた。小さかったラウをやすやすと抱き上げて、ほっぺたにキスをする。そんなときいつもくっきりと頬についていた紅の痕跡がまるで大人のしるしのようで恥ずかしくて、ラウは無性にどきどきしたものだった。
(ラウの眼も、髪も、あたしと同じ碧の色だものね。それに、ラウはこのあたしの、たったひとりの大切な妹……家族だもの)
(うんっ! ラウがんばってえろいおおかみになるっ!)
(強いの間違いでしょ……)
 誰よりも美しく強かったゾーイが向けてくれる、優しい笑顔。何よりもその笑顔がラウは大好きだった。憧れと崇敬の眼差しでゾーイをを見上げて、むぎゅうっと首にかじりつく。そんなときのゾーイはいつもどこかぞくりとするような、奇妙に古めかしい不思議な香りをさせていた。懐かしいような、怖いような、知らない香り。

 なのに、そのすべてが。
 あの夜、何の予告もなく。
 
 突然、魔妖狩りの集団がやってきて仲間たちを殺し始めた。里のあちこちから次々に火の手が上がってゆく。恐ろしさのあまり巣穴に逃げ込んで泣きじゃくっていたラウの襟首を、血相を変えて飛び込んできたゾーイが引っ掴んだ。
(何やってるのラウ、逃げなさい! 早く!)
(おねえちゃん……!)
(先に行きなさい! あたしは)
(やだ、おねえちゃんといっしょにいる!)
(だめ)
 その顔だけは今でも忘れることが出来ない。血に濡れ、涙に濡れ、絶望と苦悩に青白くゆがみきったゾーイの、まぎれもない泣き顔。
(あたしは”あいつ”を助けに行かなくちゃいけない)
(やだ! やだ! あいつってだれ! ひとりなんてやだ! おねえちゃんといっしょじゃないとやだあっ!)
 ほっぺたを張り飛ばされて無理やり首根っこを掴まれ引きずり出され、切り立った断崖絶壁から護身用のナイフ一本と一緒に遙か遠い谷へと放り投げられて。
 ぼろぼろの毛糸玉のようになってどこまでも絶壁を転がり落ちていった。その直後、真っ暗だった夜空が真昼のように白く染まって。
 次の瞬間、里は、吹き飛んでいた。凄まじい銀色の光がゾーイの影を背中から溶かすように呑み込んでゆく。痕跡すら残らなかった。そこに魔狼の里があったかどうかすら、分からないほどに、何もかもが、消え――
「人間を襲えば、あたしも、だって……?」
 ゾーイの絶叫だけが、一生癒えぬ火傷の跡のように心に刻みつけられている。
 ラウは剣を振り上げた。眼に涙が浮かんでいることさえ、気づいていなかった。
「人間に、何が分かる」
 ”人間”が。
 ”魔妖狩り《ハンター》”が。
 ”ゾーイを殺した”。
 残されたのはこの古びた剣の一振りだけだ。
 分かっている。人間と魔妖は敵同士だ。魔妖の大半は凶暴なだけの下等な獣だが、中には人間以上の知性と邪心を有し、自らの欲望を満たすためにのみ人に危害を与える種もある。非力ながら群れて生きる人間の眼から見れば、本能のまま奔放に残酷に生きる唯一無比のゾーイはまさしく悪魔のような存在、抹殺すべき敵であったに違いなかった。
 剣を振りかざした手が震える。強くなってゾーイを殺した人間に復讐する――それだけが目的だった――はずなのに。
「アリス」
 ラウは呻いた。
「アリス」
 アリストラムは目覚めない。まるで気付かぬ様子で、死んだように眠り続けている。
 気付くわけがなかった。今のアリストラムは、たとえ殺されても目を覚まさない。
 魔力が――生きようとする力の根源が、ないから。意識が戻らないのだ。
 ラウは剣を振り上げた。
「アリス!」
 鋼の切っ先が甲高い唸りをあげてアリストラムの喉元に降り迫ろうとする。
 月の光さえもが凍り付いた、ような心地がした――刹那。

 首輪がものすごい音を立ててじりじりじりーーん! と鳴り渡った。
「あち、あちゃ、あちちち!」
 ラウはがしゃーんと剣を放り投げた。ベッドにひっくり返って首輪を押さえ、七転八倒する。
「痛い・熱い・痛い、うわあんやめて痛いってばアリスのバカあああ!」
 焼け付くような痛みがのどを締め上げる。ラウはアリスの胸に顔を埋め、ぎゃあぎゃあと泣きわめいた。
 アリストラムの手首にはめられた銀の腕輪もまた、ラウの首輪と同じくじりじりと赤く光っている。聖紋章が宙に浮かび上がっては激しく反応し、燃え尽きる星のように明滅して消えた。
 そうなってようやく、アリストラムは目を開いた。うつろな紫紅の瞳がぼんやりと天井を仰いでいる。
「おはよう、ラウ」
 心ここにあらず、といった様子である。ラウはぐすぐす泣きながら喉を押さえた。
「い、痛いんだってばもうーーー!」
「……ありがとう、起こしてくれて」
 アリストラムはかすかに眼を瞬かせた。
「いつも感謝していますよ」
「う、うるさああい!」
 ラウは鼻の頭まで真っ赤にして号泣した。枕に顔を突っ伏す。
「あんたなんて一生そのまんまで寝てりゃいいんだーー!」
「それは困ります」
「だから何でこうまでしないと起きられないのかって聞いてんのよーーー!」
 跳ね起きてアリストラムをにらむ。
「あんただってこれと同じぐらい痛いんでしょうがああ!」
「ええ、たぶん、痛いような気がしますね」
 アリストラムはゆっくりと半身を起こした。まだどこか朦朧としているのか、相変わらず取りつくろった優しいだけの表情を浮かべている。どんなにその内面をのぞき込もうとしても、鏡と同じ。苛立つ自分の気持ちだけしか瞳に映し返さない。
「貴女が起こしてくれなければ起きられないのですから仕方有りません」
「も、も、もう知らないっ!」
 ラウは手にした枕をアリストラムの顔めがけて投げつけ、鼻をすすり上げて怒鳴った。
「眠ったまま起きられなくなるぐらいなら最初から魔力なんてくれなくていいって言ってんの! なんか最近どんどんひどくなってない? あたしが逃げたらどうする気よっ!」
「大丈夫ですよ」
 アリストラムはこともなげに枕を受け止めた。
「こっちにきて、ラウ」
「何!」
「はい、枕」
 何気なく手渡される。気圧されて思わず受け取ってしまいそうになってラウはぶるぶる首を振った。
「だからそうじゃなくて!」
「ああ、すみません、こちらがお望みでしたか」
 手を握られて、ちゅっとついばむようなキスを指先にされる。
「!」
 がたがたとのけぞる。アリストラムは素知らぬ顔で肩をすくめた。朝露のようなため息と一緒につぶやく。
「信じていますから」
 言葉が、ずきんと胸に突き刺さる。ラウは、一瞬真っ赤になり、それからあわててぶるんぶるんかぶりを振って後ずさった。
「う、う、うるさああい! 勝手なことばっかり言って、も、もう二度とあんたなんか起こすもん……」
「信じています」
 アリストラムは力無く寝乱れた髪を掻き上げ、無意識につぶやいた。
 声が、途絶える。ラウは息を呑んだ。絶対に壊れないと思っていた銀の仮面がひび割れてゆく。
 アリストラムは、かすかに笑った。何もかも見透かすような眼が、穏やかにラウを見つめている。
「……そろそろ夕食を催促しにゆきませんか? お待ちかねの肉肉肉ですよ、ラウ」
 だが、その口から漏れたのは、いつもと同じ、おだやかな言葉だった。


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