2 (うんっ! ラウがんばってえろいおおかみになるっ!)

「い、いや……ぁっ……!」
 ミシアはアリストラムの声をかき消すほどのすすり泣きを漏らしながら、身をよじった。刻印の光が青い罪の残像となって妖麗に揺れ動く。
「違います……お……おゆるし……くださいませ……後生でございます」
 アリストラムはわずかに顔をゆがませた。ときに魔妖は己が所有する人間に対し、人が己の家畜に印を付けるのと同じように、二度と消えぬ隷属と執着の刻印を戯れに刻みつける。消すことも、自ら消し去ろうと思うことすらできぬ、魔に陵辱され堕落した罪人のしるし。眼に映り込む光の感触は、見知ったそれとは明らかに異なる気配であったにせよ、恐ろしいほど身に覚えのあるものだった。
 もし、これがキイスと名乗る男のつけたものであるならば、その意味するところはまごうことなく――
 アリストラムは突き放すようにしてミシアを解放した。疲れたかぶりを振って追いやる。ミシアはよろめき、胸元を隠し押さえて壁際に崩れ落ちた。
「どうか、おゆるしくださいませ……!」
 アリストラムはミシアの懇願をつめたく遮った。
「もう、いい。下がりなさい」
 ミシアは蒼白な顔で乱れた胸元をかきあわせると、頭を下げ、逃げるようにして部屋をよろめき出ていった。その後ろ姿を見送ると、アリストラムは部屋の隅に行き、咲き乱れる花の絵付けがされた、白と金の水盆に掌をくぐらせた。
 ぽつん、と揺らぐ水面に広がる波紋を眼で追い続ける。どこかから差し掛かる碧の光が波紋の影を淡く色づかせていた。記憶のどこかに残っていた面影が映り込む。
 やがて顔を上げ、追想を水沫で断ちきってためいきをつく。アリストラムは窓際の揺り椅子に深く腰を落とし、ゆらぎに身を任せて眼を閉じた。こめかみを指で強く押さえ、記憶となって滲み出る鈍い痛みに唇をゆがめる。
「ゾーイ」
 罪の刻印。アリストラムの頬に白く、自嘲の笑みがこわばって貼り付けられる。
「愚かなのは、私だ。未だに忘れられない」
 月明かりの下、窓際で揺れる椅子の軋みだけが単調に続いている。灰色に冷たく染まる石床に黒く、罪の残影が落ちた。
「……貴女を」
 そのまま心まで石になってしまったかのように、深く、暗く、自分自身の奥底へと沈み込んでゆく。その姿はまるで生きながら氷の檻に閉じこめられた永遠の彫像のようだった。

「ただいま……」
 タヌキが一匹、まんまるぽんぽこなお腹を苦しげにさすりさすりしながらよろよろと寝室に入ってくる。いや違う、タヌキではない。ラウである。何をどう喰えばこうなるのか、戸口につっかえて入りかねるほどの横幅にまで腹がふくれあがっている。
「ごちそうさまでした……」
 幸せなのか苦しいのか、ラウは何とも見分けのつかない笑み混じりの脂汗を浮かべながらアリストラムを探して部屋を見渡し、その勢いで足元をふらつかせた。
「アリス……どこ……? 前が見えない」
「食べ過ぎです」
 アリストラムは揺り椅子から身を起こしてラウを労りに近づいた。手を取り肩をそっと押してベッドへと座らせる。マットレスがまんまるの形に沈む。もはや座っていても寝ていても同じ姿勢を取っているようにしか見えない。
「ううう、お腹苦しい……」
 ラウはお腹を押さえてうんうんと唸った。額に冷や汗が滲んで、碧の髪がまとわりついている。顔色までが妙に青白く、紫がかっているように見えた。
「そんなに食べるからですよ」
 アリストラムはためいきをつき、ラウの傍らに腰を下ろして、苦しげに唸るラウのお腹をそっと撫でてやった。
「大丈夫ですか」
 だがよほどむちゃくちゃな食べ方をしたのか、ぱんぱんもぱんぱん、今にも皮が弾けそうなほどお腹が張りつめている。
「急にお腹痛くなってきた……」
「それは大変です」
 アリストラムはにっこり笑った。全然大変そうに思っているふうではない。
「胃薬を差し上げますから、ちょっとだけ待っててください。甘湯に溶かして飲めば大丈夫ですから」
「う、うん」
 ラウは情けない鼻声をあげて身悶え、動けずにアリスを眼で追いかけた。
「苦い……?」
「もちろ――」
 アリストラムはすっとぼけた仮面の笑顔を振り向け、にっこりとたおやかにすら見える仕草で小首を傾げ微笑んだ。
「いいえ、ぜんぜん苦くありませんから大丈夫ですよ」
「や、やっぱりいらない」
「駄目ですよ」
「いらないったらいらない。苦いおくすりキライ……」
 ラウはお腹の痛みと薬への拒否反応が相俟って余計にいやいやとワガママにぐずった。だが身体をよじった拍子に破裂しそうなお腹まで一緒にねじってしまい、瞬く間に顔をひきつらせ、哀れ極まりない呻きを上げて、くしゃくしゃの泣き顔に戻る。
「うぐぅ……」
「ほら、飲んで」
 アリストラムは小さなグラスに甘い薬水をいれ、銀の盆にのせて戻ってきた。倒れ込んだまま動けないラウを起こし、抱き支えてやりながら口元に傾けたグラスを当てる。
 ラウはグラスを両手で受け取り、飲もうとしてためらった。上目遣いでおろおろと抗う。
「苦くないよね」
 アリストラムは澄まして答える。
「分かりました。そこまで言うなら口移しで」
「……」
 ラウはぽかんと眼を泳がせた。涙目でアリストラムの顔を見、みるみる真っ赤になったかと思うと叩き伏せるようにうつむいてグラスをひったくる。
「飲めば良いんでしょ!」
 一気に薬を飲み干す。
「うぇえええ……にがあああ……!」
 舌を出して泣きっつらをさらにくしゃくしゃのつぶれ顔にする。
「もう大丈夫ですよ。すぐに良くなります」
 アリストラムはひょいとラウの手からグラスを取り上げるや傍らに置いて、ゆっくりとラウを横たえさせた。狼の耳を押し込めて隠す狩人の帽子を取ってやり、そろそろと身体に沿ってやさしく撫でてやる。
「う……うん」
 ラウはうっとりと翡翠色の眼を閉じた。ベッドの上に広がった碧の髪がやわらかい光を放っている。アリストラムはラウのちいさな肩を撫で、髪に触れ、和毛に覆われた耳に触れた。過敏な耳が、ぴくんと逃げるように反り立つ。
「ん……」
「ラウ、歯磨きを忘れていますよ」
 アリストラムはうとうとと眠りに落ちてゆこうとするラウの耳元にささやきの吐息を吹き込んだ。ラウはまどろみながらも、もじもじと頬を赤らめ逃げようとする。
「あん……くしゅぐったい……」
「歯磨きをしないと虫歯になりますよ」
「わかった……後でする」
「では、お風呂にしましょう」
「今日はいい……」
「駄目ですよ。きちんと髪を洗わないと」
「じゃ五分待って……」
「だめです。言われたらすぐそのとおりにしなさい。さもないと」
「がるるるるる」
「唸っても駄目です」
 アリストラムはうすく笑った。手にタオルを持って立ち上がる。
「では、私はお風呂の準備をしてきますから、それまでに歯磨きを終わらせておいてくださいね。一緒に入りましょう、ラウ」

 何だかんだ言ってもオフロは楽しい。髪やらしっぽやら、身体のすみずみまで綺麗に洗ってもらうと、はだかのまま飛び出して再度ベッドに倒れ込む。
 ラウは身体を拭きもしないで枕へと顔を突っ込んだ。くしゃくしゃのバスタオルを頭にかぶり、お尻だけを突き出してうんうん唸っている。
「やっぱりおなかいっぱいで苦しい」
「風邪引きますよ。ほら、早く身体を拭いて」
「すぐ乾くから」
「駄目です。パジャマぐらいちゃんと着なさい」
「うううん……」
 ぶうぶう唸りながらも尻尾を振って、枕にしがみつく。ごろんと寝返りを打つ。かと思うと、もういきなり寝入っている。
「だってぇ……むにゃむにゃ……」
 まんまるなお腹を無防備にぺろんと放り出し、足で枕をはさんで、ラウはぐうすかと眠り始めた。アリストラムは苦笑し、気を緩めたおだやかな表情をむける。
「何と、はしたない」
 ラウは寝返りを打とうとして、出っ張ったお腹がつっかえるのか意味もなくじたばたした。
「……うう……くるしいよう……」
 アリストラムは傍らのランプの蓋を開け、芯を落として火を消した。闇が満ち、しんとして、暗くなる。
 月明かりに似た優しい手が、眠るラウの髪をゆったりと撫でる。
「アリスぅ……うううん……うううう苦しい……」
「困った人ですね」
「アリスぅ……」
 無意識に手を舐めようとする。
「はいはい、よしよし」
 アリストラムは青白い暗闇のなか、ラウに指を舐めさせながら、ひそやかに眼を底光らせた。魔妖とも人ともつかぬ幼い身体から立ちのぼる翡翠の気配が、まぎれもないあやかしの気を揺らめかせている。
「まだまだ子どもですね、やはり」
「こ、こ、こどもじゃないもん……」


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