2 (うんっ! ラウがんばってえろいおおかみになるっ!)

 眼も合わせてくれないまま、皮肉の香辛料をたっぷりとまぶした、心配してのことやら怒ってのことやらさっぱり分からない紛らわしい嫌みを言ってくるに違いない。
 怒られる……。
 たいした怪我ではないけれど、無茶をしたせいでできた傷には違いない。
 治療される前に少しでも怪我を減らしておこう、と、ラウは少しあたふたしながら、手の甲にできた傷を舐めた。舌が触れるだけでやたらひりひりする。血の味がした。
 よく見ればあちこちに同じような傷ができている。ラウは血の臭いをかいだ。もう一度、今度は傷ではなく、血そのものを舐めてみる。何だか妙に胸がざわざわした。身体のどこかがやたら緊張して、うわずるような、息詰まるような感じがした。眼が冴えてゆく。意識の底に追いやられていた何かの記憶が、とろりとした舌触りに呼び覚まされ、ぐらり、ぐらりと、揺すぶられる。
 血の臭い――
 ぐうううう、と、お腹の虫が鳴った。
 お腹が空いていたせいらしい。いつの間にやら、またお腹はぺったんこになっていた。ラウは悲しいため息をついた。何でこんなにお腹が空くのか分からない。これならまだ食べ過ぎで苦しいほうがずっとましだろう。
 はてさてどうしたものか、と逡巡する。お腹がすいた……かといって勝手に狩りをするとアリストラムに叱られる。黙って狩りをしてもこれまた何故かすぐにばれる。とすると、ここはいったん城に戻って食糧倉庫を荒らすしか……
 そこでラウは顔を上げた。
 ドッタムポッテン城を探して振り返る。随分と森の奥にまで分け入ってしまったらしい。空は明るいはずなのに、足元は異様にひんやりとして薄暗かった。
 木々の彼方、生い茂る青葉や絡まる蔦、背丈を優に超す下生えの向こう側に、かろうじてあのぼろっちぃ城の尖塔が垣間見えている。外壁のタイルが濃灰色にはげ落ちているさまがまた白々しくも厚かましい。
 ぷい、とそっぽを向く。あの城の香水まみれな臭いは気に入らない。だが――
 しめった落ち葉の匂いが、ためらいの足を踏み出すたびに胞子のように噴き上がって地表近くを漂う。
 土の臭い、草の臭い、枯れ木の朽ちた臭いに、獣が縄張りを主張してこすりつけた何種類もの麝香めいた臭いが混じっている。臭いをたどってゆけば、さらに深く暗い場所へと魂を吸い取られてしまうような気がした。
 森の吐く深緑の空気が、ざわざわと揺れる葉ずれの音や、けものの臭い、雑多な鳴き声といった命の感覚となって立ちこめている。
 ふいに、血の味を思い出した。
 ラウは呆然と立ちつくす。自由という名の野生が、薄暗がりに似た凶暴な誘惑のまなざしでラウを手招きしているような気がした。
 何かが、呼んでいる。
 森をすり抜ける風が不穏の臭いを運んできた。無意識に喉元の首輪へ手をやる。まさぐる。引っ掻いた爪が銀の錠前に当たって、金属質の音を立てた。
 何かが、いる。こちらを、見ている。首筋の後れ毛が帯電したかのように逆立った。
 風が傲岸な臭いを押し流してくる。ラウの喉から、知らず知らず低い唸り声がもれた。
 風向きに無頓着なのは不用意ゆえではない。故意に匂いをつけながら移動しているのだ。
 身体の奥が、ずきりとうずく。こんな臭いは嗅いだこともない。ひどく残酷な、傲慢な感じのする、嫌な臭い。
 背筋が粟立った。怖い。だが、恐怖を自覚してしまったら動けなくなる。
 野生の呼び声が聞こえた。くつくつと笑うような声が、魂の奥底に閉じこめられていた欲望に火を点ける。
 全身がこわばってゆく。ラウは痛いほど首筋を凝り固まらせた。
 絡まる蔦が四方八方に掛け渡された木々が、迷路のように遠近感を失わせて迫る。
 気付いた鳥が声も上げず一斉に羽ばたいて逃げ去った。
 枝がたわみ、木の葉がざあっと降るように散る。
 緑の視界の奥。闇に吠える者のひそむ、深い、昏い、汀の彼方に。
 異様に痩せ衰え、あざといほどにそら恐ろしく飢餓感を削ぎ落とした黒い魔妖の影が、見えた。
 金色の妖瞳がラウを見つめた。魂の奥底にまで引きずり込まれるような、切れ長の眼。
 黒い濡れ羽色の髪が、死神の引きずるコートのようにたなびいている。野獣のようにも、貴族のようにも思える仕草で、魔妖はかすかに眼をほそめた。ラウの出方を推し量っているのか。
「貴様は、何だ?」
 なめらかな人の声に、かすれた魔妖の唸りが混じる。黒くとがった大きな耳がぐるりと回ってラウへと向けられた。
「人間の臭いもしなければ魔妖の臭いもしない。そのくせあの城と同じ忌々しい臭いがする」
 嫌悪を込めた唸り声が魔妖の喉から洩れる。ラウは首筋の毛をざわりと逆立て、後退った。威圧感だけではない。恐ろしいほど圧倒的な力量の差を感じる。牡の狼特有の、むんとする臭いが立ちこめた。まさか、同族――
「犬か」
 蔑称まじりに吐き捨てる。渦巻くほどに長い、黒い、太い尻尾がゆらりと打ち振られた。ぬめるような黒さだった。色違いの差し毛の一本もない。
「たかが犬の分際で」
 低い声がいんいんと響く。わずかな喉の震えが、風洞を通る風のような声に予言めいた笑いを添えた。
 ほのかな殺意が、喜悦となって滲み出る。
「身の程を弁えろ」
 身体がすくんで、動けない。
 今ほど、剣を忘れてきたことを後悔したことはなかった。足の先が氷のように冷たい。
 怖い。喰い殺される。
 身体の奥底が無様にも震え出して、止まらない。戦って勝てる相手には思えなかった。何とかしてこの場を逃れるしかない。だが、この魔妖は城のことを知っている。もし逃げた先にまで追ってきたら。
 アリストラムの、病み上がりにも似た息苦しげな声を思い出す。いくらアリストラムでも、魔力による加護なしに魔妖と戦えるはずがない。
 ラウは、こみ上げる恐怖に耐えきれず、息を乱して呻いた。せめて内心だけはおくびにも出すまいと必死に歯を食いしばる。
 だが、その虚しい抵抗すらあえなく見抜かれたようだった。黒狼の魔妖は嘲りの眼を横目に走らせた。
 白く光る牙を見せ、うっすらと笑う。
「目ざわりだ」
 どこか嬉しそうに、舌をなめずらせ――
 次の瞬間、魔妖の身体が宙を舞った。木々の枝を弾き飛ばし、一直線に漆黒の砲弾が迫り来る。
 ラウは声を呑んだ。かわそうにも身体がまるで動かない。避ける間もなく、そのまま高々と跳ね飛ばされる。身体が木の幹に激突した。木っ端と枯れ葉と生枝をめきめきとへし折り、吹き散らしながら、さらに遠くへと吹き飛ばされる。
 頭から地面に叩き込まれ、もんどり打って跳ね転がった、その無力な身体の上から、大地まで抉り抜くような重い拳の一撃が突き込まれた。
 身体ごと、意識が叩きつぶされる。血の味がこみ上げた。さらにもう一発。顔を殴られる。意識が遠い。身体が動かない。何をされても、もう、鈍い、遠い痛みにしか感じないほど、血に沈んで。
 魔妖の爪が着ぐるみパジャマにかかった。さながら溶けたバターのようにやすやすと、身にまとうものを切り細裂いてゆく。ほっそりと幼さを残した薄褐色の姿態があらわになった。
 黒狼はつと陵辱の手を止めた。ふるえるラウの尻尾を乱暴に掴んで、引きちぎらんばかりにたぐり寄せる。
「魔狼の雌か」
「あ、う……痛っ……!」
 ラウはあらわにされた下半身をなかば吊り上げられながら、血を吐き、呻いた。魔妖の舌が、ラウの腹上にこぼれた血をどろりと舐め取る。
「まあ、いい。獣も魔妖も食えば同じだ」
 いたわりの欠片もなく、ただ冷ややかな喜悦と欲望のまなざしだけをしたたらせ、魔妖は笑った。腰に容赦ない重みをかけながら、押し潰した身体にのしかかってくる。
「や……や、だ……」
 ラウはかすむ眼に涙をいっぱいにため、弱々しくかぶりを振った。
「たす、けて……ア……!」
 腕を押さえ込み、足を割り、魔妖が近づいてくる。あらわにされた全身の傷を、爪で深くさらに裂かれ、舌で広げられ、舐めすすられる。流れ出す血を受ける欲情の舌がべろりと肌を這った。そのたびに何かが傷口からこぼれ、今まで感じたこともない、淫靡な、狂気めいた別の感覚を流し込まれてゆくような気がした。
 黒いたてがみのような艶やかな獣の髪が荒ぶる本能のまま降りかかり、覆い被さる。爪を立てられ、牙を立てられ、苦痛なのか恐怖なのか分からない感覚に揺すぶられて、ラウは身をよじり、呻き泣いた。
「じきに、死ぬほどよがり狂いたくなるぞ」
 ラウの顔を濡れそぼった枯葉の褥に押しつけ、乱暴によじらせて這い蹲らせる。
 獰猛な牙がぎらりと光った。
「や、やだっ……やあっ……!」
 魔妖は残忍に笑い、ラウの首筋に牙を立てた。反射的にラウは身体を硬直させた。必死にもがき、牙から逃れようとする。食らいつく牙がさらに追いすがった。動脈ごと噛み裂かれる。
 息ができなかった。飛び散る血飛沫を魔妖は不遜にも高らかに嘲って浴びた。首を振り、こぼれ落ちるしずくを長い舌でねっとりとすくって、音を立てて執拗にしゃぶる。
「ア……アリス……アリ……ス……助け……て……!」
 次第に意識が薄れてゆく。
 ふいに喉が鮮烈な熱を放った。首輪につけられた銀の錠前が峻烈にきらめく。
 黒狼の魔妖はいらだたしげに唸った。
「この首輪……!」
 溶岩のような金の妖瞳が苦悶にほそめられる。魔妖は巨大な牙を剥きだし、ラウの喉をくわえたまま何度も地面へと叩きつけるようにして振り、投げ飛ばした。
 もんどり打って倒れ込む。
 逃げようとしても身体が全く動かなかった。半ば枯葉に埋もれ、土に埋もれた爪が虚しく土を掻く。
 喉が熱い。熱くて、苦しくて、突き落とされそうだった。痛みの拍動が早まった。近づいてくる。心が、壊れる……!
 魔妖は邪魔な首輪に手を掛けた。乱暴に引きちぎろうと無理矢理鷲掴む。ラウは首輪に喉を締めあげられ、呻いた。
 ふいに、聖なる光が乱反射した。
「私のラウから」
 首輪全体が銀のかがやきを放って魔妖の手を焼き焦がした。ラウもまた、悲鳴を上げてもんどり打った。魔妖が吠え猛る。
 だが浄化の光は一瞬で消え失せた。代わりに、怒りを宿した銀の神官杖が空を切って旋回し、激しく焼き打つ紫電のきらめきとなって伝い走った。月金石が石琴のごとく玲瓏に鳴り渡る。
 純白と、銀と。燃え立つかのような紫紅の瞳。右手に杖。左手にゾーイの剣。戦闘神官の孤高な装いに身を包んだアリストラムが黒狼の魔妖を睨みすえていた。
「手を放しなさい」
 青ざめた聖銀の弧を描く杖を、ぴたり、と、剣の切っ先の如く突きつける。紫紅の眼がゆらめかんばかりの怒りに燃え立っていた。
「アリス……!」
 ラウは呻き、泣いて、泥土に汚れた身体を持ち上げようとした。
 押し殺した声が、矢となって魔妖をつらぬく。
「……人に害なす魔妖は、滅ぼされなければならない」
 その声は、死者の埋葬を告げる夕闇の鐘のようだった。静かに、厳かに、破滅する闇の行く末を宣下する断罪使徒の、声。
 黒狼の魔妖は一瞬の動転をたちまち消し去り、ラウを襲ったおぞましい姿のまま黒い尾をひるがえらせて闇へと跳ね戻った。憎悪に満ちた唸り声が笑い声に混じる。
 金眼がゆらりと笑みくずれた。高圧的に含み笑う。
「聖銀《アージェン》の教徒。なるほど、そういうことか。面白い」
 黒狼は嘲笑の闇に身をまぎらわせた。闇散る気配となってゆらめき消えてゆく。アリストラムはあえて後を追おうとはしなかった。するどい眼で森の闇を見通し、妖気が完全に消えたことを確かめるとわずかに顔をゆがめ、急いでラウの傍らに膝をつく。
「大丈夫ですか、ラウ」
 ラウは、突然に身体の奥からこみ上げてきた悲鳴を押さえきれず、アリストラムの手にしがみついた。
「アリス……ありす……怖か……殺されるかと……思った……怖かった……!」
 アリストラムはそれ以上何も言わず、純白のコートを脱ぎ落とした。ラウの身体をコートでしっかりと包み込む。ラウはアリストラムの腕に抱かれながら、その胸にしがみついて泣きじゃくった。
「ごめ、ごめんなさい……あたしが……あたしが勝手に、部屋を飛びだしたりしたから!」
「何も言わなくてもいいのです」
 アリストラムは低くつぶやくと、くるんだコートごとラウの身体を抱き上げた。
「とにかく手当を。あれだけの力を持った魔妖を相手にこの程度で済んでよかった。おそらく、あれが今回の敵でしょう」
 アリストラムはラウを抱きしめた。ラウは身を任せ眼を閉じようとしたが、眼を閉じただけで記憶が心を焼く閃光となってよみがえった。脅され、尻尾を捕まれ、強引に引きずり倒されて――
 悲鳴を上げて眼をつむる。身体がおこりのようにがくがくと震え出した。ラウの急変に気付いたのか、アリスはなおいっそう強くラウを抱いた。
「ラウ、大丈夫です。心配はいりません。私がついています。もう二度と貴女を危険な目には遭わせない」


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