おそらく、逃げる最中に道から足を踏み外して崖下に滑り落ちたのだろう。もしその身体を運良く受け止める草むらがなければ、もっとひどく身体のあちこちを打ち、大けがをしていたに違いない。
ラウはとにかくミシアを気付かせようと、肩を掴んだ。
「ミシア、ミシアってば!」
耳元に押し殺した声を吹き込みながら、揺すぶってみる。ミシアはかすかな声を立て、身をよじった。力なく凍えた声がくちびるから落ちる。
「う、ううん……」
ふいにミシアの身体がぶるっと震えた。
「た、助けて……誰か……!」
恐怖におののく黒い瞳が助けを求めて四方へと走った。陰のあるまつげが涙のしずくに濡れ、悲痛に押し開かれる。
「ミシア!」
ラウはもう一度ミシアの名を強く呼んで、その身体を引き起こした。ミシアは痛みに顔をゆがめながらもラウの声と顔を認めて、呆然と口を開け、声を詰まらせた。
「ラウさま……どうして……?」
「どうしてじゃないってば。何でドッタムポッテン村にいるはずのあんたがこんなところに」
ミシアは突然、全てを思い出した様子でぶるぶると震え出した。みるみる顔色が青ざめ、くちびるまでがこわばり色を失ってゆく。凍り付いた眼差しでミシアはラウの背後を見つめ、どこへどう逃げて良いのかも分からぬ様子で闇雲に這いずり、逃げ出そうとした。
「追われ、お、追われているんです」
「だから、誰に、何で、そんな」
ラウは、ふと口をつぐんだ。
背後から注がれる暗い視線。ぎりぎりと痛いほどの敵意が、背中へとねじ込まれてゆく。
少しでも不穏な動きをすれば消される、と感じた。這いずる虫を踏みつけるのにも似た傲岸の眼。
相手の懇願に何ら心動かされることもなく、ましてや一しずくの憐憫すら、なく。
決して相容れぬ――それは、敵だった。
ラウは、おもむろに振り返った。
無言で相手の姿を確かめる。
妖輝な光を帯び、するどく切れ上がった鳩の血色の瞳。精悍に引き結ばれた薄い唇。同じ銀髪でもアリストラムのやわらかな色味とは全く違う、鋼のきらめきを振り散らすかのような鋭い色。
銀。
それは、銀の色だった。
柔和さの欠片もなく、容赦なく、それでいて凄絶に美しい、顔。
袖や襟元に金襴まぶしい紋章の飾り刺繍をほどこした純白の長い戦闘コートを尊大にまとい、聖銀《アージェン》の紋章をいただく十文字槍を手に携え。
「どこの薄汚い獣が嗅ぎつけてきたのかと思えば、下位のハンターか」
聖武官の装いをした男は、ラウへと果てしなくも軽い侮蔑の一瞥をくれた。
男は傲岸に手を振り払った。手袋にまで聖銀紋章が赤く刻まれている。
「そこをどけ」
高圧的な、ぞっとする冷淡な声で命じてくる。命令し慣れた口調だった。
「この子は人間だ」
ラウは首を振った。かろうじて言い返す。
「人間……? ”それ”がか」
聖銀の武官は冷ややかに嘆息した。侮蔑の言葉にミシアの表情がみるみるこわばってゆく。
ラウはミシアを背後にかばった。喉の奥で唸りつつ男を睨み上げる。
「――なるほど」
男はラウへの興味を一瞬にして失った様子で、ゆっくりと手を引いた。酷薄な唇を笑みの形へとゆるりと吊り上げ、わずかに首をひねって、ちらりと背後を蔑ろな仕草で流し見る。
巨大な十文字槍のきらめく尖先が、つめたい風を斬り混ぜ、冷気の霧をたゆたわせながら旋回した。光の残像の弧を描いて空を切る。
「隠れていないで出てこい。臆病者」
森の彼方を、ぴたりと指し示して、止まる。
ざわり、と森がふるえる。風が、凪ぐ。
ラウは眼を押し開いた。杖飾りの音が、清浄に鳴りゆらめいている。
静けさの御簾を払いのけるかのように、影はわずかに身をかがめ、何気なく下生えを踏み越えて近づいてくる。
「……同志アリストラム」
男は、憎々しげに眼を上げた。見知った者同士、というにはあまりにも苛烈にその名を呼ばわる。
「別に隠れていたわけではありませんよ、同志レオニス」
アリストラムは、微笑みの下に秘め隠された別人の表情を完璧なまでの如才なさで取りつくろって応じた。言外に笑いを含ませつつ、ちら、と眼線を上げてラウに用心の目配せを投げて寄越す。
聖武官は威圧するかのように、十文字槍を振り払った。
「貴様の信心が足りぬからこういう事になる。慚愧せよ、アリストラム」
銀の光が、青白い氷霧を切り裂く。
「穏やかではありませんね」
アリストラムは紫紅の瞳を、ついと細めた。もう、欠片も笑っていない。
ラウはゆっくりと後退った。恐怖を必死に押さえながら後ろに手を回し、ミシアに合図を送る。
だが。
「うぬぼれるな、小僧」
聖銀の武官は見返りもせずに吐き捨てた。ラウは息を呑んだ。あの男はアリストラムが現れて以来、ずっとラウには何の注意も払っていない様子で背中を向けたままにしていた。多少動いたところで、逃走の意図など気付かれるはずがないのに。
明確な殺意を宿した警告が発せられる。
「それ以上動いたら、女を殺す」
ミシアが、ひっ、と喉を鳴らした。ふるえる手を握り、口元へもってゆこうとしながら凍り付く。蒼白な顔が恐怖にゆがんでいた。
「レオニス。どうやら貴方は勘違いをなさっているようです」
穏やかながら確固たる意志を秘めた声が遮った。アリストラムは杖で地面を幾度か突いて鳴らし、聖武官の注意を引きつけた。心痛めたかのようにほそく眉根をよせる。
ラウは押し殺した唸りを漏らした。次に取るべき行動を必死に考える。
思いつく選択肢は二つしかなかった。
ミシアを連れて逃げること。この聖武官に攻撃を仕掛けること。他にはない。
「勘違い、だと。何がだ。言ってみろ」
たちどころにレオニスの顔にどす黒い怒りの筋が立つ。アリストラムはほのかな挑発を含んだ眼をレオニスへと走らせた。
「ミシアは人間です。聖武官の貴方が狩るに相応しい本来の獲物――高位魔妖ではない。それぐらい分からない貴方ではないはず」
「笑止」
レオニスは傲然と肩をそびやかせた。あからさまに見下げ果てた、汚物を見るような表情でミシアを見やる。
「その女が、”人間”だとでも?」
侮蔑にうわずるレオニスの声が、絶句するミシアを真正面から断罪し、切って捨てた。
「語るに落ちたな、アリストラム。愚か者が。その女は魔妖の刻印持ち――欠落者だ」
ふいに山中のどこかからけたたましく争いあう咆哮が聞こえた。獣どうしが激しい威嚇の唸りを上げては互いにぶつかり合っている。凄絶な音が響き渡り、やがて片方が悲鳴を上げた。唐突に音が途切れる。
全てがぞっとする静けさに取って代わられてゆく。
ラウは呆然とミシアを振り返った。弱々しくうちひしがれたその様子に、心の奥底がひどく揺すぶられる。
欠落。
悪意を孕んだ響きに、我知らず狼狽える。レオニスは確かに”魔妖”の刻印を持つ者、と言った。意味が分からない。ラウは助けを求めてアリストラムを見やる。
困惑がこみ上げる。よしんばもしそれが事実だとしても、だ。魔妖の気配に対し常に過敏なまでに気をとがらせ、神経を張り巡らせているアリストラムが、それらしい変調の気配を見落とすはずはない。アリストラムならば、どんな細かいことであってもすぐに気付くはずだ。なのに――ミシアへ掛けられた嫌疑を否定してやろうともせず、みすみす言われっぱなしで黙り込んでいる。
ラウは喉の奥に怒りを含ませ、封印の首輪を掴んで低く唸った。
「聖神官ともあろうものが。抜かったな、アリストラム」
レオニスはさらに威圧的な口調で失敗をあげつらう。
アリストラムはけだるい嘆息を洩らした。髪を払い、片頬に苦々しい落胆の表情を貼り付かせて顔を伏せる。
「刻印のことでしたら、最初から分かっていましたよ」
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