3 「今、神にすべてを捧げろ」

「何……?」
 レオニスの表情がぞっとする怒りに気色ばんだ。みるみる顔容が変わってゆく。
 その敵意を遮るように、アリストラムは暗い表情でつぶやいた。
「分かっていたからこそあえて罪を問わず、キイスの側からミシアに接触して来るのを待っていたのですが。まさか、よりによって貴方に”横取りされる”とは思いも寄りませんでした」
「抜かせ。口では何とでも言えるわ」
 突き放すように言ってアリストラムから眼をそらし、代わりにミシアへと憎悪の視線を走らせる。ミシアは声も出ない口に手を押し当てて、へたり込んだ。
「刻印を見逃すだと」
 ぎらりとミシアを射すくめ、恐怖に身動きできぬようにさせてから、大胆に近づいてゆく。
「ちょ、ちょっと待てってば……」
 ラウは反射的にミシアをかばおうとして立ちふさがった。
「退け、小僧」
 レオニスは冷淡に眼を底光らせるなり、巨大な十文字槍を振り払った。一瞬で衝撃が加速する。
 銀色の光がいくつもの弧を描いて目に焼き付く。叩き出されるかのような凄まじいその斥力に、ラウは弾丸のように吹っ飛ばされ、傍らの木の幹にぶつかった。後頭部をしたたかに打ち付ける。
「ラウ、大丈夫ですか」
 アリストラムが駆け寄ってきた。
 ラウは歯を食いしばってよろめき起きあがろうとした。尋常な一撃ではない。明らかに何か別の力が加わっている。
 レオニスは大股で一気にミシアへと近づいた。のしかからんばかりにしてぐいと手を伸ばし、強引にミシアの髪の毛を掴んで立ち上がらせる。ミシアは悲鳴を上げた。
「おゆるしくださいませ……!」
「黙れ」
 レオニスは喘ぐミシアの髪を非道に手繰り寄せ、ぞっとする声で脅しつけた。酷く揺すぶられたミシアの身体が、声にすらならない悲鳴とともに仰け反る。
「魔妖に身をひさぐ欠落者の分際で、人間の振りをするな」
 容赦ない平手がミシアを打擲する。ミシアの華奢な身体はあっけないほど吹っ飛んで、地面へと叩きつけられた。
 レオニスは掌をミシアへとかざした。
「化けの皮を剥いでやる。正体を現せ、欠落者」
 悪意にも似た、憎々しい銀の光がミシアに浴びせかけられる。あまりのまばゆさに全身の影が透け上がった。一糸まとわぬ、生まれたときのかたちが服の下から浮かび上がる。
「反応している」
 レオニスは底ごもる声で冷酷に罵った。
 倒れたミシアの喉へと十文字槍を押し当てながら、仰向けに蹴り転がす。だがすでに気を失っているのか、ミシアは何をされてもまったく動かない。
 ぶつり、と音を立てて首に下げていた素朴なペンダントが切り落とされた。
 残酷な刃が、秘め隠されていたミシアの秘密を切り開いた。執拗なまでにすべてが切り裂かれ、あらわにされてゆく。
 胸から、青白い光がこぼれだした。
 耐えきれず、ラウは地面に手をついて身を乗り出した。
「やめろ! アリス、やめさせてよ……ねえったら!」
 声を振り絞る。
「あ、あっ……たすけて、キイス……」
 ミシアの身体が震えた。
 はだけられた身体から、のたうつ蟲のような黒い影がくねり出る。
 ラウは眼をみはった。真っ白なミシアの胸に、何かの紋章めいた印が浮かび上がっている。
 人の眼にはおそらく悪意の塊、うごめき這う闇のしるしとしか見えないそれ――
 だが、一度として眼にしたことがないにも関わらず、ラウの眼にそれは、明らかに意味を持った魔妖のしるしとして映ったのだった。

 ミシア。お前のすべてを愛している――キイス。

「刻印の存在を確認」
 喜悦にくるめく狂信者の顔で手を伸ばし、刻印を胸ごと鷲掴む。
 自ら暴き立てた罪の光に照らし出されたレオニスの表情は、さながら執拗に踊り狂う炎のようだった。
「馬鹿な女だ。魔妖に奴隷とされ、人間以下の家畜に堕落するとは」
 それでもミシアは反応しない。まるで糸の切れた人形のようだった。
「手を離せよ……!」
 ラウは凶悪に身じろぎした。ゆらぐ刻印の光が、ラウの碧眼に映り込んでゆく。
「ラウ、いけません……!」
「うるさいッ!」
 アリストラムが必死で引き止めようとするのを、力任せに振りほどく。
 眼が怒りの色にゆらめき立った。
「その薄汚い手でミシアに触るな!」
「ラウ!」
 アリストラムの声でさえ、まるで耳に入らなかった。
 理性の首枷が。束縛の鎖が。音を立てて、ばらばらにちぎれ飛んでゆく。
 次の瞬間。ラウは強烈なバネのように跳ね飛んだ。耳を伏せ、眼を尖らせ、猛然とレオニスへ襲いかかる。
「……かかったな」
 嘲笑が突き立つ。
 まばゆい銀の光が、空書された聖紋章の結界を描き出した。レオニスは凄まじい笑みを浮かべてミシアへと向けていた掌を引き、ラウへと振りかざした。
 無数の術式紋様が瞬時に生成された。分裂と分割を繰り返す幾何学連環を描き出しながら障壁が張り巡らされてゆく。
 目の前が真っ白に変わった。ラウは止まりきれず呪式の壁に激突した。意識が蒸発する。
 誰かが叫んでいる。記憶が――

 錯綜する。
 あの日見た、光の稲妻。
 あの日聞いた、悲痛な叫び。
 最愛の姉、ゾーイを殺した光。
 何もかもを苦く溶かし尽くしてゆくかのような銀の坩堝が目の前に膨れあがってゆく。
 それは、記憶の彼方に押しやられていた真実だった。
 あの日、確かに聞いた。知りたくない、思い出したくない、認めたくない――忘れようとしてきたそれが、誰の声だったのか。
「ラウ!」
 今、聞こえるアリストラムの声と。
(ゾーイ!)
 あの日、失われた名を呼んでいた、記憶の中の声が。
 遠く。
 狂おしく。
 幾重にも反響し、胸に突き刺さる絶叫となって――

 重なる。 

 ラウは、悲鳴を上げようとした。いっそ全てを振り捨ててしまえたら、どれほど気が楽になったことだろう。だが、現実は容赦なく迫ってくる。
 目の前にうつろな眼のミシアが立ちつくしていた。なにひとつまとわぬ姿を銀の光に晒し、ふるめかしくも壊れた笑みを浮かべて。
 銀色に濡れたくちびるが、わなないている。
 愕然とするラウを、何も映し出さない空虚な眼で見下ろしながら、笑っている。
 ふいにミシアの眼に涙の粒が盛り上がった。みるみる大きくふくらんでゆく。きらめく滴が頬にこぼれおちた。
「ごめ……んなさいラウ……さま……」
 喘ぐ吐息が、ふいに息詰まり、跳ね上がった、次の瞬間。
 魔妖の刻印が銀の光を帯びて異様なかたちに膨張し、割れて、おぞましい肉の花弁となって花開いた。ミシアの背に押し当てられたレオニスの掌が、灼熱の光を解き放つ。
 反動でミシアの身体は半ば宙に浮き上がり、折れそうなほど反り返った。
 絶叫が噴出する。
「……ラウ……逃げなさ……!」
 アリストラムの悲鳴めいた呻きが、意識の彼方にかき消され――
 世界が銀色に染め抜かれていった。聖なる侵蝕に存在がかき消される。
 光の真正面にいたラウは、半ば消し炭になりかけながら吹っ飛んだ。
 全身が炎に包まれ、焼けついてゆく。ラウはもんどり打った。地面に叩きつけられる。
 ミシアの後背から同心円状の波紋となって広がった光は、一瞬、羽ばたき下ろす光の翼のように巨大に吹き流され、横一線の残光となって吸い込まれた。ふっ、と消える。
「この獣は、何だ」
 レオニスの嘲笑に満ちた声が降りかかる。
 手足が無様に痙攣していた。
 全身を青白い火花の投網が覆っている。もし封印の首輪をしていなければ――同じ聖銀の力で包み込んでいたアリストラムの首輪がなければ――あのときのゾーイと同じように、何もかも消されていたに違いなかった。
 だが、たとえ今、死ななかったとしても結末は同じだ。身動き一つ取れない。意識がもうろうとなってゆく。
 レオニスはラウの顔をゆっくりと踏みにじった。喉元に十文字槍を差しつけ、冷淡に口を開く。
「なるほど、魔力封印の首輪か」
 首輪につけられた銀の錠前を穂先でもてあそんでいる。
 ラウは身をよじろうとし、あらがえず、悲痛にもがいた。
 全身から、ぼろぼろと命が剥がれ落ちてゆく。
 アリストラムが駆け寄ってこようとする。
「ラウ……!」
 その身体を、レオニスは振り返りもせずに十文字槍の石突きで強引に突いた。アリストラムは身を折り、くずおれた。
 ラウは、うすれてゆく視界にアリストラムのぼんやりとした銀の影をみとめ、弱々しく身震いした。
 喉の奥で低く唸り、物狂おしい半泣きの鼻声をあげて、差し伸べられたアリストラムの手にすがろうとする。
「ご……めん……」
 枯れ枝を引きむしったような声が漏れた。身体が、けいれんする。涙と苦痛で、眼が白くかすんだ。頭の中が激痛にゆがむ。
「ごめんなさい……あたしのせいで……アリスまで……」
 焼けこげた血の味がこみ上げる。
 人の言葉にしてしゃべっているつもりが、鼻に詰まった哀れな捨て犬の鳴き声にしかならない。
 涙が滲む。ようやく気が付いたのだった。自分が犯したあやまちのせいでアリストラムまで窮地に追い込んでしまったことに。
 だが、遅かった。レオニスは、冷酷に笑って槍を突き下ろした。銀の鍵は軽い音を立てて割れた。
 魔力を押さえ込んでいた封印が壊れた。
 人に、仇をなしてはならない。
 人を、傷つけてはならない。
 言霊の琴線が引き剥がされ、銀の弦音を立てながらばらばらにちぎられてゆく。
 聖銀の首輪は、魔妖の力を失わせるためのもの。もし、妖気を抑制する首輪を外せば、今まで押さえ込んでいたぶん、その反動で人の姿を、理性を保てなくなる――
「あ、あ……いやだ……!」
 ラウは悲痛にしゃがれた遠吠えを漏らした。だがそれはもう、人の喉が発する音域ではなかった。
 自分が、引き裂かれてゆく。
 めきめきと音を立てて元の魔狼のかたちへと変形してゆく。ラウは身体が急激に変わってゆく苦痛に身悶え、悲鳴を上げてのたうった。
 幼かった身体が妖艶な狼のそれを思わせる体躯へと変わり、耳や尻尾だけでなく、今まで何も生えていなかったところにまで、うっすらと獣毛が生えだしてゆく。
 何もかもが、ちぎれそうだった。
「さてと。聞かせてもらおうか」
 消えようとする意識の上を、つめたい嘲弄が吹き過ぎてゆく。だが、その声すらもう、おそろしく遠くにしか聞こえない。
「聖神官アリストラム。この不始末、どう片を付ける……?」
 アリストラムは一瞬、かたく眼を閉じ、血の滲んだくちびるを噛みしめた。
「必ず、貴女を守ります」
 みるみるそのまとう気配に、ふいと温度を奪うかのような闇の氷霧を吹き混じらせてゆきながらうめく。
 つめたい旋風が白くその姿を取り巻いてゆく。
「逃げるのか、堕教者アリストラム」
 レオニスが怒鳴った。
 殺意をまとったレオニスの槍が、アリストラムごと、ラウを貫こうとした――瞬間。
 白い幻影が、吹雪のようにざあっと音を立てて四散する。
 白銀の髪が氷を含んだ突風に吹きあおられて強く激しくたなびく。
「くっ……!」
 みぞれを含んだ突風に眼を突かれ、レオニスは仰け反った。手で顔をかばいながらよろめき、かろうじて踏みとどまる。
 残された白い影だけが、ぼんやりと白くたなびいている。槍の穂先は、むなしく空を切って深々と地面に突き立っていた。
「ちっ」
 レオニスは舌打ちして槍を地面から引き抜いた。狂ったような息を肩に弾ませていたのを苦々しく抑え、かろうじて居住まいを正す。
「逃げられたか。まあ、いい。囮が残っている」
 超然とした態度を装って吐き捨てる。
 全裸のミシアが胸の刻印を隠すでもなく突っ立っていた。レオニスは改めて上から下まで、値踏みするような眼でミシアの裸身を見回すと、その顎をつかんだ。
 ぐいと乱暴に持ち上げる。
「お前は、俺の木偶人形《デコイ》だ」
 ミシアは何の抑揚もない声で繰り返した。
「はい……わたくしはレオニスさまの……人形です」
 胸に刻まれた魔妖の刻印が、どくり、と、なまめかしく光り出した。花片のように張り裂けた心の疵痕から、道化の涙めいたしずくがしたたりあふれて、淫靡に胸を汚す。
「欠落者ならば、奴隷にされて当然だな」
「……はい……わたくしは……」
 ミシアは情緒の欠けたうつろな眼で、言われたとおりに続ける。
「レオニスさまの奴隷です」
 レオニスはミシアの乳房に開いた罪の花芽を見やり、侮蔑の笑みを浮かべた。
「では、その証として今、神にすべてを捧げろ」


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