4 きっと、もう。この言葉は――届かない

 刻印の光が脈打った。隷属の名がアリストラムの心臓の上から首筋にいたるまでくろぐろとうねるようにして浮かび上がってゆく。
 アリストラムは息苦しく喘ぎ、残る力を振り絞ってラウの上半身を抱き起こした。
 力なくぐらぐらと揺れるラウの頭を胸に引き寄せ、かき抱いて、ラウのくちびるを自らの首筋に浮かび上がった堕天の刻印へと押し当てさせる。
 ラウの身体が震えた。
「分かるでしょう、ラウ……これが何なのか」
 ラウは無意識に喘ぎ、舌を出して、アリストラムの首筋に散る血を舐めた。
 呼吸が荒く、うねり始める。
「刻印です」
 アリストラムはもがくラウの唇に指の先を差し入れてこじあけさせた。ラウは、意識すらないのにも関わらず、いやいやと涙ながらに抗っている。
 牙が、白く光っている。
「だめ……」
 涙がこぼれ落ちる。
 抗いながらも、ラウは、アリストラムの肌の匂いを嗅ぎ、血の色に浮かび上がった刻印を舐めた。
 また、舐める。
「や、やだ……やだ……ありす……イヤ……!」
 吐息が悲痛に乱れた。
 構わずに、アリストラムはラウを強く抱き寄せた。
「貴女に、永久の忠誠を」
 狼の白い牙が刻印に押し当てられる。
 ラウは無意識に喘ぎ、うめき、抗いながらもアリストラムの首筋に歯を立てた。するどく尖った犬歯が刻印に食い込む。
「そう……それでいいのです」
 アリストラムはラウに身を任せようとしながら、力なく微笑んだ。
「私の命を――貴女に捧げる。だから」
 ともすれば逃げてゆこうとするラウの頭を、半ば強引に自らの首へと押し当てさせる。
 刻印の光がゆらめき立った。翡翠色の光がラウの涙を照らし出す。
「いや……イヤだ……アリス……!」
「私の命を、使いなさい」
「やだ……!」
 もがくラウの喉から、悲痛な声がもれた。
 妖美な翡翠の光が、暗い洞窟の天井を照らし出していた。したたり落ちる漏水の滴の音が甲高く跳ね返り、いんいんと響いて。
「ぁ……」
 ラウは理性のない眼をうつろに開け、刻印のゆらめく光を見つめた。
 光っている。
 誘っている。
 この、光は――

 血の匂いを、これほどかぐわしいと思ったのは、初めてだった。
 いのちの匂い。
 力の、匂いだった。

 欲しい。
 この光が、欲しい。

 ふいに、心のどこかが、びくりと針で突き刺されたように痛んだ。
 だめだ。この光を食らってはいけない――

 どうして?
 いとけない笑みを浮かべた過去の自分が、小首をかしげている。
 くすくす笑っている。
 だって、おいしそーだよ? これは、食べてもいーんだよ? 
 ――だめだよ。ダメ、だって……
 どうして?
 翡翠の眼がひそやかな狡猾の色にきらめく。
 だって、”アリス”が、”良い”って言ったんだもん。いいに決まってるじゃん? あたしは、食べるよ? だって。食べないと――

 こぼれる血のしずくを口の端で受け止め、熱に色あせ、黒ずんだ唇をアリストラムの首筋に強く押し当てる。あふれる赤い色を、ラウは、舌を出して舐め取った。異様な熱を帯びた喘ぎが、アリストラムの肌に這う。
 眼に映り込んだ銀色の髪が、かろうじて理性の光を反射させる。ラウはアリストラムの身体に顔を埋め、喉の奥をかなしげにふるわせて吠えた。くちびるを舐め、アリストラムの血を舐め、刻印にくちづけて、命をすする。
 尻尾を振りながらもこみ上げる獣欲を持てあまし、喘ぐ。
 ラウはアリストラムにのしかかった。とがった爪の生えた前肢をかけ、うっすらと狼の柔毛に覆われた胸を蜜袋のように振り散らして、刻印に牙を立て、あふれる血を口に含み、舌を転がし、舐める。
 生気が吸い出されてゆく。
 血の味が、狼の本能を呼び覚ましてゆく。
 すすればすするほど、くちづければくちづけるほど、求めれば求めるほど、命があふれ出てくる。
 今まで口うつしに吹き入れられてきた銀の吐息とは比べものにならない魔力そのものの源流が、人間の生気が、魂そのものの甘美な刻印の味が、妖艶な光となってラウを照らし出した。
 ラウは血の誘惑に耐えきれず、獣の本性を剥き出しにしてアリストラムの身体をむさぼった。
 刻印から流れ出してくる”命”を。
 啜り尽くす。
 どれほど、そうしていたのか。
 ラウは、ようやくアリストラムの刻印からくちびるを離した。
「……アリス……」
 ラウの声に、アリストラムはかすんだ眼を開けた。
 手を伸ばし、そっとラウの頬に触れる。
 濡れた髪をゆっくりと撫で、梳くように指を差し入れて、やわらかくとがった狼の耳を愛撫してくれる。
 ラウはしばらくぼうっとアリストラムの手すさびに身をあずけ、また、うつらうつらとしかけて、ふと眼を瞬かせた。
「アリス?」
 断片的な記憶が戻ってくる。
 ずっと、耳元で、誰かが悲痛に泣いていた。
 抱きしめられていた。
 でも、その優しさが、なぜか。

 憎くてたまらなかった――

 アリストラムの手は、相変わらず一定の優しさを保ったまま、そろりと肌をまさぐっている。
 何も、言ってはくれない。
 怖いぐらいに静まり返っている。
「ねえ、どうして……黙ってるの……?」
 ふと、岩を打つ水滴の音が響き渡った。まるで溶け落ちた瞬間、滴が凍りついたかのようだった。水の跳ねる、するどい音が耳を突き刺す。
 それ以外には何の音もしない。狂気にも似た水の音だけが、永遠に。
 ふいに、その静けさすらもが恐ろしくなった。先ほどまであれほど猛り狂っていた飢餓感が、今はまったく感じられなくなっている。それどころか、全身に銀の炎を浴びた痕跡も、痛みも、何一つとして残っていなかった。ラウは愕然と自分の手を見下ろし、明らかな変化に気付いて眼を押し開いた。
 見慣れた大きさの、やわらかな子供の手では、ない。
 それどころか拳の背にうっすらと獣の毛が生えていた。あわてて掌を返す。血に汚れた漆黒の爪が見えた。思わず悲鳴を上げそうになる。
「な、何、何で爪が……!」
 まだろくに爪も牙も生えそろっていない、むくむくした子犬みたいな幸せに包まれていたあのころ。
 こんな手で、ゾーイはラウの頭をいつも撫でてくれた。妖艶な翡翠の眼を愛おしそうにほそめ、獲物を引き裂いたばかりの熱い血に濡れた爪で、喉を、こう、くすぐるようにころころと撫でさすって。いつも、ねだるとその血を舐めさせてくれた。
 身体中から甘ったるい血の匂いをさせていた。優しくて残忍なゾーイ。
 人の世界とは共存できなかったゾーイ。
 その手と同じように、血に濡れた――自分の手。
 ラウは思わずぶるぶると震え上がった。他にどうしたらいいか分からず、アリストラムにすがりつこうとする。
「あ、ありす、ねえっ、これ、ど、ど、どうしたらいいの……って、う、うわあっ!?」
 視界を一瞬とんでもない重みが遮った。胸が熟れた果物のように揺れている。まるで水の入ったたぷたぷの袋をふたつも首からぶら下げたみたいだった。ラウは自分の身体にくっついている、見たこともない丸い柔らかなかたまりに仰天した。
「な、何これ、重っ……!? え、やだ、うそ、これあたしのじゃないって、どうなってんのこの邪魔なおっぱいみたいなの……って、おっぱい!? う、うわ、うああんどうしよ胸が腫れちゃってる、やだ、何これ、困るって……」
 アリストラムのひくい笑いが聞こえた。
「本当に……似ていますね……あの人と……見分けがつかない……ぐらいに」
「え」
 ラウはぎくりとした。何が何だか分からないまま、自分の手を右、左と見比べ、あたふたと隠しごまかそうとして、ようやく我に返る。
 いつも神経質なほど身だしなみに気を遣っていたアリストラムが、ありえないほどぞっとする姿で――泥に汚れ、血にまみれ、半ば命を放棄したかのような有り様で横たわっている。
「アリス!」
 ラウはアリストラムにしがみついた。
「何、何があったの、ねえ、誰がこんな」
 叫びかけて、ラウは絶句した。
 アリストラムの首に浮かび上がった血の刻印に目を奪われる。
 誰がいつ刻んだのか。
 くろぐろとうねる蛇のような刻印の影が、アリストラムの首筋から心臓の上あたりに至るまで、黴の根のように這い回っている。
「何これ、どうして……何で、ミシアと同じ刻印が?」
 ラウの声に気付いたのか。アリストラムは闇に蝕まれた吐息をもらした。
 ふっ、と気配が変わる。幽鬼のような手が伸びて、そろそろと頬を撫でた。まるで骨だけの手に触れられているかのようだった。
「アリス?」
 アリストラムは、ふいに全てを吐き出すかのような苦い息をもらした。うつろに欠けた笑みを作って口の端に浮かべる。
「こちらへ、来てください」
 ラウの首に手を回し、引き寄せる。罪の吐息がつめたく吹きかかった。毒に犯されたような匂いが立ちこめる。
「逢いたかった」
 ぞっとする喜色まじりの声が忍び入る。ラウはびくりと身体をふるわせた。何か、おかしい――
 アリストラムはゆがんだ笑みをラウに近づけ、くちびるを押し当てた。
「……本当に……逢いたかった……」
 何度も執拗に同じ言葉を繰り返す。
 餓えたような深いくちづけがからみついた。青白く痩け落ちた顔がなおいっそうやつれ、病んで見える。
「な、何……してるの……アリス……ぁっ……やだ……」
「動かないで」
 アリストラムの眼はもうラウを見てはいなかった。
「そんなとこ……触らな……いで……ぅううん、や、やだ……アリス何……す……!」
 熱く上気し、息をつくたび苦しくも上下する胸を、アリストラムの手が包み込むようにしてゆるゆると揉みあげる。
 身体中が、波に揺られるかのようだった。
「ふ……ぁ……!」
 罪深く、柔らかく揺れる乳房を、優しくも強引に揉みしだかれながら。
 ぴくん、と、ふるえて。
 つん、と腫れたように過敏になった、胸の先の尖りを。
 乳首を。
 指の先で、こり、っ……と押し回される。
「ぁっ……!」
 反射的に、身体がのけぞる。
 反応、してしまう。
 触れるか、触れないか。ほんの少し、つつかれただけのような、そんな力の入れ方なのに。
 たったそれだけの、ことを。
 こんなにも、感じて……しまって……ぁ……あっ……


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