4 きっと、もう。この言葉は――届かない

 違う。
 ゾーイは。
 ”ほかのおんな”なんかじゃない。
 たった一人の、ラウの、家族。
 その家族《ゾーイ》の記憶を、アリストラムから奪いたくない。忘れて欲しくない。忘れさせたくない。
 でも。
 今のアリストラムは、ゾーイの刻印に支配されて、ゾーイのことしか、頭になくて。
 ラウのことなんか見てもいなくて。
 たぶん、きっと、
 本当は、えっちしたくて
 してるわけじゃない――

 ”刻印に、命令されて”。
 
 ラウは悲鳴を上げた。
 そんなの、イヤ……!
 アリストラムを縛り付けたいと思う自分がイヤ、自分のことを見てくれないアリストラムがイヤ、イヤだと分かっているのに無理矢理――アリストラムの身体に溺れる自分が一番イヤ……!

 身体は快楽にあえいで。
 悶えているのに。
 心が。
 ずき、ずき、と痛い。
 アリストラムは、ラウの向こうにいるゾーイを見ている。ゾーイを抱いている。
 どんなにもがき、足掻いても。
 どんなに、叫んでも。
 身体は一つにつながっているのに。
 声さえ、届かない。

 だいすき。
 アリスが、すき。
 なのに。
 どうして、こんなに。

 苦しいの……?

 ふいに。
「ラウ」
 茫然と離された唇と唇の間に、とろりと淫猥な糸がつたい落ちた。
「あ……ありしゅ……」
 ラウはぐったりとアリストラムの腕に倒れ込んだ。
 喘ぐ息が上気しきってみだれにみだれ、熱く肌を濡らす。
 アリストラムは凍り付いたように抗わなかった。
「私は、何を」
「……アリス……」
 ラウはあえぎながら泣き、力なく笑って、アリストラムの腕に身体を押し付けた。精液にまみれた顔を伏せ、ぐったりと力を失う。
「もっと……」
 弱々しく尻尾を振って、とがった耳をアリストラムの胸にこすりつけながら、鼻の詰まったようなちいさな鳴き声をあげる。
「ラウ……」
 アリストラムが呻く。
 ラウは、ふいにこみ上げてきた嗚咽を噛み殺そうとして、ぶるぶるとかぶりを振った。
 だが止まらない。
 ラウは呻き声をあげ、叶わずにアリストラムの胸に顔を埋めた。
「ご、ごめんなさい、アリス、あたしがわるいの……あ、あたしが……アリスに……して欲しいって……思っちゃったの……いやなこと、させるつもりじゃなかったの……!」
 アリストラムは茫然とラウを見下ろした。息をつき、自らの肌に浮かび上がった罪のしるしへと視線を移す。
「刻印を使えば、こうなると――分かっていた」
 みるみる剥がれ、崩れ落ちてゆく孤独の光。
「貴女を、私の欲望で、汚し――」
 ラウはアリストラムの首にかじりついた。腕を回して抱きしめ、顔を埋めてぶるぶるかぶりを振り、声を殺してすがりつく。
「違うってばアリス、あたしなの。あたしが、したの。アリスのせいじゃ……!」
「分かっていて、貴女を、危険にさらした」
「アリスはわるくないよ……だ、だって……助けてくれたんでしょ。あたし覚えてるもん。アリスが助けてくれなきゃあたし死んでた! ……ね、ねえ、そうでしょ……」
「ずっと……貴女が、変わらなければいいと思っていた……変わると、いつかは、貴女も大人になると――分かっていたのに」
 アリストラムの手がラウを押しやろうとする。
「やだ、そんなの、やだ……!」
 ラウはすべてに抗って呻き泣いた。

 ――知られたくなかった。

 何もかもが変わってしまったことを、もう、元の自分ではないことを。
 悟られたくなかった。
 昨日までは、どんなに手を伸ばしてもアリストラムの身長に届かなかった。一度、ぶらあんと首根っこを掴まれてしまえば、どんなにじたばた暴れても地面に足が着かなかった。アリストラムが作った美味しい料理をお腹ぱんぱんになるまで食べられればそれで幸せだった。一緒に寝て、一緒に起きて。あれこれ口うるさく叱られながらも、良い子だ、よしよしと微笑まれ撫でられたら、もう逆らえなかった。
 良いようにあしらわれっぱなしの、ちっちゃな、可愛い、何も知らないこどもの狼。
 ずっとそのままでいられたら、むしろどんなにか幸せだっただろう。束縛と隷属の首輪を付けられて、妖気を押さえつけられて。何も知らずに、馬鹿みたいにぱたぱたと尻尾を振って。きゅんきゅん鳴いて、舌を出して、でれでれとなついて。
 飼われていたことに気付かずにいた。
 優しい仮面で冷酷な支配者の顔を隠す人間に、犬みたいに、手なずけられていた――
「違うってば……!」
 ラウは自分の中から噴き上がってくる叛旗の思いを必死に否定しながらアリストラムにしがみつき続けた。
「違うって言ってよ……ぜんぜん分かんない、アリスが何言ってんのか全然……ぜんぜん分かんない……!」
「ラウ」
 ゆるやかに近づく、黒蓮の香り。
 悲痛な思いで張り裂けそうだったラウの背中に、ひた、と冷たい掌が押しあてられた。
「私は、ゾーイと」
「やだっ!」
 濡れた銀の髪が、異様な冷たさで貼り付いてくる。ラウはとっさに喘ぎ、耳を塞いで呻いた。
「いやだ、やだっ、聞きたくない!」
 アリストラムは黙り込んだ。
 ラウは、なぜかひどくいやな寒気を感じてアリストラムを見返した。刻印のゆらめきが黒い影となって、アリストラムの半身を闇へと塗り込めている。
「アリス……?」
 おずおずと、訊ねる。
「言うなと言うなら、もう、言いませんよ」
 自嘲気味の声が吐き捨てられる。アリストラムは顔をそむけ、ふいにそっけなく笑った。
「もう、貴女には逆らえないのだから」
 アリストラムは眉をひそめて自身のこめかみを指先で押さえた。整った顔立ちがかすかな痛みにゆがむ。
 ラウははっと胸を衝かれて口ごもった。何を言えばいいのか分からない。うつむいて、また顔を上げる。アリストラムの胸から首筋にかけて、仄暗い翡翠の色に浮かび上がる刻印は、ミシアの胸にあった刻印とほとんど同じ。
 もちろん完全に同じではない。ミシアの刻印はキイスと読めた。だがアリストラムのそれは――
 ラウの視線に気付いたのか、アリストラムは自らの肩へと視線を落とし、刻印の光へと軽侮の目線をやってため息をついた。そっと腕を持ち上げ、ラウの頬に指を滑らせて、髪へと細い指先を差し入れる。
「痛いところはありませんか。火傷の具合は」
 聞かれてラウはおずおずと首を振った。
「分かんない」
「そうですか。やはり魔妖は回復力が人間とは違いますね。無事で良かった」
 とりつくろった柔和なまなざしで四方を見渡す。岩剥き出しの洞窟は暗く、ひんやりと冷たい。濡れた肌にざらりと鳥肌が立っていた。
「火を起こしたほうがよさそうですね」
「……うん」
 アリストラムは指を鳴らした。何もない空間にぽつんと白い火が漂い始める。結界に丸く閉じこめられた火は、しゃぼん玉のようにふわふわと漂いながら中空に留まって四方を照らした。結界の鏡面に曲げられた光が散らばって、洞窟の壁面を淡い虹色に染め上げている。
「この程度ではあまり暖まる気もしませんが、でも決して直接触らないようにしてくださいね。結界で包んではいますが聖銀の火ですから、油断して触るとまた聖傷を負います」
「うん、気をつける……」
 ラウは居たたまれない気持ちでうつむいた。自分が傷を負えば、きっとアリストラムはまた自らの魔力をラウの回復のために注ぎ込もうとするだろう。たとえラウが拒んでも、だ。
 ゆらめく白い火影に、アリストラムが全身に負った凄惨な爪傷が浮かび上がって見えた。くちびるを噛み切ったのか、唇もまた赤黒く腫れている。ラウは痛ましい傷から眼をそらし、丸く燃える銀の火を見つめた。すっ、と息を吸い込む。銀の火のしゃぼん玉がラウの息に引き寄せられ、ふわふわと動き出す。
 暖かかった。湿った空気を通して、じわりと暖かみが滲み込んでくる。ラウは尻尾をちいさく振り、ひざを抱えて眼を閉じた。
「ありがと、アリス。すごく……暖かいよ」
「それは良かった」
 アリストラムは言いながら汚れた聖神官のコートを羽織った。
「とはいえ、たぶん、貴女には本当の火のほうがいいでしょう。何か燃やせるものを探してきます」
 アリストラムは立ち上がろうとした。
 ラウはアリストラムの動きを眼で追いながら思わず声を上げた。
「どっか行っちゃうの……?」
「乾いた薪を探しに行ってきます。どうせ山の中ですし、すぐに拾って戻ってきますよ」
「……いいよ、そんな無理に薪なんか拾いに行かなくても」
「大丈夫です、すぐに戻ります。それに、きっと、貴女のことですから、お腹も空いているでしょう? キャンプした河原に戻って何か柔らかいおやつでも探してきます」
 ラウはアリストラムの手を掴んだ。
「い、いいってば。座ってて。何もいらないから」
 アリストラムは困ったように小首を傾げた。
「でも、それでは体力がつかないでしょう」
「お、お腹なんて空いてないから!」
 言った端から、ぐぅぅぅぅぅぅぅ……、とお腹が鳴る。ラウは顔を赤くした。
 どう言えばアリストラムがどこにも行かずこのまま足を止めてくれるのか、他に何かうまい言い方があればともどかしく思いつつじたばたして、結局、何と言えばいいのか分からず、思った通りのことを口走る。
「い、いいからここにいて。アリスと一緒にいたいの。傍に……いてほしいの」


>次のページ

<前のページ
もくじTOP