4 きっと、もう。この言葉は――届かない

 全てのわだかまりを吐露し、すっぱりと気が済んだのか。思いなしかアリストラムの口調は軽い。それどころかいつも以上にくだけて、皮肉な笑いすらまぶされているように思えた。
「さて、と。そろそろ、この後どうするかを考えなくてはなりませんね」
 アリストラムは他人事のようにつぶやいた。ラウは言葉もない。ただ、時間だけが呆然と過ぎてゆく。
「いつまでもこんな暗い狭い怖い洞窟の中にいては、身体中に黴が生えてしまいます」
 理知的な声が、うつろな山びこのように頭の上を通り抜ける。
 だが、完璧な平静さを保ってみせていること、それ自体が、決して”弱み”を見せまいとする虚勢であるかのように思えた。
 背筋が痛いほど緊張して、身体がこわばる。
 いつもみたいに、尻尾をばたばた振って、言葉にできない気持ちを全身で伝えたいのに。
 どうしてか、普段はまるっきし空気を読めない尻尾までが、針金のようにごわごわになって、おびえたふうに丸まってしまって、びくとも動かない。
 うつむくラウの様子に、怖じ気づく表情を見て取ったのか。
 アリストラムは息をつき、かるくラウの頬に指先を触れた。
 ラウは、ぴくん、と背中をふるわせた。
「そんなに、怯えないでください」
「別に……怖がってなんか」
「いつもの貴女らしくありませんよ」
 ラウはアリストラムを見上げた。
 いつもの優しいアリストラムがそこにいる。
 アリストラムはふっと笑った。
「笑ってください」
「うん……」
「ほら、立って」
「う、うん」
 手を差し伸べられる。
 ラウは、アリストラムの手を取ろうとした。
 だが、眼に映ったのは、見慣れた自分の手ではなく、血に濡れた、尖った爪を持つ狼の手だった。
 自分で自分に怯え、手を引っ込める。
 だが、逃げるラウの手を、アリストラムはやや強引に掴んで引き止めた。
「いいから立って」
 ぐいと引っ張られる。思いも寄らない力だった。
 ラウは、引き寄せられるがままに、立ち上がった。
 視点が高い。
 まるで、椅子の上に立って並んだかのようだった。アリストラムと普通に背比べできそうだ。
 眩暈がしそうになる。
 封印の首輪をはめていた先日までは、子犬みたいにちっちゃくて、身体も子どもそのもので、どんなに背伸びしても、アリストラムの胸に手を届かせるのが精一杯だったというのに。
 なのに、今は。
 いつの間にこんなに背が伸びたのだろう。
 アリストラムの顔が、びっくりするほど近くに感じられる。
 あまりの近さに、ラウはまごまごした。
「おやおや。随分と背が高くなりましたね」
 アリストラムは驚いたように眼を見ひらいた。
 ラウの頭を撫で、とがった耳に触れた。
 優しげに、また、ふっと笑う。
「あ、あたしが、オトナになっちゃった……から?」
 ラウは困惑を押し隠せずにおろおろと口走った。
 ほんのちょっと身じろぎするだけで、胸が、びっくりするぐらい揺れて、重たくて。
 そんなふうになってしまった身体が、またひどく恥ずかしい。
「いいのですよ。隠さなくても」
「でっ……でも……」
 ラウは顔を真っ赤にし、手で胸を隠した。
「……おっぱいが……大っきくなりすぎてて……恥ずかしいんだもん……」
「私と同じですね」
「……意味がよくわかんない」
「……狼が細かいことを気にしてはいけません」
「着替えるから、ちょっと待ってて」
「はい」
「……見ちゃダメ!」
「はいはい」
 アリストラムは笑って眼を閉じる。
 その隙に、ラウは、子どもの時に着ていたシャツに何とか手を通した。ボタンは合わせられない。胸の下で裾を結び、肌の半分を隠すだけでせいいっぱいだ。
 アリストラムは素直に眼を閉じたまま、じっと立っている。
 じろじろ見られているわけではない、と分かっていても、傍にいるだけで恥ずかしい。それこそ穴があったら、ぎゅうぎゅうになるまで入り込んで縮こまりたかった。
「もう、よろしいですか。眼を開けても」
「うん……」
 ラウはおずおずと胸を隠す手を離した。
 アリストラムは穏やかに笑っている。
「ど、どうするの……?」
「外に出ましょう」
 背筋が、ぞくっとする。
「何で? しばらくの間、隠れてたほうがいいんじゃ……」
 冷たい洞窟の風が吹きすぎていったような気がした。
「駄目です」
 ラウは、準備を続けるアリストラムをおどおどと上目遣いに見上げる。
「どうして? レオニスがどっか行っちゃうまでここにいようよ……」
 もし、また、レオニスに追われたら、今度こそ取り返しの付かないようなことが起きる気がする。
 そんなことになったら。
「いいえ、駄目です。貴女はレオニスにさらわれたミシアのことが心配ではないのですか」
 だがアリストラムの表情は厳しいままだった。
「そ、それは、そうだけど……でも」
 レオニスに冒涜されたミシアの姿を思い出してラウはぶるっと身体を震わせた。
 嫌な予感がこみ上げる。
「ミシアを見捨てるわけにはゆきません」
 ラウの考えていることを見透かしたのか。
 アリストラムは闇の一点を凝視しながら、血の付いたコートの襟を立てた。
 外していた手袋をはめ直し、眉間に皺を寄せて、陰鬱につぶやく。
「レオニスは危険な男です。何を考えているか分からない」
 準備をとりあえず終えるとアリストラムはラウを促して歩き始めた。
「足元に気をつけてください」
「うん」
 先ほど出した球状の炎がゆらゆらと周辺の闇を反射しながら先導してゆく。ラウはアリストラムの背を見上げながら、段差のある冷たい岩場をゆっくりと裸足で歩いた。
 折れ曲がった狭隘な裂け目を抜けると、外の光が見えた。
 ラウは眼をしばたたかせた。
 陽の光が、なぜか痛いほどまぶしい。
「でも、一応、仲間なんでしょ、同じ聖銀の」
「……」
「違うの……?」
 かぼそい声でさらに問いただす。
 アリストラムは振り返らなかった。黙々とただひたすら進み続けている。
「ねえ、アリス」
 ラウはアリストラムの背に声を掛けた。
 洞窟の出口を前に、アリストラムは立ち止まる。
 その背中にすがりつくようにして、ラウはそっとアリストラムに身体を寄せた。
 声もなく、アリストラムの背に、自分のおでこを、ぎゅ、と押し付ける。
 言葉にはできなくても、こみ上げてくる思いの全てを、アリストラムに伝えたい。

 アリスのことが、すき。

 でも、きっと、もう。
 この言葉は――届かない。

「外に出る前に、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか」
 アリストラムは動かなかった。
 ラウは、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「ゾーイは……アリスのこと、好きって言ってた?」
 自分で言い出したことなのに、言うだけで、胸の奥がつんとくるようなちいさな痛みがさざめき乱れる。
 息が苦しかった。
「いいえ。残念ながら、一度も、言葉にしてはいただけませんでした」
 アリストラムは苦笑いしてかぶりを振る。
「じゃあ、アリスは? 本当に、ゾーイのことが、好きだったの……?」
 アリストラムは振り返った。
 一瞬、その薄氷のように透き通った微笑みが逆光にさえぎられて、黒くかき消される。
「ええ」
 銀色の髪が、外の光にきらめいている。
「誰よりも、愛していました。今でも」
 まぶしすぎて、くらくらと目が眩んで。
 何も見えないぐらいに、光が強くなって。
 呑み込まれそうになる。

 もう、ゾーイは、どこにもいないのに。
 誰よりも、愛してる、だなんて。

 アリストラムは、優しくラウを押しやった。
 きびすを返す。
「最初から、全部分かっていました。貴女がゾーイの妹だと言うことは――一目見て、すぐに気付いていました。何も知らぬ貴女を、今まで、ずっと、騙し続けていました。いつか、貴女もゾーイのようになると分かっていたから。もしそうなれば……人に危険を及ぼすだろうと……いいえ、そうではない。もう、二度と逢えない……この世にいないゾーイの”代わり”に、貴女を、私のものにしたかった。そんな残酷なこと、決してしてはいけない、と分かっていたのに、どうしても自分の気持ちを抑えることができなかった」

 ラウは、呆然とアリストラムの話を聞いていた。
 頬を濡らすつめたい水は、きっと、ただの、地下水のしずくだ。
 喉の奥からこみ上げる熱いうめきは、きっと、ただの、疲れた笑い。

 泣きたいのに。
 怒りたいのに。
 声もあげられない。怒鳴ることもできなかった。
 こんなにも、アリストラムのことが好きなのに。
 思いを――言葉にして伝えることも、できない。

「だからもう、いつだって、好きなときに私を殺してくれてかまいません」
 感情の欠けた声が、青空の下へと広がっていった。


>次のページ

<前のページ
もくじTOP
【ネット小説ランキング>狼と神官と銀のカギ】に投票
▲おもしろかったら押してください!作者の励みになります。