5 それが、真実

 ざわりと夜が、うねる。風すら息を呑むかのような静寂が訪れた。
「やれやれ」
 ひそやかな視線がテントを射貫いている。アリストラムは読んでいた本から眼を上げた。
 仕掛けておいた結界の罠が、こともなげに壊され、踏みつぶされている。
 ざくり。足音が聞こえる。
「せっかくゆっくり本が読めると思っていたのに、とんだ賓客ですね」
 苦々しくつぶやいて本にしおり代わりの押し葉を挟み、かろやかな音を立てて閉じる。灯りが揺れた。
 アリストラムは身体をあずけていた椅子から起きあがった。聖神官のコートに腕を通し、一瞬けわしい顔で首に掛けた護符の感触を確かめてから、銀の杖を手にテントを歩み出る。
 おもむろに周囲を見回して杖を突き鳴らす。鈴の音が闇を払った。
 アリストラムは指を鳴らした。
 結界にまるく押し込められた小さな火が生まれる。ガラスのきらめきを放ちながら、火は、交差する周回楕円軌道を描いて回り始めた。
 空気の臭いが変わった。風もない森に、ねっとりと獣脂の臭いが澱んでいる。
 アリストラムは乾いた紫紅の瞳をほそめ、深い闇を見やった。
「……相手をお間違えでは」
「聖銀《アージェン》は殺す」
 獰猛な唸り声が反響する。アリストラムは用心深く口元を引き締めた。その目にはもう、戯れひとつない。
「ずいぶんと物騒な主義で」
「俺は、貴様と”同じ”ことをしているだけだ」
「……残念ながら、身に憶えがありません」
 白い火の照らすあやういゆらめきの境界を踏み越え、漆黒の姿が近づいてくる。
「魔妖と言うだけで殺し歩くを是とする狂信者どもに弁明を許すつもりはない」
 獰猛な黒狼から人に近い姿へと変化しながら、魔妖が現れる。ひそやかに、なめらかに、舌なめずるようにして歩み寄る、その動作。
 ざわめきが風に吹きやられた。
 アリストラムは微動だにせず、綽然とした微笑みで応じる。
「貴方は……この間の。”キイス”さんとおっしゃいましたか」
 黒狼の魔妖は足下の草を踏みにじって立ち止まった。喉の奥深くからもれる唸りがぞっとする空気の振動を伝える。
 探るようなまなざしが、アリストラムに突き立てられた。
「ミシアはどこだ」
「……さらわれました」
「返せ」
「我々もレオニスに攻撃されて、おいそれとは手が出せない状態です」
「あの雌犬はお前のものか」
「ラウは、ラウ自身です。誰のものにもならない」
「ミシアは俺のものだ」
 漆黒の瞳が憎悪にくるめいている。
 アリストラムは銀の髪を払った。
「手を引いてください」
 銀の杖が、澄み渡った音をたてた。翼めく光の粒子の尾を引いて揺り動かされる。
「キイス、あなたにも分かっているはずです。これはレオニスの罠です。ミシアは刻印に操られている。刻印から逃れるためには、彼女自身に貴方を殺させるしかない――そんなことをさせれば、ミシアの心には永遠の傷が残るだけです。刻印を受け入れるほど、あなたを愛していたのならば、なおさら」
「言ったはずだ。聖銀は殺す、とな」
 黒狼の魔妖、キイスは残忍な恍惚にほそめた眼をアリストラムへと向けた。
 なめずる視線が、アリストラムの杖から顔へ、そして、刻印の秘め隠された首筋へと伝い走る。
「貴様の刻印を使ってな」
 視線がぴたりとアリストラムの刻印の位置を捉えている。
 アリストラムはくちびるをゆがめた。ゆっくりと手で肩を押さえ、突き出した杖で視線を遮る。
「何の事でしょうか」
 キイスは野性的な黒の蓬髪を風に吹きなびかせた。圧倒的な優位を確信した仕草で笑う。
「思い出させてやろう」
 瞬時に魔狼の姿がかき消える。闇に風がなだれ込んだ。
 アリストラムは一方の手で肩を押さえたまま杖をまばゆく光らせ、結界の銀糸を張り巡らせた。杖の先端からかみそりの刃ほどに細い銀の光糸が空に解き放たれ、放射状の波紋を描いて伝い走る。
「どこだ」
 漆黒の姿が闇に紛れる。アリストラムはキイスを見失い、焦って声をうわずらせた。
 土を蹴立てる足音が左から右へ駆け抜ける。
「そこか」
 アリストラムは銀糸の矢を放った。キイスの痕跡を追った爆発の火柱が続けざまに上がる。一瞬で無数の輪切りにされた大樹が、音を立てて崩れ落ちながら木の葉を降りしきらせる。
「それが聖銀の戦い方か?」
 キイスの嘲笑が響き渡る。遙か頭上から落ちてきた巨大な枝が、凄まじい軋めきをあげながら、視界をふさいだ。
「くっ……!」
 頭上を振り仰ぐ。雲に覆われかけた月が見えた。
「どこを見ている」
 真後ろから声が響く。アリストラムは振り返りざまに杖を振り下ろした。疾風の糸刃で闇が断層と化す。剥がれ落ちる空気が、闇雲な響きがかき鳴らした。森が削ぎ飛ばされる。
「遅いぞ」
 嘲笑の声が間近に迫る。アリストラムはとっさに押さえた手を放して掌に銀の炎を貯め、撫で塗るようにして空へ連射した。一瞬、炎に包まれた黒い影が咆吼が放って空中で身をよじる。
「別に、貴方を狙って撃っているわけではありませんよ」
 アリストラムは杖を振った。ゆらめく銀炎を翼のようにその後背へとまとわせながら、かすれた笑いをあげる。
「これだけ騒ぎを起こせば、ラウも、レオニスも気付くでしょう。いくら貴方でも、三対一で戦うのは」
 ひやりと青白い霧が足元を吹き流れてゆく。
「それはどうかな」
 キイスは弾け飛ぶ銀の火花が落とす影を、薄笑いを浮かべた頬に暗く踊らせた。黒く伸びた爪が、三日月のように鋭くアリストラムの刻印を指し示す。
「……後ろを見ろ、聖銀」
 アリストラムは言われるがままに振り向こうとした自分に、顔をこわばらせた。

 無意識に身体が反応している――

「しまっ……!」
 身体が硬直しきっている。声が続かない。
「杖から手を放せ、聖銀。そして俺が良しと言うまで、”呼吸”するな」
 冷酷な笑いがくつくつと忍び込む。アリストラムは、意に反して開いてゆく手を呆然と見つめた。杖が地面に転がり落ちる。絶望の音が響いた。
「……!」
 声が、出ない。呼吸すら、できなかった。
「なるほど。どうやら刻印の味はそう簡単に忘れられるものではないらしいな」
 ぞっとする笑いが耳元に吹き入れられる。
「あ、あ……!」
 アリストラムは苦痛にうめき、喘ぎ、息を吸おうとして、顔を醜くゆがめた。全身を一直線につらぬく痛みが走る。
 呼吸ができない――
「く……っ!」
「誰が、息をしていいと言った……?」
 残酷な笑いがアリストラムを押し潰してゆく。
「ひざまずけ、聖銀」
 頭が破鐘のように鳴り始める。アリストラムはくずおれるようにして膝をついた。
「馬鹿な……」
 歯を食いしばるアリストラムの視界に、ゆっくりと近づく黒い影が入り込む。
「顔を上げろ」
 逆らえなかった。喉を鷲掴みにされる。
 キイスの爪が食い込んだ。
 傷つき破れた喉から血が吹き出す。
 胸元が、点々と残酷な色に染まってゆく。
 魔妖の眼があやうい喜悦にほそめられた。鬼火のように揺れ動いている。
 アリストラムは苦悶に身をよじらせ、うめく。
「抗っても無駄だ、貴様の刻印は俺がもらう」
 キイスは血に汚れたアリストラムのコートを胸元から引きちぎった。ボタンと金の飾緒がちぎれ飛ぶ。
「……っ!」
 詰まった喉が悲痛にかすれる。
 ゾーイの刻印があらわになった。
 翡翠色の闇がゆらめき立って、キイスの爪にまとわりつく。
 キイスは唇をゆがめて笑った。刻印の放つ冷たい光と陰に視線を落とす。
 刻印に、爪を立てる。
「俺に逆らうな」
 キイスは爪を突き立てたまま、アリストラムの身体を上から下まで一気に引き裂いた。アリストラムは噴き上がる血にのけぞった。身体の下に血の海が広がってゆく。
「倒れるな。誰が声を上げていいと言った」
 貶めながら、さらに、引き裂く。アリストラムはうつろな眼の奥に絶叫めいた光を宿らせ、歯を食いしばった。
「貴様ごときの刻印にどれほどの価値があるかは知らんが」
 血まみれの顔を恍惚の表情にうわずらせ、アリストラムの髪を掴んで引きずり起こす。
 銀の髪が血に汚れる。
 苦悶にゆがむ顔が、みるみるあおざめてゆく。
 キイスは凄惨なまなざしを、足下に広がる血だまりへとくれた。にやりと笑う。
「せいぜい頑張って生き長らえることだ。俺の、魔力供給源としてな」
 けだものめいた舌が、爪の先についた血をぺろり、と舐めずった。

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