6 必ず守る! 必ず、助ける!

 暗闇に吐息が乱れてあふれる。じりじりと燃えくすぶる火が、煙の立ちこめる岩室を赤く照らし出していた。
 岩盤に突き立てられた冒涜の十字から吊られた鎖が足元にとぐろを巻く。わずかに身じろぎするたびに、岩に触れた金属の音が狂おしい悲鳴のように響き渡った。
 つめたい水の音が響く。
 ゆらめき放たれる翡翠の光。罪深い刻印が、足元に、天上に、血迷った影を踊り狂わせる。
 足元を濡らす赤い血のしずくが、また、一滴、一滴としたたって、広がった。
「まだ抗う気か、聖銀」
 残忍な魔妖の手が、銀の髪を鷲づかんで引きずり上げた。強引に上向かせる。血まみれの身体がのけぞった。重なり合う淫靡な影が、濡れた壁を目まぐるしく描き変えてゆく。
 目隠しの黒布を巻かれ、首には鋲の植えられた枷をはめられて。かつてあれほど美しかった白銀の髪も、すきとおる氷のようだった肌も、もう、血と泥に汚れ、酷いほどにぼろぼろだった。
 もがくたびに、逆手に吊られた両手を十字に縛りつける鎖が甲高くはりつめて鳴る。
 目隠しが半分とれる。この期に及んでなお理知の光を失わぬ紫紅の瞳が、ぎらりと光った。
「……生憎だったね」
 喉を震わせるくぐもった自嘲が、残響の余韻を引いて闇に吸い込まれていく。
「たとえ刻印の力を持ってしても……そう簡単に人の心をすべて支配することはできないということだ」
 アリストラムはむち打たれ、半ばつぶれた紫紅の眼をかすめ開けて、弱々しい凄惨な笑みを浮かべて首を振った。
「……たとえ死んでもお前には屈しない」
「それは、どうかな」
 キイスは冷ややかに嗤った。
 漆黒のするどい爪を刻印へと這わせ、そそるようにして沿わせる。翡翠色のあやうい光がのたうった。アリストラムの身体が、びくりと痙攣する。
 爪が刻印を引き裂く。苦悶の呻きがもれた。
「貴様が従わぬというなら、この刻印を貴様の血肉ごと抉りちぎって、新たに穿ち直せば済むことだ」
 爪が、残酷な力を込めて、刻印の宿ったアリストラムの身体を引き裂いてゆく。アリストラムは瀕死の声を引き絞った。
「俺の名に、な」
「……く……!」
 熱を帯びた断末魔の喘ぎがもれる。
 死が間近に見えるほどの痛みを、刻印の快楽にすり替えられ、狂わされてゆく。
「堪えていない振りをしても無駄だ」
 キイスは、さらに深く、アリストラムの身体に傷を付けた。アリストラムは歯を食いしばった。
「逆らえば気がふれるぞ」
「う、あ……ラウ……ラウ……」
「あの狼なら」
 キイスはぞっとする眼でアリストラムを見下ろした。
「死んだ。信じるも信じないも貴様の自由だが、決して叶わぬ望みが、絶望へと朽ちてゆくのもまた、一興というもの」
 冷ややかな笑みが視界を覆い尽くす。
 キイスは、おもむろにアリストラムへとのしかかった。首筋へ牙を突き立てる。皮膚が容易く破れ、法外な血が流れ出した。アリストラムはまた痙攣した。
 血とともに、命が吸い出されてゆく。
「あ、あ……あ……!」
 がくがくと膝がふるえる。聖銀の魔力が霧となって散逸した。凄まじいほどの喪失感に、視線がもう、定まらない。
 魂がみるみるすさんで、剥がれ堕ちてゆく。
 もう、崩壊寸前だった。拷問のように与えられ続ける激痛は、やがて自暴自棄の悦楽となる。意識を奪い去り、理性を砕き、記憶を焼き尽くしてゆく。
 押さえつけられ、屈伏させられ、何度も、何度も、何度も、何度も――精神も、肉体も、すべてを食い荒らされる。
 理性を踏みにじられるたび、自我が、誇りが、崩れ落ちてゆく。
 刻印の支配を欲してしまう。求めてしまう。
 いっそ――狂ってしまえば。
 何もかも投げ捨ててしまえば。
 ただの人形となって。頭蓋の中まで魔妖の狂気でどろどろに満たして、何も分からなくなってしまえば。
 ラウを、捨てて。
 ラウを。
 ラウを。
 半ば悶え狂いながら、堕ちてゆく自我をかきあつめながら、それでもまだ何かの面影にすがって、悲痛なかぶりをふる。
 ラウ――
「強情な」
 魔妖は血にまみれた牙を離した。瞋恚の黒い炎を眼に宿し、聞こえないよう舌打ちする。滴る血が、ねっとりした光を放ってこぼれ落ちる。アリストラムは熱を帯びたため息を漏らしかけた。

(……アリス)
 なぜか、声が聞こえた。
 幻聴だと分かっていた。あるいは幻影、それも魔妖の邪悪な業が見せる悪夢だと。
 遠ざかりかけた意識のどこかで真紅の警鐘が鳴り渡る。
 だが、心が、それをはねつけられなかった。

(アリスうーーー!)
 華やいだ声が駆け寄ってくる。奥に刃を隠し持った、無垢なラウの瞳。
 甘ったるく鼻を鳴らし、くねらせた身体をすり寄せてくる。尻尾も振らずに。
(ねえ、アリス)
 丸い、大きな眼に、欲望がひそんでいる。
(アリスの刻印、あたしにちょうだい)
 逆らえぬ声が胸を刺しつらぬく。
 違う。”これ”はラウじゃない。ラウがそんなこと言うはずが……
 爪の伸びた獣の手が、ゾーイの刻印に傷を付けてゆく。ぬめる血がおぼろに光って狂気の淵にいざなう。だらだらとこぼれ落ちる色。魔妖の手が、罪深い闇に濡れて光る。掴み出される、命。
「……やめろ……」
 刻印が、音を立ててこじ開けられてゆく。
「ラウ……ラウ……!」
 刻印に束縛された身体が、悲痛にこぼれる声とともに、内側から魂を裏切ってゆく。
 あのときと同じように。
 どうしようもなく引きずり込まれてゆく。
 過去の幻影を暴き立てられ、眼前に突きつけられて、抗えぬままに陥ちる。
 誰かの叫びが聞こえる。
 阿鼻叫喚の血飛沫が飛び散る最中、一直線に駆け寄ってこようとする誰かの声。
 だが、誰に対し、何と言っているのかまったく分からなかった。本当のところは見えてさえいなかった。
 それが誰なのかも、その時は。
 銀の火に記憶が溶けてゆく。
 ”奪われた刻印”に、”真実”が、かき消される。
 かぎろいゆらめく涙の彼方に、誰かが立ちつくしている。
 叫んでいる。
 全身血まみれの姿で、足を引きずり、血を吐き、それでも近づいてこようとして、炎の中によろめきくずおれる。
 最後まで誰かの名を呼び続けて。
 その姿を見下していたのは。
 炎につつまれる魔妖の最期を嘲っていたのは

 ――聖銀の装束をまとった酷薄な後ろ姿だった。

(どうして殺したの)
 声が鼓膜を切り裂く。アリストラムはかぶりを振ろうとした。
(何で黙ってたの)
(嘘つき)
(嘘つき)
(裏切り者)
(おまえなんか)
 嘲笑めいた甲高い声が幾重にも反響して耳に突き刺さる。
(死んじゃえばよかったんだ)
 そう。
(死ねばよかった)
 あの日。
(ゾーイを殺した罪を背負って)
 彼女とともに。
(ゾーイのいない世界から)
 消えてしまえば、よかった――

 アリストラムはうつろな眼を開けた。
 刻印から命が流れ出していた。わずかに首をひねって、漆黒にいろどられた肩の刻印を見下ろす。
「新しい支配者を迎え入れた気分はどうだ」
 せせら笑う声が耳元から聞こえる。牙が刻印に食い込んだ。抗えない。
「これで、お前は、俺の奴隷になった」
 アリストラムは長い吐息をついて、視線を宙に彷徨わせた。
「言え。俺に従う、と」
 絶望の闇が目に入った。
 鎖に縛られた手。
 枷に囚われた自分の姿。
 無力にうなだれた首筋から、滂沱の血がしたたり落ちている。
 自分――?
 ふいに笑いがこみ上げた。
 何もかも無くした、わけではない。
 まだ、自我が残っている。
 アリストラムは、細めた眼を押し開いて眼前の魔妖を見やった。
 凄艶に笑い、吐き捨てる。
「……誰が、お前になど従うものか」
 キイスの拳がアリストラムの頬を襲った。さらに何度も殴りつける。アリストラムの身体がのけぞった。
 血まみれの姿でぐったりと枷に身を預けるアリストラムを、キイスは憎悪にまみれた蛇の眼差しで見やった。ふと、何かに思い当たった様子でにやりと笑う。
「あくまでも逆らうというなら、俺にも考えがある。あの狼のガキは、ゾーイとずいぶんと似ているようだな」
 アリストラムは愕然と眼を押し開いた。
 身体が震え出した。
「……ラウは関係ない……!」
「図星か」
 なめずるような吐息を漏らしてキイスはアリストラムの顎をつかんだ。残忍な爪先で頬を挟み、無理やりに顔を上向かせる。黒い尻尾が、あざ笑うかのようにくねっていた。
 猛毒をたっぷり含んだ冷淡な眼がアリストラムを見下ろす。
「人の魂とは脆いものだ」
 キイスはねっとりと笑った。
「見えるぞ、聖銀。魂を嫉妬の炎で焼き焦がす醜い素顔、その取りつくろった仮面の奥にひそんだおぞましい欲望がな」
 血塗られた爪が、無数のあざと爪傷に腫れて染まる肌をいたずらに嬲ってゆく。
「ラウに……手を出すな……!」
 アリストラムは弱々しくかぶりを振りかけた。喜悦に満ちた眼が、アリストラムの秘め隠した過去を視姦する。キイスはアリストラムの首筋に唇を寄せ、血なまぐさい吐息を吹きかけた。
「ミシア以外の人間は、全員、死ね」
 囚われの音が響き渡った。

 四肢が病的に震えている。
 後ろ手に縛られたまま暗闇にうち捨てられた挙げ句、何日も放置されている。もがけばもがくほど、互いに結びあわされた鉄の鎖がさらにきつく手首と喉とを締めあげる。起きあがることもできない。
 もはや、定かな意識はなかった。骨に皮が貼り付くほど急激にやせおとろえ、絶えず漏れる呻きも混濁にのまれ、まともな言葉にすらならない。
 刻印の煮えたぎる毒に犯された人間が、理性を保っていられるはずがなかった。
 身体の中外をうごめきまわる刻印の狂気と幻覚にひきずられ、ときおり、つんざくような悲鳴を上げて。また、何処ともしれぬ暗黒へと堕ちくずれてゆく。
 絶望の彼方にほんのわずか、星くずのように瞬いては幾度となく空しく流れ去ってゆく、かすかな思い。見果てぬ悪夢に澱んだ意識の底で、ぎらぎらと妄執の色を奔らせた眼だけが、食い入るように闇の向こうを見つめ続けている。
 絶対に来てはならない誰かを、探して。

 壊れた笑いがもれる。心が、深い闇のうねりに呑み込まれていく。
 まだ、自分を嘲える。まだ、生きている。
 アリストラムはわずかに揺り戻ってきた意識の中でぼんやりと思いをめぐらせた。こんな辱めを受けてまで何故、生に拘るのか。どうして、死ねないのか。
 だが、胸の底で冷たく狂おしくわだかまる闇が全てを否定する。
 それができるなら、とうに命を絶っている。
 できない理由があるからだ。
 生きなければならない。
 たとえ、何があっても、生き抜かなければならない。
 ゾーイを殺してしまったという、後悔と絶望に満ちた記憶の奥底に、怨念にも近い執着が残っている。
 違う。
 何かが、違う。
 蜘蛛の糸にも似た、今にもちぎれそうな違和感だけが、アリストラムを生の妄執に引きずり止めている。
 だが、引きずられているのはそれのみでは、ない。
 ラウを。
 守るのだ。
 ラウひとりを、絶望の中に置きざりにするわけにはゆかない――!
 ふと。
 地面を跳ねる堅い金属の音が響いた。確かな足音が飛ぶように駆け寄ってくる。
 アリストラムは絶望にくすんだ顔を上げた。
 岩陰から獣の影が飛び出す。獣は突然広がった空間の心許なさにつんのめり、立ち止まった。岩を掻く爪の音が響く。
 暗闇の中、はりつめた翡翠色の双眸がぴかりと反射した。痛々しい狂気に満ちた闇の気配に、ぶるぶると頭から尻尾まで順に身を震わせる。後ろ足を完全には地に着けられないせいか、よろめくような仕草だった。血に濡れた尻尾が汚れた飛沫をまき散らす。
 勢いでくわえた山刀が鞘からはずれて岩床にすべり落ち、飛び上がりそうな大きな音を立てた。
 獣は鼻をくんと鳴らし、柄部分を大切にそっとくわえ直すと、耳をぴんと前に向け、頭をそびやかせて闇を見下ろした。すぐに、地の底に縛り付けられたアリストラムの存在に気付く。
 まっすぐにアリストラムを見つめる翡翠の瞳が、ふいに大きく瞠られる。
 狼は喉をそらし、耳を伏せて遠く吠えた。
 ひらりと跳ねて、アリストラムの傍に飛び降りる。風の音がした。かつん、と小さく爪が鳴る。
「ラ……ウ?」
 唇が、蒼白な照り返しに小さくわなないて、震える。
「ラウ」
 狼はものすごい勢いで尻尾を振った。立ち上がって前肢でアリストラムにもたれかかる。鼻を鳴らし、全身をくねらせて吠え、尻尾を追いかけてくるくる回っては、じゃれかかって甘えたがる。
「本当に、ラウ……貴女なのですか……?」
 柔らかい吐息が腫れたまぶたにかかった。
 暖かく湿った舌が、そっとアリストラムの傷をすくい舐める。アリストラムはかぶりを振った。
「いけない……ラウ……来てはいけませ……!」
 つめたく濡れた狼の鼻面が、きゅっと頬に押し付けられる。翡翠の眼が、揺れる水面のようにうるんでいた。悲痛な鼻声だけが小さく聞こえる。
 ラウの眼だった。
 狼はアリストラムの涙を、傷に滲んだ血を、汚れた肌を、ゆっくりと拭うように舐め始めた。ずっと縛られていたせいでかじかみ、萎えきった手足を、柔らかい舌の感触が解きほぐしてゆく。
 アリス。
 アリス。
 アリス。
 狼の喉では人語を発することもできない。か細く鼻をつまらせて鳴く以外にこみ上げる思いを表すことができず、狼はただもどかしげに尻尾を振り、アリストラムの頬を幾度も舐めた。銀碧の毛並みに覆われた頭を、押し付けるようにしてアリストラムに添わせ、こすりつける。
 アリストラムは狼の柔らかい首回りに顔を埋めた。
「ラウ……」
 気持ちを言い表す言葉がみつからない。胸がつまる。
 狼は耳をぴんと立て、アリストラムを見つめた。白い息を吐き、尻尾をなおいっそう大きく振ってアリストラムに頭をすり寄せてくる。その口元は、確かに笑っていた。
 ふと狼はアリストラムを縛める首枷と鎖に気付いて、爪で引っかいた。喉の奥で低く唸って鎖を鼻で押しのけ、外れないと見ると、軽くくわえて引っ張ってみる。重苦しい金属の音がした。錆びた臭いが漂う。
 アリストラムは身をよじって狼の気をそらそうとした。
「無理です、ラウ」
 かすれ声で呻く。
「貴女も……怪我をしているのでしょう……無理をしては……」
 狼は、うるさい、と言いたげにじろりとアリストラムを睨み、牙を剥いてかるく威嚇してみせた。アリストラムが黙ると前足で鎖を押さえ、奥歯でぎりぎりと音をさせながらかじり出す。
 くわえた鎖の堅さを何度か頭を振って確かめる。と、渾身の力を牙に込め、頭を振り上げ鎖を食いちぎった。
 鎖の輪がばらばらと岩床に散る。狼は口の中に残った血と、折れた牙を吐いた。
 アリストラムは狼の首回りに手を差し入れ、引き寄せた。ずっと拉がれていたせいでまだ身体全体がひどく痛む。狼は顔を上げ、舌を出して、はあはあ息を弾ませながらも自慢そうに尻尾を振った。ぺろりとアリストラムの頬を舐める。
「……ありがとう、ラウ」
 すがるように、包み込むようにして狼の身体を抱きしめる。狼の身体がびくりと震える。血の臭いがした。アリストラムは長い吐息をついた。
「その足……怪我を治さないと」
 狼は苛立たしげに唸ってアリストラムの腕から逃れた。耳をそばだて、身を低くしてアリストラムの背後を睨む。背中の毛が逆立っている。
「いいから、じっとして」
 狼は耳を伏せてするどく吠えた。
 翡翠の瞳がぎらりと光る。
 突然。轟音にも似た突風が狼を蹴り上げた。甲高い悲鳴が飛び散る。狼の身体が毛玉のように跳ねて転がった。岩壁にぶち当たる。瓦礫が音をたてて降り、くずれて、狼の身体をざらざらと埋めた。
 土煙が視界を汚す。
「こそこそと何を嗅ぎ回っている」
 キイスの姿が土煙の中から立ち現れる。細められた漆黒の眼が、野獣の悦楽にきらめいていた。
 やや斜に構えた仕草で、羽織った黒の革コートを肩から滑り落とし、背後に投げ捨てる。太い尻尾が、感情のさざ波をかきたてるかのようにくねっていた。
「無様だな」
 冷たい軽蔑がキイスの頬に浮かんだ。
「魔妖のくせに魔力を失うとは。時間稼ぎにすらならん」
「ラウ、逃げてください」
 アリストラムは必死に身を起こそうとした。だが、萎えきった足では立ち上がることもできない。
 狼はぶるぶると身体をふるって起きあがった。よろめく身体で低く身構えながら、折れた牙を剥き、唸りをあげる。キイスは眼を細めた。
「人間の飼い犬に成り下がった狼など、存在する価値もない」
 狼は吠えた。キイスの姿が漆黒にまぎれ、かき消える。
「消え失せろ」
 子犬めいた甲高い声がつんざいた。血まみれの姿が地面にもんどり打って転がり、どこまでも跳ね飛ばされてゆく。潰れた濡れ雑巾のようだった。
 アリストラムは手を伸ばし、空を掴んで、悲痛に呻いた。

 ……憎悪だけが、生き延びる糧だった。
 
 記憶も、ゾーイへの思いも、すべてに蓋をし、偽りの感情で塗り隠してラウを手元に置いてきた。幼いその仕草を愛おしみつつ、がんじがらめに縛り付け、魔妖としての成長を阻害し、無力なまま支配し続けようとした。
 ゾーイを。
 ゾーイを殺した、自分を。
 憎んで、憎んで、憎み抜いて、そのすべてを滅ぼすためだけに、ラウを犠牲にしようとした。
 逃れ得ぬ真実に苛まれながらも自らのあやまちをどうしても認められず、許せず、かと言ってどうすることもできないまま、存在しない真実を探し出すためだけにラウを利用してきた。ラウがゾーイの仇を捜していると知っていながら、黙っていた。
 いつか、ラウに殺されるために。
 なのに、あのとき、全てが変わってしまった。ラウに刻印の罪を教えた、あのとき。

 おぞましい、本当の欲望に気付いてしまった。身の程知らずな、”幸せ”――

 いつからだろう。心の中のゾーイが消えていることに気付いたのは。
 ずっと悔やみ、絶望し、苛まれつつ追いかけてきたはずの面影が、いつの間にかラウに変わっている。ちいさなラウが泥だらけになって大笑いしながらそこら中駆け回っているのを。信じられないぐらいの勢いで猛烈に食事を平らげてゆくのを。それを見守っているだけで、たゆたうような一日がいつの間にか過ぎているのを――幸せ、だなどと思ってしまった。
 ラウを腕に抱いて眠って。翌朝また、目覚めて。暖かな朝の陽射しにまどろみながら、ラウのぬくもりを、その存在に寄りかかって。
 そうやって日和っていれば、いつしか自分への復讐を棄てられる、などと。
 ずっと、こうしてラウと一緒にいられるかもしれない、などと。
 そんな不相応な願いを、抱くようになっていた。絶対に許されるはずもない――罪深い思いを。

 ゆがんだ想いが、心を引き裂いてゆく。
 そんなこと、できるはずがない。
 できるはずも、なかったのに。
 今のラウには、何の力もない。ただの狼だ。傷ついた、手負いの獣。
 アリストラムは拳で地面を叩いた。瓦礫が突き刺さった。でも、どんな痛みも、胸を引き裂く思いを消すことなどできはしなかった。
 何度、同じあやまちを繰り返せば気が済むのだろう。死を願うことがどんなに愚かで、浅はかな、そして自分勝手な思い込みだったか。
 なぜ、もっと早く気付かなかったのだろう。
 何が真実で、何が嘘だったのか。本当に求めていたものは何だったのか。
 今までも、そして、今この瞬間にも、手の届くところにあって、もしかしたら、ずっと在り続けたかもしれないのに。

 引き裂かれるような悲鳴と同時に、狼の身体は再び地面にもんどり打った。アリストラムはよろめく足で立ち上がった。
 一歩一歩、薄氷を踏みしめるようにして歩く。狼は後ろ足で宙を掻いた。痙攣が止まらない。
 アリストラムはくずおれるようにラウの傍らへとひざをつき、静かに呼びかけた。 
 狼は頭をもたげた。額が割れて、血が眼に流れ込んでいる。その目が、ほっとしたような優しい形にゆるんだ。口を割り、弱々しく舌を伸ばして、差し伸べたアリストラムの手を舐める。
「終わったな」
 キイスが傲然と近づいてくる。
「いいえ」
 アリストラムは眼を閉じた。キイスがわずかに表情を変える。
「何だと……?」
「何も終わってはいない、と申し上げたのです」
 腕の中の狼が翡翠の眼を押し開いた。アリストラムを見上げ、動かない身体を震わせながら、ぞっとする声で唸る。
 力なくもがきながら立ち上がろうとする狼を、アリストラムは穏やかな掌を押し当てて制した。
「大丈夫です。落ち着いて、ラウ。じっとしていてください。伏せ、そして、待て、です」
「その身体でやる気か。いいだろう。相手してやる」
 キイスは嬉しそうに含み笑った。口が耳まで裂けてゆく。鮮烈な色がのぞいた。
「そのつまらぬ勇気に免じて、心ゆくまで存分にいたぶり殺してやる」
「……殺す……?」
 アリストラムは口元をゆがませた。痩せほそった身体をよろめかせ、地に着いた膝を立てて、風に吹かれるかのように立ち上がる。
 暗い眼にほのかな嘲笑が浮かんだ。
「言ったはずです。貴方に従うつもりはない、と」
「奇遇だな。俺も同感だ」
 キイスは表情をかき消した。
「侮るな!」
 闇と化した突風が突っ込んでくる。切り裂かれた風が刃となって舞い散り、洞窟の天井に突き刺さった。轟音がつんざく。瓦礫が降り注いだ。
 甲高い残響が鳴り渡る。
 一見華奢な、非力な魔法使いにしか見えぬアリストラムの手が、大上段に振りかぶったキイスの手首をとらえ、押しとどめた。受け止めた衝撃で青白い放電が弾け飛ぶ。拳の背に聖銀の紋章が浮き上がり輝いた。
「必ず守ると誓った! 必ず、助けると誓った! 何度倒れても――必ず、立ち上がる! だから、今、この場で」
 アリストラムは、キイスの手首を掴む手になおいっそうの力を込めた。ぎりぎりと鈍い音が響く。
「貴方に後れを取るなど決してあり得ない!」
 キイスは獣の形相で吠え、振り払おうとした。アリストラムは表情ひとつ変えず、キイスの手首を強引にひねりあげる。ゆがんだ腕がめきめきと音を立て軋んだ。
「魔妖が人を刻印で縛るように、聖銀《アージェン》は、その封印で魔妖を縛る」
 聖銀の光がキイスを照らし出す。キイスは愕然と吠え猛った。
「放せ、聖銀……!」
「キイス、貴方は刻印に何を望んだのです」
 アリストラムは酷薄にすら聞こえる声で言い放った。
 目にも止まらぬ速度で指先が空を叩き踊り、中空に呪の琴線を描き連ねてゆく。見開かれたキイスの眼に、巨大な檻にも似た聖銀の紋章が映り込んだ。
「やめろ……!」
 照り輝く聖銀の刃が次々と地面に突き立ってキイスを取り巻いた。息つく間もなく光糸が散乱し、圧倒的に乱反射する軌跡を描き出しつつキイスの全身を針金のように縛り上げてゆく。悲鳴が土煙に呑み込まれた。瓦礫が地に跳ねて転がる。
「憎しみ、絶望、孤独、それとも欲望そのものですか」
 決して切れぬ銀の光糸に腕を何重にも縛り上げられたキイスは、咆吼をあげて牙を剥き、凄まじい形相で自らの手首ごと食いちぎろうとした。
「刻印は人を縛る枷であると同時に、かけた魔妖自身をも命の契約で縛る強い反作用の枷となる」
 アリストラムの表情が険しく変わった。ぎりぎりと音を立てて光糸を張りつめさせ、高々と逆手に引き絞って締めあげる。アリストラムの足元で狼が身を震わせた。もつれる足で起きあがり、ふらつきながらアリストラムの足を頭で押し、肩でもたれかかって何処かへと追いやろうとする。
 狼の喉からくるしげな遠吠えがもれた。聖銀の光にとらわれたキイスが声を呑む。
「何だと……くそっ……!」
「ラウ、下がって」
 アリストラムは狼の意図を図りかね、背後へと押しやろうとした。
 だが、そのとき。

 からり、と。

 小石の崩れ落ちる音が反響した。乾いた靴音とともに、伸び縮みする影がゆっくりと近づいてくる。ゆらめく光、銀の霧が渦を巻いて足元に流れ込み、よどみ始める。冷たい感触が伝い這った。
「キイス」
 かぼそくふるえる――だが、あからさまに甘いみだらな誘いを潜ませた少女の声が、闇に反響した。
 キイスの表情が、かたくこわばる。
「ミシア」
「……キイス、どこ……どこにいるの?」
 はかなげに呼ぶ、ちいさな声。
「暗くて……何も見えないの……ねえ、怖いわ……お願い、助けに来て……!」
 アリストラムの足元で狼が甲高く吠えた。
「ミシア、ここだ、俺はここにいる……!」
 キイスはアリストラムが張り巡らせた聖銀の結界に取りすがろうとした。触れた手が音もなく燃えあがる銀の火に包まれる。キイスは呻き、はじかれるようにして後退った。
「刻印持ちの分際で! くそっ! ここから出せ!」
 自暴自棄に陥ったのか、キイスは結界を強引に蹴り破ろうとした。だが、狭い洞窟を抜けて現れたミシアの姿を一目見た瞬間、キイスは息を呑んで立ちつくした。
 おぞましいまだらとなった漆黒の刻印が、一糸まとわぬ肌の表面を覆い尽くしている。汚濁の墨を全身に浴びせかけられたかのようだった。奇形めくほど巨大に膨れあがった胸からうごめき出た刻印の紋様が、首筋へと這い、さらに腰へ、下半身へと巻きつたい降りている。
「ミシア」
 キイスは愕然と呻いた。声がかすれる。
「……どうしたんだ、その姿……!」
「そいつを殺せ、ミシア」
 ぞっとする声が響いた。ミシアの足元から、ゆがみきった影が黒々と伸びてゆく。
「はい……レオニスさま……」
 意志を殺された少女の眼に、みるみる涙が珠を結んで浮かび上がった。
 とっさにアリストラムは手にした銀の光糸を引きちぎった。キイスを拘束していた聖銀の紋章結界が瞬時に消え失せる。
 ミシアの指先が鮮烈な銀の輻射光を放つ。弾けた光条が四方八方に奔り付いた。銀の光につらぬかれる寸前、キイスは前のめりにつんのめって縛めから逃れ出た。轟音が悲鳴を呑み込み、土煙となってキイスの姿をかき消す。
 キイスはアリストラムへ唖然とした視線を走らせた。すぐに眼を戻し、膝をつき、肩で息をしながら、変わり果てた恋人の成れの果てを食い入るように見つめる。
「俺が……分からないのか?」
 アリストラムは燃えくるめく眼を上げた。するどい視線をミシアの背後へと突き立てる。
「レオニス、ミシアを解放してください」
「殺せ」
 傲岸な笑いが響き渡った。ミシアのくちびるが銀のぬめりを帯びて光る。
「皆殺しにしろ!」
 ミシアは悲鳴を上げ、よろめいた。刻印がみるみる無惨にひびわれてゆく。
「あっ……!」
 朽ちた木が倒れるかのように膝から崩れ落ちる。刻印を押さえるミシアの顔が激痛にゆがんだ。内側から銀の光が放出されてゆく。
「ミシア」
 キイスはばらばらに砕けようとするミシアの身体を抱き止め、その光を押さえ込もうとした。
「俺の声を聞け。聞くんだ。眼を覚ませ、ミシア!」
「……このままだと貴方まで死んじゃう……嫌だ、キイス……やだ、死んじゃイヤ……!」
「ミシア!」
 刻印の放つ銀の光にみるみる躙り焼かれ溶かされてゆきながらキイスは絶叫した。ミシアの悲鳴が重なる。
 視界が白く焼きつく。

 あのときと――同じだ。

 絶叫だけが脳裏に響き渡っていた。
 銀の炎。かすれ飛ぶ悲鳴。最期の瞬間、めくるめく白い闇が夜を染めぬいて膨れ上がったあの日あの瞬間へと。一気に、記憶が巻き戻されてゆく。
(戻って来て……眼を覚まして!)
 抱きしめてくれた誰かの絶叫を、弾け飛んだ刻印が焼き尽くしてゆく。その声が、目の前で炎に呑まれてゆく。抗おうとしても動けないまま、涙が、絶叫が、誰かの背中に遮られる。
 爆風に逆巻く鋼色の髪。豪奢な聖神官の装いをまとい、聖銀の杖をさながら槍のように擦り構え、耳障りな嘲笑を解き放っていた、”自分”。

 違う――

 アリストラムは凄まじいまでの確信を持って、過去の記憶を塗り隠した偽りの情景を剥ぎ取った。
 作られた幻想。
 錯覚の過去。
 それらすべてが、音を立てて引きちぎられてゆく。
 ゾーイを焼き殺し、刻印から解放されて狂ったように笑っていた過去の自分。
 嘘で嘘を塗り重ねた記憶の壁紙を、渾身の力を込めて一気に破り取る。

 その下から現れた真実の絵は。

 音もなくただ圧倒的に膨れ上がる光の圧力に耐えきれず、洞窟全体に無数の細かいひびが走った。
 甲高く軋りあった岩盤が左右互い違いにゆがみ、剥げ落ちて凄まじい火花を撒き散らす。
 アリストラムは横飛びにとびついて狼の身体を抱きかかえた。
 悲鳴と轟音が錯綜する。
「ラウ……!」
 爆風に吹き飛ばされ、どこまでも転がる。
 風が吹き下ろしてきた。
 地下水が天井からあふれて、底抜けの滝のように降りしきる。みるみる床が水浸しになった。
 抱きしめたはずの狼の身体が、衝撃で腕の中から抜け落ちる。
 その刹那、床に巨大な神渡りの亀裂が走った。左右からせめぎ寄った岩盤が三角波のようにへし折られ、押し潰されて、粉々に砕ける。
 暗黒が口を開ける。
 足場を失ったアリストラムは、深い悲鳴の筋を引いて、遙か地下へと転がり落ちていった。

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