7 高く付くよ……この代償はね!

 狼はうっすらと眼を開けた。
 力なく開いた口から薄い舌が伸びた。
 殺そうと首に回された手を舐め、やわらかく甘がみする。
 アリストラムは身体を仰け反らせようとした。狼はかすかに眼をほそめた。鼻を鳴らしている。「はやく……!」
 ぱた、ぱた、と尻尾が弱々しく砂を打つ。
 かすんだ翡翠の瞳が、またたいた。
 ゆっくりと、眼が、視線を動かしてゆく。
 湖を見つめている。
 耳が、ぴくりと動いた。
 まるで、何かがそこにある――と、最後の力を振り絞ってしらせるかのように。
 だが、そこまでだった。狼はすべての力を使い果たし、眼を閉じた。
「ラウ……!」
 アリストラムは狼が視線で伝えた何かを、探そうとした。
 いったい、何を伝えようとしたのだろう。
 魔妖としての力をすべて失い、
 眼だけで。
 伝えようとした。
 その思いの在処を、必死に求める。
 ラウが伝えようとしたものが何だったのかを、探す。
「……!」
 ふいに。
 何かが見えた。
 どこまでも暗く青白く広がる水晶の地底湖に、輝きを放つ剣が沈んでいる。
 意識が、わずかに動く。
 あれは。
 血にかすんだ眼で、すらりと光を放つ鋭い刃先を見つめる。
 胸の奥深くにうずく痛み。
 それは、ラウが肌身離さず帯びていた剣。ゾーイの形見である、あの剣だった。
 込められたラウの、そして、ゾーイの想い――
「……ラウ……」
 アリストラムはあえいだ。
「……ラウ!」
 刻印の支配を振り払うなり、身をよじって逃れる。
 アリストラムは水際の飛沫を蹴散らして剣をすくい取った。
 ずしりとくる鋼の重みに、思わず息が止まる。
「ほう? まだ逆らえたとはな」
 レオニスは余裕のある凶悪な笑いを片頬にかすめさせた。
「だが、もう、逃げ場はない」
 水辺に立ちつくしたアリストラムは、全身を濡らし、冷え切った身体から白く火照った蒸気を立ち上らせて笑った。
 乱れた前髪がたれかかって、怒りにゆらめく紫紅の瞳を隠す。
「……誰が逃げるものか」
 手にした剣が二つの色に輝く。
 理知を表す、銀の炎。
 情熱に燃え立つ、翡翠色の炎。
 アリストラムは大きく息を吸い込んだ。
 この剣こそが、何があってもラウが決して手放そうとしなかった、ゾーイへの想いだ。
 そしてゾーイもまた、この剣を通じて、ラウへ強い思いを託していたはずだった。
 その二つの思いが、アリストラムの手の中でひとつに重なる。
 懐かしく、遠い感覚が取り巻いた。
 当初、まだちっちゃくてころころの少女だったラウに、その山賊刀はいかにも重すぎ、年季が入りすぎていて余りに不釣り合いだった。
 だが、やがてラウもまた、剣に見合う表情をするようになった。
 ゾーイに生き写しな、強くて優しい顔を。
 滴る笑みをわずかにゆがめながら、レオニスは傲然と手を突き出した。
「”それを寄越せ”」
「断る」
 アリストラムは平然と答えた。
 銀に輝く刀身を見つめる。
 くもり一つない、澄みきった鋼のおもてに顔が映り込んだ。
 ずっと――死ぬことしか考えていなかった。
 いつか、ラウに復讐を果たさせることだけが、ゾーイへの償いになると思い込んでいた。
「剣を寄越せと言っている!」
 レオニスの声がうわずる。
「私が、死ねなかった理由」
 烈火のまなざしをレオニスへと突きつける。
 刻印の支配が効かないことに気付いたのか。レオニスは声をうわずらせ、後ずさった。
 アリストラムは凛乎たる笑みを浮かべ、濡れた剣のしずくを振り払った。
 刃こぼれ一つない、滑らかなしのぎに沿って、流星の輝きが走り抜ける。
 剣を取る手にゾーイの熱を感じる。
 喪ってなお、その優しさに、強さに支えられていると分かる。
 もう、逃げない。
 決して、迷わない。
 大切な人を守りたいと思う気持ち。
 その一途な願いが――光となって弾ける。
「お願いします。……もう一度、力を貸してください、ゾーイ」
 アリストラムは決意の笑みを浮かべて、剣を、逆手に握り替えた。
「無茶をお願いするのは、これで最後です」
 高く振り上げる。
 重なり合う思いが幾重にも波紋をひびかせ、輝きを増し、闇をかき消していく。刃のしなりに沿って、銀の閃光が駆け抜けた。
「だから、どうか」
 アリストラムの手に、しろがねの輝きが膨れ上がった。
 剣の抜き身がまばゆい力を弾け返らせる。

「私の、すべてを――ラウに!」

 光が、アリストラムの宿した刻印をつらぬいた。
 いくつもの放電が洞窟全体に奔りつき、地底湖の水晶柱を打ち抜いて、粉々に砕け散らせてゆく。光のかけらが四散し、凄まじい飛沫を地底湖から吹き上がらせた。
 自らの手で刻印を刺し貫いたアリストラムの身体が、ゆっくりと傾く。
 疾風が吹き抜けた。衝撃に騒然と揺すぶられた波が、轟音をひびかせて跳ね返ってくる。
 レオニスは崩落する瓦礫を避け、飛びすさった。悪鬼の形相で吠える。
「そうやすやすと逃がすわけには……」
 ふいに光が落ちた。一瞬にして暗黒が洞窟を塗りつぶす。
 さくり、と。光の水砂を踏む音がした。
「……ふざけんな」
 血に濡れた剣の刃が銀碧の淡い色味を帯びて光る。
 地底湖から吹き上げられた飛沫が霧となって流れてゆく。その向こう側から、唸り声にも似た低いつぶやきが聞こえた。
 霧に見え隠れしつつなずむ影が、おもむろにアリストラムの傍らに屈み込んだ。
 アリストラムの手からこぼれ落ち、水辺の砂に突き立った剣の柄を、なめらかな手がぐいと取り上げる。
「……小僧」
 レオニスはわずかに歯がみし、後ずさった。
「いい加減、その言い方止めてくんない?」
 膝をついてうずくまるアリストラムを肩で抱き支えて。
「このあたしのどこが小僧だって?」
 麗しき魔狼の長――ゾーイの面影を青ざめるほどにまざまざと残した、狼の魔妖が呟く。
 ゆたかにたなびく銀碧の髪。
 同色の尻尾。
 するどく尖った三角の耳。
 完璧に均整の取れた――無駄な肉ひとつない、それでいてちぎれんばかりに荒々しく腰高にくびれ、張りつめた、肉食獣そのもののしなやかな体つき。
「あたしの大切な人を、めッちゃくちゃにしてくれやがって」
 ラウは顔を振り上げ、怒りにゆらめく翡翠の瞳をレオニスへと突き立てた。
「……高く付くよ、この代償はね」
 ゾーイの刀を斜に押し構え、ラウはゆっくりと吐き捨てる。
「そんな半死半生の状態で何ができる」
 一瞬、気を呑まれかけたレオニスも、すぐにラウの不調を悟った。傲慢な態度を取り戻し、嘲う。
 ラウは顔をゆがめた。わずかに肩をすくめ、胸から腹にかけて無惨に焼け広がった銀の火傷を押さえる。
「ずっと一人で戦ってくれてたアリスに比べたらこんな傷、どうってことないに決まってんでしょ」
 その声にアリストラムは意識を取り戻した。呻きをもらして身震いし、苦痛にゆがんだ表情のまま、眼をこじ開けようとする。
 かすんだ紫紅の眼がラウをとらえ、大きく揺れた。
「ラウ」
 アリストラムは震えの止まらない手を差し伸べた。
 自ら突き立てた剣にえぐり焼かれ、もはや原形を留めなくなった刻印から、ぞっとする量の血が流れ出ている。
 かすれきった声のくせに、それでも他人事みたいな口振りを装ってアリストラムはつぶやいた。
「……よかった。元に、戻れたのですね……」
「うん……ちょっと、待ってて」
 アリストラムの手を握り、一方は剣の柄にしっかりと置きながら。
 ラウは、アリストラムの唇に、ふっ、と吐息を吹きかけた。
「今、あたし、めっちゃくちゃに力みなぎってんの。だから少し魔力をお裾分けしてあげる」
「……無理を……しないでください……」
「黙ってキスさせて。急いでんだから」
 ラウはアリストラムの唇をふさいだ。
 生気を、移し入れる。
「ぁ……あ……」
 アリストラムは、疲れ果てた吐息をついた。
「とりあえずはこれで大丈夫だと思う。応急処置だけどね」
 言い置いて、おもむろに立ち上がる。ラウはレオニスへと乾いた目を向けた。
「アリスは……ずっと、ひとりで我慢しててくれたんだよね。刻印のことなんかさっさと忘れちゃえばよかったのに、あたしがいたから……ゾーイのことも、ずっと、忘れずにいてくれたんだよね。今まで、分かってあげられなくて……ごめんね」
 むしろ穏やかに語りかけながら、アリストラムを思う気持ち全部を、手に握りしめた剣へと伝え、封じ込めてゆく。
「ゾーイもさ、きっとアリスのこと……心配で、心配で……たまんなかったんだよ。だから、あたしにこの剣をくれたんだ。もし何かあったら……ってさ」
 ラウは翡翠の眼をあざやかにきらめかせ、アリストラムをまっすぐに見つめた。
「……だからさ、後は、あたしにまかせて」
「戯言を」
 赤と黒と灰色にゆらめき、おぞましくもちぎれかけた堕天の翼が、純白の武装コートを突き破って魁偉にうち広げられた。
 レオニスはふいに凄まじい羽音をさせて宙に浮き上がりつつ、聖銀の槍を打ちふるった。毒々しい鱗粉めいた明滅が翼からこぼれ落ちてゆく。表情が見る間に憎悪へとねじくれ返った。凄まじい羽音が耳元で渦巻く。レオニスは憎悪にまみれた哄笑を放った。
「人間如きに這いつくばる愚かな負け犬が!」
「うっせえ!」
 ラウはレオニスの足元を思いっきり蹴り上げた。まき散らされる水晶の煙に浮き足立った槍の下をかいくぐってレオニスの胸元へと飛び込み、一気に剣を薙ぎ払う。光の太刀筋がレオニスの胸を切り裂いた。
 レオニスは水銀とも腐汁ともつかぬどろりとした血を吹き出してのけぞった。虹彩のない、深紅に茹だる眼がぎらぎらと凶悪に燃えあがる。
「貴様、この私に傷を……!」
 胸の傷を押さえながら毒煙めいた荒々しい怒気を吐き散らす。
「うっせえ、この腹黒陰険トカゲ野郎がっ!」
 ラウは粗暴に吐き捨てるやいなや、レオニスめがけてさらに斬りかかった。ためらいもなく繰り出されるラウの剣撃に、レオニスの翼が根元から吹き飛ばされる。漆黒の羽がまき散らされた。
「ぐ……!」
 レオニスは平衡感覚を失い、もんどり打って砂の上に転げ落ちた。
 逃れようとするわずかな隙を狙い、背後からさらに翼を鷲掴んで一気に切り飛ばす。
 レオニスが吠える。ちぎり取られた羽毛が、みるみるあやしい螺旋のかがやきにすり替わった。はらはらとこぼれ落ちながら、青光りする魔力を帯びた死の幻蝶に変わって消えてゆこうとする。
 ラウは、肘を突いて後退るしかできぬレオニスに向かって、怒りに揺らめくゾーイの剣をぴたりと突きつけた。
「そろそろ終いにしてやるよ。覚悟はいい?」
「黙れ、下郎が!」
 レオニスが歯を食いしばって唸る。
 そのとき。ふいに、あやしい香りが鼻をくすぐった。記憶が警鐘を鳴らす。飛びすさろうとしてラウは足をもつらせ、あえなく膝をついた。平衡感覚が失せる。まっすぐに立っていられない。
「な、何、これ……?」
 くすくすと割れた鏡のように降る笑い声が、幾重にも反響して聞こえた。どぎつい原色の光が眼の奥で反射し、ねじれ返って、錯乱した渦を巻いていく。
 ラウはこめかみを押さえ、喘いだ。めくるめく香りに視界が傾ぐ。
 魔香の臭い。いつもアリストラムが魔妖避けに使っていた、あの臭いだ。魔香には、魔妖を酔わせ、その魔力を低下させる力がある。だが、まさか、こんな時にアリストラムが魔香を焚くはずが――
「う、あ……」
 歯を食いしばり、必死で抗おうとする。
 違う。アリストラムがお仕置きだの儀式だのと称してはちょっかいを出していた時のものより、はるかに効き目が強い。香というよりもはや毒を吸い込んでいるに等しかった。
 息をするたび、めきめきと音を立てて頭の奥が割れてゆく。ラウは前のめりに倒れ込んだ。膝をつき、地面を掻きむしる。
「息、ができな……」
 むなしく水晶くずを掴んで、まき散らす。
「遅くなりまして申し訳ございません、レオニスさま」
 ひそやかに押し殺された声が忍び寄った。黒ずんだ銀の影がラウの視界を覆ってゆく。
「ミシア、どうして、貴女が」
 愕然としたアリストラムの声が耳を突き抜ける。
 ラウは喘ぎ、錆び付いてまるで動かなくなった首を必死にもたげた。砂を踏む、白い裸足が見えた。身体が石のように重い。もう、顔を上げるだけで精一杯だった。
「形勢逆転、だな」
 ぎごちない動きで砂を払いながらレオニスが立ち上がった。喉を鳴らし、しゃがれた声で引きつった含み笑いを放つ。
 半分にちぎり取られ、血にまみれた漆黒の翼が耳障りな音を立てた。
「”こっちへ来い、ミシア”」

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