「……前のように」
声に翳りが混じる。銀の髪が滑り落ちてアリストラムの表情を隠した。
「また、貴女本来の姿を、魔力を、封印しろと仰るのですか」
ラウは先を越されて黙り込んだ。アリストラムはラウの手を離し、短いため息をついた。
「それはできません」
「どうして」
「もう二度と貴女を苦しめるようなことはしないと、ゾーイに誓いました」
「でも!」
「この話は後に。今はやめにしましょう」
アリストラムは取り付くしまもなく口を閉ざす。
「アリス」
ラウは椅子を蹴ってアリストラムの前に回り込んだ。アリストラムの膝にすがりついて、見上げるようにして、言いつのる。
「そ、そういうことじゃなくてさ……あ、あたし、嫌なの。難しいこと考えるのあんまり好きじゃないけど、でも、でもさ、アリス、人間と魔妖が一緒に暮らすには、何て言うかその……決まりごとがあればいいって言ってたじゃん。決まりさえきちんと守れば、一緒に暮らせるって。もし、人間の魔力を食べたくなったときに、アリスがダメっ! って叱ってくれればいいけどさ、でも、あたし、狼だから……ニンゲンじゃないから……我慢できなくて食べちゃうかもしんない……。そしたら、あたし、アリスの傍に……いられなくなっちゃう。そんなの、嫌だよ」
アリストラムはためいき混じりに笑った。肩の力を抜き、くしゃくしゃとラウの髪をなでて、指を通らせる。
「大丈夫。今の貴女なら何でもできますよ」
「するよ、努力もするけどさ……でも、あたし……もし、人を噛んじゃったらどうしようとか、失敗しちゃったらどうしよう、なんてびくびくしながら過ごすなんていやなんだもん……ずっとアリスと一緒にいたいんだもん……!」
ラウはアリストラムの膝にしがみつき、顔をうずめた。ぐす、っと鼻を鳴らし、声をなくす。
「ラウ」
アリストラムは視線を落とした。愛しげにラウの頭を撫で、頬を手挟んで。
「大丈夫ですよ。私が傍にいてあげますから。ずっとね」
「……でも……!」
「もし、苦しくなったら、いつでも」
ふと立ち上がって、ランプをテーブルの上に持ってくる。硝子越しのランプの火が、ゆらめく淡い影をテーブルに広げた。
「私の魔力を分けて差し上げます。それではいけませんか」
夜風が髪を揺らす。
「ミシアの言ったこと、覚えていますか?」
空になったお皿を段々に重ね、片づけ始める。ラウは虚を突かれ、小首を傾げた。
「ううん……何だっけ?」
「あの子を見ていると、自分が恥ずかしくてなりませんでしたよ」
仕舞いの手を止めずに、アリストラムはつぶやく。
「『好きだから、大好きだから、一緒にいたい』なんて。魔妖と人間が共に暮らすことがどんなに大変か……きっと、後先の事なんてぜんぜん、考えてもいないのだろうな、なんて……思って」
諦めたような、悟ってしまったかのような、ためいきにも似た声。言葉とは裏腹に、アリストラムはてきぱきと空いた皿をテーブルの端へとおしやり、積んでゆく。
「あ、あたしも手伝う……」
「いえ、片づけは、いいです。お皿やグラスを割られては困りますから」
「いや、割らないってば! ちゃんと持っていくし!」
「といって今まで割ったお皿の数は何枚?」
「……え、ええっと……ひい、ふう、みぃ……は、八枚かな……?」
指折り数えているとアリストラムはうっすらと笑った。
「九枚です。一枚、足りません……!」
「ひっひいぃぃ……こわいっ!」
「ま、九枚も十枚も同じです」
ラウに背を向けたまま、アリストラムはぽつりと何気なく続ける。
「でもね、本当は、ちょっと……彼らがうらやましかったのです」
夜を振り仰ぐ。
「彼らには、翼がある。どこにでも行ける自由という名の翼が」
吹いてくる風が髪をいたずらに吹き飛ばす。手で押さえきれない髪が、指の間からこぼれてきらきらとたなびいた。
「人間なのに羽があるの?」
「ええ、そうですよ」
アリストラムは振り返った。
「私も……欲しい、と思っているのです。彼女のような勇気の翼が」
ラウは眼をぱちくりとさせた。
「いや、でも、羽とか言ったってさ、人間なんだから無理に決まってるでしょ? それとも、魔法で生やせる?」
「まさか」
「じゃ、やっぱ、無理じゃん」
「それでも、欲しいのです。翼が」
アリストラムは軽く笑っていなした。
しばらくの間、二人とも何も言わず、だまって風に吹かれる。洗い物を積み重ねる音も、心なしか遠くに思えた。
しんしんと月明かりが降る。
ラウは、よく分からなくなって、アリストラムの表情を窺い見た。
アリストラムは、優しい表情でラウを見返していた。
「な、なに?」
アリストラムは薄く微笑んだ。
「貴女を見ていたのです」
「ぇっ……な、なんで急に……な、何か、用でも?」
睫毛の影が蒼く頬に落ちている。
瞳に、互いの気持ちが映り込んでいた。
ぴん、と立てた耳の先を風がくすぐる。心まで、連れて行かれそうだった。
「言っても、構いませんか?」
ラウは、どきっとして眼を見ひらいた。
「うん」
「本当に?」
「……うん」
ますます、どきどきしながら、指の先をもじもじ突き合わせて、腰をくねらせる。
「聞きたい」
「ラウ」
指の先で、つと顔を上げさせられる。
はっとするほどあざやかな、アリストラムの瞳が近づいていた。
「……っ」
思わず眼をみはり、息を吸い止める。
「ラウ」
悪戯な指が耳元と喉をくすぐる。そのこそばゆさに、つい、身体がうねる。
「何……アリス……?」
「翼が、欲しい。貴女を幸せにできる勇気の翼が」
唇が、そっと重なる。
情感のこもった、やさしい息づかいだった。とろりとした感触に胸が痛くなる。
嬉しくて、幸せでたまらないのに、キスの終わる瞬間が果てしなくやるせない。
「貴女を……幸せにしたい」
「アリス」
「貴女と……幸せに、なりたいのです。なのに」
「アリス」
「怖いのです。私が、そう願っていること、それ自体が貴女や……彼女への裏切りになってしまいはしないかと……それが、怖いのです」
ラウは、アリストラムの愁いに満ちた表情をのぞき込んだ。
こんなに近くにいるのに、遠い、遠い、遠すぎるほど遠い過去の悲しみが、二人を遠ざけている。
「……ゾーイのこと……?」
何だか、自分まで泣き出しそうになって。
「アリス、あたし」
どうしたらいいのか、よく、分からなかった。
でも。
何とか、したかった。
何か、言いたかった。
でも、やっぱり何をどう言えばいいのか分からない。
分からないから。
ただ、アリストラムの眼を、真っ直ぐに見上げた。
優しくて――優しすぎて、そのせいで、ずっと苦しみ続けていたに違いない、その瞳を。
「アリス」
ラウは、無意識にアリストラムの首に手を回した。
つま先で、背伸びする。
すこし、ふらっとする。
でも、もう少し、あと少しだけ背伸びすれば、もっと、アリストラムの気持ちに近づける気がした。
そうすれば、背の高いアリストラムに無理に身をかがめさせなくても、もっと、もっと、近くに行ける。
自分から、キスができる。
「ラウ」
アリストラムは、驚いたように眼を瞠らせた。
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