8 貴女を……幸せにしたい

 ラウはアリストラムの首筋に顔をうずめた。頬を寄せて、眼を閉じて。
「いいよ、無理しなくってもさ」
 寂しさを押し隠して、笑う。
「あたしだってゾーイのこと……忘れられないもん。あたりまえだよ……たったひとりの……おねえちゃんだもん……すっごくえろかっこよくてさ、群れの誰よりも美人でさ! 誰よりも強くて、最凶最悪で、超凶暴な肉食系のおねえちゃんだったんだもん……忘れられるわけ……ないじゃん! だから」
 抱きついた腕の中で、アリストラムが、びくり、と身じろぎするのが分かった。
「アリスも、ゾーイのこと、忘れないでいてくれたらいいと思う。っていうか、忘れないで。あたしは、これからもずっとアリスにくっついていけるからいいけど……ゾーイは、アリスと一緒にいたくても、いられなかったわけじゃん? だから、せめて……忘れないで、覚えておいてあげてほしいの」
「ラウ」
 ゆっくりと、だが強い力で押し戻され、ラウは後によろめいた。
「アリス?」
「ええ」
 ふいに、強く引き寄せられる。
「ふえっ!?」
 思わずラウは素っ頓狂な声を上げた。思いも寄らぬ力でそのまま一気に抱き寄せられ、腕で、全身で、ふかぶかと包み込まれる。
「う、あ、えっ……なにっ……!?」
「貴女には」
 ため息にも似た、泣き笑いの声が耳元に飛び込んできた。
「……本当に……敵いませんね」
「へ……えっ? な、何、何かした……?」
「ええ」
 解き放たれた、晴れやかな声だった。
「ラウ。私の大事なラウ。愛しい、素敵な、たまらなく可愛いラウ」
「な、な、何、こっ恥ずかしいことを、は、は、恥ずかしげもなく言っちゃってんのよもう……す、すこしは自重しなって……はず……恥ずかしいったら……」
「嫌です。もっと、貴女にいじわるをしたいから」
 アリストラムの腕が、強く、さらに情熱的にラウを抱く。
「あっ、ぁ……!」
「いじわるを言って、もっと貴女を怒らせて、もっと、もっと、貴女の気をひきたいから」
 ぎゅうぎゅうと、ハムみたいに抱きしぼられる。
 さすがに腕の力が強すぎて、声も出せなくなってきて、ラウは、何とか息を継ごうとじたばたした。
「はう……んっ……」
 苦し紛れの尻尾が、ふりふりと、なおいっそう愛おしく大きく揺れ動き始める。
「何、子どもみたいなこと言って……あぅうん……くるしいっってば……!」
「悔しいのですよ。こんな単純なことにすら気付かず、それをまたよりにもよって貴女に看破されてしまったのが。本当に、悔しい。男として情けない限りです。こんな自分でいることが自分で許せない。怖れてばかりで、眼をわざと閉じて、前を見ようともせず、そのくせ行く手が見えぬと拗ねて、闇の中に立ち尽くしていた。こんな間抜けな男が他にいますか? どうして、もっと早く眼を開けて、明かりを灯して待っていてくれる貴女を探さなかったのでしょう。貴女のいるところへ、ためらわずに真っ直ぐに駆け寄ってゆけば、それでよかったのに」
 アリストラムの笑顔がますます近づく。
 ラウはどぎまぎとうろたえ、眼をそらそうとした。
「は、はぁっ……!? 何言ってんのかぜんぜん分かんな……」
「いいのです。分からなくて結構。こんなものは単なる詭弁。口から出任せです。私が馬鹿だっただけのこと。絶対的にすべて、貴女が、正しい。全面降伏します。こんな愚かな男だった私を許してください、ラウ。難しく考えることなど何一つなかった」
 アリストラムはわずかに腕をゆるめた。いたずらな笑みをたたえ、ラウを間近に見つめる。
「今なら、自分の本当の気持ちを伝えられる気がします」
「ぇ、ええっ……何……なに?」
 ラウは息をつめ、アリストラムが再び口を開くのを待った。
 もう、尻尾すら硬直したように動かない。
「ラウ」
「う、うん?」
 アリストラムに名を呼ばれて。
 ぎごちなく見上げる。
 ゆらり、夜ににじむ赤いランプの火影が、アリストラムの微笑みに、不思議な陰影の重なりを投げかけていた。
 声が、耳元で、忍びささやく。
「……貴女に、愛を、伝えたいと思います」
 ラウは息を呑んだ。
「な、……っ」
「こっちへ」
 アリストラムは虫も殺さぬようなおっとりと上品な表情を浮かべて、ラウの手を取った。
 肩を抱いて頬を寄せ、掌で頬ごと頭をつかまえて。
 どきっ、とするぐらいに如才ない笑みを、目端に利かせる。
 かと思うと、あっという間にラウの膝下に腕を差し入れる。
 ラウは、身体ごとやすやすと横抱きに抱き上げられた。
「あ、わ、ちょわっ……!?」
 膝から下だけをじたばたとさせながら、ラウは真っ赤な顔でちぢこまった。
 尻尾が、きゅううっ! と巻き上がる。
「な、な、何すんの!」
「あんまり暴れると落っこちますよ」
 アリストラムは身体に回した手で、ぐいとラウを揺すり上げると、にっこり微笑んだ。
 耳元につむじ風のかすれる音が鳴る。どこかで低くフクロウが鳴いていた。
「あっ……」
 視界がふわりと傾ぐ。アリストラムはラウを抱いたまま、すたすた歩いた。
 テントの入口を、あっさりとくぐる。
 中は薄暗かった。
 さすがに、いきなり連れ込まれるとは思いもよらなかった。
「ちょっ……!?」
 顔を赤くして、あたふたする。
「静かにして」
 アリストラムは、テント内を見渡した。かすかに眉をひそめる。
「ベッドがありませんね」
「は!?」
 つられてラウも眼を周囲へとやった。
 隅に荷物が積み上げられている。ほとんどがラウのものだった。子供用の寝袋に、まるめて紐で結んだだけのハンモック。あと洗面用具と、だらしなくくしゃくしゃにしたまま畳まれる気配すらない洗い替えの服。
 アリストラムの私物はほとんどなかった。
 どんな長旅でもアリストラムは全く手荷物を持ち歩かない。何でも魔法のトランクから出し入れして、最後にはそのトランクすら魔法でどこかへ消してしまう。
 今は、本がぎっしりと詰まった革トランクだけが置かれている。もちろん、日常の道具が入っているわけではない。もともと、本専用に作られた、持ち運び専用の本棚トランクである。
「どうも殺風景でいけません」
 アリストラムは苦々しく首を振る。
「それに、こんな薄い天幕一枚では、声が外に洩れてしまいます。まあ、誰も聞いていないでしょうけれど」
「な」
 ラウは、ぎくっとした。
 尻尾が、なおいっそう恐れをなしたふうに身体へと巻き付く。
「声って、何の……?」
「初夜の」
 アリストラムは、軽くウィンクした。
 テント全体が、ぼふん、と膨らんだ。
 次の瞬間、ムードたっぷりの光がたっぷり降り注ぐダブルサイズのベッドが降ってくる。
「わあっ!?」
 あまりの驚きに、ラウは転げ落ちそうになった。
「な、何か出たあっ……!」
「今、逃げようと思ったでしょう」
 アリストラムは、このうえもなく柔和にラウを見下ろし、わずかに首を傾げて肩をすくめた。
「でも、逃がしてあげません」

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