目次
1 被虐
2 過去
3 疵痕
4 代償
5 未来
6 岐路
7 恋獄
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1 被虐


 やめて。誰かが叫んでいる。やめて。
 誰の声……?
 私の声……?
 ……違う。聞こえてくるのは――まだ、”人間”だったころの私の声だ。

 誰かの赤い手が。
 私を”人形”にしてゆく。

 ……その手が誰の手だったのか。見てはいけなかった。その声が誰の声だったのか。知ってはいけなかった。言ってはいけなかった。思い出してはいけなかった。その手が、その声が、誰の――

 長かった。
 やっと退院……。
 病院の入り口にまで来てもらったタクシーに乗り込む。嬉しくなって思わず私はくすくすと笑った。その声が聞こえたのか、ルームミラー越しに見えた運転手の顔が突然、引きつる。
 私は肩をすくめ、口元をハンカチで覆った。咳込む振りをする。もちろん、笑い声を隠すためだ。
「ごめんなさい、この住所に行ってもらえますか」
 運転手にメモを手渡す。運転手はおずおずと受け取った。
 当然だ、私だってもし自分がタクシーの運転手で、こんな客をいきなり乗せたら怖いだろうと思う。病院から出てきたばっかりの化粧っけのない女が、独りでくすくすと笑っているのだから。

 でも、私はもう、正常。

 身体の傷も、こころの傷も、もう、癒えた。
 ”彼”から加えられた、忌まわしい行為の数々も――

 記憶には、もう、ない。
 何もかも、あれは、嘘。
 なかったこと。

 あの後……
 ”彼”はどうしただろう。私の前から姿を消して。

 ……死のう、恋《れん》。このまま……一緒に、つながったまま……眠ったまま。そんな苦しそうな顔をしないでくれ……手錠が痛いのか……苦しいのか……? 違うだろ……気持ちいいって言ってくれよ……
    
 どうして、こんなに……
 お前の中……苦しい……熱い……火傷しそうなのに……
 どうして……っ……はぁっ……
 そんな顔をするんだよ……笑えよ……泣けよ……狂えよ……気持ちいいって言えよ……
 俺の身体の全部、お前にやるって言ってるだろう……
 こんなに……お前をこんなに汚して、めちゃめちゃにしてるのに……
 まだ……殺したいほど……欲しいんだよ……
 うっ……あぁ……ハアッ……気持ちいいだろ……結婚なんてやめろよ……あんな男より俺のほうがずっと……レンを愛してる……レン……レン……! お前の……身体……すげえイヤらしい……ぐちゅぐちゅ言って……どろどろだ……
 感じろよ、レン……もっと感じてくれよ……尻を振れよ……

 ……そんな顔するんじゃねぇ……ッ!

 ――何も分からなくなるまで、犯された。
 閉じこめられ、縛られ、狂わされて。たぶん……何日も何週間も……”彼”に、身体を貪られていた。
 最後のほうはもう、何をされていたのかさえ覚えていない。
 でも、一つだけ、忘れられないことがある。
 それは、悲鳴。

 レンは、俺なんだ……だから全部返してもらうだけなんだ……
 取り戻すんだよ……お前の身体も……心も……命も……
 全部……俺のものだ……!

 ”涼真”の声が、私の頭の中で、未だにグルグル回り続けている。
 私の身体に突き立てられた涼真のおぞましい欲望のかたちが、まだ下腹部に残っているような残像感がある。
 今でもこみ上げてくる。私の中で狂ったように滾っていた”あの子”の感触。私の身体に、穴という穴に白いねばつく悲鳴を流し込んでいた”あの子”の感触だけが、なぜか消えない。

 私は、私の身体は、あの子の欲望だけを受け入れていたのかもしれない、と思う。
 思うけれど、本当のことは分からない。
 でも、それでいい。もう、過ぎたことだから。
 私は、戻ってきた。

 ――人間の世界に。



 田舎の父が、縁切りと引き替えにいろいろなものを買っていてくれたらしい。私名義になっている新品の携帯と、着替えと、ほんの少しの心付け。相当な残高の記された通帳と印鑑、キャッシュカード。住所を記載したメモと、私の名前が書かれた玄関の鍵。
 携帯にはメールが一通残っている。
 両親からのメッセージだ。改めて読む必要もない。内容は分かっている。

 二度と家の敷居は跨がせない。だ。

 今、私は、メモに書かれていた場所にいる。エントランスロビーもシンプルで機能的なオートロックのマンションだ。ポストには名前を書く欄すらなかった。そっけなくも部屋番号のみ。いかにも女性が独り暮らしするには相応しい雰囲気である。
 鍵を開けて中に入る。押しピンの跡ひとつない、真っ白な壁紙がまぶしい。私は部屋を見て回った。
 すでに幾通か封筒がとどいている。住民票の異動、光熱費の引き落としなど、生活を始めるのあたっての手続きはだいたい終わっているらしかった。テーブルやソファ、そのほかの家具やベッド、PCにテレビにレンジに冷蔵庫、コンロや照明器具まできちんとそろっている。
 無いのは、生活感だけ。
 ダイニングのカウンターに、母の字のメモが残されていた。

 これからは人間として恥のない暮らしをするように。

 人間として恥じない?
 私はまた、笑った。
 弟に強姦されて二度と子どもがつくれない身体にさせられたような姉は、恥ずかしくて世間に顔見せできないとでも?
 まあ、普通はそうかもしれない。私だって、そう思う。

 当然、できの悪い姉よりも有望な弟のほうが大事に決まっている。
 父の仕事を継ぎ、いずれは代議士になるべき、大切な弟なのだから。

 病院に閉じこめられていた間、世間では何が起こっていたのか全然分からない。
 私たちが――いや、私が問題を起こしたことがもし公になっていないとすれば、それはひとえに父の政治力によるものだろう。だが、もしそれが事実だとしても、私という恥の存在が伏せられるだけですんでいることには逆に新鮮な驚きを感じずにはいられない。
 傲慢なあの父に、それだけの奔走をさせる力は、私にはない。
 涼真のためだ。

 父が、動くのは――弟のために他ならない。

 私も、もう、二度とあの子に逢うつもりはなかった。すべてにおいて完璧だった、私の弟。
 もう、これ以上、あの子の人生を――あの子の未来を踏みにじりたくなかったから。

 しばらく、ぼんやりとソファに座って窓から外の景色を眺める。
 灰色のビル。灰色の屋根。聞こえるのはバイパスを通る車の音だけだ。クラクションと、振動。
 緑も、川の音も、山の遠景もない。
 知らない街並みだった。
 でも私は一人で生きてゆくし、生きて行けるだろう、と思った。明日になったら、仕事も見つけにハローワークを探して登録してこよう。
 通帳の残高を見れば、数年単位、下手すれば十数年は急ぐ必要などないことは分かっていたけれど、いずれ手持無沙汰になると分かっていたし、何もしないでいるのは恥ずかしかった。
 このお金に手を付けるのは最後のとき。
 あの子に居場所が知られたとき。どこか遠くへゆくために必要なお金だ。

 もう二度と逢わないと誓った――私の、弟。

 今、どこにいて何をしているのかも知らない。
 私に縁談が持ち上がったとき、涼真は、まだ大学生だった。あれから何年たったのだろう? 今はもうとっくに就職しているか、他の代議士か銀行家の娘と婚約でもしているに違いない。
 私のことは、過去の汚点として抹消されているはずだった。日々流れる小さなニュースの一つのようなもの。見知らぬ誰かが、どこかに消えた。それと同じ。
 私は、もう、誰の心にも存在しない。

 そのとき、テーブルに放り出してあった携帯が、ぶるっと振動した。
 非通知の着信。
 私は、携帯を握りしめた。
 携帯が光っている。いつまでも光り続けている。
 留守番サービスに繋がる。
 唐突に通話が切れる。
 そして、再び、振動し始める。
 非通知。
 いつまでも携帯は動き続けている。
 止まらない。

 私は、光る携帯のディスプレイを見つめた。
 出ない、という選択肢もあった。
 出れば、きっと。

 二度と戻れぬ過ちと分かっていて、犯した――
 かつてと同じ罪を。
「はい」

 また、犯す。

 震える携帯を握りしめ、耳に押し当てる。

 ――レン。

 あまりにも唐突だった。
 携帯の向こうから、聞き慣れない男の声がする。
 冷たい響きだった。

 ――今、どこにいる。

 私は、携帯を握りしめた。身体が震え始める。変わり果てた声。

「涼真」

 携帯の向こうで、相手が大きく深呼吸するのが聞こえた。

 ――答えろ。レン。迎えに行く。

 久し振りに聞いた涼真の声は、まるで残酷な王のようだった。



 そのまま待っていろ、レン。今から行く。

 問われるがまま、私はここの住所を教える。
 ほんの数分前まで、教えるどころか、逢うつもりもなかったはず、なのに。
 なのに、私の口は。
 涼真に命じられるがまま、抑揚もなく真実を答えている。
 携帯の電源を切れば、よかった。
 嘘の住所を告げれば、よかったのだ。
 そうすれば、二度と逢うこともなかったのに。

 何もせず、一時間。
 二時間。
 陽射しが傾き、空が赤くなる。
 茜色と金色の入り混じった夕日が、壁紙を深紅に染めている。
 そのとき私ははじめて、この部屋にはまだカーテンがない、ということに気が付いた。

 明かりを付ければ、外から家の中が見える――

 明かりを付けることもできず、かといってカーテンを買いに出かけるわけにもゆかず。
 ただ、次第に薄暗くなってゆく部屋の中で、私は、待っている。
 テレビを点けて見る。首相が替わっていることに気が付く。与党の名すら昔と違う。何もかもが変わっている。テレビをにぎわせているタレントも知らない顔ばかりだ。
 私は、ひとり、過去に取り残されている。
 私と、世界を繋ぐ絆は、もう、ない。
 まるで、この時代の人間ではないかのようだった。
 いや――かのようだった、という言い方は、正しくない。両親にとって、私は、”人間”ですらない、だろうから。

 三時間。
 四時間。
 外は、とっぷりと暮れている。

 来るはずがなかった。

 私は、何を待っているのだろう――
 何もせず。
 何も考えず。
 座って、ただ、待っている。

 食事すら、朝からずっと取っていない。
 病院にいたときは、日に三度、定期的に食事が出されていた。食べなければ叱られた。私は皿に盛ってあるそれらを口へと運ぶ。それが食事。
 何かを食べたい、などと思うことはない。
 身体が空腹感を訴えることも、ない。
 感じるのは――ただ、ひとつ。

 飢餓感。

 緑のランプが闇に光った。インターホンがふたつ鳴る。マンションの外から押されている。
 モニタに映っているのは、映りきらない白と黒の男の影。
 暗くて、よく、見えない。

「はい」

 ――レン。開けろ。

 解錠のボタンへと伸ばした手が、なぜか、押すのをためらう。
 最後の砦。
 最後の理性。

 ――レン。

 その声が。私をうずめてゆく。
 私は、ボタンを押した。
 インターホン越しに、機械的な音――オートロックの解除されるモーターの音が聞こえた。



 エレベータが上がってくる間。私はずっとインターホンの受話器を握りしめたまま立っていた。
 暗い部屋の中、誰も映さないモニターだけが灰色に光っている。

 何の予告もなく、ドアが開く。
 私は、振り返る。

 恐ろしいほど背が高いスーツ姿の男の影が、ドアのすぐ外、オレンジ色の明かりを切り取って浮かび上がっている。
 私は無言でインターホンの受話器を戻す。

 私と、外の世界とを繋ぐ唯一の絆――モニタ画面が、消える。

 影だけでは、誰か分からなかった。
 男もまた、無言。
 鍵を掛ける金属の堅い音が高く響く。

 男は玄関を上がり、私に近づいてくる。私は窓辺に立つ。
 足音が近づく。影が、近づく。男は部屋の明かりがついていないことに対して何の躊躇もしない。

 私が見えているのか。

「涼真」

 私の記憶にあるのは学生のときの、”あの子”。

 背が高くて、誰にでも愛されていた。
 私と違って聡明で、中学から大学まで一貫教育を行う有名な私立校に通い、多彩な才能を発揮した。

 母に似て、甘く、優しい顔立ちをし。
 父に似て、時に激しかった。

 母に似て、流されやすく。
 父に似て、愚かな私とは――何もかも違っていて。

「レン」

 窓から差し込む月の光が、濡れたような青灰色の光をフローリングに反射させている。
 遠くに見える高架道路を走る車が残すテールランプの軌跡が、無数に赤い。
 闇に鮮血が流されたかのようだった。
 けたたましいダンプのブレーキ音。続けざまに叩き鳴らされるクラクション。我が物顔に走る巨大な鉄の塊。

「レン」

 男の低い声が、私の名を呼ぶ。
 私は、窓を背に、後退る。
 知らない声。
 知らない男。
 乱暴にネクタイをゆるめ、黒いスーツを脱ぎ捨て、理性も激情もまとめてソファへと叩きつけながら窓際にまで一気に踏み込んでくる。
 かすかな夜の光に浮かび上がった男の顔。
 それは、涼真であって涼真では、もう――私の記憶にある”あの子”ではなかった。

 涼真の手が、私の肩を、冷たい硝子窓へと押し付ける。
 挨拶も、笑みすらも、ない。
 久し振りに逢った弟は、大人の男に変わっていた。

 優しい、甘い顔立ちは。
 完璧すぎる、酷薄さすら漂わせる美しさへ。
 ときに頑なだった一途な眼は。
 突き刺すようなするどさへと。

 その眼が私を見つめる。
 私の目を。私の髪を。私の唇を。私の身体を。
 見つめている。
「……久し振りね。涼ちゃん」
 涼真の顔が、虚をつかれたような表情に変わる。
「その言い方はやめろ」
 肩に、手を置かれる。

 びくり、と。
 身体の奥底がすくんだ。
 ――子宮が。

 涼真の手が、私の頬へと触れる。
 そのぬくもりが、ひどく懐かしく。
 そして、怖い。

 抱かれ、犯され続けた記憶が、ぼんやりと甦る。

 目隠しされ、手足を縛られて。
 すべてを、涼真に奪われた。

 心も。身体も。理性も。

 私の身体のどこにも、涼真の知らない場所はない。

 涼真が。
 私を、壊した。
 私を、狂わせた。
 私を、つなぎ止めた。

 今もなお残る、私自身をつらぬいたあの、狂わんばかりの感覚に。

 忘れられるはずがない――

 手が、私の顔を乱暴に上向かせてゆく。月の光、罪の光を浴びた涼真の、冷ややかな激情が私を見下ろしている。
 心の欠けた眼。
 二度と、笑わない眼。
「触らないで」
 私は、どうにかそれだけをうそぶく。

 それ以上言ったら。
 それ以上、近づかれたら。
 気付かれる――

「レン」
 手首を取られ、冷たい硝子に身体ごと強く押し付けられる。
 私の手を見つめる涼真の瞳の中に、獰猛な憎悪にも似た赤い光が映り込んでいる。
 それは過去に似た、夜景。どこまでも連なるテールランプの色。赤い、赤い、血のように赤く反射して、流れてゆく、赤い光。

 唇が近づく。
 眼が、近づく。
 吐息が、近づく。
 涼真の指が、私の髪に差し入れられる。色気も何もなく、そっけなく束ねていただけの髪を乱暴にほどかれる。乱れ髪が黒く艶やかに肩へと散る。
 いつの間に、こんなに、伸びていたのだろう。
 肩につくか、つかないかぐらいの長さだったのに。

 こんなにも。
 狂おしく。
 黒々と、伸びている。
 女の髪となって。

 いきなりの唇が私を奪う。
 何の、甘やかさもなく。
 ただ、激しく。
 そのするどい眼差しで食い入るように私を睨み据えたまま、深く、深く、唇を重ねてくる。
 強引に口蓋を割って、舌を差し入れ、喘ぐ声を呑み込ませる。
 吐息が私を支配してゆく。
 からめた舌が、濡れた音を立てる。男の味を、思い出させられる。いつも、いつも、こうだった……

 そうやって、少しずつ私の理性を奪っ――

 胸元へと這う指がためらいもなく、ブラウスを引きちぎる。
 ボタンが、床にこぼれ落ちる。
 左の手首を持ち上げられ、硝子窓に押さえつけられたまま。ゆっくりと前をはだけられ、反対側の肩だけを、露出させられる。
 素肌が硝子に触れる。
 背中が凍りつくように冷たい。全身が総毛立つ。
「どうして」
 涼真の手がキャミソールの下を這う。震えが、走った。
「逃げない」
 欲情にふるえる身体をきつく縛り上げていたブラが、嘲笑するかのように巧妙にはずされる。私は、吐息をもらす。乳房が、揺れる。
 もう、抑えてくれるものはない。
 私の足下に広がるのは、薄い、薄い氷。その不安定な感触が、たまらなく恐ろしい。
 恥、という言葉を知らない乳首がキャミソールの薄い生地にすら擦れて、つ、と持ち上がっている。

 見られている。
 それ以上、見られたら。
 触れられたら、この、身体に……
 気付かれ……

 親指が、布越しに快楽の乳首を転がす。
 丸く円を描くようにして、私の胸を、男そのものの骨張った手をした涼真の手が、憎むように掴み、揺らし、握り潰す。
 揉み寄せられる力を、次第に強められて。
 男の手にすら余るほどのふくらみが、キャミソールの胸元から強引に掴み出され、強く、強く、揉みつぶされる。
 こんな、ものが、私の身体にあるから。
 こんな、重く揺れる、けがらわしい、肉ですらない狂った感覚器官が。
 からだに、あるから。
 弄ばれる。転がされる。
 胸が、乳房が、私の意志に反して、揺れ動く。
 白く、赤く染まり、残像のような欲情を吸い込んで、揺れ、ふるえ、潰される。吊られた左手を高々と押し付けられたまま。
 硝子窓のサッシが軋んでいる。

 冷たい……はずなのに……
 ……ぁ……
 あっ……

 浅ましい声が、洩れる。
 身体全体が、乳房のように揺れて、たわんで、揺れて、揺さぶられる。揉み絞られる。喘ぎ声をキスに呑み込まれる。
 いつ、どうやって、つけていた他の何もかもを脱がされていたのか、それすら記憶にない。
 分からないまま。
 半ばめくりあげられたキャミソールに隠れている部分以外、ほとんどすべての肌を剥き出しにされて、カーテンも何もない窓硝子にあられもなく押し付けられている。

 外から、見られ……

 指が、無様に痩せて浮き上がった私の肋骨をたどっている。
 残酷な指。
 乳房に飽きた指が。
 ひそかに熟れた下半身へと伸びてゆく。
 そこにいきなり触れられそうになって、私は、思わず身をよじらせる。

 知られたく、ない……

 涼真の眼が、ふと、下へ落ちた。
「レン、忘れたのか」
 いざなうような。
 何の感情も交えない声が。

 耳朶をかすめた。

「……俺に、逆らうな」



 涼真の手が、私の下半身を這いずり回っている。

 ……もう、中が、充血して、ふるえそうに腫れている……

「ベッドに行くのも待てないのか」
 耳元に吐息が吹きかかる。
 あっ……あ……こんな……ところで……
「連れていって欲しいのなら」

 動けないのを……知っているくせに……

「言え」
 涼真の声が私に命じる。私は、答えられない。
 情けない……
 声に、ならない……あえぎをもらす……ことしか……できない。
 いや……違う……ちが……

 指が、そこに、触れている。

 ぁ……あっ……
 や……

「言わないと、このまま、嬲る」

 いや……イヤ……ぁ、あっ……

 涼真がハンカチを取り出して私の目を隠した。視界が完全な闇に覆われる。夜景も、もう見えない。頭の後ろで、ハンカチをきゅっと縛られる。
 何も、見えない。
 自分も。涼真も。部屋の中も。
 聞こえる、だけ。
 感じる、だけ。

 涼真の指。
 かすかな息遣い。
 触れてくる頬。整髪料の香り。男の臭いを。

 感じさせられる……

 私は力なく首を振る。目隠しされているせいか、自分の髪が肩から流れ落ちて胸元をかすめる、そんなわずかな感触さえもがまざまざと感じ取れる。
「レン」
 耳元に低く涼真の声が聞こえる。吐息が耳朶から首筋を伝う。熱い。
「答えろ」
 なのに、氷のような指が。

 ……ぁ、あ……

 掻き分けて。進む。
 必死に足を閉じ、少しでも秘め隠そうとしている”それ”を、あからさまに押し開いて。
 濡れた内部を、掻き分けて。あらわに、してゆく。
 それを、感じる。

 ゃ……あっ……

 薄く、覆ったところを、指の先で押しのけられ、剥きだしに――されて。
 触れるか、触れないか……まだ、きっと、本気で触れられてすらいない、はずなのに。ほんの少しだけかすめるその感触に、全身が、がたがたとふるえて止まらない。
 ろくに立ってすらいられない。膝が力を失って、無様に震える。
 私は、闇の中にいる。
 なのに、何かがもう、熱く染み出して。
 ぬめり、したたる。

 ……いや……ぁっ……

 誰が泣いているのだろう。
 歓喜のうめきを、惨めにも洩らして。
 誰の目にも見えるはずがないのに。部屋の中は、真っ暗――差し込むのは外からの光だけ。私の身体も、涼真からは影になって見えないはず……。
 何も、見えない。
 わからない。真っ暗……
 何を……されるのか……と……思うと……
 ……こわ……くて……
 たまらない……

 違う。
 鮮明な意識が唐突な光の矢となって舞い戻ってくる。後悔にも似た痛みが私の理性に突き立つ。分かっている。私が怖れているのは私の身体だ。いまここにいる私、肉体の闇に閉じこめられた私。涼真の眼にいやらしくも浅ましい姿を晒しているであろう、私の、身体。
 だが、分かっている。どうせすぐに、何もかも怖くなくなってゆく。
 私は、私でなくなってゆく。

 その、手に。
 その、指に。
 ――狂わされて。

 ばらばらに、壊れる。

 怖い……
 なのに身体は動かない。あらがいもせず、ただふるえるだけ、ただ喘ぐだけで、涙を、こぼす。

 ふと。
「泣くな」
 頬に、涼真のくちびるが当たった。心に伝い入るような、優しすぎる、痛いぐらいに愛おしい感触が、冷たく頬をぬらしていた涙をぬぐう。
 押し殺されたささやき。ふるえが、とまらない。
「泣かなくていい」
 後はもう声もなく、唇だけが、私の名をいつまでも繰り返している。

 その、声を、聞いただけで。

 自分が、例えようもなくおぞましいものに変わってしまうのを感じる。身体から流れ出るのはそこに存在してはならない何か。引きずり堕とされる赤い血。糸を引いて粘る赤い血。水面をどす黒く染めてゆく夥しい罪のゆらめき。私の残骸。
 愛してなど、いない。できるはずがない。
 私は決して、涼真を、弟を愛しなどしない。そのすべては否定される。愛されることも、愛することも、何もかも。私は姉だ。血の繋がりを越えた何かなど望んでもいないし望むことも許されない。そんな、感情は、弟を傷つける。弟を、苦しめる。涼真を、窮地へ追い込む。それだけは誰も絶対に望まない。父も、母も、社会規範のすべてが倫理が道徳が理性が絶対に、そんなものの存在を許さない。私も、だ。もしそんな感情を一瞬でも持とうものなら、いっそ――

 ぁ……

 指が。
 私を、つらぬく。
 声が。
 私を、つらぬく。

 身体の中から、支配……され……

「レン」
 指が、私の中をまさぐる。
 指と肉が、互いにむさぼるような音を立ててぬるぬるとこすれあっている。糸を引く濡れたいやらしい音が耳を打つ。
 膣の内壁の、奥の、奥の、ざらついたところを、くちゅ、くちゅ、と、指で擦り上げられて……

 くちゅ、ちゅ、る、じゅる、と、音を立てて。
 指が、くねり、入る。また、入る。出ては、入る。
 指の本数が増える。増えてゆく。突っ込まれ、押し広げられ、もう一方の手で胸を強く揉みしだかれ、掴まれ、乳首を倒し回され、耳朶を首筋を強く噛まれ、唇をかさねられる。身体すべての自由を奪われてゆきながら、なのに、そのすべてが闇の中に取り残されている。私は、ここにいるのに。

 音が……
 ひどい……音が……してる……
 ……ぁ……
 いやらしい……音……

 悲鳴……まで……濡れて……  

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2 過去


「涼ちゃん!」
「姉さん」
 光まぶしい大学のキャンパスは、普段、ごく普通の地方都市的な街並みしか見たこともない私にとって驚きの空間だった。
 大学の正門まで一直線に伸びる、アスファルトの色もくっきりと真新しい道路。レトロな雰囲気が醸し出すイメージとは違い、通学する女子大生たちの安全を守るために、白くまぶしく夜を照らすであろう街灯。駅直通の便が発着する広々としたバス停は、真新しいアクリルの屋根に守られている。
 それらすべて――文化学術公園都市構想としての社会インフラも、高速道路のインターチェンジも、今、私たちがいる私立有名大学の新しいキャンパスを誘致するため市が巨費を投じて建設することを確約したものだ、と聞いた。何よりも誘致運動を推進したのが父である、ということを、私は何度も自慢話として母から聞かされていた。
 緑あふれる視界はどこまでも広く、大学のシンボルでもある講堂は遙か遠く、まるで山懐に抱かれた中世の古城を彷彿とさせる優美な姿を青空に伸び上がらせている。
 大学の正門もまた、イタリアの広場のようだった。地面に弧を描くモザイクタイルの模様が驚くほど遠くまでひろびろと広がっている。造形アートが飾られた噴水が青空にきらきらと映えて、光って、初夏の白い太陽をいっぱいに含んだまばゆい飛沫を虹色に染めてゆく。
 きょろきょろと周りを見回すと、思った通り、頭上に、まるで交通標識のような案内板が見えた。どの建物にどの教室が入っているのかなど、一見しただけではまるで分からない。
 涼真は苦々しく首を振る。
「やめてくれよ、もう。そんなにはしゃぐなよ。恥ずかしいだろ……」
「だって、こんな広いと思わなかったんだもの」
「姉さんだって、ここじゃないにしてもちゃんとした大学行っただろ」
「こんなすごい大学じゃなかったもん。私が行ってた大学なんて、もう、ぜんっぜん、比べものになんないし!」
 母の反対で、私は地元の高校から地元の国立大学へゆくしか進学の余地がなかった。大学を出れば出たで、父の命じるがままに地元の銀行に縁故採用され、今に至っている。
 別に私自身はそれでも構わなかったのだが、この現実を眼にすれば、誰だって謙遜どころではない本心からそう言いたくもなるだろう。
 だが、涼真はまったく信じていないふうで、苦笑ひとつしなかった。
「ねえ涼ちゃん、涼ちゃんはさ、院を出たらどうするの」
「考えてない」
 涼真はそっけなかった。私は眼をまるくした。
「お父様の秘書になるんじゃないの? お母さまはそう仰有ってたわ」
「一度も社会を見ずに、か」
 だが、そういうときの涼真は極めて冷淡な反応しかしない。
「……やっぱり何も考えてないんだな、母さんは」
「涼ちゃん」
 母を貶めるような言い方はさすがに良くない、と思った。だが咎めようと思っても、声は出なかった。どうせ私が何を言っても、涼真には通じないし、叶いもしない。いつも簡単に、あっという間に言い負かされてしまう。
「ごめん」
 だが、私の表情に気付いたのか、涼真はすぐに困ったような顔になって謝った。
「ううん」
 首を振る。
「ごめん、姉さん。そういうつもりじゃないんだ。せっかく会いに来てくれたのに、気分悪くするようなこと言っちゃって」
「ううん、ほんと、全然! 気にしないで。それよりも、早く案内して。キャンパス全部見て回りたい! でも今日中に回れるかしら?」
「OK、じゃあ、まずはアイスでもおごるよ。自販機でよければ、だけどな」
「やった、ありがと。じゃ、さっそく行こーっ!」
 私ははしゃいでいた。私より遙かに背の高い涼真に勢いよく飛びついて、ぎゅっと腕を握り、組もうとする。
「えっ……」
 涼真は、びっくりしたようだった。
「やめろよ姉さん、お、おい、放せって」
「えー! 何で逃げるのよ。前はずっと手を繋いで歩いてくれたじゃない!」
 ふりそそぐ初夏の陽射しは、まるで私を開放的にしてくれる魔法のようだった。涼真はなおいっそう困った顔をした。
「で、でも、それってさ……小学校のころだろ……」
「今も同じよ! 私は涼ちゃんのお姉ちゃんなんだから」
 涼真が困った顔をするのを見るのは、本当に面白かった。いつも、誰にでもにこやかに接して、本当は何を考えているのかすら分からなくなる時もある涼真が、こんなときだけ感情をはっきりと表に出すのが、私にはうれしかった。
「涼ちゃん!」
「く、く、くっつくなって! 誰かに見られたら誤解され……」
「誤解されるような彼女がいるの!?」
「うっ……」
「いるの!? うわ、いるんだ!? ね、ね、教えて涼ちゃん! 彼女いるのーー!?」
 涼真は、あからさまにがっくりと肩を落とした。
「姉さん……残酷だよ……いるわけないだろ……」
 見る影もなくしょんぼりとして、言う。
「えーうそーーー! 何でーー!? 涼ちゃん、かっこいいのに!」
「馬鹿、こら、レン姉、畜生、変なこと言うなよ……ガードマンさんに聞かれるだろ……!」
「えへっ、レン姉(ねえ)って言ってくれた! 子どものころ以来じゃん、久し振りだっ、うれしいっ!」
 私は涼真と腕を組んだまま、くるくるとはしゃいだ。
「ね、ね、ずっとレン姉って呼んでよ。私がおばあちゃんになってもさ」
「……断る」
「やだやだー呼んでくれないとやだーーー! 拗ねちゃうからーーー!」
「姉さん……大人気ないよ……」
「いいの、私はそんな分別のある大人になんかならないから! だって」
 私は、ぱっと涼真から腕を放して、二、三歩前へ駆け出した。
 そのときは、どこまでも、こんな日々が続くような気がしていた。すべてがまぶしくて、すべてが見渡せる、明るい世界。
「久し振りに涼ちゃんに逢えて最高の気分! ホントに、すっごく、うれしいんだもんっ!」
「……俺もだよ、姉さん」

 だがそのとき涼真が見せた憂いのある表情に、ただうきうきしてばかりの私は、まるで気付きもしなかった。
 一つしか、歳の変わらない弟。
 私は言われるがままに就職し、涼真は自らの未来を求めて大学院へと進んだ。
 いつか――道を分かつときが来るのは、分かっていた。

「でも、どうして急に大学を見に来たい、なんて」
「えー、いいじゃん、今はそんなこと」
 構内のオープンテラスで、私たちはくつろいでいた。涼真におごってもらったジェラートをスプーンでつつきながら、青空を見上げる。
「理由があんだろ?」
「別にぃ……」
「まどろっこしいな」
 ふいに涼真の手が、私の手から食べさしのジェラートカップをすり取った。
「あっ!」
「はっきり言えよ」
「返してって!」
「言わないと返さねえよ」
「ずるい!」
「だからさっさと言えば返してやるっつってんだろ」
「あああん涼ちゃん、だめったら、アイスこぼれちゃう……」
「変な声出すな、もう!」
「あ」
「あ」
 半分、じゃれあいや取っ組み合いみたいにしてテーブル越しにジェラートを取り合っていると、思いのほか強く、手同士がぶつかった。
 そのせいで半分溶けたジェラートがカップから跳ね上がる。あわてた涼真がカップを押さえようとした。
 キャッチは、失敗だった。無惨にもジェラートはテーブルにひっくり返る。甘い香りだけが涼真の手に飛び散って、残る。
「あ……!」
 哀れ、ジェラートはテーブルにこぼれた。
 涼真の手の甲に、かろうじてちょこんとフローズンストロベリーが一かけら、乗っかっている。
「ごめんね、涼ちゃん」
 私はバッグからウェットティッシュを出しながら、涼真の手を取った。
「すぐ拭くからね」
 とは言ったものの、何だか捨ててしまうにはもったいない気がして私は涼真の手に残ったジェラートを軽く口に含んだ。つめたさと甘さが同時に口へと広がる。
「何やってんだよ、レン姉!」
 涼真がかすかに頬を赤くして、あたふたする。
「えへ、食べちゃった」
 私は、涼真の手に落ちたジェラートへついばむようにキスしながら、くすっと苦笑いした。
「もったいないもん、ね?」
「もったいないじゃねえよ恥ずかしいだろ、もう……誰かに見られたらどうすんだよ!」
「えへへ、ごめん」
 唇が、離せない。
 しばらく、私は、その甘いくちづけの味に心を奪われていた。だが、すぐに我に返る。溶けたアイスがテーブルに白く点々と散っている。
「あ、ごめんごめん。涼ちゃん、服についてない?」
「……服は、別に」
「テーブル汚しちゃったね。拭かなきゃ」
 ティッシュで溶けたジェラートを拭き取る。涼真は呆然と突っ立ったままだった。
「どうしたの?」
「何でもねえよ」
 珍しく涼真は口ごもっている。私は汚れたテーブルを片づけた。ふと顔を上げると、涼真はアイスで濡れた手を口元へと寄せていた。私が見ると、あわてたふうに手をポケットへと突っ込む。
「ところでさ……さっきの話だけど」
「うん」
 ごまかせるかも、などと思っていたわけではなかった。問い糾す涼真の眼はもう笑っていない。
 隠しきれない、という気がした。
「ゴミ箱、どこ?」
 私はゴミを捨てに歩き出した。聞き逃すまいとしてか、涼真が後ろについてくる。
「そっち」
「ありがと」
「……」
 ごみを捨て終わると、両手が自由になる。
 涼真は、手を差しだした。
「手、つないでやってもいいぞ」
「何その言い方」
「手を繋いで歩きたいだろ」
「腕組んでくれるほうがいい」
「ワガママだな」
「……ワガママじゃないもん……ワガママ言うの、涼ちゃんにだけだもん」
「そうか。レン姉は外じゃおとなしいもんな。もっとはっきり自分の意見を言えばいいのに」
「私だってそうしたいけど、やっぱりね。できることとできないことがあるのは仕方ないわ」
 私は、気弱に笑った。
「そうかな。俺はそうは思わないけどね」
 涼真は、私の手を取った。そのまま、軽く腕にかけさせてくれる。
「これでいいか」
「……うん」
「何だよ、レン姉、自分で言い出しといて恥ずかしがってんのかよ」
「……う、うん……」
 声の近さは、想像以上だった。私は頬を赤くしてうつむいた。なぜか顔が上げられない。どぎまぎしてしまう。
「や、やっぱり止めとこうかな……?」
「今さら無理」
 涼真は笑って拒否した。
「手を放したら怒る」
「えええっ」
「腕組んだ以上は、俺に主導権移すのは当然だろ」
「そ、そういうもの?」
「だから、放すな」
「……うん」
 私は、涼真の腕にゆっくりと身体を寄せた。そんな些細なことを言ってくれるだけでも十分嬉しかった。
 ゆっくりと涼真は歩き出す。
「俺は、反対に、欲しいものは絶対に手に入れなくちゃ済まない性分なんだよな」
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「ふうん……でも、涼ちゃんがそんなに欲しい欲しいって……言ってる記憶ないなあ。あったっけ?」
 私は、ぽん、と手を打って微笑んだ。涼真の顔を見上げる。
「あ、分かった。もしかして彼女?」
「んなもの要らねえよ」
「えー! 何それ! 格好つけすぎじゃない? 欲しいでしょ、彼女?」
「そっち方面しか頭にないのか? 忙しいんだよ。けど、レン姉と腕組んで歩いてたら、研究科の他の連中に誤解されるかもな」
「あ、それは困る」
「俺は」
 涼真は、静かに言い放った。
「困らない」
「涼ちゃん、私ね」
 涼真の視線が、怖かった。咎められるかと思ってなかなか切り出せずにいたことを、口に出さなくてはいけないことが、怖かった。
「結婚……するかもしれない」
「誰と」
 驚くほど、涼真の声は冷静だった。
 当然だ、と私は思った。当たり前だ。姉と弟。何を、期待していたのか。

 好きでもない男と、親の言いなりになって、結婚する。

 本当は、咎めて欲しかった。現実から眼をそらしたかった。どうにもならないと分かっていても、せめて口先だけのなぐさめで良いから、止めろ、と言ってくれることを――心の底のどこかでは望んでいたのかもしれなかった。

「銀行の、ね。お父様のお知り合いの……息子さん」
「そうか」
 涼真は、まったく興味なさそうだった。
「よかったな、姉さん。結婚できて」
 ひどく突き放した声だった。
「そうね。こんな歳になってまだ彼氏ひとりもできたことないし、ずっとできないと思ってた」
「へえ、姉さん、彼氏いないんだ」
 涼真の声に他人事めいた嘲笑が混じる。
「いないのに結婚するのかよ」
「ちょ、やだ、そういう意味じゃなくって……ねえ、涼ちゃん、もう、やだあ、そんな厳しいツッコミしないでよ……」
「相手の名前、何て言うんだ?」
 答えられなかった。
 涼真が、私を見つめている。
 その、眼。
 私は、罪に囚われる。いつも、優しい、笑っているかのようだった涼真の眼が、今はなぜか手首を縛めるイバラの枷のように思えた。赤く、深く、蛇の舌のようにからみついて。心に、突き刺さる。
「答えろよ」
「……ごめん」
 私は仕方なしに笑って答えた。
「実はまだ知らないの」

 涼真は、夕食も一緒に食べようと言ってくれた。長年自炊しているから一人前ぐらい余分に作っても大丈夫、と。
 暗くなってから、少し離れたスーパーへ二人で買い出しに行った。
「少しはお姉ちゃんに甘えたら? 頼む、晩飯作ってくれ、とひとこと言ってくれさえすればねえ……」
「作れるのかよ」
「……すみません見栄張りました」
「はいはい。何が食いたい?」
「……えーっとねえ……りんご!」
「それ、飯じゃねえし」
「リンゴの皮むきならできるもん」
「マジで小学生レベルだな」
「その代わり、支払いはお姉ちゃんに任せて!」
「最初からそのつもりだけど?」
「えーーー!」
 そんなたわいのないことでも二人で言い合うだけで笑い転げられた。並んでカートを押しながら、所在なく店を歩き回る。
「ビール、飲む?」
「どうしよう?」
「チューハイなら大丈夫だろ」
「うん」
「五、六本まとめて買っとくか。あと肉」
「やっぱ肉なんだ」
「当然」
 買い物は楽しかった。結局、かごがいっぱいになるほどいろいろ買い、両手いっぱいに袋を下げて、二人で、夜道をゆっくりと歩く。
 涼真のマンションに着いて、その綺麗さにまたびっくりする。レポートに使っているらしいパソコンや机周りだけはさすがに教科書や資料、紙ファイルなどで山積みになっていたが、それ以外の部屋には生活感がカケラもなかった。部屋が病的なまでに片づけられているせい、かもしれなかった。
「涼ちゃん、本当に自炊してる……?」
「潔癖性なんだよ」
「えー、うそー、私と違う!」
「……すまん、嘘だ。電話もらってから、必死で掃除した」
「……ホント?」
「うん。ゴミ袋5つも出した」
「うわ、それ凄いね……そっかあ、涼ちゃんも、案外、普通の人なんだね」
「うっせえな、レン姉のために掃除してやったんだからちょっとは褒めろよ」
「涼ちゃんすごい!」
「そんだけかよ……」
 まずはご飯を炊き、サラダを作ることにする。その間に涼真は手際よくつまみを作り、ビールを冷蔵庫へ入れて冷やしにかかっていた。
「言っとくけど、サラダぐらいなら私でも作れるんだからね」
「言われたとおり野菜洗って切って放り込むだけだもんな」
「ぶう!」
「うそうそ、美味そうだよ。美味いかな?」
「食べてみれば分かるじゃん。あーんして、ほら」
 私はプチトマトのへたをつまんだまま、涼真に差しだした。涼真の眼がプチトマトを追いかけている。その表情がやたら可笑しくって、私は声を上げて笑った。
「こうやってると、新婚さんみたいね」
「そうだな」
 涼真は、とりつくろった微笑を浮かべた。
「俺で練習する?」
「料理の?」
「いろいろ」
「トマト、いる?」
「いいの、食っちゃっても?」
「いいよ」
「指ごと食っちゃうよ?」
「馬鹿なこと言ってないで……」
「本気かもしれない」
 極力、聞こえないふりをするのは――難しくもあったし、そうでも、ないような気も、した。結婚しろ、式は半年後だ、と父から見合いの釣書を見せられたときよりも、今のほうが、よほど胸に突き刺さった。
「ねえ、涼ちゃん、ドレッシングどこ……?」
「レン」

 ふいに。
 背後から、腕が腰に回される。
 私は、凍りついた。

「レン」
 まるで別人のような声だった。
「知らない男と結婚するのか」
「涼ちゃん……」
「レン姉って、そういうことできる女なんだ……考えようによっちゃずいぶん大胆だよな」
「な、何、言ってんの……」
 声が、ふるえる。
「誰でも――良いんだ」
 腰を抱く腕の力が、ぐい、と、強まった。
「あっ……」
 半ば吊り上げられそうになって、私は、よろめく。
「親父に命令されたから?」
「涼……ちゃん……放して……ぁっ……」
 思わず、すがりつこうとした手が、銀のボウルを跳ね飛ばした。甲高い反響音を立ててフローリングの床に落ちる。プチトマトが、いくつも連なって転がり落ちた。あざやかな赤の色が、点々と床に散らばってゆく。
「あっ……ぁっ……!」
「答えろよ、”姉さん”」
「涼ちゃん、やめて、お願い……ねえ、勘違いしないで……」
「勘違い?」
 もがく私を背後から強引に抱きすくめて、涼真は冷ややかに吐き捨てる。
「俺が、いつ、何を勘違いした」
「放して……説明、する、から……涼ちゃん、お願い……!」
「レン姉は、いつも、そうだ」

 涼真の手が、必死に振り払おうとする私の腕を押さえ込む。
 恐ろしい力だった。

「や、やだ……っ……!」
 こんな扱いは、今まで――
 誰にも受けたことがなかった。必死で身をよじり、悪夢から逃れようとする。
「レン姉はいつも」
 涼真の声に狂おしい響きが混じった。
「いつも。いつも。いつも、そうだった。俺の前ではあんなに可愛く笑うくせに、親父の前では別人みたいに怯えた顔をして――何を言われても人形みたいに言い返さない。言われるがままに従い、言われるがままに学校行って大学行って就職して。今度は結婚か。どんな男かろくに知りもしないのに、親父に言われたから、その通りに、命令されるがままに結婚するのか。相手もいい面の皮だよな――本当は、何が、したいんだ?」
「涼、ちゃん……!」
 強く、身体を揺すぶられる。だが、何を言われても、勝てるわけがない――抗えるわけがない。
「そんなに親父が怖いのか」
「そうじゃ……なくって……そういうことじゃなくて……!」
「好きな男ができたっていうなら我慢もする、諦めもする、悔しいけど祝福もしてやる、姉弟でこんな――感情持つこと自体間違ってたって――認めもするさ」
 それは、自己嫌悪の呻きにも似ていた。
「でも、そうじゃないんだろ」
「涼ちゃん……!」
「俺がもし俺じゃなければ――ただの、そのへんにいくらでもいる男の一人だったら、レン姉も少しは俺のことを比較対象として見てくれるのか」
「何、言ってるの。涼ちゃんは涼ちゃんで……」
「そんなの知るか」
 自暴自棄に怒鳴り、吐き捨てる。
「レン姉は、俺が嫌いなのか」
 残酷な、問い。
「そんなの……今は関係な……」
「答えろよ」
 答えられるはずがない。
 答えられるはずが――なかった。
 キッチンから連れ出され、リビングのソファへ身体ごと引きずられてゆく。
「や、あっ、やめて、涼ちゃん、やめ……!」
「さっき言ったよな。俺は欲しいものは絶対に手に入れるって。でも、さすがに、これ、だけは――」
「い、やあっ……だめ、ったら……乱暴なことしないで、涼ちゃん……!」
 突き倒され、もがく、私を。
 涼真は片手一本で容赦なく押さえつけた。
「ずっと、我慢、してた」
 黒い影が、上から。
 覆い被さるようにして近づいてくる。
 私は、息を呑んだ。
「これだけは、間違ってるって――いくら俺が馬鹿でも、レン姉だけは、絶対に望んじゃいけないって、分かってた。なのに、レン姉は」

 違う――

「知らない相手と結婚させられるって、それは別にいいよ。政略結婚ってやつだろ、見合いだろうが政略結婚の道具だろうが構わない、どんな立場でも甘んじて受け入れればいい。姉さんがそれでいいのならな。でも、俺が言ってるのは、そんなことじゃない。嫌なら……嫌って言えよ。どうして言わないんだ。俺のところにやってきて、楽しそうな顔して、俺にまで嘘をついて。結婚を止めて欲しいならそう言えよ。そんなに俺に言わせたいのか。”お前が、ずっと、好きだった”って。どうして言わないんだ。好きでもない相手と、知らない男と結婚なんかできないって。”止めて欲しい”って。言えよ。言ってくれよ。何で言わない。言ってくれさえすれば、俺が親父に言ってやめさせてやる。レン姉を自由にしてやる。俺が家を飛び出したから代わりに姉さんに結婚を強いるってんなら、親父の秘書でも何でもやってやる。後を継いでやる。有力者との血縁が欲しいなら代わりに俺がどんな女とでも結婚してやる。俺が全部引き受けてやる、代わってやる。だから、言えよ。早く言え。言えって言ってるだろう……!」
「やめて、涼、ちゃん……やめてってば……!」

 そんなこと言えるわけがない……涼真の夢を壊すようなこと――言えるわけが……!

「言えよ、”姉さん”」
 涼真の低い声が、耳にずきりと吹き込まれる。
「早く」

 ……できない……!

 手が、肩を押さえつけた。カットソーの襟ぐりを掴まれる。
「言わないなら」
 ぞっとするほど冷静な声が、私を凍りつかせた。
「俺がお前の弟をやめる」

 悲鳴を、上げる間もなく――

 気が付いたとき、私は、男の身体の下にいた。肌と肌、身体と身体、腰と、腰とが、直接、繋がっている。
 折り重なるようにしてソファに倒れ込み、強く、痛いほど強く抱かれて、動けない。
 どうしてそうなっているのか、よく分からない。
 分かるのは、部屋の中が、暗いということ。
 いくつかの光。
 ケータイの画面だったり。
 オレンジ色に光る炊飯器の明かりだったり。
 レンジの表示部分だったりするものだけが、静かに明滅していて。
 機械的に一秒ずつ運命を刻んでゆく時計の音だけが、静寂の中、おそろしいほど大きい音で聞こえていた。
 音とともに、命が、削がれてゆく。
 一秒。
 また、一秒。
 私は、そこへ近づいてゆく。
 逆行してゆく世界の中、まるで羊水に浮かぶ赤ん坊のように、ちいさく、まるくなって。
 呆然とするほかない喪失の感覚に身を浸している。

 弟に。

「レン」
 涼真の声がした。

 抱かれた――

 現実が、音を立てて、壊れてゆく。
 絆が、ちぎれてゆく。
 どんなにあがいても絶対に壊せない、越えられない、と、信じ、安堵し、諦めていた理性の壁は。
 こんなにも、脆く。
 あっけなく、壊れる、ものだった。

 姉と、弟。

 薄暗がりのなか、私をつらぬいたまま睨む涼真の眼だけが、外の光を熔かし込んで赤く光っている。まるで、熔けた鉄のようだった。

 血の、匂い。
 男の、匂い。

「やめ……て……」
 私は、喘ぐ。
「痛い……」
 言葉が、続かない。
 涼真は、何も言わない。無意識に逃げようとした私の身体に、さらに、荒々しく男の部分を押しつける。潰されそうな圧迫感だけが、いっそう、激しくなった。
 昨日までの、私は。
 もう。
 いない。
 私を現実に繋ぎ止めていた細い、細い、姉弟の絆は、男の力であっさりと引きちぎられ、その、代わりに、決して逃れ得ぬ罪の杭を深々と突き立てられて――
 荒くみだれた涼真の吐息が、私を押し包んでいる。しん、と静まりかえっているはずの暗闇に、時計と、家電の動作音と、私たちが洩らすけもののような呻き声だけが響いた。
 涼真が息をつく。
 ほどなく奥からじわりと熱く広がる感覚に、私は身体をふるわせた。
「逃げるな」
 低い声が私を押さえつける。
 女に変わった身体の、その汗ばんだ感触を確かめようとするかのように、涼真の手が、罪に繋がれた私の全身をゆっくりとたどってゆく。

 逃げられない――

 心臓が、早鐘のように乱れ打つ。
 息ができない。胸が潰れてしまいそうなほど苦しかった。喘ぎが止まらない。ひどく息苦しく、喉に声が詰まって、悲鳴じみた呻きばかりを押し出そうとする。そんな心臓など、もういっそ、泣き壊れて止まってしまえばいいのに。

「レン」

 残酷なささやきが聞こえる。
 ともに、堕ちろ、と。
 何もかも、棄て。
 理性を、棄て。
 罪の意識を、かなぐり棄てて。
 ひとりではなく、ふたりで。
 ともに愛し合い、罪を忘れ、快楽に溺れ、自己愛と憐憫にまみれた肉欲で互いを満たし合うことができたら。
 どんなにか――

 楽になれるだろう、などと。

 ――なんという、あさはかで、罪深い、おぞましい妄念であることか。

 違う。
 私は、絶対に、そんなことを望まない。
 涼真は、絶対に、そんなことを望んでなどいない。
 こんなことをさせた私を恨んでいるはずだ。涼真と私とでは比べものにならない。彼は洋々たる前途のある身だ。何をやらせても駄目だった私とは違う。父の自信、父の野望、母の笑顔、母の溺愛を一身に受け大切に厳格に強靭に育てられてきた弟と、軽侮の一瞥すら注がれず見捨てられ続けてきた私とは、存在の比重自体が違う。その私が涼真の人生の足枷、汚点になるなど、あってはならない。
 今ならまだ、間に合う。
 私さえ、消えれば。
 もう、二度と、逢わずにいれば。

 なのに。

 厭わしい、呪わしい、穢らわしい、この身体が、勝手に。
 涼真を求め、拒んで、軋んで。すがりつくような悲鳴を上げる。
 犯した、罪から。
 この、痛みから。絶望から。自分自身の、醜さから。
 眼を、そむけようとして。

 本当はずっと好きだったのかもしれない、本当は互いにこうなることを心の底では望んでいたのかもしれない、などと。絶対に好きになってはいけない”家族”だったのに、身の程知らずにも自分勝手な劣情を催すにまかせて、弟を誘惑し、弟を汚し。
 罪に、陥れた。

(で、でも、それってさ……小学校のころだろ……)
(今も同じよ! 私は涼ちゃんのお姉ちゃんなんだから)

 もう二度と、昨日までの私たちには戻れない。

 ――ずっと、涼真が、好きだった。
 子供の頃から、私のはるか先を走って行くその後ろ姿がまぶしくて、妬ましくて、劣等感に焦がれさえした。弟のことを思い出しては鏡の前で髪を指で巻いてはにかんでみたり、たった一回だけニコイチで取らせてくれたプリを何年も前に使い終わったぼろぼろのスケジュール帳に貼って、そのぶすっと拗ねたような笑い顔を、ひそかに、大切に取っておいたり。一つしか歳が違わぬくせに私より遙かに優しく大人びて見えた弟に対し、もし、自分が姉でさえなければ少しは女として意識してくれることもあっただろうか、などと夢想してみたりもした。愚かにも。

 好きだった。
 本当に。
 ずっと、ずっと、好きだったのに。
 でも、もう、二度と、それは見ることのかなわぬ夢。
 私は、罪を、犯した。

 私は、私を許さない。

 だから、もう、二度と、逢わない。
 もう、二度と、弟に対し、愛などという禁断の感情を持つことはない。
 決して、愛さない。好きになどならない。
 何があっても。何を、されても。

 弟にだけは、絶対に――愛されては、ならない。

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3 疵痕


 ぬるり、ぬるりと。長く、固い男の指が、私の中をかき回している。

 わざと、指を曲げて。骨張った関節の部分を、感じすぎるほど感じる肉の壁にこすりつけて。
 指それぞれが抜き差しされるたび、中で、いやらしい音を立ててくねっている。犬が舌を伸ばして水を飲むような、恥ずかしい、音……
 その指……に……
 中を、広げ……られて……

 ぁ、あ……

 とろっ……、と。長く糸を引いたみだらなとろみが、広げた指と指の合間からあふれ、内股を伝って、淫猥にこぼれおちてゆく。
 ぐちゅ、と、泡の音が鳴る。
 女の、その、部分に。
 うごめく指を根元まで突き入れられ、ねじ込まれ、奥までうずめつくされる。

 立って……いられ……ない……
 硝子窓に押さえつけられ、こんな、どろどろに……なるまで……身体の中を弄ばれている。
 こんな……こと、されて……
 こんな……みじめな、ことにさえ、感じる身体に……されて……

 涼真の冷ややかな声が、左耳に吹き入れられた。
「少しは感じてるのか」
 私は、狂おしくかぶりを振る。
 感じるわけが、ない。
 もう、二度と、絶対に、涼真には充足を与えないと誓った。
 何を、されても、どんなに支配されても。
 それは全部、嘘だ。
 涼真を……諦めさせるため、だけの、ただの演技……
「だったら声に出せよ」
 耳朶を口に含まれ、ちぎれそうなほど強く噛まれる。鼓膜にまで荒ぶる吐息が吹きかかった。耳全体を舐めしゃぶられる音が、身体と、神経とを一緒にかき乱す。
「聞かせろよ、レン」
 だめ、ぁ……だめ、耳はだめ……ぁ……あっ……いや……あ、ぁ……!

 耳に忍び込む音と。
 吹きかかる熱と。
 首筋にまで這い回ろうとする、舌の、感触が。
 私を、奪い去る。
 まるで目の前が暗くなったかのようだった。何が何だか分からない。涼真の声と、指だけが、私の身体の中でうごめいていた。

 ……ぁっ……
 いや……ぁ……!

「感じてない、というのなら」
 霹靂にも似たささやきが、もう、すでに溶け消えて無くなりかけている羞恥心を、強引に意識の上へと引きずり戻す。
「無理矢理にでも感じさせてやる」
 手が、下腹部へと下りて行く。
 恥毛を、ざわり、と逆撫でして掻き分け、それを、探し当てる。
 身体の奥が、びくり、と波打った。
 痙攣する。
 身体の中の指だけが、ときおり、思い出したかのようにのたうって、内側から肉の壁をぐいと押す。私は、悲鳴を上げる。驕慢な指に操られるがまま身体を浮かせ、うねらせ、のけぞらせる。
 膝の、力が。
 完全に失せる。
 もう、本当に、自分の力では立っていられなかった。涼真の指づかいに、完全に翻弄され、引きずられ、快楽の深淵に堕とされる。
 嫌な、音が、泡立つ。声が、洩れる。
「……ここに」
 確信を持った指が、ほんのわずか、濡れそぼって、ぬめる、やわらかな肉のとがりをかすめ――ゆるり、と、嬲るようにこすり上げる。

 ゃ……っ……

「言えよ」
 暗いささやきが意識を覆い尽くす。その手管に、籠絡される。
「もっと触って欲しいなら、そう言え」

 ぁ、あ、イヤ……音、が、してる……濡れ……て……!

「や……だ……」
 涼真が、ふっと表情をやわらげた。
 指の、動きが止まる。
「あ……あっ、やだっ……おね……がい……やめ……涼ちゃんっ……!」
 ぬるり、と抜き取られてゆくときの、あさましい感触に私はくずおれる。
「黙れ」
 床に膝をつきかけた瞬間、涼真に腕を取られ、支えられて、もう一度強引に立ち上がらされる。
「……っ……!」
 カーテンも何もない、冷たい硝子窓に、半裸の身体を真正面から押し付けられ――
「い、やっ……いやあッ! こんな……外から見られ……やめ……!」
「レン」
 もがく私の背中を、手のひらと、ぞっとする声とが同時に押さえつけた。
「何度言わせたら気が済む」

 私は、絶句する。
 声が、出ない。
 身体が、氷のように冷えてゆく。
 窓硝子が、私の喘ぐ吐息でみるみる白く染まった。
 上半身を硝子に押し付けられ、乳房を無様なかたちに押し潰された、そんな格好で、腰を抱きかかえる手が、前から、後ろから、それぞれ下腹部と内腿を伝って――
「俺を、弟扱いするな」
 身体が、痙攣した。

 ……ぁっ……いや……っ……そんな……こと……しな……いで、ぁ、あっ……!

 とろり、とろり、やわらかな水を捏ねるかのように、指が這いまわる。
「どうした。答えないのか」
「いや……ぁ……っ!」
 前から、忍び込んでくる指が――ゆっくりと円を描いて、甘く、優しく、狂おしいまでの痺れた感覚を伝えてくる。
「止めて欲しいなら、言え」
「っ……う……!」
 そんなことを言いながらも、もう一方の手が脇腹を、腰を伝い、後ろから掴んだ尻を乱暴に押し退けるようにしながら、指を、差し入れてくる。
「言えよ、レン。はっきり言え。そうすれば止めてやる」
 ついばむような指先の戯れだけで、全身がふるえだしてゆく。
 私自身の上げる、恥ずかしい、上気した呻きにひきずられて、さらに身体中が蒸れて、どうしようもなく火照ってゆく。
 それは、再会してすぐの、あの、堰を切ったかのような狂暴さで着衣を剥ぎ取られていったときに覚えた、息を呑むおそろしさとはまるで違っていて。

 硝子窓に汗ばんだ乳房を押し付け、ゆすり立てられながら、あふれ出す蜜をすくい取られ……そうしながらも、やさしくとろかすような、泣き出しそうになるくらい、甘い、優しい、じれったくもどかしい、悲痛なまでに緩慢な残酷さで、いつまでも、ゆるり、ぬらり、とろとろと、煮溶かすように愛撫され――  

 ……いやっ……

 身体の内と外の、最も敏感な……
 つん、と、尖って。
 触れられただけで、全身がふるえ、すくみ上がる、そこを……
 前からの手と、後ろからの手の、両方で、中からも、外からも、同時に、くちゅ、くちゅ、ともてあそばれて。
 もう……もう……眩暈がして、視界が、声が、裏返って、ヘンになりそうだった。抱かれているわけでも、ないのに。脱がされて……触られて……探られて……いる……だけなのに……
 あっ……あっ……だめ……何か……
 出たり入ったりして……る……いやぁ……恥ずかし……
 そこはだめ……やだ……ぁ、ぁっ……さわら……ないで……!

 ひ……っ……
 ぁ……あ、ひぅん、っ……きもち……い……っ……

 なのに。

「……まだだ」

 突き抜け、達しそうになるたび。硬直しそうになるたびに。
 嘲るでもなく。罵るでもなく。
 完璧に感情を消した、怜悧な、計算し尽くしたような声が。
 私に、命じる。
 嬲る指を、止める。
 息詰まりかけた、突き上げるような上昇感覚を見透かされて。
 突き放される。
 押しとどめられる。
 許さない、と――

 そのたびに、私は、泣く。
 うめき、むせび、悶える。
 その指に。
 涼真の、手の内に。
 囚われ、あやつられ、支配され尽くしていることを思い知らされて。

 本当は。
 心の、どこかで――

 もう、いっそ、こんな弱い、脆い、寝穢い身も心も、奴隷以下の何かのように貶められてしまえば。
 何も考えられなくなるぐらいちぎり取られてしまえば。押し潰されてしまえば。
 あのときのように、プライドも、理性も、未来も。何もかもめちゃくちゃに壊して、辱めて、消してくれたら――楽に、なれるのに、と。
 でも、できない。
 それは、許されない。
 決して望んではならないことだった。
 望んではならない、からこそ――

 浅はかにも必死によろったいびつな理知の仮面を、無様にも剥ぎ取られたい、と。

 心の奥底に押し殺した貪婪な欲望を。
 本性を。
 白日の下に晒されたい、と。
 それが、逆に、涼真の良心を、精神の均衡を苛むことになると分かっていながら、おぞましくも、望んでしまった。

 父と、母に――
 愛されて、愛されて、愛されてまっすぐに育った弟の。
 その、手に。
 堕ちることが。

 どれほどゆがんだ――狂おしい悦びであったかを、知った、あの罪の日から。

 だからこそ。
 我が身のすべてが疎ましく、けがらわしく、愚かしく。そして何よりも、憎かった。

 ふと、手が離れた。
 優しく残酷な手が、快楽に縒れた私の腕を後ろへと回し、いざなう。
「残酷だな、レンは」
 両手首を逆手にねじり取られる。
 掌が、ゆっくりと何かに押し付けられた。
「俺を、こんなにして」
 私は、びくりと身をふるわせた。スラックスの生地越しに、何かが、跳ねるように動いている。
 涼真は、私の手首を掴んだまま、後ろ手にまさぐらせるようにしてさらに強くスラックスへと押し当てさせた。
「だめ、涼ちゃん……そんな……こと……」
「笑わせるな」
 感情のまるでない、よどみない声で涼真は低く呻いた。
「お前が、俺を、こんな最低の男にしたんだろう」
 冷え切った声と相反した、恐ろしいぐらい激情のこもった熱が。
 びくり、びくり、と、今にもはじけそうな緊張を孕んで揺れている。
「姉を、姉と――思おうともせずに本気で強姦《レイプ》し続けるような男に」
「やぁっ……あっ……」
「なのに、お前は、どんなに俺が求めても、何ひとつ抗おうとしない」
「ぁっ……!」
 手首を、強く握り込まれて。
 すでに半ばほどかれたベルトの金具が性急な音を立てるのにも構わず、ファスナー部分へと力ずくで手を持ってゆかれる。
「このまま黙って引き下がるとでも思ってるのか」
 ゆるめられたスラックスの、内部へ――
 後ろ手のまま、強引に、涼真の下腹部へと手を押し込まれる。
「あ、んっ……!」
 恐ろしいほど熱く。堅く。
 ぐっと張り詰めた感触が。
 掌に、びくびくと脈打つようにして伝わってくる。
「だめっ……やだ、あっ……涼……!」
「レン」
 低く押し殺した声が、命じる。
「握れ」
 異様な命令に、私は、息をあえがせた。眼を固く瞑って、身体をよじらせる。
 何が何だか、分からない。ただ、完璧に平静を保った声とはまったく違う、荒々しいまでに迫り立った欲望の感覚が、あまりにも状況とちぐはぐで――
「処理しろ」
「や……っ……!」
 悲鳴を――あげかけた私に。
「いいから、握れ」
 涼真は、かつての優しさのかけらもない、冷ややかな侮蔑の口調でゆっくりと吐き捨てた。
「手を放すな」
 両肩を掴まれ、ぐるり、と身体の向きを変えさせられる。
 私よりも頭一つ、いや、二つ分ほども高いところに。
 月明かりに青白く照らし出された涼真の、落ち着き払った表情があった。
 ガラスの色を反射した瞳が、時に青く、時に赤い光を帯びて静謐に光っている。
「滑稽な話だ」
 睨むように私を見下ろしていた涼真の眼が、かすかにゆるむ。
「少しでも自制心を取り戻してしまうと、必死な自分が惨めすぎて嫌になる」
「涼……ちゃん……」
「でも」
 先ほどまで、私の身体の中にあって――奥の、その奥まで、ぐちゅぐちゅと音をさせてかき回していた指が、つと、頬に触れた。
 ぬるりと濡れた指が、頬を嬲る。
「変わらないな、レンは」
「……」
「俺を睨むその眼も、喘ぎ声も、その、手つきも」
「……」
「でも、俺は変わった。お前のせいで」
 冷たい微笑みが近づく。おびえて乱れた私の髪を、愛しいと言っていいほどの声色が撫でてゆく。
「手を止めるな」
 涼真が、ゆっくりと身をかがめる。吐息が耳元に吹きかかった。
「――しろよ」
 闇から、闇へ、涼真の口から出るものとは到底思えない挑発的な言葉が、聞こえるか聞こえないかのあやうさで耳打ちされる。

 今にもはち切れそうな、その熱が。

 私の、掌の中で。

 悶えるように、動いている――

「忘れたとは言わせない」
 涼真の手が、全身を逆撫でするように伝ってゆく。
「ぁっ……あっ……ぅ……」
 唇が、ふさがれる。私は身体をのけぞらせた。
「う……んっ……!」
 顔を強く手挟まれ、半ば押さえつけられながらキスされる。視界と感覚が涼真に覆い尽くされた。うねる舌が深く差し入れられ、私の舌を根元からまさぐった。
「何度でも、思い出させてやる」
 吐息混じりの熱い感触が、ねっとりとからみついてくる。
 唾液が、糸を引いてからみ合った。
「あっ、ぅ……う……ん……!」
 むさぼり重ねられた唇から、絶え間ない情欲の吐息がこぼれ、あふれ、いやらしい音を立てる。
「ぁっ……ふ……!」
 背筋を、腰を、総毛立つかのような指先が無尽になぞり、そそってゆく。その動きに呼応するかのように私の手もまた、罪の指を涼真の熱にからみつかせ――
「涼……ちゃん……」
「レン」

 闇の中――
「お前は、俺のものだ」
 くずおれるように重ねた肌が、白く、溶けてゆく。

 乱雑に脱ぎ捨てられたシャツが、フローリングの床に落ちている。
 月明かりが差し込んでいた。
 サッシの形に切り取られた十文字の影が、色濃く床に落ちて、くしゃくしゃになったワイシャツの皺や折り目をくっきりとした青灰色の陰影で際立たせている。
 涼真は、いない。
 廊下側のバスルームから水の流れる音が聞こえた。
 シャワーを浴びているのだろうか。
 私は、ゆっくりと身体を起こす。はだけた毛布が、肌の上を不如意に滑り落ちて、ベッドにわだかまった。
 全身が酷くだるく、そのくせまだ昂揚しきった熱を帯びて火照りきっている。
 少し、身をふるわせるだけで。
 胸がざわめく。身体の奥底がじりじりと疼く。
 涼真に、むさぼり抱かれ――
 なのに、まったく実感がない。じっとりと濡れた火照りがまだ、身体のそこかしこで、燠火《おきび》のような残熱となって埋《い》けられている、というのに。
 何か、不思議なぐらい、実感がない。
 指の間からすり抜けて落ちる砂のような、灰のような。
 散逸の感覚しか、ない。

 記憶が途中から抜けているせいだ、と気付く。
 驚きはない。
 いつだって、そう。
 気が付いたら、最後には、ぽつん、と。
 闇の中。
 たった一人で。
 裸で置き去りにされて。

 ふと、可笑しくなった。
 それは、子どもの頃からの悪癖のようなものだった。気が付いたらびっくりするほど時間が過ぎていたり、子どもじみた思い込みにとらわれたり。
 あの窓を見てはいけない。あの窓の向こうには怪物がいる。
 夜中に鏡を見てはいけない。目が合ったら連れて行かれる。
 だから、眠れない夜は薬を飲まなければいけない。さもないと、夢の中で知らない人に連れて行かれる――
 とはいえ、さすがにそれだけは子ども心にも夢だと分かっていた。眼が覚めればちゃんとひとりで自分の部屋にいるし、何も変わったことはない。
 ただ、一度だけ。
 本当に、誰かに、連れ出されたことがあるような気がして、そのことをまだ幼稚園児だったころの涼真に打ち明けてみたことがある。
 涼真は、『わかった、おれがレン姉をまもる』、そう言いながら、自分より背丈の大きなくまのぬいぐるみをひきずってきて、私の部屋で一緒に寝てくれようとした。しかし結局すぐに母に見つかり、叱られて泣きながらくまごと自室に連れ戻されていったが――

 不思議なほど、鮮明な記憶。

 それにしても、だ。
 シャワーの音はまだ止みそうにない。
 呑気にシャワーを浴びるのはいいけれど、着替えはちゃんと持ってきているのだろうか。それとも、いまのうちに洗濯をしておくべきか。
 いくら涼真でもわざわざスーツ一式を持ってくるほど計画的とは思えない。でも、たとえば突然の出張を命じられた時などのために、車の中にそういった着替えを常に準備してある、といったことも、普通のビジネスマンなら十分に考えられる。涼真が普通のビジネスマンかどうかは別としてだけれど……。
 そんな、どうでもいい、とりとめもない思考ばかりが頭の中を堂々巡りしている。
 何もかもが、自分のことではない、自分とは関係のないところで起きている、かのようだった。
 くしゃくしゃにしなだれたワイシャツを、乖離した眼差しでぼんやりと見つめる。
 おそらく、脱ぎ捨てられたままの、そのままのかたちを残しているのだろう。ゆっくりと回る灯台の光に切り取られた一瞬の光景のように、そこだけが奇妙にノイズの強い、ざらついた粒状感を帯びている。
 私は、ベッドから下りて手を伸ばした。足元にわだかまっている涼真のワイシャツを拾い上げる。
 さらりとした布触りが腕に馴染んだ。
 ふっとわずかに香る整髪料が鼻先をくすぐる。
 ためいきが洩れた。
 私は、無意識にワイシャツを抱きしめた。顔をうずめる。

 ずっと、こうしていたい。
 脱ぎ捨てられたワイシャツ一枚ですら、涼真のものだと思うとこんなにも愛おしく、せつなく、苦しい。
「……涼ちゃん」
 おずおずと、残り香に頬を寄せる。
 息を、胸一杯に吸い込む。そうしているとまるで涼真の胸に顔をうずめているかのような心地になれた。
(姉さん)
 懐かしい、優しい、遠い笑顔の記憶がよみがえる。ごく普通の姉弟だったころの、たわいなくも満ち足りた日々。思い出すだけで、つい微笑んでしまうかのような、涙ぐんでしまうかのような、記憶の残り香。忘れ得ぬ平穏。

 平穏――

 唐突に、ゆらめくような着信のメロディが響いた。
 リビングの天井に、青白い水のような、明滅。液晶画面の放つ光が映っている。
 ソファに置きやられた携帯がメールの着信を知らせているらしかった。
 もちろん、誰からのメールなのか見るつもりはなかった。見る理由もないし、必要もない。それは私が見ても仕方がないものだ。
 涼真の携帯は外界、現実社会とつながるためのものであって、私がいる孤独とは無縁だ。孤独の世界に外からの電波は届かない。
 一回、二回。メールの着信音が鳴って、画面が光って。それで終わり。
 再び、静かになる。
 液晶画面の光が消えた。
 いつの間にか、シャワーの音もまた止んでいることに気付く。
 廊下を裸足で歩いてくる足音がした。フローリングが小さく軋む。
 顔を上げると、白いバスタオルを低い位置で腰に巻いた涼真が私を見ていた。髪が濡れている。背後からさしかかる暖かみを帯びた浴室の明かりが、涼真の半身を、光の当たる明るいオレンジと、影の差す漆黒とに塗り分けていた。
 片足を軸に体重をかけ、腰高な姿勢を取る涼真の、切れ上がったような半裸が眼に焼き付く。
「レン。何してる」
 私は――ワイシャツを抱いたままの自分の腕に気付いて、ぎくりと身体をすくませた。
「……その」
 語尾がふるえた。無意識に、ワイシャツで身体のかたちを隠そうと胸に押し当てる。
「クリーニングに……出すのかと思って……」
「そんなこと気にしなくていい。それより」
 涼真の視線が私の腕に慌ただしく落ちる。
「メールが来たはずだ」
 私はうつむいた。
「見たのか」
 眼も上げられなかった。
「どうして見ない」
 答えられない。
 涼真は濡れた身体のままリビングへと戻り、置き放してあった携帯を手にとった。片手で器用に画面に触れ、操作している。
 液晶の放つ光に照らされた表情が、ふと、挑発めいた笑みに変わった。
「確かに、見ない方が良かったかもな」
 涼真は疎ましげな仕草で舌打ちすると、携帯をソファへと投げつけた。光る画面が反転しながらクッションの奥へ転がり込む。
「涼ちゃん……仕事が忙しいなら……」
「仕事相手じゃない」
 胸の奥が、ずきり、と。
 覚えてはいけない苦痛、感じてはいけない焦燥に、揺り動かされる。
「気になるか?」
 私は、黙りこくった。
 あえて、仕事の相手じゃない、と言われれば。
 気にならないと言えば嘘になる。
 嘘にはなるけれど……でも。
 私は無言で顔をそむけた。動揺を悟られたくなかった。ともすれば苦しくなる呼吸を、心ごと押しこごめ、内側から鍵を掛け、蓋をして、無意識に閉じこもる。
 知る必要はない。知っては、いけない――
 だが、逆にそれを拒絶と取ったのか。
「だろうな。どうせ」
 涼真は苛立たしげに吐き捨て、私の手からワイシャツをさっと抜き取ろうとした。
「あ、っ……」
 まるで、すがりつくかのように抱きしめていたワイシャツを、唐突に奪われそうになって。
 なぜか、とっさに手を離すことができなかった。私はうろたえた。ワイシャツで涼真の目をさえぎろうとしていた、から、だけでは、ない。
「やっ……」
 裸を隠せなくなる恥ずかしさよりも、未練にも似たあやまちが、涼真に依存している心の奥底そのものが、一気に剥ぎ取られ、あらわにされてしまったような、そんな心許なさとおそろしさに、私は引きずられた。
 まるで、涼真自身を誰かに奪われてしまいそうな――そんな愚かな強迫観念に苛まれて。
 ワイシャツから手を離せないまま。
 一気に引きずり寄せられる。
 身体が、つんのめった。
「レン」
 涼真は驚いた声をあげ、眼を瞠った。のけぞる私の身体をとっさに受け止め、腰に手を回して抱き支える。
「大丈夫か」
 思いも寄らない出来事に、涼真の声が、わずかながらうわずっている。自分の腕力――男と女の歴然とした体力差に、初めて気付いたかのようだった。
 膝に力が入らない。
 自分で自分が支えきれなかった。
 シャワーを浴びたばかりの、ぬるい湯の匂い。蒸気に光る、濡れた肌。温められたボディソープの香り。あまりにも近すぎる涼真の熱。だが、それより何より、驚いて見開かれた眼が近づいて――

「レン」
 間近に見つめてくる瞳の、その奥に広がる深い色に呑み込まれそうだった。
「あ……」
 突然の出来事に困惑し、動揺する。
 眼を押し開いて。息を止め、互いに見つめあって。怖いほど、近くに――抱かれて。
 心臓が、破れそうだった。
 こんな、思いを。
 こんな、気持ちを。
 悟られては――いけない……

 私を抱く涼真の腕に、ぐっと、違う感情のこもった力が加わる。
 身体が、こわばった。
「だ、だめ」
「レン」
「さ、触らないで」
「レン」
「いけない」
 私は、息を喘がせた。
「だめ……だってば……涼……!」
「レン」

 ふいに――強く、狂おしく、抱きしめられる。

「ぁ……!」
 怖いぐらいの力だった。ほんのすこしの身じろぎすら、できない。
 息さえ、できないまま。
 涼真の胸に、いっそう、固く、すがりつくかのように抱きすくめられて。

「俺が」
 自分を押し殺したような、低い、胸の詰まる声が、ささやかれる。
「そんなに、嫌か」
 私は、眼を押し開く。
「そんなに、俺が嫌いか」

 身体が、痙攣したように震え出す。

 嫌い、だなんて。
 そんなこと、あるわけが――

 悲鳴。過去の記憶に苛まれる心が、張り裂けそうな悲鳴を上げる。
 言っては、いけない。
 絶対に、告白してはいけない。
 本当は、こんなにも――

 違う。
 それは、慰め。
 何度、抱かれても。
 何を、言われても。
 涼真は、絶対に、私を好きになりはしない。自戒すらできぬ女のくせに思い上がってはいけない。これは罰だ。私への罰。
 快楽も、絶望も。何もかもが嘘。何もかもが偽り。
 私はパンドラの箱を開けてしまった。開けてはならない箱を。踏み込んではならない道を。愛してはならない人を。身の程知らずにも好きになってしまった。自ら覚悟して罪の一線を踏み越える決意も勇気もなかったくせに、穢らわしい欲望だけは際限なく膨らませた。獣みたいに抱かれたかった。抱かれ、犯され、めちゃくちゃにされたかった。
 姉の顔で、弱みを、見せ。
 女の顔で、いぎたなくも誘った。
 私が、弟に、近親相姦の罪を着せたのだ。その優しさにつけ込んで、良心の苛みを断ち切らせた。笑顔を、奪った。

 涼真のことが。

 こんなにも。

 好き、だったのに。

 好き、と思うことさえ。
 ――自分の、気持ちに正直になることさえ。

 できない。

「レン」
 本当は、こんなにも好き、なのに。

 好きだと、少しでも思うことさえ、絶対的に否定し、拒絶し続けなければならない。
 そんな、つらい思いをし続けるのは、もう。
 嫌。
 嫌だ。
 嫌だ。嫌だ。嫌。嫌。嫌。嫌――

 理性が、ぼろぼろと、壊れてゆく。

 もう、全部、何もかも、投げ棄てたかった。
(あんな男の血を)
 甘えたかった。
(引いているから)
 泣きくずれて、すがって、許しを請いたかった。
(だから)
 自分の罪を、全部、忘れて。無かったことにして。
(同じ、罪を、犯したのだ)
 記憶からも、思い出からも、存在ごと、全部。

 消すことができたなら、どんなにか――

「レン!」
 消えてしまいたい、と。
 思った、刹那。
 凄まじい力で、左の手首を握りしめられる。
「あっ……あ……痛……っ……!」
「レン」
 ぎりぎりと腕をねじり上げられる。殺気にも似た、凄まじい瞋恚の眼差しが食い入るように突き刺さった。
「だめだ」
 甘美な霧散の誘いから過酷な現実へ、絶望へと。
「許さない」
 強引に、引き戻される。
「ぁ……あっ……ぁ……!」
「レン」
 涼真は、低くつぶやいた。
「俺から逃げるな」
「……!」
「言ったはずだ。全部、俺が、引き受ける、と」
「涼……ちゃん……だ、め……!」
 私は、抗おうとして、掴まれた手をよじった。
 強く絞められた手首に、赤く鬱血した扼痕が、過去の記憶、罪の刻印のように浮かび上がってゆく。

 何を、言われても。
 何度、抱かれても。
 誰に、抱かれても。

 身体の痛みは、いつの間にか記憶からごそりと抜け落ちて消えているのに。
 ひりつくような罪の痛み、焼けつくような自罰の思いだけが、どうしても消えない――

「見るな」
 涼真は声を荒らげて私を抱いた。抱き寄せる。
「俺を見ろ。レンは、俺だけを見ていればいいんだ」
 なお強く引き寄せられ、胸に抱かれ、首筋に唇を押し当てられて、全身を包まれ、求められる。
「人間として間違ってても構わない。お前のすべてを俺のものにする。身体も、心も、苦痛も、快楽も。全部、俺の物だ。誰にも渡さない。くれてなどやるものか。お前を繋ぎ止めることができるなら、獣にでもクズにでも、何にでもなってやる。絶対に、逃がさない。どこへも行かせない」
 その言葉、その抑圧を。
 私は無条件に受け入れる。考えることを放棄する。いつものように忘れてしまえばいい。古い疵痕。記憶にない疵痕。私の左手首に残った罪色の滲む痣。全部、忘れる。それが私の役目。朝になればすべて、遠ざかるテールランプのように簡単に忘れている。それがテールランプであることは分かっても、その中のひとつを選び出して示したところで無数に行き過ぎる車のうちのどれだったか見分けすら付かないように。涼真に押さえつけられた圧迫の痕が別の記憶、別の何かを想起させたのだとしても、それは消えていった記憶のなかの一つに過ぎない。思い出してはいけない。探し出しては、いけない。鏡を、見ては、いけない。

 真実を、映し出せば、

 全部、壊れる。

 赤い、色は。
 漆黒の闇を流れ落ちる色。窓の外、無数に連なるテールランプと同じ色だ。時折つんざく、クラクションとブレーキの音は。いつまでも鳴り止まない悲鳴だ。毎夜、毎夜、代わる代わる、繰り返されて。

 なぜか――押し潰すようにして迫ってくる父の手が、唐突に思い浮かんだ。 

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4 代償


 あの手は、何だったのだろう――

 記憶が、欠け落ちている。悲鳴と、赤い色と。闇。
 そのほかは何一つ分からない。ところどころ途絶えたかと思うと、過去と現在、今といつかの記憶とが、ナイフとガラスを砕いて入れた血まみれのるつぼみたいに、どろどろのない交ぜになってゆく。
 私に分かるのは、涼真と今、セックスしている、ということだけ。それすらも、ともすれば分からなくなっている。抱かれているのか、獣のように交尾しているのか、それともただ、怒りにまかせて……めちゃくちゃにされているだけなのか。
 ああ、たぶん……涼真は怒っているにちがいない。私の身体が、何をしても、反応しないから。
 いや、違う、反応していないわけじゃない。私の身体は紛れもない淫乱の血を引いている。男が欲しくて、餓えて、乾ききって火照る肌の熱さに、自分で耐えきれなくなって足を開く身体。
 まさか、あの母も――涼真にだけあふれる愛を注いだあの人も――そういう身体だったのだろうか。教育熱心で、生活の乱れに厳しく、妻の模範、母の模範を体現するかのような母が、夜は――
 まさか。想像できない。
 あの母を見ていれば、そんな言葉どうしがよもや結びつくはずもない。
 昼間は、大概、気が付かない。でも、気が緩んだ夜。深夜。明け方。そんな時、薄暗がりにぼんやりと光る、おどろおどろしいまなざしで、母はいつも私を見ていた。
 あの、眼は。

 何かを知っている眼だった。私の知らない何かを。私の中にある、何かを。
 おそろしいのは、女の直感、かもしれない。今思えば、笑い出してしまいそうだった。きっと、母は、私が涼真に恋していることを知っていたのだろう。
 と同時に、怖れてもいたに違いない。私が――私の中の淫乱の血が、いつ、涼真を――

 そうだ、私の身体は、今、狂乱のさなかにある。感じていないはずがない。こんなにもぐちゅぐちゅといやらしい音を立ててむせび悶える身体が。濡れそぼる熱い身体が、感じていないはずがない。

 感じていないのは、心のほうだ。

 痛い、はずなのに。

 痣が浮くほど乳房を乱暴に揉みしだかれても。
 張り裂けそうなほど足を開かされ、何もかも晒され押し潰されながら強引に突き入れられても。
 
 感じない。
 不思議なほどに何も感じない。悲鳴が聞こえても、それは、身体があげる悲鳴。ベッドの軋む悲鳴。
 ただ、涼真のネクタイでベッドに縛り付けられた、左の手首だけが。
 焼けつきそうなほど、ちぎれそうなほどに、痛い。
 でも、その痛みこそが、涼真と私を繋ぐ――唯一のきずなであるかのように、思えた。

 束縛。

 私は、涼真とは、違う――って。
 いったい、いつから、そんなふうに思うようになったのだろう。
 何もかもが、私と違っていた。私の持っていない全てを、涼真は持っていた。大好きだった。憧れていた。光みたいだった。涼真みたいになりたかった。無理だと分かっていても――弟ではない涼真が欲しかった。涼真が生まれながらに持っていた天性の、家族の真ん中で光る、あの”何か”が欲しかった。

 私の、血は。
 汚れた、血だ。
 荒んで、汚れて、膿んだ血。剥がれ落ちた子宮の内膜みたいな、どろどろの、赤黒い残滓。

 もっと、めちゃくちゃにして欲しい……もっと……

 足りない。

「レン」
 涼真が、私の耳元でうめいている。
「シャワーを浴びろ。汚しすぎた。起きろ」
 終わった、のかもしれない。いつの間にか。
 ぬるり、と、肉茎の抜き取られる感触が下半身を心許なくさせる。涼真の荒い息が吹きかかった。
 何かが、膣から尻を伝ってベッドにこぼれ落ちる。水のような、ぬるい――どろりとした、何か。

 そんなことにしか、注意が行かない、なんて言えば。
 きっと、怒るだろう。
 何も感じなかった、などと言えば。
 でも、それが、逆に涼真には都合が良いのかも知れなかった。私が感じているかどうかなんて涼真には関係のないことだ。私の身体で、私の口で、私の肉でときどきでもいい、男の性欲を処理してくれるというなら、それだけで十分、私にも生きる価値がある。私は私を捨てずに済む。この、不様すぎておぞましくさえある自制心にすがりついてさえいれば、私が犯した罪のすべてを、贖わずに済む。

 今みたいに、何も、感じなければいい。
 そうすれば――

 感じすぎて、痙攣しすぎて動けなくなった身体を、無理矢理に抱き起こされる。立ち上がれない。身体のどこにも力が入らなかった。手を取られ、涼真の腕に抱かれる。
 首が、力なくのけぞる。乳房が、ちらつくように揺れる。
 声が、出ない。
 私は、自分の心にさえ、女の嘘をつく。
 この身体で。この浅ましさで。どうして、心までは感じていないなどと――
 涼真の欲情のすべてを受け入れて、呑み込んで、なお足りないと喘ぎ、うずく身体のどこに、理性が残っていると言うのだろう。
「起きろ」
 何度言われても、動けない。汚れていてもいい……どれほど汚されていてもいい……

 だが、涼真は私の甘えを許さなかった。苛立たしげに舌打ちしたかと思うと、ベッドの柱に縛ったネクタイをあっさりほどき捨て、私の身体を一息に抱き上げる。まるで手枷のように、手首のネクタイだけが残っている。
「あっ……」
「暴れるな。手が滑る」
 お世辞にも軽いはずはないのに、やすやすと抱き上げられてしまう。私は涼真に抱かれたまま、ユニットバスへと連れ込まれる。
 シャワールームには、先ほど涼真が浴びた熱気がまだ籠もっていた。
 ぬるいソープの香りが漂っている。足元も濡れたままだ。涼真は私をいったん下ろし、片腕で抱いたまま、もう一方の手でシャワーのコックをひねった。二人同時に、ぬるい水しぶきを浴びる。
「ぁっ……」 
 ほんのわずかな刺激にすら、敏感に反応してしまう身体に、シャワーの飛沫が流れ落ちる。
 私は涼真に後ろから抱かれて、一緒に頭からシャワーを浴びた。顔をすこしそむけないと、飛沫が鼻やくちびるに飛んで、息がすぐにできなくなる。
「動くな」
 涼真は、私の手首を縛ったネクタイをぐいとつるし上げた。表情ひとつかえないまま、そのネクタイで、私の両手首を後ろ手に縛ってゆく。
「……何……なの……? 何のつもり……!」
「ちょっとした刺激だ」
 涼真はうすく笑うと、私を縛ったネクタイをぐいと引き寄せた。濡れた床に足を滑らせてしまいそうになって私は思わず悲鳴を上げた。涼真が、男の腕で私を抱き止める。
「や……やめて……!」
「おとなしくしていないと本当に滑るぞ」
 笑いがシャワーの音と混じり合った。涼真が、シャワーの水圧を強くする。
「あっ……やぁっ……!」
 喉元から、胸へと当たるシャワーが、肌の表面を流れ落ちてゆく。はじいた水玉がこぼれ落ちて、大きな音を立てた。
 涼真は、シャワーのヘッド部分を手に取った。さっと水流を横切らせて私の顔へとかける。
「んっ……! ううんっ……!」
 汗の滲んだ肌が、おそろしいほど、水のひとつぶひとつぶを感じさせて、痛いほどだった。ほとんど体温と変わらぬぐらいのぬるいシャワーが、私が悲鳴を上げないよう、必死に引き結んだ口元から、うなじへと当てられ、それから、シャワーで撫で回すように乳房へとむけられる。
「やっ……ぁ……!」

 恥ずかしい、ぐらい……

 乳首が、きゅっ……と絞られて、立ち上がっている……
 シャワーを、浴びせかけられただけ……なのに……!

 後ろ手に縛られているせいで、自分では、何も、できない。動けば、足を滑らせてしまう……!

 涼真が濡れた私の腰に後ろから手を回した。
「ぁっ……う……!」
 腕を折り曲げ、縛った手の位置を、わざと、ひどく上にさせられる。そこに、あるのは――
「ぁ……あっ……あっ……やだ……こんな……!」
 涼真は、ゆっくりと唇を私の耳元に寄せた。
「俺に触れろ。良いと言うまで、手を放すな」
「……嫌……ぁっ……!」
 瞳に宿る冷たい光。
 その眼差しに押さえ込まれ、射すくめられて――声すら出なくなっていることに気づく。
「レンの手で感じたい。放したら、縛ったまま放置して帰ってやる」

 ……そんなこと……されたら……!

 涼真は少し身体を離して、ボディソープの液を手に取った。
 肌に直接、ボディーソープを流しかけられる。胸に、白く、流れ落ちてゆく、甘い、ソープの香り。したたり落ちて、とろとろになるまで全身にソープを塗り込まれて、私は、力なく喘いだ。
 耳元で、シャワーの激しい水しぶきの散る音が聞こえる。涼真が、冷ややかにささやいた。
「手を止めるな」
「や、やだ……ぁっ……あっ、あっ……!」
 涼真の手のひらが、ぬるり、と。
 肌の上を、ぬめるように滑ってゆく。ゆるゆる、と、泡立った白い液体が、身体中に――
 理解できない。もはや、制御すらできなかった。さっきまではわずかでも自制心などというものの存在を信じられたのに。涼真の腕に抱かれ、涼真の手に全身の肌を翻弄され、乳房にシャワーを当てられながら、涼真の――男そのものの部分を、縛られた手で。
「もっと触れ。もっと乱暴に握っていい。勃つまでだ」
「無理……できな……ぁ、あっ……や……やあっ……んんっ……ぁぁ、ああ、んっ……うっ……ああ……!」
 どろり、ぬらり、ぬるぬると、指先が乳首を滑り転がす。乳房を揉みゆすられる。腰を這い回る手。下半身をまさぐる手。泡立てられたソープの泡がつたって足元に白く流れてゆく。
 縛られて、洗われて。もう、何が、何だか、分からない。私は、いったい、何を――
「流すぞ」
 涼真はシャワーのヘッドを手に取った。また顔に飛沫がかかる。私は身体をのけぞらせて、顔をそむけた。一方の手で、ぬるぬると全身を洗われながら、内股に手を入れられ――
 指先が、ふいに、そこに触れた。
「……っ!」
 シャワーの湯が、下から噴き上がって――

「や、や、やだ……嫌……あっ、あっ……!」
「動くなと言っただろう」
 涼真は初めて、声を上げて笑った。
「石けんが中に入ると身体に悪いだろうからな。洗ってやる」
「やめて、やだ、嫌っ、そんな……ぁっ……」

 シャワーの湯が、指で、剥き出しにされた、そこに……ぁっ……あ……うそ……嫌……っ……あ……! 

 ソープの泡はもう、半分以上、流れ落ちていた。涼真は私の手首を縛ったネクタイを掴んだ。熱いほど腰を密着させてくる。肌を突く何かが背中に押し付けられた。
「ぁっ……う……!」
 ややうつむいて、腰だけを支えられて。後ろ手に縛られたまま、けものの姿勢を取らされる。
 シャワーに打たれる、壮絶なまでにやわらかな――気の狂いそうな刺激が肌を打った。
「ぅ……ううん……ゃだ……あ……あ……イヤ……っ……!」
 髪が濡れ、くちもとにまでしずくがこぼれ伝ってくる。喘ぐほかに、息をすることが、できない。眼も、開けられなかった。そんな濡れて、濡れて、濡れそぼった姿を。
 ぬるり、ゆるり、尖端でまさぐられて。

「あ……あっ……!」

 嘘……そんなの……涼真……のわけない……
 い……嫌……あっ……っ……凄い……感じ……る……!

 顎ががくがくするばかりで、声も出なかった。
 全身がしびれ渡る。
 ぐっと、身体の奥を締めつけるたびに、まだ浅いところにある、猛々しい欲望の形をまざまざと感じて。
 そのまま、強引に押し入られる快楽が、私をえぐる。うずめつくしてゆく。
 シャワーを浴びせられて、縛られたまま腰を抱かれて。
 後ろからめちゃくちゃに突かれ、どろどろにかき回され、揺すぶられ、濡らされ……あっ……もっと……ひっ……ぁっ……動いて……ああ、あぁ、ぁっ、もっとして、もっと、ぁっ……う……!

 シャワーの音が、悲鳴を、喘ぎを、かき消す。
 ほんのすこし動かされるだけで、そこから濡れたひどい音がしていた。膝ががくがくして立っていられない。腰を使われるたび錯乱した感覚が全身に飛び散った。
 中を、かき回されている。腰を打ち付けられている。肌をこすり合わされている。シャワーに全身をなぶられている。
 涼真に後ろから激しく突きあげられる感覚と、身体の中の内臓まで暴れ回る感覚と、手を拘束されて囚われ隷属させられている感覚とが、全部、ぐちゃぐちゃに入り混じって。
 気が――狂いそうだった。
 腰から下が、半狂乱の悲鳴に突き破られる。
 そう……
 これが私だ。今の、私自身の、本当の姿。
 絶対に、そうなってはならないと――
 うわべではそう必死に自分を縛めつつ、弟の手であっけなくも剥ぎ取られ壊された自制心の下に、本当の私がひそんでいた。悲鳴と喘ぎ声の交錯する絶頂の瞬間だけが、私の現実。
 涼真に抱かれること、だけを。
 涼真に犯されること、だけを。
 望んでいた――

 ふいに、身体を起こされて。
 後ろから腕を回される。
 おそろしい力が私を抱きしめている。帰り道を見失った幼な子のような、抱き方だった。泣いてばかりいるもう一人の子の手を引いて連れ歩きながら、自分も泣きながら、家路を探す子ども。見知らぬ路地を歩き。見知らぬ町を歩き。見知らぬ闇を越えて。どうしたらいいのかも分からずに。どこへ行けばいいのかも知らずに、ただ。
 しかし、それさえもが幻覚かもしれなかった。放出された気の迷いのすべてを、シャワーが洗い流してゆく。
 私は呆然と涼真に抱きすくめられたまま、足元を無駄に流れ去ってゆく絶望のゆくえを見つめていた。

 涼真は、私の手を縛ったネクタイをほどこうともしなかった。縛ったままの私を裸で放置し、外の明かりだけを頼りに、ソファに投げ棄ててあったワイシャツを着る。
 私は、裸のまま、ソファに横たわっていた。赤ん坊のように身体を丸め、このあと、どうすればいいのか、ぼんやりと考える。
 もちろん、下着などつけさせてもらえるはずもない。かといって、どこそこの引き出しに片づけてあるから出してきて、などと、いちいち頼むのも気恥ずかしかった。
 セックスの後につけるにふさわしいような、女らしい、セクシーな下着など持ってもいない。
 古臭い、安っぽい、女らしさのかけらもない下着。そんな自分を、嘲笑われるのも、知られるのも、嫌だった。
 セックスは終わった。セックスが終われば、私たちは何の接点も持たない、単なる姉弟という名の――遠い他人に戻る。
 涼真はきっとこのまま帰るだろう。これ以上私にかかずらっていれば、明日の仕事に差し障る。そのまま、もう、一生来ないかも知れなかった。
 それもいいだろう。来るのか、来ないのか、来るとしたらいつなのか待ちこがれて、胸を痛めて、何度もため息をついて。ふとした瞬間に両手で顔を覆っては過去の言葉の端々を後悔して、でも玄関のインターホンが鳴るたびに期待して駆け寄っては落胆するような――そんな痛々しい日々は送りたくない。
 涼真が帰れば、残された私は――きっと、鈍重な、重苦しい、抑揚のない女に戻るのだろう。美しくもない、生きた心地もしない、ぶざまなまでに痩せた女に。

 突然、死にたい、と思った。

 これほどまでに弟を傷つけていながら、まだ、けがらわしい女の残り香を涼真に留めさせようとしている。
 早く帰って欲しかった。これ以上、涼真を穢す前に、一秒でも早く私の目の前から消え去って欲しい。
「そうだ、レン、写メ撮ろう」
 ふと涼真は私の横に腰を下ろして、私の携帯を取り出した。
「これ、動画も撮れるんだな。そっちにするか」
 画面をスライドさせて、動画撮影のモードに変える。青白く発光する液晶画面が、私の肌を病的な生白さで照らし出す。ぞっとするほど、いやらしい身体だった。
「案外、きれいに撮れるもんだな。俺のと比べると全然違う。ほら」
 私を抱き起こして今撮った裸を見せつけつつ、うすく笑う。涼真の髪からも、私と同じシャンプーの香りがしていた。
「綺麗だろ」
 ぽつりとちいさくつぶやく。
「もう……気が済んだでしょ。帰って」
 私は、かろうじて言った。涼真は得たりとばかりに笑った。かすかに眼をほそめて、私を見やる。
「メシ食いに行くぞ」
「いらない」
「でも、ろくに食ってないだろ」
「私の事なんてどうでも……」
「良くないって。メシぐらいちゃんと食え。痩せすぎだろさすがにそれは心配するぞ普通」
「……放っておいて」
 つい、会話に引き込まれてしまう。私は口をつぐんだ。
 異常な状況かもしれなかった。それすらすぐには分からないほど、私は壊れている。裸にされて、縛られて、転がされて。ソファに放置されたまま食事の話をしている、なんて。
「だめだ。食事に行くぞ。着替えろ」
 私が応じるはずもないことを涼真は知っている。言うだけ言って、そのまま返事を待たず涼真は立ち上がった。
 どきりとして、涼真を見上げる。だが涼真は自分の携帯を手にメールの受信履歴を見ていた。そのまま、私を置き去りにして、電話をしにベランダへと出て行く。
 声が聞こえた。しどけなく手すりにもたれ、私をまっすぐに見ながらしゃべっている。ときおり、つめたい微笑みが投げかけられる。
「……別に疑われても構わない。疑うのも怒鳴り散らすのも嫉妬して泣きわめくのもお前の自由だ。最初にそう言っただろ。俺は誰のものにもならない」
 私は眼をそらした。抑揚のない声だけがまとわりついてくる。冷淡な涼真の声だけが。
「こんな夜中に何十回もメール送ってきて用件はそれだけか。用がないなら切れ」
 待って。嫌、おねがい、切らないで、涼真。開け放たれた窓の隙間から嘆願の泣き声が洩れ聞こえてくるほどだった。何でもするから。ねえ、何でもするから。
 涼真は、ぞっとする優しい笑いを浮かべて私を見た。
「じゃあ、二度と連絡してくるな」
 泣き声が、ぷつん、と途絶える。涼真は無理矢理通話を切った携帯をスーツの内ポケットへと突っ込んだ。

 私たちは、マンションを出て適当な店を探し、食事をした。その後、郊外にある二十四時間営業のショッピングモールへ行く。涼真は困惑する私を連れてショップを巡り、二十代後半の女が着るにはすこし可愛らしすぎる、小花柄のキャミワンピとストラップのアンクルサンダルを買ってくれた。
 それは、それでいいのだけれど。色合わせしながら恥ずかしがる私へ、レンなら何着たって似合うだろ、とか、もうそれでいいんじゃないか、とか、まったく嬉しくならない下手な褒め方をした。女の子の買い物に付き合わされた経験ぐらい数限りなくあるだろうに。
 でも、私が、涼真が選んだ色のほうを買うと決めると、ちょっと照れたように笑ってくれた。かと思えば、今度はどっちが払うかで喧嘩する。そんな些細なことすらなんだか嬉しくて、気恥ずかしくて。私たちは初めて互いに目を見交わし、声を合わせて笑った。
 その後もいろいろと冷やかして見て歩く。まずはカーテン。それからパジャマ。食器一式。そのほか、あれも要る、これも要る、いや、それはいらないだろう……さんざん言い合っては買い足してゆく。涼真は、ふたりぶんの歯ブラシを立てられるスタンドと、甘いパステルカラーの歯ブラシを色違いで二本、カートに放り込んだ。私は見て見ぬふりをした。
 たちまち必要なものだけを買うつもりが、気が付いたらいつの間にか大変なことになっている。まるで――引っ越してきたばかりの新婚さんみたいだった。
 二人がかりでカートを押し、何袋ぶんもの荷物を提げて駐車場へ戻って、とりあえず車のトランクに放り込む。
「さてと、これ以上買い物しても車に載らないんだけど」
 ばたんと後部座席のハッチを閉め、手を払って言う。涼真はもう、時計を見ないことにしたらしかった。
「ちょっと、歩こうか」
「……うん」
 ショッピングモール前の緑あふれる広場は、夜中だというのに人の数も多かった。特に、焼き鳥のいい匂いがする居酒屋の前なんかは群れ集って笑いこける学生たちや飲み会帰りのサラリーマンでごった返している。酔っぱらいのご機嫌な笑い声がいくつも重なって響いていた。
 そんな喧騒からわざと遠ざかるようにして、二人で、ゆっくりと並んで歩く。隣あわせになると、涼真はやはり私より遙かに背が高かった。
「さっきの店の前、めちゃめちゃうるさかったな」
「……うん」
 どちらからともなく、そっと、指をからめて手をつなぐ。涼真は穏やかに笑って、私の手を腕にかけさせてくれた。
「レンはこっちのほうがいいんだろ」
「やだ、もう……私、そんな歳じゃないよ」
 顔を赤くし、声をつまらせて身を引こうとする。
「いいんだって。ほら、手を離すな」
 涼真の手が逃げる私の手を追いかけて、捕まえる。
「でも……やっぱり、腕組むのはちょっともう、恥ずかしいよ……」
「いいから」
 涼真は、私の腰に手を回して引き寄せた。
「一緒に歩きたいんだよ」
「……」
 私は、顔を真っ赤にしてうつむきながら、涼真の腕に手をからめた。
「こうやって、ずっと、一緒に歩いていたいんだ。レンと」
 涼真はまっすぐ前を見据えたまま、はっきりと言い放つ。
 私は何も答えられなかった。
 どこへ向かうでもなく――私たちは、そぞろに広場を巡った。
 運転の止まった噴水の縁石ぞいをぐるりと回って歩き、風に揺れる水面を見つめた。せせらぎのような遠い喧騒の中で、夜空を見上げて星を探した。ショッピングモールの各エリアを結ぶペデストリアンデッキから、夜景を見下ろしつつ、肩を寄せ合った。
 風が、吹きすぎてゆく。遠くから、やたらアクセルをふかす車の音が聞こえた。ペデストリアンデッキの下をくぐってモールを去ってゆく車の列が、テールランプの赤い血の川を流している。
 涼真が、そっと私の手を取った。
 私は涼真に頭をもたせかけ、涼真は手すりにもたれた。二人で寄り添ってデッキの手すりに手を置いた。重ねた左手と右手の上に、さらに、もう片方の手も合わせて添えた。そうしながら指を絡めあわせ、何度も、何度も、もつれるように握りしめあった。私よりずっと大きな手。

 ただ、手を重ねただけで。
 ――こんなにも胸が、熱く、せつなくなるのに。

 通りがかりの酔っぱらいが、私たちに気付いて何やらふしだらな誤解でもしたのか、ひゅうひゅうと口笛を吹いてからかってくるのが聞こえた。

 どうして、私たちは。

「ねえ……さっきの電話のひと、彼女でしょ……? いいの、あんなひどい切り方して」
「彼女だった、に訂正しとけよ」
 涼真は遠ざかってゆく車列を見やりながら、笑ってはぐらかす。
「別に付き合ってたわけじゃないしな」
「ひどい」
「二、三回やっただけだし」
「もっとひどい。涼ちゃん……いつの間にそんな悪いオトコになっちゃったの」
「レンがいなくなってからかな」
 涼真は、首の骨をこきん、と鳴らし、背中をうんと伸ばして伸びをした。
「何か、自分だけ取り残された気がしてさ。他のことなんかどうでもよくなっちまった」
「ダメだよ涼ちゃん、そんな自堕落なこと言っちゃ」
「そうか?」
「そうよ。しっかりしなくちゃダメよ。お父様も、お母様も、涼ちゃんには期待してるんだから。……そう言えばまだ聞いてなかったね。お父様も、お母様も、お元気?」
 涼真は、ふと私を見つめた。暗い、おぼろげに優しいまなざしが、私の向こうにある別の私を見つめている。
「セックスしようか。ここで」

 もし、私たちの心のどこかに、本物の理性が少しでも残っていたなら。
 涼真も、私も、絶対に互いの存在を許せなかっただろう。
 そうではないということは、つまり、私たちはもう、とっくの昔に互いに互いの全てを奪い合い、引き裂き合って――

「嫌ならキスでいいけど」
 涼真の眼に映っているのは、私だけだった。
「姉と弟でキスするなんて、おかしいわ」
「変かな」
「変よ」
「じゃ、やろう。セックス」
 涼真は、重ねていた私の手を振りほどいて、両頬を押し挟んだ。
 眼が近づいてくる。遠ざかるテールランプを赤く映し込んだ瞳。私の姿を映し込んだ瞳。
 かつて、どこかで見た。
 赤い、赤い――光。
 私は、眼を閉じた。涼真の静かな吐息が、濡れた唇に吹きかかった。ぞくり、と、首筋から腰の辺りまで、総毛立つような予感が伝い走る。
 欲望の指が、そろり、と頬の線、顎の線、耳朶の裏をつたい這って、喉へと降りていった。まるで、くねる蛇にまとわりつかれたかのようだった。
 涼真の手が、私の首を、ゆっくりと絞める。
 強く。
 強く。

 息が出来ないぐらい、強く。

 レン。
 死のう、恋《れん》。このまま……一緒に。

 声が、聞こえなくなる。

 涼真は腕を巻き付けるようにして私を抱いた。間近すぎるほど間近に私へと押し迫り、半ばのしかかるようにして迫りながら、ふっと笑って首を振る。
「……本気だと思った?」
 私は笑って首を振った。涼真はいつも冗談ばかり言って私をがっかりさせる。いっそ本当に殺してくれたら、地獄の底まで一緒にゆけたのに。
 いつか、きっと、必ず。
 願いの代わりに、愛おしい唇をかさねた。
 最初は、普通に。すぐに互いに互いの吐息のすべてを与える。声が、もれる。あさましいあえぎが、濡れた糸になって、口の端からこぼれて落ちる。
 涼真の舌が、私の舌にからみついて、埋めつくしてゆく。
 口蓋を舌先で執拗になぞられ、愛撫され、思わず喘ぐ声を、もっと深いキスにふさがれる。呑み込まれる。互いにせめぎ合う肉塊が、口の中でぬるぬるとうねりあっているかのようだった。舌を、舌で押さえ込まれ、声も、出せなくなって。感じるのは、口の中をまさぐられる熟れた感触。すべてを奪われてゆくのにも似た淫靡な感触だけだった。
 涼真は私の背後に回り込んで両手で腰を回し抱いた。手すりに、ぐっと全身が押し付けられる。
「声を出すなよ」
 手が、何の予告もなく下着の下へと滑り込む。
「ぁっ……!」
 私は、身体をふるわせた。羞恥心に耐えきれず、頬が、あつく、火照り出す。
 指の腹が、濡れた肉の窪みに沿って、ぬぷりと滑り入った。もうあふれるほどに女の蜜で潤みきっていた部分を、茹だるような熱を、涼真の指が容易に這い回っている。
 指が、うごめいている。ゆっくり、ゆっくりと、入り込んでくる。そうしながらも、他の指は、おそろしい力で私の恥丘を鷲掴んで。

 ぁっ……あ……
 私……もう、息が、いやらしく乱れ始めてる……

 涼真の指が、逃げる私の腰を追った。淫猥な指先が、ぬるぬるに濡れそぼった花弁を左右をかきわける。

「……んっ……う……!」
「よがるなマジで。通行人に聞かれるぞ」
 もっととろとろにやわらかく濡れた肉の、その、奥。
 触れられただけで、電流を流されたような狂気へと変わる私の身体を、肉襞の壁を、わずかに曲げた指の背が、ゆるり、ぬるり、小手先に愛撫して。
「ぁっ……涼ちゃん……きもち……いぃ……」
「声出すなって言っただろ。恥ずかしいな」
 くすくすと涼真は笑っている。
「股は閉じたままにしておけよ」
 耳にするのも恥ずかしい、卑猥な言葉がささやきかけられる。
「そのほうがもっといやらしく感じるだろ。淫乱な女みたいでさ」

 びくり、と腰が、ふるえた。淫乱……ひどい……私、淫乱なんかじゃ……! あっ……あんっ……感じる……触られてる……あそこを、わたしのあそこ……涼真の、指に、くちゅくちゅこねまわされ、広げられて挿れられて中を、中を……

 くちゅ、

 ぐちゅ、

 ぺちゃ、ちゅぷ、

 じゅぷ、ぐじゅ、ぴちゅ、にゅる、ぴゅる、

 恐ろしく緩慢に愛撫され、撫で回され、指先でゆるゆるこすられ、こすり上げられ、刺激され……

 ぁん……あっ……あっ、あっんううんっ……気持ちいい、きもちいい……ぐじゅぐじゅして、身体の奥が、ぎゅううって、ひっ、いい、いいの……っ! こわれちゃいそうっ、あっ、ひぃ、いっちゃう、はぁ、っ……!

 陰部に蠢く指を突っ込んだまま、涼真が耳打ちする。

「姉さんの××××、そんなに気持ちいい?」
 ……あ……ひんっ……いいっ……ちがう……!
「ヨソに聞こえるぞ。こんな、いやらしい音させてさ」
 人目も気にせずに感じて、感じまくって、身体のけぞらせて、よがって――
「やっ……ぁあん、もういいのっ……いいの、そこがいいの……あぁあんぐちゅぐちゅして……もっとして……!」
「本当にいい?」
「いいの、いい……して、してぇ……おねがい……」
「×××突っ込んでもいい?」
 耳元の声が、ぞっとする誘惑を囁き入れる。
「ヤッてるとこ、誰かに見られちゃうけど――いい?」

 スカート……後ろから……めくり上げられて、下着脱がされて……
 身体を、手すりに、押し付けられて。
 前の――
 いちばん、かんじるとこを、ゅるゅる触られ……てる……
 あ……あっ……

 い、いや、やっぱり嫌……ぁっ……!

 涼真は私の首筋に、ふっと吐息を吹きかけた。それだけでびくっ、と背筋が凍るように震える。感じてしまう。
「ぁっ……んっ!」
「”姉さん”って……いやらしいカラダしてるよな、ホント」
「……やだ……しちゃ……ぁっ……いゃぁっ……!」
「大丈夫大丈夫、こんな人目に付くとこで本番まではヤッたりしない。ちょっと指でイかせるだけだから」
「……う、ぅ……ん……やだ……!」
「指だけだって言ってんのに。不満か?」
「ぁっ……んっ……んんっ……!」

 う、うそ……お尻の側からも、手が、入って……
 後ろから……お尻……凄い力で鷲掴みにされて……広げられて……

 そ……っちは……やだ……あ……触っちゃ嫌……ぁっ……あん……ぅ……っ……!
 ぬるり、と。
 前の穴と、同時に、後ろの窄みへ。
 指が。
「案外、簡単に入るもんだな。痛かったら言えよ? ほら……前と後ろ、同時に動かすぞ?」

 ゃ……あっ……入っちゃっ……!
 ぁ……あっ……! 嫌……あっ……あっ、……

 う、そ……

 指が罪深い連動を始める。前と、後ろの……淫乱な肉の壁を挟んだだけの穴の中を……どろどろ……にすりあわされ、交互にかき回されて……!

 あひっ……ぃ、ぃっ……!
 ぁん、ああん、何、なに、ぁ……だめ……ひど……ぁっ、あっ、あ、ああ、っ……!
 も、やだ、あ……こんなとこ、見られちゃ……誰かに、誰かに……あっ、あっ、ぃっ……きもちい……いっちゃう……はずかし……やめて……あ、あっ、イク……ひ……い、い、イっちゃう、あ、あ、涼ちゃん……!

 絶望と快楽の底が、抜ける――

 身体の中が、まだ、ひく……、ひくん、と。
 痙攣を繰り返している。
 指なんかではもう我慢できなかった。今すぐ、裸にされたかった。忘れたかった。頭の中が真っ白になるぐらい、いやらしく、あさましく、おぞましく穴の奥まで広げ晒した姿勢で縛りつけられたかった。子宮という子宮、口という口、穴という穴に、欲望の槍を突き立てて欲しかった。ほとばしり出るほどに突き破られたかった。繋がるという言葉すらおこがましい獣欲の行為に縛り付けて欲しかった。口にするのも憚られるようなことをして欲しかった。あの私を、私自身の中から引きちぎって破り取って捨てて欲しかった。中から私を突き破って、私ではないものになるまでばらばらに壊して欲しかった。

「レン」

 気が付いたら、私は、涼真の腕に抱かれて泣いていた。私を抱いたその手で、涼真は、私を抱きしめている。
「帰ろう」
 私は、かぶりを振る。帰りたくない。ずっと甘い夢の中にいたい。たとえそれが悪夢だったとしても。
「だめだ」
 嫌。知りたくない。見たくない。今いる場所が現実でさえなければ、自分などどうなっても構わない。私は夢の中にいる。何も失ってなどいない。ずっとここにいさえすれば。
「帰るぞ。いいな」
 すべては夢。すべては幻。何もかもが、嘘。
 私は、抗う。本当は抗っても無駄だと知っていながら、抗う。忘れてしまいさえすれば、夜は過ぎ去る。
 自分の姿を見るのが、怖かった。自分の過去を知るのが、怖かった。いずれ来るであろう絶望の夜明けを、涼真と一緒に迎えることだけが――怖かった。
「帰ろう、家に」
 涼真は遠い夜景を見ていた。その瞳に映るのは、赤く濡れる色。甘い夢の色。父の、手の色だった。

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5 未来


 私生児なんて今さら珍しくもない。母子家庭も。離婚も。再婚も。内縁も。血の繋がらない”実の母子”も今では荒唐無稽ではない。あるいは冷め切った夫婦が双方とも外に公然と愛人を作り、罪の子を孕み孕ませた挙げ句、”本当は誰の子かも分からない子ども”を”実の子”と強弁して出生届を出す可能性さえも、決して。
 よほどの田舎でなければ、隣に住むほほえましい親子のうち誰が本当の”家族”かなどと面と向かって問い糾す人はいないだろう。下手をすれば隣同士顔を見ないまま一年が過ぎる、などということも珍しくはない。それこそ、呪わしいほど土着の因縁血縁地縁にすがりつくほか生きる悦びを知らぬ、どす黒いしたり顔の連中さえいなければ。

 私たちは、裸で抱き合って朝まで一緒に寝た。
 朝が来ると、涼真は遠すぎる眠すぎるちくしょう休みてえ、とか何とかぼやきながらかるくシャワーを浴びて仕事に出かける準備をし、私は、涼真のワイシャツを借りてあっさりとはおり、簡単な朝食の用意をした。

 新しく買ったばかりの、レースのカーテンがそよそよと風に揺れている。
 ポットでお湯を沸かすときの、かろやかな蓋の鳴る音が聞こえる。テーブルに買ったばかりのランチョンマットを敷き、ベーコンスクランブルエッグと、つめたい水でしゃきんとさせたレタスにとまとにきゅうりのサラダ。ほうれん草と冷凍コーンのバター炒めをちょこっと彩りに添えて、お好みでマヨネーズかドレッシング。ガーリックバターを塗ったトースト、と次々に並べる。
「へえ、頑張ったじゃん」
 昨日買ったばかりの新しいネクタイを締めながら、涼真がダイニングキッチンに入ってくる。私は片手にお湯のポット、片手にマグカップ二つをひっかけ、コーヒーの用意をしながら振り返った。
「えへへ、たぶん最初だけ。明日から適当になるかもって前もって予告」
「めんどくさかったらごはんに海苔でもいいよ。TKG《たまごかけごはん》に漬け物にインスタントのみそ汁とかさ」
「あ、それ助かるかも。良いこと聞いた。明日からそうしよっと」
「マジかよ、好きだからいいけど」
「涼ちゃん、でも、それってちょっと庶民的すぎない?」
「何言ってんだよ庶民だよ俺。めちゃくちゃ一般人だぞ」
「イイトコ出のお坊ちゃんなのにね」
「それ言うならレンだってだろ」
「私は」
 疎外されていたから――とは言い返せなかった。
 涼真はかたかたと椅子を引いてテーブルに着くついでに、私のうなじにひょいと唇を当て、それから私の頬、私の唇にも続けざまにキスした。
「ところでさ、レン」
 それだけではない。両手がふさがって抵抗できないのを良いことに、恥ずかしがる私のワイシャツをわざとめくりあげて下腹部を露出させ、おへその下あたりにキスをする。
「裸エプロンより裸ワイシャツのほうがエロいって大発見だよな」
「やあんっ!」
 その、ついばむような感触に私は思わず私はうわずった笑い声をあげた。
「もう、涼ちゃんのバカっ! お湯かかって火傷したって知んないからね?」
「そしたら会社休むからいい」
「休んじゃダメ。不況なんだから、ちゃんとお仕事しなくちゃ」
「ダメか?」
「ダメっったらダメ」
「せつねえなあ。分かった。行くよ。その代わり、帰ってきたらこう言えよ。『あなたお帰りなさいお風呂にするそれともセックスにする?』」
「言いません」
「いいから。帰ったらすぐセックスしよう。俺、レンとセックスしたい。死ぬまでセックスしたい。毎日後ろから野獣みたいに襲いかかってファックしたい」
「朝からそんな恥ずかしいこと連呼しない」
 私が頬を赤らめてお湯のポットとカップをテーブルに置いていると、涼真は、つるり、と後ろから私のおしりを撫でた。
「きゃあっ……!」
 コーヒーも淹れられないまま、私は涼真から逃げ出す。
「んもう、涼ちゃんの、バカあっ!」
「おっと、これ以上幸せごっこやってると本気で遅刻だ」
 涼真は素知らぬ顔で笑って話を切り上げ、手慣れた様子でコーヒーフィルターをセットし、挽いておいたブレンド豆のコーヒーを淹れ始めた。
 ふわりと甘苦い香りが白く立ちのぼる。私は冷蔵庫から袋に入ったミルクポーションを引っ張り出しながら尋ねた。
「ミルクいる?」
「いや、いい」
「入れた方が美味しくない?」
「俺はブラックなの」
「ふうん……でも苦くない?」
「その微妙な渋み加減がいいんだよ」
 朝食を終え、ゆっくりコーヒーを味わいながら涼真はひとしきり饒舌に高説を垂れる。
「じゃ、行ってくる。帰りはパソコンとかいろいろ持ってくるから、ちょっと遅くなるかも。だから俺のぶんのメシはいいよ。帰る頃に電話するから先に寝てて」
「ううん、起きとく。涼ちゃんが来るの待ってる」
「可愛いこと言うなよ。出かけられなくなっちまうだろ」
 私は涼真を見送りに玄関までついていった。
「そっか、ごめん。涼ちゃん」
「……ん」
「早く帰ってきてね」
 窓のないマンションの玄関は暗く、廊下に差し込む朝日だけではほとんど全くといって良いほど表情をうかがい知ることはできなかった。光満ちるリビングとはまるで違う薄暗い廊下の隅で涼真は人知れず私を抱いた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
 二人だけの秘密。
 共有するのは、罪。
 ドアを開けた瞬間、流れ込んできた外のまぶしさが、怖いほど白かった。

 涼真が出かけた後、私はうきうきと部屋の片づけをした。洗い物をして、掃除をして、洗濯をして。新しいラグを敷き、クッションにカバーをかけ、情事の染みで汚れたシーツを洗い、それからテーブルにちいさな花を飾った。
 昼になると誰にも会わないよう目深に帽子を被ってサングラスを掛け日よけの手袋を嵌めて買い物に行った。両手にスーパーの袋を提げて歩いて帰ったあと、洗濯物を取り込み、日だまりの下で一枚ずつ丁寧にたたんだ。タンスの上から三段目を涼真の引き出しに決め、そこに、きちんと折りたたんだ靴下と下着とシャツをきっちり並べてしまい込んだ。ワイシャツにアイロンを掛け、ハンガーに掛け直した。夕方になると、誰もいない部屋で簡単な食事の用意をした。だがやはり食べる気にはなれなかった。
 冷め切った食事を放置して、しばらく、テレビを見る。テーブルにぽつんと置き去りにされた食事を見て、私は涼真が言い残していったことを思い出した。きちんと食べなければ叱られる。そう思って仕方なく夕食をお腹の中に片づけた。
 味のしない魚の煮付けを箸の先でつつきながら、こんな味気ない砂利みたいなメニューを毎日食べさせられたら、いくら涼真でもきっとすぐに文句を言うだろう、と思った。みりんもお酒も砂糖も醤油も全部レシピ通りの分量をはかって作ったはずなのに、何の味もしない。
 テレビだけががやがやと騒々しい。涼真は、なかなか帰ってこなかった。もしかしたら二度と帰ってこないかもしれない。そう思うと、胸に突き刺さった棘がぽきりと、自虐めいた音を立てて折れた気がした。涼真は自分の居るべき場所に帰ったのかもしれない。仕事もある。社会的な体裁もきっとあるだろう。
 ふと何の気なしに携帯を見やる。そういえば涼真は、私の携帯を勝手に使っていろいろと撮っていた……。
 私は充電クレードルから携帯を取って、あちこち触ってみた。取りあえずメニュー画面を出して、そこから涼真が撮った動画を探すことにする。
 動画データは二件あった。最初の一件は、昨日、涼真が撮って見せてくれた裸の私だった。後ろ手に縛られ死んだように横たわっている私。今の、この私だ。そんな映像、今さら改めて見るまでもない。
 そこで、もう一度メニューに戻って、別の映像を再生してみた。
 見覚えのない女が映っている。
 映像は、酷く荒い。もともとの画質が悪いのか、携帯でも見られるようにあえて画質を落として変換したのか。いったん再生を止めてデータの日付を見る。比較的最近のデータだ。だがそれは作成された日付ではなく、別のソースから変換されコピーされた日付であるだけのように思えた。
 盗撮――そんな言葉が脳裏をよぎる。だが、微妙に違う。女の目線はビデオのカメラを追っている。まるで盗撮されていることを知って、あえて、知らぬ振りをしているかのようにも見える。ノイズをまとった女は、ベッドの傍らに置かれていた薬を手のひらに乗せ、数を数えて口に入れた。グラスの水をあおる。すぐに静かになった。女は眠っている。見計らうかのように、寝室のドアが開く音がした。暗い影が入ってくる。ずんぐりとした男の後ろ姿がカメラの前を横切った。男は前後不覚に眠る女をベッドから引きずり下ろして何かを始めた。ベッドが揺れて、軋んで。赤い色。赤い。赤い色。

 それから、どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。
 動画は終わっていた。代わりに携帯の中の誰かが私を呼んでいる。やわらかなメロディに甘い罪のささやき。どこかで聞いたことがある歌だった。

 君と一緒ならぼくはどこまでも飛んでゆける
 君が望むなら地の果てまでも堕ちてゆける
 あの太陽だって飛び越えられるさ
 だから一緒に行こう
 たとえこの翼が熔けて落ちてもこの世界の全てを敵に回しても
 僕が、君を、かならず守るから

 また涼真のいたずらだ。人の携帯なのに勝手に着うたを設定したりして。私は携帯を握りしめた。耳に押し当てる。涼真の声が歌に代わって私を包んだ。

 ――ただいま、レン。
「涼ちゃん?」
 ――悪い。遅くなった。
「ううん。おかえり涼ちゃん。今、鍵、開けるね」

 変わらぬ声色に、私はなぜか安堵していた。話しながらちらっと時計を見上げる。不思議なことに、もう深夜の一時を回っていた。いつの間にそんな時間になっていたのだろう……まったく気付かなかった。携帯ごしに涼真の落ち着いた労りの声がかけられる。
 ――無理に起きてないで、先に寝ててくれたらよかったのに。
「いいの」
 聞き耳を立てている者などいるはずもないのに、私はつい口元に添えた携帯を手で覆った。背中を丸め、身をよじらせ、ちょっと赤くなった顔をうつむかせて小声で答える。
「待ってたかったから」
 ――なんか言ったか?
「ううん、なんでもない」
 私はうら恥ずかしくなってふるふるかぶりを振りながら、インタホンの前へ行った。オートロックを解除する。
 モニタの向こうに携帯を耳に押し当てた涼真の姿が白っぽく映っていた。走り去るバイクか何かのエンジン音のような、低い断続的な音が聞こえる。モニタの中の涼真も気になったのか、後ろを振り返っていた。
「どうかしたの?」
 ――いいや、何でもない。後ろがうるさいなと思ってさ。そうだ、ちょっと荷物が多いんで、悪いけど玄関のドア開けといてくれる?
「うん」
 助かる。涼真はそう言って電話を切った。私はエレベータまで涼真を迎えに行った。エレベータの稼働音が近づいてきた。光る数字が上昇してくる。
 エレベータが止まって、ドアが横に滑って開く。
 まぶしい光とともに、涼真と大量の荷物とが、いっしょくたにあふれ出てきた。紙袋いっぱいのファイル。資料。コピー用紙の束を通り越した塊。ブリーフケースにアタッシュケースにスーツカバーに電化製品のコードがいっぱい詰め込まれた理解不能な袋。
「何その大荷物」
「女の部屋に転がり込む一式」
「……おかえり、涼ちゃん」
「ただいま」
 両手の塞がった涼真の代わりに、私は、せいいっぱいつま先で立って背伸びし、手を添えながら、ちょっぴりちくっとする頬にキスをした。
「重かったでしょ、これ」
「重いとかいうレベルじゃないよ」
「じゃ、運ぶの手伝う」
「重いぞ?」
「大丈夫」
「無理して落としたりするなよ?」
「うんうん大丈夫」
「それパソコンだから絶対に落としたり引きずったりすん……」
 がしゃ。何かが落ちた。
「あ?」
「あ!」
 深夜に、二人分の悲鳴と絶望が響き渡る。あわてて私たちは口に指を押し当て合った。
「しー!」
「しー!」
「今めきって言ったぞ、メキッ! って!」
「大丈夫、心配しないで。きっと壊れてないよ三秒以内にちゃんと拾ったもの!」
「落としたアメと同レベルに語るなよ」
 涼真は落ちたマウスとペンタブを拾いあげた。声は尖っているが、顔も眼も笑っている。優しい表情だった。
「馬鹿言ってないで、さっさと運んじまおう」
「うん」
「そっち重いからこっち持って」
「軽すぎ。もう一個持てるよ」
「いいよ。後は全部重いから」
「大丈夫大丈夫……あっ破れた」
「あー!」
 私たちはくすくす笑いあい、とりあえず両手に荷物を持って玄関まで運んだ。積み上げられた荷物を見ながら、それぞれ疲れたためいきをつく。このままでは中に入れない。
「とりあえず片づけるのは後にして、先に手を洗って着替えておいでよ。お茶いれてあげる。疲れたでしょ。とりあえずお茶して、それからぼけーっとしよ?」
 私は山と積まれた荷物をどっこいしょとまたいで部屋に入りながら苦笑いした。これは早く片づけなければ、出入りすら難しい。
「それとも何か食べる?」
「何かあるの?」
「……お茶漬けにお漬け物、とかになっちゃうけど、それでよければ」
 涼真はかすかに笑った。
「じゃ、もらおうかな。着替えてくる」

 もしかしたら、それは、一般的に言えば「家族らしく暮らす」のと似た感覚なのかも知れなかった。朝、いみじくも涼真が言ったように、これはただの幸せごっこだ。ばたばたする朝の様相を楽しんでみたのもまた、私たちが考える家族らしいしあわせな日常のヒトコマをなぞらえているにすぎない。たぶん、幸せな家族とはこうあるべき、と想像しながら互いにそれらしい役を演じているだけ。微笑んで、笑い合って、幸せそうな顔をして。
 変化のない日々の暮らし。変化がないように見える暮らし。ちっぽけなただの日常。哀れなまでに微々たるしあわせを、私たちは、望んだ。それはきっと、過去の私たちが望んでも望んでも得られなかったもの、崩壊した”それ”しか知らずに、ずっと”それ”が普通だと思い込んでいたもの、他にどうすることもできなかったもの、誰かを――殺してでも奪い取りたかったものに違いなかった。

 ほかほかと湯気の立つごはんに、とりあえずいろいろと冷蔵庫にあったあり合わせの漬け物や佃煮や海苔、梅干しにキムチなんかを並べて出してみる。ふりかけやお茶漬け海苔もあるよ、と勧めてみたけれど、涼真は漬け物が良い、とか言ってのんびりポリポリと食べ続けていた。濃いめの緑茶をいれて、きゅうすをちょっとゆすり、湯飲みにあつあつを入れて出す。
「熱いからね」
「熱ッ!」
「だから熱いって言ったのに」
「あちちちち!」
 あわててタオルを持ってきてこぼしたお茶を拭く。
「大丈夫、火傷してない?」
 屈み込んで、お茶をこぼした膝を拭く。涼真は私の手からタオルを取り上げて自分で拭いた。
「いいよいいよ自分でやるから」
「でも」
「その格好でそれされると、俺、フェラしろって言っちゃいそうになるもん」
 眼が笑っている。だがその奥にある光は本気だった。とろけるような誘惑の微笑がちらちらまたたいている。
「それは困りものね」
「返事がつめたい」
「だって、そんな、やらしいことして欲しいなんて言うから」
「屈み込んでるレンを上から見たらさ、ちょうど良い具合に目のやり場がエロいんだよ」
「……」
「そんな、変質者を見るような目で見られても困るんだけど」
「見るような、じゃなくてそういう眼で見てます」
「う……否定はしないけど」
「そっか。自覚はしてるんだ。よかった」
「イイのかよ。いいよ。じゃ、拗ねる」
「拗ねたらお風呂一緒に入ってあげない」
「機嫌直った」
「意外と単純なんだね。でも、洗い物終わってからよ?」
 涼真は、お茶碗を高く持ち上げるや、あっという間に掻き込んで食べ終える。
「ごちそうさま」
「……」
「残ったのラップして冷蔵庫に片づけとくよ」
 涼真はこめつぶひとつ残らず綺麗に空いたお茶碗とお箸を手にしながら、手際よく流しへと食器を運び、テーブルへ戻るついでにラップを取った。くるくると段取りよく動いてあっという間に片づけ終わる。
「ありがと。さすがに生活力あるね」
「……これでも長年一人暮らししてるんでね。忘れたの?」
「そっか、そうだっけ。それならいつでもお嫁さんもらえるね」
「むしろ俺をメイドに雇え。便利だぞ」
「そうね。女装してエプロンしてくれたらいつでも雇ってあげる」
「……」
「……」
「もしかして……執事って言えば良かったとか」
「ダメ。メイド。ぜったい」
 私が食器を洗っている間、涼真はテーブルの上を片づけ、台ふきんでぴかぴかに拭き上げるまでを完璧すぎる素晴らしい手際でこなした。その笑顔には脱帽するほかない。一日中、ほとんど何もしなかった私と違って、仕事で疲れているだろうに。
「風呂行こう、レン」
「ユニットだよ? 狭いよ? ぎゅうぎゅうじゃぜんぜんリラックスできないよ?」
「その動くに動けない不如意なぎゅうぎゅうがいいんだよ。っていちいち言わせるな。俺に恥をかかせる気か」
「……はいはい」
「あっ今呆れただろ。笑ったな?」
 涼真はテーブルに置きっぱなしにしていた私の携帯を、また勝手にいじり始めた。きっと、あのムービーを見ているのだろう。背中を向けたままでも、画面を見なくても、音声だけでそれと分かるほどはっきりと女の喘ぎ泣く声が聞こえてくる。涼真から連絡があったとき、動画を再生し終わった画面のままだったから、その状態を見れば、私が一度再生しただろうことはすぐに分かるはずだ。
 それと、もう一つ。決定的な謎がその映像にはある。

 人間として恥のない暮らしを、とまで書いて絶縁を宣告した、母が。
 その赤裸々な行為を盗み撮りされた、当の父が。
 よりによって、”この盗撮映像が入った携帯”を、私に渡すはずがない。

「ううん」
 私は笑って手を拭きながら歩き出した。
「タオルと着替え用意してくるね。あ、そうだ、バスライト買ったのも使う?」
「レン」
 涼真は携帯を器用に指先で操作しながら、私を見もせずに平然とたずねる。
「見たんだ、これ」
 私は足を止めて涼真を見やった。
「うん」
「思い出した?」
「何を」
 涼真は質問を質問で返されたことにがっかりしたのか、投げやりな吐息をつく。
「”俺”の”過去”だ。見ても、何も思い出さないのか」
「うん」
「もしかして、俺に嘘をつこうとしてる?」
 あまりにも場違いな、心地よいかろやかな音を放って携帯が閉ざされる。
「……知らないのにわざわざ嘘なんかつけるわけないじゃない。ねえ、お風呂行くんじゃなかったの? 準備してきていい?」
「本当は、もう思い出してるんじゃないのか。俺が、いったい”何をした”のか」
 さほど抑揚のない声で言う。だがその声の奥には、押し潰されすぎて偏り膨張し歪みきった別の何かが赤黒い濁流のように渦巻いていた。私が私自身を知らないように、そこには私の知らない涼真がいる。
「それって、思い出したほうがいいこと?」
 涼真は質問には答えなかった。つぐんだ口元に乾いた笑みが浮かび上がっている。
「この明かり、まぶしすぎるよな」
 言いながら手を伸ばして部屋の明かりを消し、真っ暗にする。テレビの深夜番組だけが闇の中でぞっとするはしゃぎ声をまき散らしていた。放たれる色が部屋を染め上げる。赤。黒。金色。けばけばしい夜の色――
「涼ちゃん……?」
「レン」
 暗闇から、手が、伸びてくる。私は眼を押し開いた。涼真の手だと、分かっている。でも。

 反射的に私は逃げようとした。

 逃げる私を、恐ろしい足音が追った。私は椅子につまずき、半ば倒しかけながらよろめいた。その私を、背後から闇の手が追いすがる。ぶつかった衝撃でテーブルの上の一輪挿しが押し倒された。甲高い音と共に水がこぼれ、黒ずんだ染みになってクロスに広がる。

 ぼたり

 ぼたり

 テーブルの縁から滴の数珠がしたたり落ちて、フローリングの床に広がってゆく。けたたましく明滅するテレビの光が、床にこぼれた水のぬめりを照らし出していた。声も、光も、ゆらめくような残響となって天井に反射している。
 ぽたり、ぽたり、狂気を呼び覚ますかのような水滴の落ちる音が響く。飛沫の飛び散る音が耳を打つ。あらあらしい吐息。けだもののような呼吸。あの日と同じ――
 気が付けば、引きずり倒されていた。ぞっとする黒い影、狂暴で精悍な肉食獣そのものの影が、私にのしかかって馬乗りになっている。私は、もがこうとした。
「”見た”んなら、思い出したはずだ」
 涼真の声が、私を、過去に縛り付ける。
「……俺がレンから”奪った”もの、全部を」

 頸を絞められるよりも。
 笑って、素知らぬ顔をされるよりも、もっと。
 苦しい――

「もう、思いだしただろう。お前は、”事件の記憶”を無くしてる。本当は”俺”が”誰”なのかも、覚えていなかったはずだ。俺が”お前”に”何をした”のか、少しでも覚えていたら、今さらそんな顔できるはずが――」
 涼真は、悲鳴じみた唸りを上げるなり、私の顔のすぐ横に両手の拳を振り下ろした。左の手首を掴まれ、床に叩きつけられる。全身を突き刺すような胸の痛みが振動とともに伝わった。
「ねえ、涼ちゃん」
 左手。
 私を抱くとき、涼真は、いつも私の左手首を押さえていた。出会ってすぐも。ベッドに縛り付けられたときも。シャワーを浴びたときも、どんなときも。私に、何かを見せまいとして。
「私が、”それ”を思い出したって言えば、涼ちゃん、私と一緒に行ってくれる……?」
 涼真の身体の重みが、下半身にずしりとのしかかっている。涼真は私の胸に顔をうずめたまま答えない。
 くだらない質問だ。答えは、もう、分かっているのに。
 私は、息をかすれさせて笑った。押さえられていない方の右手で、乱れた涼真の髪をそっと撫でて、くしゃくしゃになった前髪を直してやる。涼真は、獣じみた呻きをあげた。
「だめだ」
 優しかった、弟が。
 別人のように変わってしまったのは。

 私の、せいだ。

「やっぱり、だめだ」
 涼真は私の胸にしがみつくようにしてかぶりを振る。そのたびに私は涼真の身体の重みを全身で受け止めた。容赦なく押さえつけてくる手の力。息苦しいほどにのしかかってくる激情。それは涼真自身の重みであると同時に、おそらく涼真が――ずっと背負ってきた罪の重苦しさかもしれなかった。
「大丈夫よ、言っても」
「何でもないと言ってるだろう」
「涼ちゃん」
「……勘違いするな」
 涼真はふいに声を荒らげて私の胸元を鷲掴んだ。
「セックスさえしてれば何もかも忘れられるんだろう。そんなに欲しけりゃぶち込んでやる。何度でも、何度でもな。気が狂いそうになるまで、イッて、イッて、イキまくってよがりまくってぐちゃぐちゃになるまでヤリまくってやる。そうされたいんだろ? ”弟”の俺に犯されまくって感じまくってぐちょぐちょに股濡らすのが”姉さん”の望みなんだろ! それでいいんだ。俺のことなんか本気で覚えてなくても良い。二度と思い出すな。思いだしたら、今度こそ、めちゃくちゃにしてやる。お前の身体も、お前の心も、お前の記憶も、全部壊してやる。だから、勝手に――自分を取り戻そうとするな……!」

 言葉も、感情も。
 吐き出されるものすべてが、裏腹で、稚拙で、ひどくもどかしく。
 掛け違ったボタンのように不様で、居たたまれなかった。
    
「涼ちゃん」
 私は、涼真の顔を上げさせた。頬にてのひらをすべらせる。その、かすかに濡れて滞る感触に、いっそう胸がつまった。もう一度笑いかけてやる。
「私、お風呂に行きたい。涼ちゃんが帰ってくるのずっと待ってて、ちょっと、疲れちゃった。だから、お風呂、行こ?」
 わずかにふるえる涼真のくちびるを、指の先で、つ、となぞる。唇は怖いほどつめたかった。
「涼ちゃん……お仕事で疲れてるのに……」
 涼真はびくりと肩を震わせた。
「私ったら、ごめんね……私、涼ちゃんを煩わせたくない。だから、全部、涼ちゃんの言うとおりにするわ。お風呂でちゃぷちゃぷしよ? ゆっくりして、ほら、昨日買ったバスライト使お? きれいな光見て、ふたりで、ぼうっとしよ……何も、考えずに。ね?」
「……俺は、レンを傷つけてる」
 涼真はまるで拗ねた子どものように呻いた。私はうすく笑った。
「私は傷付かないわ」

 部屋を真っ暗にして、バスライトだけを点けて。ゆら、ゆら、透明な青白い炎のように揺れる光を浴びて。
 私たちは、狭い、大柄な涼真にはたぶん狭すぎるだろうユニットバスに、一緒に入った。あふれる湯がふんだんにゆらめく光を帯びて流れてゆく。
 湯に沈む身体を、涼真の全身が包んだ。二人、裸で、それでいて何をするでもなく。身体をちぢこめ、抱いて、抱かれて、互いの柔らかみとぬくもりと肌を求め合った。互いの存在だけを、許し合った。
 湯の揺れる音だけが、しめった暖かい空気の中で響いていた。眠くなりそうなほど、静かであたたかい、小さな、ふたりだけの世界。他に何もない、刹那の平穏。湯に耳をつけると、心臓の音、血液の流れる音、浅く、低く繰り返される呼吸の音が聞こえる。時折、湯がバスタブの縁からあふれて、打ち寄せる波のような音を立てる。

 まるで――

 ありえない。その先に思い浮かんだ情景が意識から切り落とされる。私たちは、その事実を共有しない。だからこそ、今。
「涼ちゃん」
「うん」
 生まれたばかりの赤ちゃんのように、ゆりかごのように、死の檻のように、涼真の腕に抱かれながら。
「ねえ……言ってもいい?」
「何を」
「私、ね」
「……うん」
「……」
 私は湯を振り落とし、立ち上がった。おぼろな青い影が、女の裸のかたちになって、バスルームの壁に映っている。湯船の底に沈んだ青白いライトの水炎が、まるで月を映し込んでゆらめくオアシスのように光っていた。
 凹凸のある陰影が、乳房から臍へ、それから下半身へいたる罪深いなだらかな線を描き出している。それは、砂丘の波。乾ききった身体の内側にだけ波打つ、女のさざなみだった。
 月が満ちて。
 運命の波が、打ち寄せてくる。
「私、涼ちゃんのこと」
 座ったままの涼真は私を見上げている。きれいな身体だった。男らしい、狂暴な、獰猛な美しさ。
 私は湯船の縁に手をつき、涼真へとゆっくり屈み込んだ。濡れた髪が、湯にほどかれ、罪科の波紋を広げるかのように溶けてゆく。また、湯があふれる。激しい、波。

 罪に、罪をいくつ重ねたら――私たちは。

「好き」
 ゆれる湯に身をゆだねて。
 互いに溺れるかのように唇を求め合う。
 濡れても。
 沈んでも。
 息が出来なくても。
 かまわなかった。
 はじける飛沫。うたかたの夢。暗闇に沈む光。絶望への道標。溶けてゆく。
 身体を重ねて。
 肌をあわせて。
 唇を重ねて。
 抱き合って。
 求め合って。
 たった二文字で言い表せる感情。呆れるほどに原始的、根源的、排他的な本能のためだけに私たちは互いに傷をなめ合い、あやまちに溺れ――
「涼ちゃんが、好き」
 弟の身体に、吐息と指で、じかに触れる。
「好き」
 涼真は抗わなかった。私は涼真の上にまたがって、乳房の重みで男の身体を欲しいままにしながら苛みつづけた。
「ずっと、好きだったの……今も、やっぱり、好き……涼ちゃんが好き……だから……」

 消して。

 最初は、唇。それから両手で頬を手挟んで、額に、私を見つめる眼に、鼻に、頬に、目尻に、耳に、吸い付くような吐息を這わせる。
 涼真は、解き放たれたような喘ぎをもらした。
「”レン姉”……やっぱ、もう……記憶戻ってんだろ……?」
 その唇を、私は、罪深い嘘でふさぐ。
「ううん、まだ」
 ”それ”を涼真がいつ知ったのか、そして、どう思ったのか。私には分からない。私自身には”あの手”以外、何の記憶も残っていないから。今でも、それは、変わらない。実際に証拠として提出されたであろう映像、そこに映っていた”かつての私”と”父”を目の当たりにしてもなお、その瞬間の記憶は、ない。

 怖かったのは最初だけだった。
 ……怖かったのは。
 学校で性について習ったとき、初めてそれが既知のあれであることを知った。性教育の最後に、資料を渡された。そのプリントには児童相談の連絡先が印してあった。私はそれを誰にも見せず教室のゴミ箱に破って捨てた。
 誰にも何も言わなかった。ただ、眠れない、とだけ父には訴えた。父は私のために急いで睡眠薬を取り寄せてくれた。飲み過ぎるなと言いながら、旅行好きの母がいない夜はかならず私に薬を飲むよう言った。さもないと黒々とした影が。脂臭い汗のにおいが。酒臭い息が。精液そのものの饐えた悪臭が私の上に覆い被さっ――
 ふつり、と。
 いつも、そこで、記憶が途絶える。
 不思議なことに快楽の暗黒に引きずり込まれてしまいさえすればその瞬間から記憶が、ぷつん、と消えてなくなるのだった。その代わり、私は怖い夢を見る。”あれ”は、私じゃない。私の顔をした別のレン。灰色のレン。ホンモノの私は、自分の部屋ですやすや眠っている。ここにいる可哀想な人形は、本物が見ている怖い夢の中にいる身代わりの人形。
 声を、出せないよう、口を、ふさがれているのも。
 眼を、覚まさないよう、目隠しを、されているのも。
 どこへも、逃げ出せないよう、全身を、がんじがらめに縛り付けられているのも。
 私じゃない。あれは、私じゃない。あんなのは私じゃない。だから、そんな汚いものは、いつだって、簡単に、ふいと空に散らして消してしまえる。高校時代、塾の帰り、ふと立ち寄ったマンションの十五階から遙か下を見下ろして笑い出しそうになった時と同じぐらい、簡単に。
 あのとき見た光景が意識を染め上げる。闇はこんなにも広い。目に見える上半分すべてが闇。下半分は反対に、見渡す限り一面に広がる光、光、光の塵《くず》。ネオンの洪水に押し流される地上。テールランプとクラクションの悲鳴。遠い月の光を浴び、髪を揺らす風に、身を、任せて、堕ちて、しまえば。

 でも。
 それだけじゃ、ない。

 何かが足りない。何かが、間違っている。記憶の奥底に突き刺さった罪の楔。灰色に押し潰された記憶の出入り口を堰き止めている最後の一本が、どうしても、抜けない。

 あの、色は。
 あの、手は。
 何の、色だったのか。
 誰の、手だったのか――

 すっかり冷め切った湯にバスライトの光が映り込んでいる。
 ちゃぷ、ん、と湯が揺れる。肌寒いぬるま湯の中で、私たちは、身体を寄せ合った。ぶるっ、と身体が震える。背筋が寒くなる。肌を寄せ合っても、もうぬくもりは与えられない。
「寒いな」
「そうね」
「出るか」
「……うん」
 涼真は、私の腰を支え抱きながら立ち上がった。冷え切った湯がしたたり落ちてゆく。
「ね……私たち、この先もずっと一緒にいられるかな」
「さあな」
 さむざむとした闇。流し捨てられる水の音だけが私たちを包んでいる。二人ともずいぶんと冷え切っていて、手で触れると総毛立つようだった。ほんのひとときの逃避、ほんのひとときのぬくもりを求めたそのつまらない代償がこれだ。
 涼真は私の冷えた身体にバスタオルを掛けてくれながら自虐めいた笑いを浮かべた。
「レンは、どうしたい……?」

 生まれてきた罪にいくつもの罪を重ねて、私は、弟の身体に溺れる。その肉体に、その快楽に、溺れる。それがどれほど罪深いことなのか、今では、もう、分かりすぎるほど分かっていた。分かっていても、もう、どうにもならない。こみ上げる気持ちを抑えきれない。
 突き上げられるたびに腰がうねり、汗みずくの身体がうねり、身体の中がうねり、乳房が揺れ動く。悲鳴が揺れ動く。押し出されるあえぎ声が、絶頂の呻きが、子宮へと絶え間なく与え続けられる快楽の律動が、私の中にいるもう一人の私を呼び覚ます。復讐をささやく。憎悪をささやく。罪を、ささやく。

 一緒に。
 一緒に。
 一緒に――

 囚われの闇から転げ落ちるように、神話に出てくる愚かしい少年のように、私たちは何処かへと向かう。でも、私たちの翼では決して太陽を越えられない。もし私たちに少しでも理性が残されていれば、こんな愚かな行為は絶対にしないだろう。危険だと分かっていて、非難されると分かっていて、社会的に許されない関係だと分かっていてなお、互いの身体に溺れる理由は、ただ一つ。
 欠落。
 私たちは、壊れている。
 壊れているのが理性だけならまだ救いもある。本能のままに、欲望のままにただがむしゃらに何かを欲して暴れるだけなら、向けられるのは単なる侮蔑の視線だけだ。だが、恐ろしいことに、私たちには自覚があった。私たちが壊れている、ということに対しての冷徹なまでの確信。理知を保ちつつ、公序良俗のすべてを理解しつつ違背をいとおうとせぬ矛盾。近親相姦を背徳と禁断の性癖ととらえ、執着しあうのとも違う。
 壊れているのは私たち自身だ。そうでなければ涼真が私の記憶を取り戻させよう、などと思うはずもない。
 あの携帯に動画データをコピーして入れたのは、間違いなく涼真自身だ。涼真以外、例えば父や母にそんな器用な真似ができるはずがない。おそらく涼真は私の記憶が戻るのを待っているのだろう。そこに何があるのか私には分からない。涼真自身も、もしかしたら、本当は、私の記憶の中にある真実を怖れているのかも知れない。それでも、待っている。
 それが、どれほど愛おしいものなのか分からないけれど。
 私たちは、ゆこうとしている。そら恐ろしくも狂おしく照りつける太陽のような情動に急き立てられ、ひたすらに、どこかへ。

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6 岐路


 翌朝起きると、もう、涼真はいなかった。よほど早く起きて出かけたらしい。テーブルに朝食の用意がされてあり、『晩ご飯はいらない』と書かれた手書きのメモが残されていた。
 何もする気になれない。時間だけが、笑いだしそうなほどあっけなく過ぎていった。あまりにも虚しいと気付いて、とりあえず部屋を片づけた。それでも昼が来る前にすることが何一つなくなった。涼真がいないと私は何もできない。
 何かを、しよう、と思った。それだけでも私にとっては偉大な一歩だ。
 ネイルを塗って、乾くのを待つ間にぼんやりと携帯を見て、それから涼真が買ってくれた服に着替えた。鏡の中の私は、いささか鈍重に見えた。髪のせいだ、と思った。ヘアアイロンでゆるく巻くとすこしはましに見える気もするがそれでも重さは変わらない。しかたなく半分を結び、残りを巻いて良しとした。駅前にまでゆけばファッションビルぐらいあるだろう。ないほうがおかしい。
 バス停まで日傘を差し、形のはっきりとした黒縁のめがねをかけて、ころんころんとサンダルで歩いた。大した距離ではない。マンションの前の通りから一本バイパス側へ出ればいくらでもバスは通っている。
 バスに乗り、駅前で降りた。何もかもが巨大に見えた。見慣れた街ではないにしても、駅から吐き出される人の数も、通りをゆく人の数も車の数もまき散らされるサイネージの色も音も光も交差点のメロディもタクシーの列もバスの列も何もかもが私が見知っている生まれ育った街よりずっと少ない、はずなのに、なぜかすべてが異様に大きく、広く、ゆがんでいるように思える。
 仕方なく人の流れに呑み込まれつつ、何も考えずに歩いた。行きがかり上、吸い込まれたビルの中で、予約の要らないシンプルめの美容院を探した。眼鏡のない素顔を見られるのはちょっと恥ずかしかったが、仕方がない。
 背中まであった髪をロングレイヤーにして、ほんの少し毛先にだけパーマを当てて、ふわりと整えてもらう。カラーを勧められたけれどそれは社交辞令と受け取ってやめておいた。色を変えるのは涼真に聞いてからだ。涼真がいいと言ってくれたら、明るめにトーンアップすればいい。急がない。カットの途中、半分うとうととしながら、雰囲気だけでも変わってゆく自分の髪を見つめる。
「ありがとうございましたー」
 店員さんに見送られて私は外に出た。うなじを通り抜ける風が、軽い。心なしか身体まで軽くなったような気がした。
 髪を切ってもらってすぐ、履歴書用の証明写真を即席のスピード写真機に入って撮った。出て来たシートの写真はやはり可愛くなかった。まあ、いいだろう。履歴書に貼る写真がカワイイ必要はない。ちょっとがっかりしつつも、隣の本屋さんで雑誌を買い、雑貨屋さんに寄って、ドラッグストアでヘアカラーをためしに買って、それから、女の子らしい、色合いのかわいい洋服や帽子、アクセサリや靴のお店をいくつも見て歩いた。ベビーカーを押した、私よりずっと若やいだママさんたちが、ゆる巻きの金髪をなびかせて楽しそうに笑う姿をベンチに座って見送った。ベビーカーの中の赤ちゃんはかわいいピンクのベビードレスを着て、白い歯がためのおしゃぶりをくわえ、うーうー言っている。その様子は何だかとてもきらきらとしていて、幸せの鐘の音を振りまいているようにも見えた。彼女たちには未来がある。
 カフェに寄って時間を潰しながら、さっき買ったばかりのタウン雑誌と、それからタダでもらってきた求人誌をぱらぱらとめくって読んだ。ラーメンの旨い店一〇〇とか書いてあるのを見つつ、涼真もラーメン&ギョーザ定食大盛り、とか頼んだりするのかなあ、などと思いを馳せた。あんまりそぐわない……思わず、くすっと笑ってしまう。笑ってしまってから、人の眼が急に気になって私はあたふたと雑誌で顔を隠した。どうせ地味な私のことなど誰も見てはいないに決まっているのに。
 腕時計を見ようと、手首を返して時間を確かめる。もう、ずいぶん時間が経ってしまっていた。早く帰らなければ、と思った。私は時計をはめた手首を押さえ、赤いきずあとを隠した。涼真に縛られたときの擦れた痣と、それではない、古い、別の傷。
 バスは、たくさん路線がありすぎて、どこからどのバスに乗ればいいのかよく分からなかった。来るとき適当に乗りすぎたことを後悔しつつ、仕方なくタクシーをつかまえて、誰もいないマンションに帰る。
 マンション前でタクシーから降りて、ライトの灯る高層を見上げる。背後で、別の車のドアが閉まる音が聞こえた。誰かが近づいてくる。このマンションの住人かもしれない、と思って私は振り返った。
 見知らぬスーツ姿の男が立っている。二十代、もしくは三、四十代。要するに年齢不詳。笑っているような、あくどいような、抜かりのない目つきをした男だ。
 私が見つめていると、男は、マンションに入るでもなく、ただいかつい顔を、にっ、とほころばせた。
 本能的に、相手をしてはいけないと思った。私はそっけなく目をそらし、男を振り切った。バッグからキーを取り出し、ドア前に立って一呼吸、置く。ここなら警備会社の防犯カメラが回っている。
 男は、左右を見回している。人の気配を探ってでもいるのか、と一瞬身構えたが、私の視線に対して返ってきた反応は意外とあっさりしたものだった。男はその場から動かない。明らかにカメラの死角を知っている行動だ。私は携帯を取り出し、カメラモードにしてから、顔を上げて男に視線を戻した。
 男はそのほんの一瞬の合間に姿を消している。
 素早い――手慣れたことだ。
 闇に向かって携帯をかざしてみる。黒い車が一台、マンションの前の道路に止まっていた。だが、残念なことに、暗すぎてナンバーまでは読み取れない。街灯の光も届かない。私は夜景モードで車を撮影してから、マンションの自室に戻った。その夜、涼真は結局戻ってこなかった。

 次の日も、次の日も。涼真は来なかった。誰も片づけない涼真の荷物だけが、玄関にそのまま山積みになっている。
 私は当初の予定通り、仕事を探すことにした。マンションから少し離れた地域の求人を探す。自分に何ができるのかよくは分からなかったが、幸いなことに研究助手、という名目の雑用事務で雇ってくれるという会社があって、そこへ面接に行った。
 採用担当者の名前と事業者名とが同じせいもあって、勝手に小さな個人有限会社みたいなものだと思い込んでいたのだけれど――指示された場所へ赴いてみると想像していた業態とはまったく違っていた。
「す、すみません、ゴミゴミしたうるさい場所で」
 面接してくれたのは、びっくりするほど地味な灰色の作業着を着た、ビン底眼鏡の男性だった。普通の建物のはずなのに、そして普通のオフィスへ入ったはずなのに、部屋の中はまるで工場か何かのような実験用の工作機械らしきもので埋め尽くされている。
「見ての通り雰囲気が、ではなくて空気がですね、いや雰囲気もそうなんスけど、そのう、半端なく非常に悪くってですね……論文作成と実験データの入力のお手伝いをお願いするつもりではあったんスけど、そのう、皆さんなぜにというか当然というか、即日お辞めになってしまわれるので、そのう……非常に、まったくはかどらなくてですね。困っているのです」
 眼鏡の男は、首に巻いたタオルであたふたと額の汗を拭いた。なるほど納得である。研究棟の一室でありながら空気はやたらと油臭いし、うるさいし、暑い。これでは事務系の女子は二日と持つまい。
「論文提出までの期間雇用ということで、そのう、立場的にも僕の研究室の個人助手と言うことで来て頂くことになりますので、申し訳ないんスがそのう……雇用条件もよくなくて社会保険もアレなんで……ああ、よくないですね……ですよね……すいません……」
 なぜか雇い主になる側のほうが説明で恐縮しきっている。眼鏡の男は唐突に就業におけるアピール方法を思いついたらしく、ごうんごうんと地響きめいた轟音をあげる作業機械群を背景に、軍手を嵌めた手をあちこちひらひらさせた。
「も、もちろん、残業は絶対にお願いしませんし、時間的には余裕があるというか、午前中だけ、とか午後から三時間とか、そういうので構いませんので、できるだけ、そのう、負担のないように考慮させていただきますし……」
 眼鏡の男は途中で口ごもった。そのあとは、もう、なぜか私を見もせずに、そのう、そのう、とか何とかもごもご言うばかりで、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。
「あの」
 私はおそるおそる声を掛けた。
「私なんかでよろしければ、頑張りますので」
 おずおずと頭を下げる。ビン底眼鏡の研究員は、唐突に大きな声を出した。
「ありがとうございます! ほんとに助かります!」
 頭を下げられては、こちらが逆にびっくりする。私は、ちょっと眼をぱちぱちさせてビン底眼鏡の男を見つめた。
「こちらこそ、何とぞよろしくお願いします」
「僕、そのう、ここの研究室の担当で蜂矢っス。蜂矢祐輔。ゆうすけのユウにゆうすけのスケっす」
 ビン底眼鏡男は、もはや自分が何を口走っているのかまったく分かっていないらしかった。うわずった声を上げつつ、手にした私の履歴書を鼻の先へくっつけるようにして読んでいる。
「ええと、そのう……天野……これは恋《れん》さん、とお読みするんスね?」
「……はい」
 かつての名字。履歴書に書いたかつての名字、父の名字だったその姓を、男は何が嬉しいのか、わくわくした声色で読み上げる。
「恋と書いて”れん”、さんかぁ……かわいい……じゃなくて! 変わったお名前……じゃなくて! そのう……その……そうしたら……明日ッから出勤をお願いしたいんスけど、そのう……午前と、午後とどっち」
「午後からでお願いします」
 しどろもどろの蜂矢を前に、私はためらうことなく申し出る。午前は駄目だ。どんなに地味な眼鏡や常識的なスーツで隠したとしても、涼真に抱かれた、その匂い、非常識な欲情女の気配が、もしかしたら、すぐにはぬぐえないかもしれないから。
 私は、現実の世界にいながらまだ、そんなことを思っていた。

 翌日から、私は蜂矢祐輔のラボで働くことになった。働く、と言っても最初は勝手が分からないうえ、蜂矢のほうもまた、自分の研究思索にひたすら没頭している時間のほうが多くて、出勤はしたものの大した仕事もない。初日にしたことと言えばデスクの整理と自分の居場所の確保――つまり掃除と片づけに始まってパソコンデスクおよびPCの搬入接続設定、それから蜂矢の所へやって来たお客様へのコーヒーを出す程度である。
 とはいえコーヒーひとつ出すだけでも何だか一騒動だった。幸い、インスタントコーヒー本体はまだ大丈夫といえば大丈夫だったのだけれど、お客様が帰られた後――事件は発覚した。
「蜂矢さん……このクリーム、賞味期限切れですけど」
「えー、ちょっとぐらいは大丈夫っスよ」
 蜂矢は、私より二つ三つ年上で、そのうえ一応は上司に当たる立場だというのに、なぜか私に敬語を使った。いつも照れくさそうに笑っていて、親しみやすい顔立ちのせいもあって、いかにも人当たりがよさそうに見える。
「それがちょっとあんまり大丈夫では」
「……どれぐらいスか?」
「九年前」
「!」
「……あの、買い換えたほうが……いいんじゃないかと……」
「……うえええええ! えええええ!? それでさっきミルク抜きだったんですね!? 僕、昨日までぜんぜん気にせず飲んでました!」
「気が付いてなかったんですか」
「ずっと助手さんがいなかったから買い出しに行けなくて、この間お客さんが来たときついにミルクが切れて、あちこち探したらちょうどこれが出て来てラッキーって……うえええええ!?」
「お腹壊しますよ」
「すいません……うっ……そう言われると何だか……腹がごろごろ……うっ……!」
「じゃ、買い代えておきますね。他にも危険な――いえ、必要そうな物があったら買いそろえておきますけれど」
「チェックも全部天野さんにお任せするっス……うえええ九年前とか……うぐう……ヤバいマジでおなかいたくなってきた……」
 世界が、急速に広がってゆくような気がした。ずっと閉じこもっていたものが、突然、殻の外に放り出されたような、そんな感覚を覚える。
 それでいて、と。
 実のところは苦笑せざるを得ない。
 普通の日々、何もない日常が、こんなにも、つまらない、くだらない、馬鹿げた平坦すぎるものとしか思えなくなっていることに。
 こんな時間など消え失せてしまって、早く――涼真と二人きりの、狂った日常へと戻りたい――としか思えなくなっている、ということに。

 蜂矢は新入りの私に気を遣ってか、いろいろと話しかけてくれた。それは、大概がたわいない世間話であったり、仕事の進捗状況であったり、蜂矢自身や私の経歴について、であったりしたのだが、もちろん履歴書に書いた経歴以上のことを語ろうとは思わなかった。
「え、一人暮らしなんスか? 家族は?」
「実家がちょっと遠いので」
 自分のことを聞かれると、平然と笑って嘘をつけるようにもなる。
「へえ、そうなんスか……ぼ、僕も一人暮らしなんスけどね」
 蜂矢は私が聞きもしないのにもじもじと照れくさそうに言って頭を掻いている。
「っつか会社の独身寮なんスけどね、仕事忙しくてずっとほったらかしで」
 ……蜂矢と一緒にいると、うかつにも一日の半分はおしゃべりしているような気がしてしまう。私の仕事の半分は蜂矢のたわいないおしゃべりに付き合うことでもあった。
「あ、その顔、ぼけーっとしてる時間のほうが多いって顔っスね!」
「そんなことは思っても顔には出しません」
「思ってんじゃないスか! って、でも僕の仕事はデスクに向かうことじゃなくってですね」
 言いながら蜂矢はにんまりして自分のくしゃくしゃな頭を指さした。
「僕はココで仕事してます。だから、午後からは眠くてぽけーっとしてるように見えても実は常にフル回転なんです」
「ふうん……」
「あ、その顔、ぜんぜん信じてない顔っスね」
 言いながら机からビニール袋に入ったチョコレート菓子を取り出して、一個、私に勧めようとしてくれる。私は笑ってお断りした。
「糖を補給するのは脳のために良いことなんスよ? 腹回り的にはやや残念なことになってますけど」
「……じゃ、私、お茶を淹れてきますね。蜂矢さん、コーヒーと紅茶とどっちがいいですか?」
「ひゃ、嬉しいっす。僕、コーヒーで……って、うわ、すいません。催促してるわけじゃないっス! ムリにお茶くみなんてさせるために来てもらってるんじゃないっス。それは天野さんの仕事じゃないですから。僕、勝手にいれて飲みますんでおかまいなく!」
「あ、いえ、ちょうど私も休憩時間でコーヒーをいただきますので」
「じゃ、おやつをおすそわけ……」
「いえ、それは結構です。ダイエットしなくちゃ」
 慇懃に固辞する。九年も前に賞味期限が切れているコーヒーミルクを気付かず平然と飲むような男の机の中に入っていたお菓子など、食べられるわけがないではないか。……と、もちろんそれは冗談だけれど、蜂矢は、なぜか私が思ったのとは違うところに反応した。身を乗り出すようにして、珍しく力説を始める。
「な、何言ってるんス、天野さん、やせる必要全然無いッスよ!? 今だってスタイルいいし、かわいいし、そのう」
「はいはい。蜂矢さん、コーヒーどうぞ」
 淹れたてのコーヒーを運んでデスクに置く。いや、本当は置こうとしたのだけれど、当然の如くごちゃごちゃと紙切れやらA4ファイルやらが山となっていて、無事に置けるような場所はまったくなかった。仕方なく私は多少置き場所を確保するために、蜂矢の机上をちょいと片づけた。
「はい、どうぞ」
 スプーンがカップに当たって、澄んだ音を立てる。蜂矢が、ふん、と鼻を鳴らすような音を立てた。何やら深呼吸しているらしい。
「あとで下げに来ますからそのまま置いといてくださいね」
 私がお盆を胸に抱いて下がると、蜂矢はなぜか慌てた素振りで眼をそらす。
「?」
「何でもないッス! さて仕事仕事……」
 逆さまのファイルを無闇に繰り始めながらデスクにかじりつく。蜂矢はコーヒーに口を付けもせず、なぜかファイルに顔を突っ込んで唸っていた。

 だが、そんな、のんびりとした日ばかりではなかった。
「天野さん、ちょっと」
 仕事向けの顔に変わった蜂矢は、驚いたことに別人のようだった。突っ伏していた自分のデスクから顔も上げずにいきなり私を呼んだかと思うと、できるかできないかを訊ねもせずいきなり大量のファイルを前に指示を出し始める。私は聞き逃すまいとしてあわてて持っていた付箋にメモを取りながら蜂矢を見つめた。
「このへんの参考資料にあがってる電子ジャーナルを全部閲覧したいんでダウンロードして、あと、僕が書いてる論文の元原稿がこれなんですけど何やかやあれこれ貼り込みする図面をですね、えーと、そのう……CADで起こしたいんですけど、こっちに部品図の手書き原本があるんですけどこれを使い勝手良く二次元と三次元の両方、データで起こしてもらいたいんス。だいたいキッチリって感じでいいんス。あ、すいません、ちょうどいい、その付箋ちょっと借ります。えーと、この図とこの表とこれとこれと……あ、これはいいか……表は普通に表計算ソフトでいいです。で、残りは後で僕が全部貼っておくんで、とりあえず最初はこんだけで。もう、いっぱいあるのに全然手が着いてなくてホント……あ、ちなみに使えます、CAD?」
「……すみません、触ったことはないです……」
「もし全然サッパリって感じだったら、僕の名前で申込みしていいんで講習に行って貰おうと思ってるんですけど。行けます、講習? 時間的には午後がいいんすよね? 交通費込みで経費出しますんで就業時間内で」
「あ、いえ、その、私……」
「意外と簡単っスよ? って言っても大概の人にはできないできないって言われてそのままにされちゃってたんスよね。じゃあ、そのう、一応ちょっと使ってみて、使えそうならそのままお願いするっス」
「はい、分かりました」
「メモ取りました?」
「はい」
「講習、どうします?」
「最新のソフトは分からないので、させていただけるならぜひお願いしたいのですけれど」
「分かりました。じゃ、出入りの業者さんにスクール紹介してもらうんで、天野さんの都合の良い時間に申込みしてもらえます? ええと、この名刺の人。電話したらスグ来てくれると思うんで相談してみて下さい。あ、それ、持っててもらって構わないっス。いつも十枚ぐらい置いていくんスよその人」
 といって蜂矢は分厚い名刺ホルダーをぱらぱらめくって名刺を一枚抜き取り、私に渡してくれた。
「でも、蜂矢さんのお取引先なのに、単なる雑用の私なんかが直接、連絡取らせて頂いて構わないんですか?」
「ここ、会社のオフィスじゃないんで、そういう普通の社会常識はいらないっス。向こうもそのつもりで接してくるっス。いったんお願いしたことに関しては天野さんのほうで自由に裁量してやってもらうほうがいいんで」
 蜂矢は、ペンを指先でくるくる操りながら、どこか嬉しそうにくるりと椅子を回して笑った。
「じゃ、よろしく」
 そんな忙しい日々が、数日続く。正直言うと、さして何か特別なことができるわけでもない自分に、能力以上の実務を期待されているような気がして、目が回りそうだった。でも不思議とそれが嬉しくもあった。何かを、忘れられるような気がして。
 だが、仕事を終えて帰宅する直前、携帯に着信が入っていることに気付いた。非通知。たぶん、涼真だ。掛け直そうと思ったが、そのとき初めて私は自分が涼真の携帯の番号を知らないことに気が付いた。やや、愕然とする。
 そのとき、バイブレーションが震えて、再び着信を報せた。私はすがるようにして携帯を耳に押し当てた。
「涼ちゃん……?」
 近くに蜂矢がいると分かっていても、つい、声がうわずってしまう。
 ――ああ。ずっと連絡できなくて悪い。
「ううん……忙しいんでしょ、いいの。気にしないで」
 ――まだしばらくは帰れそうにないな。
「そう……あ、あのね、私、この間から仕事を」
 ――悪い、会議が始まる。また後で。
 電話は、あっけなく切られた。
 余韻すらない。残酷なほど短い、二桁に満たない秒数のみの通話時間が表示されている画面を、消す。今にもちぎれそうにはりつめていた何かが、音を立てて切れたような気がした。
 一方的に現れて。
 一方的に――私をかき乱して、去ってゆく。
 数日、家を空けていた理由についても、そのことへの弁明めいた言葉すらも、まったくなかった。どうせ、説明しなければならない理由も、その気もないのは分かっている。彼女からの電話を平然と断ちきったときの、涼真の冷ややかな笑顔が思い浮かんだ。
 振り返ると、蜂矢があわてて机に視線を戻すのが見えた。聞き耳を立てていたのかも知れない。らしくない、とは思ったが、そんなことで互いに気まずい思いはしたくない。
「そろそろ、失礼します」
 帰り際、私は、ためいきを一つついた。
 奇妙に足元がふらつく。眼が、すこし、かすんだ。視界がゆらぐ。
「お疲れっス」
 蜂矢は顔も上げずに応じる。なのになぜか、突然、私を見た。私は自分のデスクの端に掴まろうとして、手を滑らせた。
 書類が切羽詰まったような音を立てて床に散らばる。
「あ……」
 拾い上げようと、腰をかがめる。
 いや――そうしたつもり、だった。
「天野さん?」
 眩暈がして――
「天野さん、しっかりするっス」
「ぁ……!」
 自分が、よろめいてその場にへたり込んでいたことに気付いたのは、しばらくたってからだった。眼がひどくかすんで、頭が朦朧とする。くらくらするばかりでなく、わずかに吐き気までがした。
「大丈夫、ただの貧血……ですから……ちょっと、眩暈しただけで……」
「と、とりあえず椅子に座って……顔色も悪いな。僕、医務室の先生呼んで来ますから」
「蜂矢さん」
 私は必死に声をあげて、蜂矢を留めようとした。
「やめてください」
「でも」
「本当に、結構です」
 私は、蜂矢の手を掴んだ。眩暈の理由は分かっている。できもしないのに涼真のことを頭から追い出そうとしてろくな食事をしなかった自分が悪い。自己管理がなっていない、ただそれだけのことだ。
「大丈夫ですから。自分で、分かってます。貧血気味ってだけで」
 心配そうな蜂矢の顔が、間近に近づいている。私はかすれた笑みを浮かべて首を振った。
「ホントに……もう大丈夫ですから」
「具合が悪いなら休んでくれて構わなかったのに。と、とっ、とにかく座って」
 蜂矢は私に椅子を勧めた。部屋で唯一、お客様用に置いてある黒い合皮のソファへと、抱きかかえるようにして私を連れて行ってくれる。
「蜂矢さん、すみません……御迷惑お掛けして……ごめんなさい……」
「とんでもないっス。そ、そうだ、お茶、お茶。僕、自販機でスポーツ飲料買ってくるっス」
 声が、遠くから聞こえてくるような気がした。すぐに蜂矢は手に青いアルミ缶を持って駆け戻ってきた。
「これ飲んで」
 言いながらタブを開けてくれる。私が遠慮しようとすると、蜂矢は珍しく声をきつくして言った。
「駄目。全部、最後まで飲んでください」
 言われたとおり、缶ジュースを全て、飲み干す。かなりの時間がかかったにも関わらず、蜂矢はずっとそばにいてくれた。心配そうな顔をして、それでいながら、決して、私に触れようともせず。
「蜂矢さん」
「……だいぶ、顔色が良くなってきたみたいスね」
 蜂矢はうろたえたように笑って、あわててソファから立ち上がった。私の手から空の缶を取り上げ、棄てにゆく。私はまだすこしふらつく足で立ち上がった。
「すみません、御迷惑ばっかりお掛けして……」
「とんでもない。そうだ、車で家まで送ります」
 蜂矢は、手荷物らしい黒いリュックを担いで振り返った。
「汚くて臭い車で、逆に申し訳ないスけど」
「いいえ、その、とんでもない……お仕事の邪魔になりますし、それにひとりで帰れますから」
「無理しちゃいけません。送ります」
「……でも……」
「とにかく、送らせて下さい。放ってはおけないです」
 答えられない。蜂矢は、名状しがたい眼差しで、私を見下ろしていた。
 送ってくれる車の中で、私たちはとりとめもなく、たわいのない話だけをした。信号待ちの赤いテールランプが視界を赤く侵蝕するかのように滲んでいる。私はうつむいた。音の割れたラジオがニュースを喋っている。
 私は頭を下げた。
「すみません、私がいないほうが蜂矢さん的には仕事がはかどりますよね……ろくに仕事も出来ないのに、御迷惑ばっかりかけて」
「そんなことないっス」
 ハンドルを握った蜂矢は、真っ直ぐ前を向いたまま、きっぱりと断言した。車の窓のむこうに、光の尾を引いて瞬時に通り過ぎてゆく道路灯が見えた。
「天野さんいてくれるほうが僕的には脳が活性化するんス。緊張と会話がミソっス」
「緊張……されてるんですか」
 いつもだらけてるように見えますけれど、とは言わずにおく。そんなことを言える状況ではなかった。
「言葉は、ちゃんと言葉として口に出してやらないと、脳にイメージが回らないんス。行動もひらめきもまずは”言葉”で”イメージ”。”こういうイメージ”ってのを具体的に表現して形にするのが大事で」
「ムズカシイです……」
「そう、ムズカシイ。それも言葉のイメージです。僕ねえ、”分からない”って言う人の気持ちが分からないんスよ。”分かろうとしない”の間違いじゃないかって思う。どんなにわけわかんないこと言ってても要するにそれは”知らない”だけであったり”難しい”だけであったり。結局は日本語なんだから”分からないわけない”じゃないですか?」
「……何言ってるのかサッパリ分かりません」
「天野さんに持論否定されるとさすがにちょい凹むっス」
 蜂矢は、私が理解していない、などとはこれっぽちも思っていないようだった。もちろん、研究のための大切な時間を犠牲にしてまで、私に気を遣ってくれているのだ、ということは理解している。だが、わざわざそんなことをしようとしてくれる理由自体が、まるで分からない。私は、馬鹿だ。本当に、馬鹿だ、と思った。分からない、だなんて。
 カーナビが私の住所に近いことを告げた。車は、マンションの前で滑り込むようにして止まる。
「わざわざ、ありがとうございました」
 頭を下げる。ハザードランプが単調な音を刻んで点滅していた。蜂矢の眼鏡がオレンジ色の明滅を映し込んで光っている。
「うん。おつかれさまっス。明日は休んでもいいです」
「本当に、すみません」
「ホント、無理しちゃ駄目です。それと」
 蜂矢はどことなく疲れたような笑みを浮かべた。
「……あんまりプライベートには関わるべきじゃないとは思うんスけど」
 長い空白のあと、ぽつり、と付け加える。
「気にしないほうが……いいと思います。いろいろと、そのう……」
 ちょうど車から降りようとしていたところにそんなことを言われて、私は眼をみはった。バッグを手にしながら、首を振る。
「蜂矢さん」
 蜂矢は答えない。
「蜂矢さんったら」
「ん」
「さっきの電話は、弟からです」
 蜂矢は、ぐるりと首をねじって私を見た。
「弟? 弟さんスか?」
 声の調子が、変わっている。私は蜂矢を真っ直ぐに見つめた。
「……そう、弟です。何か?」
「いや、何でもないっス。何でも」
 蜂矢はふいに笑いだした。
「何だ、そうだったんスかあ、僕、何か、勝手にいろいろ想像してたみたいで……す、すいません……!」
「やだ、何と勘違いしたんですか?」
 私は笑って車から降りた。もう一度、蜂矢に向かって頭を下げる。車のウィンドーが降りて、蜂矢が手を振ってくれようとする。その視線がなぜか、唐突に横へとずれた。
 表情がみるみるけわしくなってゆく。まるで、蜂矢ではない別の誰かのようだった。
 人の気配。私は振り返った。マンションエントランスへと続く植栽の影に誰かが立っている。唐突に、以前、つきまとうようにしてマンション前で待ち伏せていた男のことを思い出した。
 人影は、私に気付いたのか、ゆっくりと歩み出てくる。
「涼ちゃん……?」
 エントランスの明かりが人影を半身に切り取って照らし出す。涼真だった。相変わらず暗い色のスーツを着て、ぞくりとするほど切れ上がった目でこちらを見つめている。
「レン」
 低い、押し殺された声が吐き出された。
「誰だ、そいつは」
 私は少しあわてて割って入った。
「あ、あのね、涼ちゃん、こちら、私の上司の蜂矢さん。仕事中に、私……」
「仕事?」
「う、うん、ごめんね、勝手に……」
「そうか」
 涼真は、ふっと笑った。眼の奥にひやりとつめたい光がまたたいている。視線は私ではなく、私の背後の車と、蜂矢に突き刺さっていた。
 蜂矢は、エンジンを掛けっぱなしにしたまま、車から降りた。ドアをゆっくりと閉め、マンション側に回ってくる。
 私は会釈しようとした。涼真が私の腕を掴んだ。無言で背後へと押しやられる。蜂矢の顔色が、にわかに変わった。
「ありがとうございます、蜂矢さん。わざわざ”姉”を送って頂いて」
 涼真は遮るように慇懃に笑って頭を下げた。蜂矢は口をゆがめた。
「いえ。それじゃ、僕は、これで」
 なぜか食い入るように涼真を見つめる視線を、ふとはずして。蜂矢は私をちらりと見返した。
「天野さん、お大事に」
「はい。ありがとうございました」
 深々と頭を下げる。蜂矢は車に戻った。涼真が私の腕を取った。
「戻ろう」
「うん、ちょっと待って。蜂矢さんが、まだ」
「すぐに帰るよ。気にするな」
 涼真はうすく私に微笑みかけてから、ふと、見せつけるかのように車へと眼を走らせた。釣られて私も視線を走らせる。
「眼鏡、似合ってるじゃん」
 涼真は唐突に笑って私の肩をきゅっ、と引き寄せ、いたずらな手つきで私の地味な眼鏡を取り払った。
 すこしふらついてしまう。私は涼真を押し戻そうとした。我知らず、顔が赤くなっている。
「やめてったら、やだ、恥ずかしい」
「俺に素顔見られるのが?」
「別に恥ずかしくは、ないけど……その……」
 涼真はまたちらり、と蜂矢の車へと眼を走らせた。私は涼真の視線を追いかけ、どきりとした。帰り道のカーナビをセットしているとばかり思っていた蜂矢が、私たちを見ている。
 私はあわてて涼真から離れ、蜂矢に会釈した。いつも照れたように笑っている蜂矢の表情が、なぜか今に限って奇妙によそよそしく、険しく見えた。涼真はなれなれしく笑って蜂矢に頭を下げる。蜂矢は顔をそむけた。途端、車が急発進した。そのまま、タイヤを鳴かせて走り去ってゆく。
「行ったな。鍵、開けてくれ」
 涼真は軽々しくまた私の肩を抱いた。私はわずかに身を引こうとした。
「ねえ、涼ちゃん、あのね……」
「話は帰ってからだ」
 涼真の笑みの奥には、赤くゆらめく火があった。

 私たちは人目を忍んで部屋へと戻った。涼真も私も無言だった。互いに着替え、私は部屋の片づけをし、化粧を落として、お風呂を入れた。湯が入るのを待つ間に、涼真は、バリケードのようになっていた玄関から空いていた部屋に荷物を動かしていた。
「涼ちゃん、私も手伝おうか……?」
「要らない。部屋の配置ぐらい自分で決める」
「あ、あの……ごめんね」
「何が」
「とりあえずでも荷物、移動させておけば良かったかなと思って……」
「いい。勝手に触られても困る」
 そっけなく断られる。私は何とはなしに言葉を失って立ち尽くした。涼真は片づけを続けようとして、ぼんやりと部屋の入口付近で立ったままの私を振り返った。
「急な出張だったからな。ここはいいからレンは先に風呂でも行ってろ」
「うん……ねえ、涼ちゃんのベッド、こっちの部屋に新しいの買う?」
「狭いならダブルに買い換えてやる」
 棘のある声に突っぱねられ、私はわずかにうろたえた。
「一人で寝かされるぐらいならパーキングの車で寝る。そうして欲しいならそう言え」
「……」
 私はうつむいた。自分が分からない。蜂矢は、そもそも”分からない”のではなく”分かろうとしないのだ”などと言っていたが、やはり、分からない。
「とにかくここを片づけてからだ。だらしない男が転がり込んだせいでレンの家をこんなにしたって思われるのが嫌なんだよ。分かったか?」
 涼真は苛立ったように言い、背を向けた。
「……」
 一人のお風呂は、奇妙にものさびしかった。それでも久し振りにゆったりと手足を伸ばし、疲れをもみほぐしてから、お風呂を出る。涼真が誰かと喋っているのが聞こえた。電話をしているのは分かるが、それを横から盗み聞きしたり口出ししたりするのはおこがましくて浅ましくて嫌だった。自分をねじ伏せ、あえて意識から会話の内容を閉め出す。
 何だか、胸が、苦しかった。どこかが、痛い。痛いのは分かるけれど、何がどうして痛いのか、それが分からなかった。でも、涼真は、もともと外の世界の人間だ。私以外の誰とも話さずに済むようなことはあり得ない。私の痛みには、根拠がない。そんな――普通の痛みなど、もう。
 私は薄いナイトウェアを着て、部屋に戻った。髪を乾かさなければならない。
 ようやく片づけが終わったらしい涼真がリビングに戻ってきた。どこから発掘してきたのか、ハンディビデオカメラを持っている。涼真はカメラをテーブルに置いた。かと思えば袖まくりしたまま冷蔵庫をひっかきまわしている。ビールを探しているらしい。
 涼真は、私を見て、ふと表情をなごませた。
「レン、髪切ったんだ」
 見つけたビール缶のタブを引き起こすと、炭酸の抜けるいい音がした。
「……今ごろ気付いたの?」
 涼真は缶をテーブルに置いて私の傍にやってくると、ちょっぴり汗のにおいのする手で、私を引き寄せた。おだやかな、いつもの涼真の声で、私の腰に腕を回し、ゆっくりとささやく。
「ごめん、すぐに気が付かなくて」
「別にいいけど」
「すごく、今のレンに似合ってる」
 涼真はわずかに身をかがめ、私の頬に手を添えようとする。私は身をよじらせて涼真から逃れた。
「何だよ、怒ってんの? さっきはおだんごに結んでたから分からなかっただけだろ」
「あら、そう」
「何だよ、その言い方。そっちだって、いきなり男と同伴してただろうが。あいつ、誰だよ」
「さっき言ったでしょ。仕事、始めたって」
「それとあんな男と何の関係が」
「慣れない仕事して、貧血起こしちゃったの。なのに涼ちゃんが傍にいてくれないから!」
 私は、いらだちの眼で涼真を見やった。
「親切に送ってくださったのよ……? なのに、あんな言い方して。失礼だわ」
「そうか」
 さすがに気が咎めたのか、涼真は眉根を寄せ、私の額に手を押し当てた。
「熱はないよな」
「あるわけないじゃない」
「もしかして、俺……ヤな感じだった?」
「そんなことはないけど」
 私は首を横に振る。
「……さすがにちょっと、あれは駄目よ」
「謝らないとな。レンにも」
「私のことはどうでもいいって」
「……そっか……迷惑かけちゃったな」
「……」
「悪かった」
「ううん……いいの……ほんのちょっと、」
 身体の、奥底が、ずきり、とうずく。
「ううん、ごめん、何でもない。私、ゴハンの用意してくるね……」
 あえて声を明るくはずませ、私は涼真の手から逃れようとした。
 その、腕を。
 背後から、涼真がぐい、と掴んで引き止める。
「レン」
 私は、振り返らなかった。
「何?」
 声を押し殺す。
「……何もされてないだろうな?」
 身体が、こわばった。心臓が、やにわに強く乱れ打ち始める。声が詰まる代わりに、息があがった。
「誤解しないで。言ったでしょ、会社で貧血起こして倒れちゃったから、蜂矢さんが送って下さったの」
「本当に?」
 涼真の手が、ぞくりとする欲情を匂わせて、肌を這ってゆく。
「……あたりまえ……でしょ……何言って……ぁっ……」
 揺れる乳房を、後ろから、絞るようにして鷲掴まれる。そのまま揉み揺すられて、私は、身体を仰け反らせた。
「やっ……いきなり……何……ぅうん……んっ……」
「俺がいなかったら、奴を部屋に連れ込む気だったんじゃないのか」
「そんな……こと、しな……いってば……ううん……!」
「そうか。それを聞いてちょっと安心した」
 身体中が波打っている。総毛立つような手のひらの感触。乳房から全身へと苦痛じみた快楽の衝動が広がってゆく。涼真はひくく笑った。
「俺、レンが、俺以外の男にもこんなふうに――されたいのかと思って」
「……や……ぁっ……!」
「俺以外の男にも、俺に見せるみたいな、あんな顔するのかと思ってさ」
「……ぁっ、あっ……やだ……!」
「俺のこと……大人気ないって思ってるだろ」
 みるみる――変わってゆく。
 下半身につけていたものだけを、強引にはだけられ、引きずり下ろされて。あらわにされた肌を、手が這い回る。その手のひらの熱から、じっとりと茹だる嫉妬の熱が伝わってくるような気がした。身体中が、熱くなってゆく。火を点けられたろうそくのように、とろかされてゆく。触れられたところから、じわり、と熔けて――
「思って……ないってば……い、嫌……あっ……あっ、今日は……やだ……涼ちゃん……!」
 抱きしめられるよりも、強く、激しく――
 荒々しく乱れた涼真の息づかい、腰に絡みつくような腕、それでいて完璧な平静を保った、その声で。
 涼真は、恐ろしいほど緻密な指づかいで、ふたたび、完全に、私を支配してゆく。
「あ、そう言えばそうだった。貧血で倒れたって言ってたな。じゃあ、やめておくか」
「ん……っ……?」
 心配そうな声とは裏腹に、眼の奥が欲情の光を帯びる。
「今夜は俺がメシ作るよ」
「……ううん……大丈夫」
「いいから。もう寝ろ。スープごはんみたいなのでいいよな?」
「……」
 言い出せない。言えなかった。私はうつむいた。涼真のいないベッドがあんなにも空虚な白い闇だったとは。再会して、まだ数日しか経っていないのに、もう、私を満たす水の――半分以上が、涼真から注ぎ込まれた飢餓の澱に澱んでいる。
「涼ちゃん」
 私は、食事の用意をするためキッチンへ立とうとした涼真の袖を、背後からつまんだ。
「涼ちゃん」
 袖を、引く。
「……」
 涼真の暗いまなざしを見上げる。
 ごくり、と、喉の鳴る音がする。私はじりじりする唇を湿した。
 乾いて。
 乾いて。
 どうしようもないぐらい――
 ひりひりする。
 心も、唇も。身体も。
「涼ちゃんが、ずっと、傍に、いてくれなかったら……」
「俺が?」
 涼真は、うっすらと素知らぬ笑みを浮かべて聞き返す。
「傍にいないから、何だ。言えよ」
「自分で、自分が、ね。分からなくなるの」
 闇を宿した涼真の眼が、私を射抜く。
「私、どこにいるんだろう……って。本当の私は、涼ちゃんの腕の中以外の、どこに、いるんだろう……って……思っちゃった……今も、ね……」

 涼真が、ふいに、私の身体を抱いた。
 深い、暗い、長い――吐息が、私を押し包む。

「今も、レンは、ここにいるだろ」
「……うん……」
「俺も、ここにいるよな?」
「……うん」
「ずっといて欲しいって……思うか? このままの、俺たちで」

 ゆらめく瞳が私を見つめる。
 本当の私は、どこにいる――?

 涼真に、抱かれて。
 何もかも、忘れて。
 自分が、何をしたのか。
 涼真に、何をさせたのか分かろうともしないで。
 すべてを背負わせたまま、快楽という名の逃げ道にすがって、本当の気持ちを、本当の思いを、自分だけ、あの日に置き忘れて。

 血のぬるつきにも似た偽りの幸せに逃避した偽りの私が、ここに、いる。

「私……涼ちゃんがいないと……何もできない」
「そんなことないだろ」
 俺がいなくても、大丈夫、と。
 残酷な声がささやく。
「忘れろよ、もう」
 ”あの日のこと”は、もう、忘れろ――

 あの日……?

「さもないと、俺、レンに」
 耳元に、ぬめるような声が伝い入った。ぞっとするつめたさが、私を虜にする。
「もっと――ひどいことしちまいそうな気がする」
 舌で、耳朶をくすぐられ、噛まれ……
 あっけなくソファへと二人でよろめきくずれてゆく。クッションを押しのけながらのしかかられた。こわばる腕を強引に押し上げられる。嘲笑するような舌使いが、あらわにされた脇の下をまさぐった。全身に、総毛立つ刺激が伝いこぼれてゆく。
 淫靡なしずくを散らす音が、耳元で、延々ねっとりと響き続けている。
 や……だ……
 ぁっ……何……ぁっ……
 声が、したたり落ちる。いったん火が点いてしまった身体は、もう、言うことをまるで聞かなかった。
 足首を掴まれて。ぐい、と、押し広げられる。腰ごと、持ち上げられる。
 涼真は、ふ、と息を吹きかけて笑った。笑い声と一緒に、荒々しい吐息と唇が近づく。
「……嫌っ……やだ……そんなとこ見ないで……見ちゃ、いや……あっ……だめ……」
「他の人間と関わるな」
 人の身体の中でも、決して触れてはいけないところを全部、あらわに――
「二度と俺以外の男を近寄らせるな、って、言っちまいそうになる」

 ……っ……あっ……!

「これって……嫉妬ってやつだよな」
 浅ましく広げられた私のそれに、ほそく尖らせた舌を、つ、つ、と伝わせる。
「レンにこんなことしたり」
「っ……そこは……や、だ……、……ぁっ……!」
 ちろり、ゆるり、と。
 もう、ひどく濡らされた花の色の肉芽を。とろりと蜜のあふれる花片を、挑発を帯びた残酷さで、舐めなぞられる。
「ぁっ……ん……っ」
 身体が、ひくん、とふるえた。こらえきれず、声が、洩れた。背筋が跳ね、仰け反る。しびれるような断続的に甘い感覚が、背筋からぞくぞくと染み入るように広がった。
「こんなことまでしたりしてても、さ」
「い……いや……見ないで……だめ……!」
 なのに、身体の奥が、物欲しげに膨らんで。
 ずきりと、うずいて、うずいて、熱く、ふるえはじめる。
「不安で、どうしようもなくなる。レンが、こんな格好でふるえてる姿なんて――誰にも、見せたくない」
「ぁっ……う……うん……っ……涼ちゃん……」
 指で、火照る体内をくちゅ、くちゅ、かき乱されながら……やだ……ああ……うんっ……もっと……
「あの男……蜂矢とか言ったな。人畜無害みたいな草食系の顔して、ずっと、レンを見てた。俺を睨んでたよ」
 涼真はまことしやかに笑った。
「もしかしたら、感付かれてるのかもな。”姉”と”弟”で、こんな――関係になってるってこと」
「まさか……そんなこと……ぁっ……あっ……!」
「レンは、あの男をどう思う?」
 煮えたぎる吐息が、押し曲げられた身体に吹きかかった。
「ぅ……んっ……蜂矢さんは……いい人よ……」
「いいひと、か。俺とあの男と、どっちとセックスしたい?」
「やっ……やだ……そういうのじゃなくって……ぁっ、ううんっ……」
「弟よりは一般人のほうが普通は”安全”だろ――防波堤としては」
「やだ……そんなの、絶対……嫌……涼ちゃんじゃないとイヤ……いや……いやなの……」
 うわずったあえぎ声が、熱情に熟れて、あふれ落ちる。
「……おねがいだから……ぁっ……ううんっ……涼ちゃん……早く……」
 身体が、うねる。突き上げてくる絶頂の感覚を欲しがって、のたうっている。
「何を?」
「て……欲しいの……お願い……!」
「だから、何を?」
「ばかっ……ぁっ……!」
「俺の何が欲しい?」
「やっ……あぁっ……んっ……ばか、ばかぁ……涼ちゃんの……ばか……おねがいだから……」
「これ、か?」
 ゆらめく水面のように、遠くから聞こえてくる声。ぬるりとぬめる感触とともに、熱い、何かが――そこに押し当てられていた。
 なのに。
 どんなに、ねだっても。どんなに浅ましく腰を振ろうと、いじましくすがろうとしてみても、触れるたびにそらされ、遊ばれ、焦らされ、気持ちばかり急かされて――
「ぁっ、あっ……ちょうだい……やめないで……挿れ……て……涼ちゃん……ねえ……涼ちゃんが……ほしいの……意地悪しないで……抱いて……ったら……!」
 もう、自分が何を口走っているのか、分からなかった。何も聞こえない。涼真の声以外は、何も。
「……昼間のレンと、夜のレンと……」
 涼真が、わずかに喘ぐのが肌に感じられた。
「ぁっ……あ……涼ちゃん……ぁぁ……」
 声が、うわずる。涼真が、涼真の、”あれ”が……私の”中”に、入ってくる……
 みるみる、熱く、膨れあがって、奥に――
「信じられないぐらい違う。そうやって喘いでるレンの顔が、どんなに俺を……堪らない気持ちにさせるか……狂わせるか……お前には、分かってないんだろうな……」
 腰ごと、内臓まで、子宮まで、ぐらぐら揺すぶられ、強く、抱かれて。
 身動きも、息すらも出来ないぐらい、涼真に拘束される。
「もし、レンが……他の男にこんなことされたりしたら、俺……」
「ん……う……っ……くるしい……」
「そいつのことも、きっと」
「だめ……言っちゃ……だめ……言わないで……!」
「いいんだ、もう」
 涼真は冷ややかに口元をゆがめた。
「何年も、待った」
 身体を突き上げる音が響き渡る。濡れた音、肌を打ち合わせるような音、ベッドの軋み、悲鳴。
「お前が俺のことを”思い出す”のを、な」
「……ぁ……あっ……ううんっ、う、んっ……いや……イヤ……!」
「苦しいか、レン」
「くるしい……涼ちゃんで……いっぱい……からだのなか……いっぱい……で……くるしい……あ、あっ……!」
「思い出しさえすれば」
 悲鳴だけが響く。
 汗が飛び散るに似た、いやらしい、女の粘液がしたたるに似た悲鳴。私の、悲鳴が。
「嫌、イヤ……いや、いやっ……イヤぁっ……あっ、あ、っ……ん、ううん、ううん、ぁっ……気持ちいいの、すごいの、もっと、もっと、あっ……ぁぁ、ぁ……ぁ……っ……!」
 ベッドが激しく軋む。影が、揉み合うように揺れ動いている。シーツがみだれ、うめき声が乱れ、荒々しく洩れる呼吸の音にあえぎ声が重なり、涙がこぼれ、押し潰された泡みたいな音が満ち引きする。私の中を、かき乱して、突き上げて、押し広げて。
「レンは、俺から――逃れられる」

 嫌。

「本当のレンに……戻れる」

 嫌。
 今のままで、いい。離れたくない。涼真に抱かれてさえいればいい。私は、今の私のままでいい。馬鹿で。何の役にも立たない、役立たずな能なしでいい。涼真に抱かれるだけの、涼真に依存するだけの、淫乱なセックス狂でいい。私はどうせその程度の存在意義しかないから。

 でも。
 本当に
 それで、いいのか。

 今の、無気力な私のまま。
 自分自身から、眼をそむけて。
 涼真ひとりに、全ての重圧を負わせて。
 私ひとりが、記憶を失っているのをいいことに、素知らぬ顔をして、ひたすらに依存し続けて。

 本当に、それで、いいのか。

「ひとつに、なろう」
 熱泥の色に光る涼真の眼が。私を、見下ろしている。
「ひとつに」
 支配者の眼が、私を、押さえつける。どこまでも、堕ちてゆく。
「俺が、”何をしたのか、教えてやる”」
 その瞬間、”赤い手”が、見えた。

 赤い、手。
 何かを、握る、手。
 悲鳴。

 その日もそうだった。言われるがままに薬を飲んだ。飲めば意識を失うことも、”その間”の記憶を失うことも分かっていた。分かっていても飲まずにはいられなかった。父に犯され続けてきた、穢らわしい、おぞましい、狂った非日常の片鱗を意識の片隅に残すことは――あのころの私には、堪え難い恐怖でしかなかったから。
 夜ごと、死ねばいいのに、と思っていた。父も、私も、どこかに消えてしまえばいいのに。こんな身体、こんな汚い身体、ばらばらにちぎってどこかに捨てられてしまえばいいのに。意識もないのに父に犯されて女の身体にされ、悶えて、よがるような娘は、さっさと、早く、死んでしまえばいいのに。
 なのに。
 私は、取り返しの付かぬ罪を。

 父と、同じ罪を、犯した――

 だから、その日、大量に薬を飲んだ。
 何もかも忘れてしまいたかった。いっそ、消えてしまいたかった。そうすれば楽になれる。抱かれても。犯されても。打ち棄てられても。縛られても。何も分からなくなる。父の性器が私の中でうごめくのを感じずにすむ。粗暴な手が乳房を揉みしだく時の、あの、ちぎれそうな苦痛を押し殺さずに済む。父の精液が私の腹に飛び散るのを見ずに済む。父の精液が私の顔を薄汚く汚すのを見ずに済む。獣のような唸り声、野太い、がらがらの声、私を罵倒しながら、私の身体の淫乱の血を罵倒しながら、いやらしくも私の名を腹の上で呼ぶ、おぞましい男の声を、聞かずに済む――

 そうだ。
 本当は、すべて、覚えている。
 この、手が。
 この、身体が。

 忘れようとしていただけ。
 分かろうとしなかっただけ。
 分からないふりを――していただけだった。

 ”あの日の記憶”が、閃光とともに戻ってくる。床に、ベッドに、廊下に、洗面所に、リビングに、和室に、応接間に、玄関に。のた打ち回る誰かの這いずった跡が見える。何か、真っ赤な、ぶざまなものが、廊下の端でうごめいていた。ずんぐりした、裸の、男。何も着ていない、醜い男。血を流した、私の――父だった男がうずくまっている。甲高い憎しみの声が耳を打つ。突き刺さる。
 大丈夫よ。今ならまだ間に合うわ。涼真、あなたは悪くないのよ。大丈夫、全部ママに任せなさい。その女のせいにすればいいのよ。その、気が触れた淫売娘のせいにすれば、全部――一瞬、鏡に私の姿が映る。手に、何かを握らされて。はあはあと狂ったように息を荒げ、けたたましく喚き散らす黒い影に無理矢理引きずられて。髪を掴まれ、父の死体の上に引きずり倒される。こうすれば、この女がやったことになるわ。ほら、突き刺しなさいよ……何泣いてるの! もっと力入れて、完全に死ぬまで刺すの。こんな、気の触れた頭のおかしい淫乱女が何をしようが誰もそのことを疑わないわ。ねえ、そうでしょ、涼真、あなたは、何もしていない。それでいいのよ。それで全部、うまくいくわ。後はこの女が自殺したように見せかければいいのよ。恋《れん》、手首、出しなさい。何逃げてるの……いいから出しなさい! おまえなんかさっさと死んでいればよかったんだわ……! どうしてもっと早く自殺しなかったの? お前みたいな娘、気持ち悪くて生きているほうがおかしいでしょ! 父親に色目を使うような女。あの女と同じよ。いいから死になさい、早く! 涼真にまで、こんなことを、させて。お前なんか、お前なんか、とっとと死ねばいいのよ、死になさいよ、早く、消えなさいよ、手首切って死ね、早く、早く、死んで頂戴。涼真の笑い声が重なる。そうか。そうだな、母さんの言う通りだ。自殺してもらおうか……

 そう。
 死ねば、よかった。
 そうすれば涼真にまで、こんな、罪を。

 悲鳴が、折り重なる。
 影が、折り重なる。
 鈍い音が、折り重なる。深紅の血溜まりが折り重なる。誰が誰を殺したのか、もう、分からないぐらいに。

 ”赤い手”が、近づいてくる。
 その、”手”が。
 私たちの運命を、血の濁流へと押し流した。

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7 恋獄


「レン」
 低い涼真の声が、聞こえた。
「……思いだしたか……?」

 悲鳴を――あげたかった。
 それが、真実。
 これが、現実。

 夜ごと私の記憶の底から滲みだし、からみついては私を苛んだ、あの”赤い手”は、涼真の――

 私を犯し続けた父を刺した手。
 私を殺そうとした母を刺した手。
 取り返しの付かぬ罪にまみれた手。
 その、手で。
 涼真は、薬で意識が混濁状態に陥っていた私を、血の海から引きずり上げたのだった。

 今、見たことは、すべて忘れろ。
 レンを壊したのは、俺だ。
 お前は、何も、していない。
 俺に、めちゃくちゃにされたと言え――

 記憶のすべてが、全身にのしかかった。凄まじい罪の重みが心を押し潰す。絶叫めいた悔恨が魂を轢き潰してゆく。もっと早く死ねばよかった。こんなことになるぐらいならもっと早く。もっと早く死ねば良かった。許されるはずもない罪を犯していながら。誰よりも、どんな殺人者よりも穢らわしい罪を犯していながら。
 弟を、殺人者にし――自分だけ、記憶を失って、のうのうと生き長らえた。好きで、好きで、たまらなく好きで、どうしようもなく好きだった弟を、殺人者に変えた。なのに自分は何の罰も受けず。何の咎めもないまま、記憶だけを失って。被害者ぶって。涼真にすべてを依存して。依存しきって、上っ面の悲しみ、上っ面だけの苦しみ、上っ面だけの罪悪感で、おこがましくも、死にたい、などと、思い続けた。本当の罪を知らぬまま、愚かにも。
 死にたい、だなどと、思うことすら、もはや、戯れ言以外の何ものでもなかった。まだ死んでいないのだから。なぜまだ死んでいないのか、自分で自分が呪わしかった。さっさと消えてしまえばよかった。本当に、生きてなどいなければよかった。なぜ生き長らえてしまったのか。なぜ忘れてまで生き延びたかったのか。もっと早く死んでいれば良かった。現実逃避してしまおう、などと思わず、逃げよう、などと思わず、さっさとあっけなく自分を投げ棄ててしまえばよかった。殺されてしまえば良かった。なぜ、執着したのだろう。なぜ、こんな、こんな、こんな、こんな罪を犯してまで――私は!

「嫌……嫌……嫌あぁああ!」
 私自身が、嫌で、嫌で、堪らなかった。近寄るものすべてが、私に穢されてしまいそうで、何も、涼真でさえ、絶対に近づけたくなかった。私に近づけば、汚れる。私が、涼真を汚した。何もかも私のせい。何もかも。
 もう、もう、どうでもいい。こんな命など、存在してはいけない。今すぐ――
 私は手に触れたクッションを涼真に叩きつけた。髪を振り乱して投げつけると、逃げるように窓へと駆け寄った。
「嫌あああああああ……!!」
 半狂乱になって、こぶしをガラスに叩きつける。割れない。どんなに叫んでも、泣きわめいても、女の力で硬い防犯ガラスが割れるはずもない。それでも、壊したかった。自分ごと、何もかも、壊したかった。
「嫌、嫌、もう、嫌……嫌あっ……!」
「レン」
 涼真が、後ろから覆い被さるようにして私を押さえつけた。私は全身でもがき続けた。
「嫌、近づかないで。私なんかもう、どうなってもいいの。もう、死んじゃえばいいの。だめなの。駄目、もう、駄目……涼ちゃんに、あんなことさせた私なんかもう、いなくなればいいの。嫌なの、嫌、嫌、嫌、こんなの、嫌あああ……!」
「レン」
 私は涼真の腕から身をよじって逃れた。ダイニングテーブルにぶつかり、上に乗っていた花瓶を払い落とす。甲高い、陶器の砕ける音がした。
「嫌ああああ……!」
 テーブルクロスを引き払い、床に叩きつけた。グラスが跳ね飛ぶ。私は砕けた破片を手に掴もうとした。
 割れたグラスの切っ先が、ナイフのようにするどく尖っている。もう、痛みすら感じない。そのまま、握りつぶそうとする。
 その手を、涼真が払い飛ばした。
「レン!」
 傷付いて血まみれになった手を、涼真はぐいとひねり上げる。私はもがき、暴れた。逃げ出したかった。今すぐ消えたかった。
「嫌、あ、あ、死なせてよ! 死なせてってば……!」
「レン」

 恐ろしいほど、怜悧な。
 低い、押し殺された声が。

 私を、凍りつかせる。

「俺は、お前を苦しめるために記憶を取り戻させたかったんじゃない」
「……嫌、いや……聞きたくない……!」
「聞けよ」
「嫌、嫌、嫌あああああああ……っ!!」
「俺の――命令でも、か?」

 命令。
 あまりにも、残酷な。
 あまりにも、悲痛な。

 それは――

「……ぁ……」
 涙と、絶望で、ぐしょぐしょになった、ひどい顔のままで私は呆然と涼真を見上げる。声が、出ない。私は、うつろな眼で、息をついた。動けない。
 涼真は、力尽きたかのような吐息を長くもらした。疲れ果てたため息だった。
「思い出したくなかったのは、分かる」
「……」
「レンを苦しませるぐらいなら、ずっと黙ってるほうがいいとも思った」
「……!」
「でも」
 涼真は私の背後から、腕を回した。恐ろしい力で抱きすくめられる。
「でも、もう、限界だ。いつまでもレンを」
 喘ぐような、吐き絞るような、悲痛な声だった。私は眼を押し開く。息が、できない。全身が痛く、苦しく、自分へのおぞましさに押し潰されそうだった。
「こんなふうに……俺のことで、レン姉の心を押し潰して、縛り付けて、過去に苛ませて苦しめ続けるほうが、ずっと……ずっと、苦しいはずだって……思った。だから、だから、さ」
 涼真の声が、ふいにうわずる。
「だから……もう……俺のことは……忘れてくれていいから……だから……もう……そんなに、自分を責めるのは、やめて欲しいんだ……」
 男のくせに。
 子どもみたいに、涼真は、泣いていた。
「レン姉が……好きで、好きで、たまらなかったから……親父も……お袋も……許せなかった……! 今だって……こんなこと、俺みたいな人殺しに言われても、迷惑で、嫌で、しょうがないだろうけど、でも……好きで……好きで、どうしようもないんだ……レンは、俺の、全部なんだよ……!」
「涼……ちゃん……」
「怖かったんだ……レンが……俺のことを……本当のことを思いだしたとき、俺を……恨むかも知れないって思うと……怖かった……怖かったんだ……だから、ずっと!」
 私たちは、互いに、立っていられず、抱き合ったまま、その場にくずおれる。
 どうしていいのか、何も分からなかった。
 私は、不様に濡れた涼真の頬に手を押し当て。涼真は、声もない私の身体を、その腕で引き寄せ。
 ただ、なすすべもなく涙と呻きに互いの身を任せ合った。

 答えなど、見つかるはずもない。
 だからせめて繋がりたかった。快楽などのためではなく、互いに、互いの苦しみを別の何かで埋め尽くすために。その悲痛なうめきを、苦しみを、自分が代わりに償うために。
 終わりのない、苦痛と、絶望と、快楽のメビウス。
 本当ならこんな悲痛な苦しみの塊など身体のどこにも入るわけがないのに。けだものそのものの喘ぎを上げてのたうちながら、互いに、互いを、むさぼる。私は喉の奥にまで突き入れられたそれを。涼真は、私の身体そのものを。そうすれば私たちはもっともっとひとつながりになれる。上から下へ、下から上へ。絡まりあう蔦のように、もつれる髪の毛のように、もがき苦しむ死の舞踏のように、永遠にがんじがらめに繋がりあえる。ひとつになれる。その罪を、その苦しみを、共有できる。裏も、表も、全部、全部、全部――

 真実にたどり着くことで、もし、何かが、変わるとしたら、それは――
 私自身の、自我そのものだろう。
 私は涼真のすべてを受け入れる。それが、私の意志だ。命令されてのことでもなく。強制されてのことでもなく。ただ流されてのことでもなく。
 私たちは、ひとつになる。それが愛なのか、恐怖なのか、欲望なのか、それとも疑心暗鬼によるものなのか、私には分からない。それでも、受け入れる。私のために涼真が犯した罪は、すなわち私自身が犯した罪だ。涼真を責めることなどできるはずもないし、そんな権利もない。代わりに罪をつぐなうこともまたできないし、そんなことをする、つもりも、ない。
 だから、どこまでも一緒に、前へ進む。何も見えなくても、手探りで進む。行く先の見えない、当て所もない道かもしれないけど、それでも、私は涼真と一緒に行く。夕暮れの光に手をかざし、透き通る血の色に染まりながら、消え去ってゆく明日を追いかけ、取り合った手を、同じ色、同じ罪に染めながら。

 君と一緒ならぼくはどこまでも飛んでゆける
 君が望むなら地の果てまでも堕ちてゆける
 あの太陽だって飛び越えられるさ
 だから一緒に行こう
 たとえこの翼が熔けて落ちてもこの世界の全てを敵に回しても
 僕が、君を、かならず守るから――

 翌朝。
 まばゆい朝の光が、カーテンの隙間から白い帯となって部屋に差し込んでいる。五時。アラームの電子音が断続的に鳴り出す。早すぎる起床だが、涼真が遅刻しないためには早起きが不可欠だ。充足のまどろみが、目覚める直前の心地よい誘惑となってやわらかく身体を包む。
 隣に眠る愛おしい弟が、寝言めいたつぶやきを口にするのが聞こえた。予約スイッチを入れておいた炊飯器から、甘い炊きたてゴハンの匂いが漂ってくる。
 朝だ。私たちは――夜明けを、迎えた。
「レン、起きてるか?」
 涼真が背後から私に触れた。やわらかな、優しい手が、両肩を包み込むようにしてそっと置かれる。
「……ん……なあに?」
 首をそらし、後ろから屈み込んでくる涼真のキスを受ける。愛おしげに撫でてくれる手に導かれて、甘い、とろけ落ちてしまいそうなほどゆったりとした、至福のキスを交わす。
「おはよう、レン」
「ん……おはよ……涼ちゃん」
 挨拶してから、二人、もじもじと、同じ毛布にくるまって、この後どうしたものか、とぼんやり考える。ベッドは狭い。そもそもがシングルベッドなうえに、涼真はかなり身長がある。妙に急かして飛び起きたりすればそれこそコミックのワンシーンみたいにどちらかがベッドから転がり落ちかねなかった。まさに、動けない。身動きの取れない状況だ。
「いや、何でもねえ。キスしたかっただけ」
「姉弟でキスなんておかしいわ」
「またそれかよ。いいだろ、もう?」
 口調は怒っているが、表情はまるで違う。とげとげしさなどかけらもない笑みがこぼれている。私だけを、ひたと見つめる瞳。
 私は涼真の腕に身体を預けた。撫でられるたび、全身が、かあっと熱くなって、胸がどきどきして、それでいてその手のひらの感触が吸い付くように優しくて、他の何よりも落ち着くような心地がした。
「もう……起きる?」
「あと五分」
「遅刻しちゃうよ」
「……あと三分」
「だめだってば」
「……あと一分三十秒」
 いつもと変わらぬ、朝の風景。
 それこそが、私たちが、ずっと欲しくてたまらなかったもの。
 だから、今日も、同じ毎日を、繰り返す。
「だーめ。起きなさい。私だって仕事に行かなくちゃいけないんだから」
「え、行くの。行かなくていいだろ、もう」
「嫌。仕事したいもの」
「えー」
「やだ、蜂矢さんに嫉妬してんの?」
「……悪いかよ」
「大丈夫よ」
 私は、かすかな罪悪感とともに笑う。蜂矢のいる世界は、私たちがいる薄暗い世界とは違う。罪を犯したものと罪を犯していないものの住む世界は、明確に線引きされ区別されなければならない。
「私だって、現実と虚構の区別ぐらいつくわ」
 二人で朝食の準備をしながら、私たちは呑気に話を続ける。
「あの盗撮ビデオ撮ったの、涼ちゃんね」
「……そうだよ。撮っておいてよかった。レンが親父にずっと性的虐待されてたっていう、決定的な証拠だからな。俺もさんざん取り調べされたけど、あのビデオの存在が相当、審査員の心証悪かったらしくてさ。レンだって結局、不起訴相当になっただろ。でもまだ警察がこのマンション嗅ぎつけてうろうろしてるんで、油断はできない。まだ俺を疑ってる刑事がいる。レンはもう放免だろうけど俺は勾留も起訴もされてないからね」
「……そういえば……」
 涼真が戻ってこなかった日、マンションの前に張り込んでいた中年の男。
 素性を聞けば良かったのだ。ストーカーだと思って何も言わなかったけれど。
「それで、あの日からしばらく帰ってこなかったのね」
「ああ、そうだ。怖がらせて悪かった。すまない。怖かっただろ……?」
「ううん」
 私はご飯をよそう手を止め、涼真に頭をもたせかけた。悪魔の微笑みが私を見下ろしている。
「大丈夫……涼ちゃんがいてくれるから」
「そうか。俺もレンがいてくれるから、安心してる」
 優しい死神のキス。
 私を包み込む、朧月のような、光。
「でもさ……思いだしたら、てっきり、俺のこと、嫌いになるかとばかり思ってた」
「……ばか」
 涼真の手が、私の下腹部をゆっくりとさすっている。私は眼を閉じる。すべてを、預けて。
「そんなこと……あるわけないじゃない。だって」
「だって?」
「涼ちゃんは私の王子様だもの」
「は?」
「くまの王子様。……覚えてる? 涼ちゃんが幼稚園のときよ」
「覚えてるわけねえだろ! いったい何年前の話だよ」
「涼ちゃんが昔、私の部屋に、くまのぬいぐるみと一緒に来てくれたことがあってね。『おれが、れんを、まもる!』って言ってくれたの。すごく、格好良かった……幼稚園児だけど」
「……俺が、レンを、守る、か」
 涼真はこつん、と私の額におでこをぶつけた。そのまま、鼻の先を、ふっ、と押し付け合う。その感触はすこしひやりとしていた。
「やるじゃん、幼稚園児の俺」
「あのときから、涼ちゃんは、ずっと私の王子様なの」
「くそ、俺、何で覚えてねえんだ! せっかくの初恋なのに」
「幼稚園児じゃしょうがないわよ」
「ああああちくしょう、一生の不覚だな。でも、そんな昔……俺が幼稚園ってことは、レンは……小学生か」
「……うん」
「怖かっただろ」
「……うん」
「俺がもっと早く気付いてやれてれば、こんなことにはならなかったのにな」
「いいの」
 私はかぼそくつぶやく。
「涼ちゃんが、いてくれるから、もう……いい」
「そっか」
 涼真は、また、私を抱きしめてくれた。何度も、抱きしめてはキスして、涙を、ぬぐってくれる。
「俺たち……結婚する?」
「……無理よ」
「形だけでもいいぞ」
「……無理」
「無理じゃない」
 部屋の隅に立てかけた大きな姿見に、私と涼真が映っている。私は涼真の腕の中。涼真は、右手で腰を抱いて、左手で、私のおなかをずっと触っていた。
「慰めは止して」
「いや、半分以上、本気だけどな」
 私は笑った。
「もしかして本当は――弟じゃないとか?」
「うん。レンが病院にいるとき、何となく気になって調べた。DNA鑑定。俺たち、他人だよ。”完全”に」
「そう。ありがちな話ね」
 ためいきがこぼれた。私だけが別で、涼真は違う、と思っていた。家族の真ん中にいるとばかり思っていた。両親の寵愛を一身に受けているとばかり、思っていた。でも、それは、違う。誰も本当のことを知らなかったのだ――母以外は、誰も。
「ホントに似てないものね、私たち」
 何もかもが、馬鹿げた結末のように思えた。浮気と不倫と近親相姦の挙げ句に家庭崩壊。最後にすがった血の絆すら、真実では、なかった。そんなことなら、最初から家庭も家族も捨ててどこかへ消えていてくれればよかったのに。そうすれば、最初から――他人として出逢えたかもしれなかったのに。
「似てないかな」
「似てないわ」
「でも、俺……レンのことが、他人には思えないっていうか」
「……そりゃあ、ずっと……姉弟として生きてきたんだもの。当然でしょ。いまさら変えられないわ」
 涼真は奇妙に子どもっぽい仕草で、小難しく唸りながら首をひねった。
「いや、そういうのともちょっと違うっていうか……うーん、何て言えばいいんだ……?」
「どっちにしろ無理。姉弟じゃ結婚できないもの」
「……結局そう来るわけだ。あっさりしてるよ。ま、いいけどな、それでも。形だけ結婚してぐちゃぐちゃに家庭崩壊させるぐらいなら本当に一緒にいたい相手の傍にいてやるほうがいいよな」
 涼真はおだやかに笑った。私も声を揃えて笑う。二人で、しばらく、くすくすと笑い合った。
「あのね、涼ちゃん」
「何だ?」
「私、涼ちゃんと、本当の家族になりたい」
 それは、あの家の中で、決して望んではいけなかったもの。それでいて、私たち”血のつながらない姉弟”が、一番、欲しくてたまらなかったものだった。

 本当の家族が、欲しい――

 涼真が、ふとふざけた表情を消す。
「家族、か」
「……うん」
「悪くないな」

 ガラスが粉々に砕け散るかのような、最後の、あの瞬間。
 もう、どうでも良い、と思った。何もかもが、取り返しの付かないあやまちの彼方に追いやられて、今さら、取り戻すことなど絶対にできない、と。
 でも、あの暗闇と絶望の中で涼真は、私の……私なんかのために、すべてを――自分の未来をかなぐり棄ててまでも、私を暗闇から連れ出してくれた。罪を犯してまでも、とうの昔に失っていた希望を与えてくれた。
 それが、今、ここにいる私のすべてだ。私たちは繋がりあっている。共有するのは、ひそやかな、それでいて致命的な秘密。決して消せない、ふたりでひとつの、罪。誰にも言えない――過去だ。だから。

「ね、家族。私たち、姉弟じゃなくて、家族になりたい。いいでしょ?」
 はじめてのワガママ。涼真は半分困ったような歪んだ笑顔を浮かべた。
「いいのかな、それ」
「もう一度、家族になるところから……やりなおしたいの」
「そうだな、もう一度、初めからやり直すか」
 涼真もうなずく。身を寄せ合い、罪にまみれて笑いあうと、ほんのすこしだけ心が痛んだ。でも、たぶん、これからずっと涼真と二人、誰にも言えない秘密、恐ろしい罪を隠して生きることを余儀なくされるのだから、今ぐらい、その程度のワガママは許されてもいいと思った。
「一生……償えない秘密を抱えて……生きることになるけど。本当に、それでいい?」
「私のために涼ちゃんひとりが苦しむのは、もう、イヤ」
「俺はいいんだよ」
 涼真はかすかに笑って私を抱き寄せた。ふっとやわらかく唇を重ねる。
「レンのこと、愛してるから」
「うん……」
「……何か不公平だ。お前も俺のこと愛してるって言えよ。さもないとワガママ言うぞ」
「で、でも、ちょっと……面と向かっては……恥ずかしいよ……ぁっ……」
「冗談だよ。愛してる。これからは、ずっと一緒だ。ほら、言って。早く……キス、させてくれ」
 涼真は笑って、何度も私にキスをせがむ。
「ほら」
「ぁ……うん……」
「言って」
「あ……あの……!」
「恥ずかしがりやだな。ほら、言えよ、言わないと……?」
 指先にからめた、髪の細い束を、くるくると巻き付けて、ふっ、と首筋に息を吹きかける。
「またキスしちまうぞ?」
「ん……涼ちゃん……」
「何だ?」

 愛してる。

 それは、つかの間の夢。いつか、私たちの罪が暴かれるときがくるまでの夢――かもしれない。
 でも、この気持ちだけは紛れもなく本当。今までは、ただ、守られていただけだったけれど、でも真実を知った今はもう違う。これからは私が涼真を守る。その秘密を守る。その苦悩を忘れさせてあげる。誰にも絶対に邪魔はさせない。私は、私の身体で罪を──涼真を守る。それが私の本当の望みだ。
「愛してる。ずっと、好きだったの。涼ちゃんのこと……ずっと、ずっと……大好きだった……今も、今は……もっと好き。心から愛してる。涼ちゃんの、全部が……好き」
 愛してる。心から――あなたを。

   終わり
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恋獄

2012年 縦書き電子版発行

著者  上原ゆうり
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