" お月様
お月様にお願い! 

2 私、狼になります!

 そんな眼で見つめられたら、耐えられるわけがない。ルロイはシェリーの耳元に唇を寄せた。ほんの少し舌を出して、ちろり、と耳朶を舐める。柔らかな身体が、ぴくん、と跳ねた。
「はっきり言って」
「ぁっ……」
 声が早くもうわずっている。
「……お片づけが……まだなのです……ぅぅんっ……!」
 ほんの少し、乳首をいじる指先に力を込めるだけで。シェリーの身体は反応する。震える。のけぞる。そのたびに、胸が揺れ、声が揺れ、泡に濡れた髪が揺れ動いた。
 白い肌の上を、意地悪な泡にまみれた獣の手が、つ、つ、と這い回った。爪の先を肌に優しく食い込ませると、まるで獲物を手にかけているような心地になった
 真っ白な羊。ふいに猛々しい本能が興奮となって滾り立った。ぷくぷくした泡に包まれたシェリーを強く抱きしめる。
「それは俺も手伝うからいいって言ってるだろ」
「で、も、ルロイさんは……お仕事から、帰ったばっかりで……」
 だんだん耳朶を噛むだけでは、飽き足らなくなった。のけぞる首筋の白さが眼に飛び込む。狼の母親が赤ん坊を運ぶときのように、そうっとくわえた。
「ぁっ、あっ……! お疲れ……なのですから……皆さんも……ぁっ……そんなとこ舐めちゃイヤ……」
「疲れなんてシェリーの顔見てたら吹っ飛ぶよ」
「うう……ん……でも……でも、今日はいけない日なのです」
「イケない? 気持ちよくないってこと?」
「ぁっ……あんっ……きもちいいです……ぁぁんすごく……って! そうじゃなくて! うううん、やっぱり、おねがいですから……今日は……」
 シェリーはむなしく空を切る手で、胸をぬるぬると愛撫するルロイの手を押しのけようとした。
「いけません……」
 だが、その手にはまるで力が入らない。シェリー自身は頑張ってあらがおうとしているのかもしれないが、実際はルロイに手を掴まれて、一緒くたにもてあそばれているだけだった。
「何でダメなんだよ? 今日は、今日はって。さっきから。そんなに今日はイヤ?」
「……はうぅんっ……ううん……そうじゃなくて」
 シェリーは弱々しくかぶりを振った。
「だって……その……」
 目元まで真っ赤にして、うつむく。
「わたしが……ルロイさんに、その……あんなに、っていうか……いつもその……息が切れて、声も出なくなっちゃうぐらい、その、激しく……あの……あんあんっってされてるだけで……最後には苦しくってへとへとになってぐったりして動けなくなっちゃうのに……なのに、それをしてくださるルロイさんが、平気なわけ……」
 シェリーは眼をうるませ、ルロイを見上げた。声が揺れている。
「だから、お疲れの日は、いけないんです」
「はい?」
「お疲れのときに発情したらいけないって──身体に悪いって、さっき、さんざん他の皆さんに言われてたじゃないですか」
「は? 俺?」
 ルロイは、眼をぱちくりとさせた。
「発情したら、身体に悪いって? 俺が? シェリーじゃなくて?」
「そうです!」
 シェリーは、子どもっぽい仕草で顔をくしゃくしゃにさせた。みるみる頬が赤くなってゆく。
「あの……心配なんです……!」
 身体をちぢこめ、消え入りそうな声をつまらせる。
「わたしは、そのう……ルロイさんに……そんなふうにしていただくのはすごく……うれしくて、気持ちよくて……もっと、もっと、いっぱい……ううん、そうじゃなくって! わたしのわがままのせいで……もしルロイさんがお体をこわされたりしたらって思うと……!」
 ルロイは笑った。今までむらむらと燃えさかる獣のようだった身体の中の火が、突然聞き分けが良くなって、ちょこん、と理性の蝋燭の上に収まったかのようだった。
 身体の中がほんのり暖かくなった。いとおしさがこみあげる。ルロイは、シェリーの身体をぎゅうっと抱きしめた。
「あんっ」
「それ、勘違いだよ」
「えっ……?」
 シェリーは喘ぎ声に驚きを混じらせて口ごもった。
「違うんですか……?」
「あいつらが言ったのは、そういうことじゃなくてさ」
 ゆるゆると手を肌に這わせ、ぱっ、と手放す。
「……っ!」
 泡で滑り落ちそうになる。反射的にシェリーはルロイの身体にしがみついた。ぐらぐらと揺れる支えを求め、ルロイの手を掴む。
「ぁっ……やだ、放さないで……」
「ごめんごめん。さっき、さんざん俺の気持ちをもてあそんでくれたお礼だよ」
「ぇえっ……わたし、何もしてません……」
「めちゃくちゃ翻弄されまくったぞ?」
「んっ……うそです……そんなことしてませんてば……ぁっ……触っちゃだめ……いじわる言わないでください……!」
「心外だな。俺がシェリーに触るのは意地悪なの? シェリーが俺を誘うのは意地悪じゃなくて?」
「んっ……んんっ……あんっ……誘ってなんか…いません……放して……」
「離さない」
 ルロイは、ゆっくりとした声でシェリーの耳元にささやいた。 強く、抱きしめる。
「絶対に離さないから」
 もがいていたシェリーの息が、止まる。
 ”人間”であるシェリーの身体は、強靱なバルバロの体躯とはまるで違う。ほんの少しでも力の加減を入れ間違えたら、すぐにぽきん、と音を立てて骨ごと折れてしまいそうなほどかぼそくて、心許なくて、華奢で――ルロイが知るどんな人間とも、まったく違っていた。
 優しくて。
 柔らかくて。
 暖かくて。
 シェリーを抱いていれば。
 その、ほのかにあどけない光に触れていさえすれば。
 身体の奥底に封じ込めた痛みも、金属を噛みしめたような苦い恐怖も、どろどろに煮えたぎる憎悪も――全部、打ち消せるような気がした。
「どこにも行かないで、ずっと、傍にいてほしいんだ」
「……」
 その言葉のどこに反応したのか。シェリーは、はっと顔色を青白くさせて、うるんだ睫毛を伏せた。濡れたしずくが、睫毛に、ぽつん、と白くきらめいている。
「何か……あったんですか……?」
「別に? 何も? ないよ」
 ルロイはするりと笑い逃れて嘘をつく。
「何でもないよ」
「ルロイさん……?」
 シェリーの声が震える。
 ルロイは、シャワーを浴びてせっけんを流し、シェリーの濡れた身体をタオルで包んだ。
 シェリーを不安にさせるようなことだけは断じて言いたくなかった。知られたくない。眼の奥に宿したどす黒い光を見られたくなかった。
「行こう」
 タオルで包んだシェリーを抱いて、そっと耳打ちする。
「えっ……」
 視界をふさがれたシェリーは、うろたえた様子で声を泳がせる。
「どこへですか?」
「……ベッドだよ」
「えっ?」
「ほら、おいで」
「でもっ……!」
「大丈夫。無理しないから」
 ルロイはシェリーの身体の下へ手を差し入れ、お姫様のようにかるがると抱き上げた。
「こうするとまるで、ホンモノの王女様みたいだな」
 ルロイはうっとりと眼をほそめ、シェリーを見下ろした。
「シェリーは俺のお姫様だ。残念ながら俺は騎士じゃなくて野良狼だけどね」
「ルロイさん……」
 タオル一枚をまとうシェリーを抱いて、ベッドへと運ぶ。
「気にしなくていいんだよ。あいつらが言ってたのは、俺のコトじゃなくて、シェリーのこと」
「……えっ……わたし……?」
「あんまりガツガツしたら、シェリーが身体壊しちまうって怒られたんだ。毎晩、発情しまくって無理させてたの、ずっと……我慢してくれてたんだろ?」
「我慢だなんて……そんな」
「遠慮しなくていい。だから、今日は、できるだけこうやって、ゆっくりするって決めたんだ。シェリーを疲れさせたくない。ずっと、一緒にいたいからさ」
「ルロイさん……」
 ゆっくりとベッドに下ろしてやる。シェリーは、声をうわずらせてルロイの胸に顔をうずめた。
「心配してくださってたのは……ご自身のコトじゃなくて……わたしのこと?」
「う、うん、まあ、そんなとこ」
「ありがとうございます……!」
 シェリーは両手で頬を押さえた。
「あ、あの……でも……」
「何?」
「ルロイさんも……無理はなさらないほうが……いいんですよね……?」
「俺? 当たり前だよ。俺にだって理性ぐらいある」
 苦笑いして答える。
「発情したからって、一日ぐらい我慢できるに決まってるだろ」
「えっ……たった一日?」
「えっ、いや、二日かな?」
「えっ……たった二日?」
「違う、三日だ。三日なら楽勝で禁欲できる!」
 三日も我慢するなんて絶対にできない、と頭の中では分かっていた。だが、驚きに眼をまん丸くしているシェリーの顔を見ていると、何が何でもやり遂げなければならないという気になった。たかが三日、シェリーに触れるのを我慢するだけではないか! シェリーのことを思えばそれぐらいどうということはない! でも、もし、ちょっとでもどきどきしてしまったらすぐにまた理性が吹っ飛んでしまうだろうから、初志貫徹すべく誓いを立てる! シェリーにはなるべく触れないよう目をそらして、頑張って、耐えてみせる。ルロイは力いっぱい熱弁をふるった。
「もしかしたら四日めの朝まで行ける。絶対耐えられる! さすがに五日目となると……お、襲っちゃうかもしれないけど……で、でも、頑張る。俺、頑張るから! 限界まで我慢するから!」
 シェリーの頬が、ほのかに赤くなった。うわずった吐息をついて、うつむく。
「えっと……あの……そうじゃなくって」
「うん?」
「……ああ、どうしましょ……でも、やっぱりちょっと恥ずかしい……」
「な、何?」
「その……ルロイさん……」
 シェリーはみるみる顔を赤らめて、また、手で顔を覆ってしまった。
「わたしから、その……」
 ルロイは、シェリーが言いたいことを言い終えるのをじっと待った。シェリーはルロイの視線にどぎまぎして、ますます顔を赤くする。
「や……やっぱりいいです……たいしたことじゃありませんし……」
「だめだ」
 ルロイは低く笑って手を伸ばした。
「言いたいことは、ちゃんと最後まで言わなくちゃ」
「……」
「俺、シェリーが何を考えてるのか知りたい。黙ってたら分からないだろ? たとえば困ってるときとかさ、困ってる、って言ってくれないと、俺みたいな鈍いヤツ相手だと気がついてもらえないかもしれないしな」
「そんなこと」
「いいから言って」
「……えっ……でも……」
 おずおずと、眼を上げる。
「あの」
「うん」
 急かせばシェリーはまた恥ずかしがって何も言えなくなってしまう。ルロイは、相づちを打つだけにして、シェリーの気持ちが落ち着くのを待った。
 シェリーは胸に手を添え、りんごみたいな頬を、ぽうっと火照らせた。ゆっくりと深呼吸する。おちついたらしい。
「さっきシルヴィさんにお会いして」
「ああ、シルヴィね。あいつ、最近、何かにつけていちいちちょっかい出してきてうるさいんだよな。何か言われた?」
「わたしが羊みたいって」
「ヒツジ? シェリーが? ああ、まあ、確かに」
 余計なことを言いそうになってルロイは唐突に口をつぐんだ。あわてて別の言葉を付け足す。
「羊みたいに、ふにゃふにゃしてるかな」
「……やっぱり」
 シェリーは顔を伏せた。
「あ、ごめん、言い方悪かった。ふにゃふにゃじゃなくて、ふかふか……じゃなくてふわふわだ、ふわふわ!」
「わたし……臆病で……いつも、ルロイさんに……頼ってばかりで……」
「そんなことないよ」
「ううん」
 シェリーは首を振った。
「違っていません」
「そんなこと気にしなくていい。頼ってくれていいんだよ。甘えろよ、もっと。俺なんて、全然頼りないかも知れないけど、でも、シェリーの力になりたいんだ。シェリーが困ってたら助けたい。守りたいって」
「いいえ」
 シェリーは声を沈ませた。
「わたしみたいな”人間”が村にいたら……もしかしたら、いつか、よくないことを呼び込んだりするかもしれないって……思って……」
「は?」
「ずっと……考えてたんです。足手まといになったり……迷惑かけたり……したらどうしようって……その点、シルヴィさんなら、すごい美人だし!」
 シェリーは、半分泣きそうな顔をあげた。両手をぎゅっと拳のかたちに握りしめて、ルロイを見上げる。
「すらっとして、かっこいいし! 足も速いし! 運動神経もいいし! 何でも、はっきり言えて素敵で、わたしみたいな何の役にもたたない、それどころか迷惑ばっかりかける”人間”なんかよりも、ずっとルロイさんにもお似合いなんじゃないかって……思って……」
 かぼそい声が、ますます小さくなる。
「いっそ……わたしなんか……いないほうがいいんじゃないかって……」
「ちょっと待って」
 ルロイは首を振ってシェリーの言葉をさえぎった。
「シルヴィにそう言われたのか?」
 ルロイは、声を押し低めた。
 シェリーの言葉が、重苦しいかたまりとなって胸にのしかかってくる。
 そんなこと考えたこともなかった。
 シェリーが苦しんでいる……?
 自分と、一緒にいるせいで……?