" お月様
お月様にお願い! 

2 私、狼になります!

 ルロイの表情を見たのか、それとも別の何かに気づいたのか。シルヴィの口元に狡賢い笑みが浮かんだ。すぐにその笑いは消え、シルヴィは元の冷ややかな嘲笑に戻った。
「どいて」
 ルロイの胸をそっけなく突いて押しのけ、歩き出す。
「あたし、忙しいの。出かけるから」
「待てよ」
「どいてって言ってるでしょ」
「シルヴィ」
「邪魔」
 やさぐれた仕草で片方の肩にかごをひっかける。シルヴィはすたすた歩き出した。
「お前もか、シルヴィ」
 ルロイはするどい声を上げた。
「何?」
 シルヴィは七面倒そうに振り返った。
「何? まだ用があんの?」
「お前も同じ気持ちなのか。村長たちと」
 もう、ルロイはシルヴィの後を追おうとはしなかった。まっすぐに立ち、シルヴィの眼を険しいまなざしでのぞき込む。ルロイの表情に、シルヴィはわずかに顔色を変えた。
「あたしは、別に……」
 眼があわただしく左右に動いた。視線がルロイの背後へと移る。ルロイはシルヴィを睨み付けた。低く問いつめる。
「答えろよ」
「だ、だから、あたしは、その、あんたのためを思って」
「シェリーが何で、そんなふうに言われなきゃならないんだ」
 シルヴィは口ごもった。気の強そうな切れ長の眼を伏せ、何度も言いよどんだ。
「言えるわけないでしょ」
「言えよ」
「言ったら怒鳴るくせに」
「怒鳴らないから言え!」
「もう怒鳴ってるじゃない。そうよね、いつもいつもそう。シェリーのことになったら、すぐそうやってムキになって。あたしのことで、あんたがそんなふうに誰かに怒ってくれた事なんて今まで一回も」
 シルヴィは、はっ、と口に手を押し当てた。眼にあからさまな動揺が走る。
「怒ってない……怒らねえよ」
 ルロイは大きなため息をついた。怯えるシルヴィに近づいてゆく。
 シルヴィは大きく瞠った眼をルロイへと向けた。怯えた光が揺れ動く。後ずさろうと、わずかに身じろぎする。
 靴の下で土が擦れた音を立てた。
「な、何よ。脅かそうったってそうは……」
 シルヴィはじりじりと後ずさった。眼が何度もちらちらとルロイの背後を探っている。ルロイはシルヴィを睨み付けた。
 シルヴィの背中が、背後の壁に当たった。シルヴィはあからさまに怯えた声を上げた。
「な、何よ……!」
「シェリーは人間に追われてたんだぞ。俺がかくまわなきゃ殺されてたかもしれない」
 ルロイは、声を低めた。ぐいと手を伸ばして、シルヴィの肩を壁へ押さえつける。シルヴィは手にしたかごを足元に取り落とした。
「あっ……」
 転がったかごが、壁に当たって止まる。乾いた音がした。
 ルロイは、さらに声を押し殺した。
「なのに、そんなシェリーを放り出せっていうのか。本当に、村の連中がそう言ったのか。長までも」
「……みんな、怖がってる」
 シルヴィはかすれた声で喉をそらした。
「口に出して言えないだけ。オスどもは、自分で戦えるって……思ってるかもしれないけど、年寄りを抱えた家は? あたしたちメスは? 武器持った人間に叶うわけがない。若い子だけよ、分かってないのは。昔のことを知ってる大人は……みんな、怖くて、怖くて、仕方ないの。また……人間が村に襲ってきたらって……!」
「そんなことにはならない」
「誰にも分からないじゃない。あの子があんたを騙してたとしたら? 人間の兵士に追われる振りして、あんたみたいなお人好しが釣り針に引っかかるのを待ち受けてたんだとしたら!」
「人間にだって良い奴はいる」
「全員が良い奴じゃないから、みんな怖がってるの」
 シルヴィは眼に涙を浮かべ、手を伸ばした。ルロイの頬に震える掌を押し当てる。
「考え直して」
 恐ろしいぐらい、はっきりと、よく通る声だった。ルロイはびくりと肩を震わせた。
「今からでも間に合うわ。ルロイ、よく、考え直して。せっかくうまくいってるのに、裏切っちゃだめ……!」
「断る。お前がなんと言おうと、俺はあきらめない」
 ルロイは、眼を閉じた。記憶の中の暗い思い出が蘇ってくる。
 首につけられた鎖。心と身体の双方でうずき続ける深い古傷。狭苦しすぎる檻の奥から見上げた、甘く、やさしく、無邪気な微笑み。金色の光。
 人間とバルバロが”違う”などとは思いもしていない、怖いぐらいに天真爛漫な笑顔。ちいさなその手に握りしめられていたお菓子。餓死寸前だったルロイの目の前に、宝石のように散らばったキャンディのつややかさ。命の、きらめき。
 でも、今となっては、あやふやな記憶の中の光に過ぎない。
 もし、再び巡り会ったとして。
 あの王女は、今も変わらずに微笑みかけてくれるだろうか。
 もしかしたら、かつての面影もないぐらいに変わってしまったのではないだろうか。
 大人になって現実を知り、バルバロの姿を見ただけで蔑みのまなざしをくれる冷酷な女になってはいないだろうか。
 ほかの人間と同じように、バルバロなど、掃いて捨てるほどいる家畜以下の存在だと思うようになっただろうか。
 思い出は、ただの、まぼろしにすぎなくなったのだろうか……?
「そんなことない」
 誰にも聞こえないぐらい小さな声でルロイは言った。
 不安を押し殺し、誰よりも自分に強く言い聞かせる。そうだ、そんなことなどあるわけがない。あのちいさなシェリー、人間の王女が、兵士を率いてバルバロの村に攻めてくる、奴隷狩りを行う、など……絶対にあるわけがない。
 息を詰め、胸のうちを大きく揺さぶられるがままに、思いを口にする。
「人間にだって、良い奴はいる。いるはずなんだ。話し合えばきっと理解できるはずだ。人間だからって分からず屋ばかりじゃない」
 ルロイは眼を上げてシルヴィを見つめた。どうしてもシェリーのことを理解して欲しかった。思わず手に力が入った。壁にぐいとシルヴィの身体を押しつけ、語気を強めて、言い放つ。
「きっとやり直せる。今はたちまちだめでも、何度でもやり直せばいいじゃないか。信じてくれ。シルヴィ、頼む」

 突然。
 食器の転がり落ちる音がした。ルロイは反射的に振り返った。明るい茶色のワンピースを着た誰かが、物陰で茫然と立ちつくしている。落ちた木の椀が足元でくるくると回っていた。
 ルロイの好きな砂糖漬けの果物。昨日焼いたばかりのパン。卵を使ったお菓子。何もかもが、地面にちらばっている。
「誰……」
「シェリーなのね?」
 シルヴィが勝ち誇ったような眼を光らせて言った。
「シェリー?」
 ルロイはうろたえた。どうして、シェリーがここに……
 ふいに、あの日と同じ甘い香りが漂ってきた。金色になびくふわふわの髪が見えた。
 物陰で凍り付くように立ちつくしていたのは、やはりシェリーだった。一歩、前へ、進み出る。シェリーの顔からは血の気が失せていて、今にも倒れそうなほど、真っ青だった。