" お月様
お月様にお願い! 

2 私、狼になります!

「あっ……あの」
 ルロイと、ルロイの腕の下のシルヴィの視線に気づいたのか。
 シェリーは、はっ、と自分の落ち度に気づいた様子で後ずさった。
「ご、ごめんなさい」
「シェリー」
 ルロイは一瞬、何がなんだか分からなかった。ぽかんとしてたずねる。
「何でここにいるんだ?」
「どうしてって」
 シェリーは眼にみるみる涙の粒を盛り上がらせた。喉の奥の声が詰まる。しかし、表情はそれ以上崩れなかった。唐突に、にっこりと笑う。
「え、えと、その……何でもありません。その、みんなでお茶でもどうかしらと思っ……」
 ルロイの背後で、シルヴィがはだけかけた胸元の乱れを直す振りをした。シェリーは絶句した。みるみる表情が凍り付く。
「すみません、おじゃまをして」
 ひどくぎごちなく、シェリーは後ずさった。
 ワンピースをひるがえし、きびすを返す。シェリーは、あっという間に走り去った。華奢な子羊みたいな後ろ姿が、建物の影にかくれて見えなくなる。
「あ、あれ、えっと……」
 ルロイは困惑した。頭をかき、鈍い顔で立ちつくす。助けを求めてシルヴィを見た。
「シェリー、何しに来たんだろう……?」
 シルヴィは半分、笑ったような怒ったような顔でルロイを見上げた。
「あんたが、あんまり馬鹿だから怒っちゃったんじゃないの」
「え」
「とにかく、あたしは反対。村に何かあってからじゃ遅いの。あの子が人間の世界に帰ってくれれば一番いいけど、それさえ許されない可能性だって──」
 シルヴィは突然黙り込んだ。ルロイは聞きとがめようと思ったが、そうする間にも、突然、顔色を変えて帰ってしまったシェリーの事が気になって気になって、完全に上の空だった。
「分かった、そのことはまた今度だ。とにかくもう一回話をきちんとさせてくれ」
「いやよ」
「そんなこと言うなよ。俺とお前の仲だろ……」
「は? どんな仲? あんたが一回でもあたしのしっぽを追い回したことがある?」
「いや、ほうき持って追い回されたことなら何度も」
「そういう、頭カラッポなあんたのマヌケ面が気に入らないの!」
 シルヴィは冷ややかに肩をそびやかせ、決めつけた。
「いいから、とっとと行きなさいよ、はやく」
 ルロイは眼をぱちくりとさせた。
「えーと?」
「まったく、もう、発情する以外に脳がないの、あんたは! ばかなの?」
「う……」
 シルヴィは感情を爆発させた。足元のかごを蹴飛ばしてルロイを追い払う。
「うごっ! な、何すんだよ、シルヴィ!」
 空っぽのかごが鼻先に直撃する。ルロイはのけぞった。
「あんたみたいに頭の鈍いバルバロなんか、一生、人間に奴隷扱いされてればよかったのよ!」
 かごだけでは足りないと見たか、シルヴィは腰にぶら下げた山刀を引っこ抜いた。
「わあっ!?」
「さっさと行きなさい。行かないと全身の毛皮を剥ぐわよ!」
「わ、分かったよ、シルヴィ」
 ルロイは泡を食って後ずさった。大切なところの毛皮まではぎ取られては叶わない。
「さっきの話は、また後だ。それと、もし、シェリーが俺とじゃなくてシルヴィと一緒に、メス同士で暮らしたいって思ったときは、シェリーを……しばらく、一緒に住まわしてやって欲しいんだ。俺なんかと一緒にいるより、身体に負担がかからないだろうからな……いいよな? な? な? 頼んだぞ? 俺、シェリーが心配だから、家に戻るよ」
「なによ、ルロイのばか!」
 シルヴィは山刀を振り回した。あわてて避ける。そんなことよりも今はシェリーが心配だった。真っ青な顔をして、ひどく驚いた様子で……
「このニブチンのエロ狼! とっとと消えろ!」
 際限なく続く下世話な罵倒に追い立てられながら、ルロイはきびすを返した。シルヴィが泣いていることには気が付かなかった。

「シェリー」
 ルロイは部屋に飛び込んだ。いない。まるで、今の今まで、シェリーがここにいて、お茶を沸かしたり、お菓子をいれるかごを用意したりしていた、とでもいうかのような、そのままの気配を残していた。ルロイがテーブルと床にこぼしたお茶はきれいに拭き取られていたし、洗濯物も、ふんわりと乾いた状態できれいにたたまれ、シェリーが編んだ籐かごの引き出しにきちんとしまわれていた。
「シェリー?」
 手洗い場に行ってみる。やはりシェリーはいなかった。
 ふいに、恐怖がこみあげてきた。
 シェリーがいなくなった。
 整然と片づけられた部屋を見れば、乱暴者が押し入ったようには見えない。ということは、シェリーは自分の意志で出て行ったということだ。テーブルの上に石版が置いてあって、白っぽい文字が何か書いてあった。置き手紙だろう、とは思ったがルロイにはまったく読めなかった。バルバロの村に、人間の文字が読めるものはいない。
 ルロイは家を飛び出した。
 そこで、深呼吸した。まずは落ち着くことが大事だ。シェリーはまだ一人で森の奥にまで入ったことはない。ということは、無意識にでも知った道をいくはずだ。
「泉だ」
 矢も楯もたまらず走りだす。いつもなら歩いて数十分かかる道を、全速力で息が切れるまで走った。心臓が破れそうだった。
 あの泉。シェリーを水浴びさせてやるためにつれていった泉。何度も、シェリーと抱き合ってキスして、好きだ、と告白した。
 森がぱっと切れて、日の光がきらめいた。水音がした。誰かの声が聞こえる。
「シェリー?」
 ルロイは思わず声をうわずらせて駆け寄った。やはりここだった。シェリーはこの泉へ来る道しか知らないはずだからだ。きっと、一人で、思い悩んでいるに違いない。
 そんなことを悩む必要はない、と言おうと思った。シェリーが嫌なら、もう寝込みを襲ったりしない。朝からベッドに潜り込んで、まどろんで抵抗できない柔らかい身体に対していきなり交尾を要求したりもしない。年中発情するような馬鹿な真似は、もう、二度と、しない。
 謝ろう。ちゃんと顔を見て、シルヴィの家で女の子らしい生活をしてもらって、礼儀正しくデートに誘おう。だから──
 岩陰から顔を突き出す。
「シェリー!?」
「ぎゃあああああああ!?」
 陽気な童貞のグリーズリーと、体重に反比例して尻の軽いぽっちゃりアルマとが、互いにくんずほぐれつしながら水辺で交尾していた。しっかりつながっている。グリーズリーは真っ赤な顔をして、ルロイを追い払おうと手を振り回した。
「あっちに行け、ばか! 見るな!」
「何でだ!」
「見りゃ分かるだろう!」
「見るなって言ったじゃん」
「だから見るなって! 見りゃ分かるだろ!」
「見てないよ! 見たよ! どっちなんだよ! そんなことよりシェリーだ!」
「だから見るなって!」
「シェリーを見なかったか」
「見てねえよ!」
 グリーズリーがかすれた声で怒鳴る。
「っつか、見るなって!」
「そうか、ありがとう」
 ルロイはそれ以上気にせず岩から飛び降りた。グリーズリーの声が追いかけてきた。
「ルロイ!」
「なんだ?」
「言うことあるだろ!」
「ああ、そうか」
 それどころではなかったが、ルロイは思慮深くうなずき、ぐっと握った拳の親指を立てて片目を瞑った。
「子作り頑張れ」
「ちげーーーーーよ!」
「あなたも一緒にどう?」
 ぽっちゃりアルマが官能的な腰の振り方をした。
 ふくよかなしっぽをひょいと持ち上げて、甘く熟れた果物みたいな、発情しきったメス特有の臭いをふわりと漂わせる。とたんにグリーズリーは、うっ、と呻いて動かなくなった。だが、ルロイは不思議と何も感じなかった。アルマの裸を見ても、何とも思わない。
「あら、まあ。もうおしまい?」
「そんなこと言われても、もう三回目……!」
「もっと頑張りなさいな。まだまだよ、まだまだ」
 あの調子では、おそらく昼前からずっと──発情したアルマの相手をさせられているのだろう、と思った。げっそりとやつれて土人形みたいな顔になっているグリーズリーには気の毒だったが、そんなことよりシェリーの方がずっと大事だ。精気を吸い尽くされたグリーズリーの萎びっぷりが、シェリーに重なった。
 村の連中に言われたとおりだ。そんなことをずっとしていたら、身体をこわしてしまう……。
 毎日、毎晩、へとへとになるまで抱かれて、そのうえさらに求められたら、いくら優しくてもしまいには疲れ果てて嫌になるに違いなかった。もしかしたら、本当に何もかも嫌になって、人間の世界へ帰ってしまったのかも知れない。
 シェリーを連れ戻すのは、やめたほうがいいのかもしれないと、ふいに、思った。
 たちまち自分で自分を否定する。ぞっとした。あまりにも自分勝手すぎる。好き放題シェリーに発情して、帰るなら帰れと突き放すなんて。
 でも、もしかしたら、と。
 胸の奥のほうで、後悔とか、欲情とか、焦がれる思いとか、いろいろなものがぐるぐると渦を巻いて、狂おしく、黒く、うねる。
 もしかしたら、そうしたほうがシェリーにとっては幸せなのかも知れない。森で不便な暮らしを強いられるより、人間の世界に戻って、人間らしい暮らしをしたほうがずっと、ずっと幸せに──
 心臓を刃物で突かれたみたいな痛みが走った。目の前が暗くなった。そんなこと、考えたくもない……!
「待って」
 アルマの甘い声が聞こえた。
「シェリーなら、お洗濯にでも行ってるんじゃないかしら」
「洗濯? また?」
 ルロイは虚を突かれて聞き返す。
「今日の家事はもう終わったとばかり思ってた」
「あの子、仕事が遅くてとろくさいってみんなに笑われてるみたいだけどね」
 アルマは、しおしおに萎れたグリーズリーに甘いキスをしながら言った。豊満すぎる乳房が、たわわに実った森の果物みたいにぽってりと揺れ動いている。きゅっとすぼまった乳首を、グリーズリーの口へ押し込む。グリーズリーは嬉しそうにちゅうちゅうとアルマのおっぱいを吸い始めた。
「あたし、知ってるのよ」
 アルマの眼が、いたずらっぽく輝く。発情したメス特有のぬめるような光。アルマは、ルロイの身体を上から下まで値踏みするように見ていた。それから、じっと目線を合わせて、見入ってくる。
 ルロイは心がはやるのを押さえきれなかった。
「何を知ってるんだ?」
「知りたい?」
 アルマがうっとりと笑う。つややかに濡れた舌が、ぺろり、と唇を舐めまわした。もの欲しそうな光だった。
「教えてあげてもいいんだけど……?」
「グリーズリー」
 ルロイはすばやく頭の中で計算した。
「今度俺がいのししを取ってきたとき、牙を二本ともやるよ。アルマに首飾り作ってやりたいだろ?」
「作りたい作りたい! 本当にくれるのか!?」
「本当だ」
「だったら、アルマの言うことをきいてやれ」
「分かった! 俺もう一回頑張る!」
「ああんっ……んっんっ……あああすごいわどうしたのグリーズリー! さっきの倍はすごいわ……!」
「で?」
「あの子、ぁっ……ああっ……村のね……ああんっグリーズリーったら、ああんっ……どうしちゃったの急に、ぁっ、あっ、すごいわ……!」
「それで?」
「ああ、壊れちゃいそう……気持ちいいわ、ああんっ、あっ……もう、あなたでいっぱい……!」
「それはいいから早く続き」
「あの子ね、ああんっ、腰の悪いロギ婆のために、ぁ、あっ、もっと入れて、もっとくちゅくちゅしてぇ……ああんいっぱいなのお……全部だしてぇ……ごはんの支度や……水くみなんかも面倒みてやってるからなのよ……あんっ……ああっ、あっ……すごいわグリーズリー……!」
「ありがとう、アルマ」
 矢も楯もたまらず、ルロイは身をひるがえした。

 洗濯場へと荒々しく駆け込む。血相を変えてなだれ込んできたルロイの荒々しい形相に、居残って井戸端会議をしていたメスたちが悲鳴を上げて逃げまどう。
 ルロイは息を荒げて怯えるバルバロの女たちを見回した。
「な、何よルロイ……また発情してんのなら来ないでよ……!」
「そんなに年中発情しっぱなしみたいに言うな!」
 一カ所に寄り集まり、ぶるぶる震えている中にシェリーの顔はなかった。
「シェリーを見なかったか」
「あ、あの子なら……午前中ずっとここでぐずぐず洗濯してた……」
「午後からは来てないんだな」
 噛みつかんばかりにしてルロイはどなる。バルバロたちは怯えきってうなずいた。
「で、でも、さっき……村から出てどこかに行くのを見たわ……」
「どっちだ」
「分からないわよそんなの!」
 中のひとりが、震えながら言い返した。
「どうせ人間なんだからいいじゃない……別にいなくなったって!」
 ルロイは、怒りも忘れて呆然と立ちつくした。口を開こうとして、声を呑み込む。
「……そ、そうよ、人間は人間の世界に帰るべきよ!」
 ルロイの表情を見たのか、さらに誰かが言いつのった。
「あたしたち、もう、二度と、人間と関わりたくないの!」
 悲鳴みたいな声だった。堰を切ったように、本心があふれ出てくる。
「あの子がもし、村の場所を人間に教えたらどうなるの?」
「また、人間が襲ってきたらどうするの」
「そんなことになったら誰が責任取るの!? ルロイに責任がとれるの?」
「そんなことになるぐらいだったら、いっそ」
 誰かが、口を滑らせた。はっと声を呑む。手で口を押さえる。ルロイはぎらりと眼を光らせた。
「……今、何て言った……?」