" お月様
お月様にお願い! 

2 私、狼になります!

(このさい、”人間”の国に帰った方がいいかもな……なんて思ったりもしてさ? そうだよな、きっと、そのほうがいいに決まってる)
(きっと、やり直せる)
 シルヴィに力説していたルロイの真剣な表情を思い出すたび、胸が、ずきん、とつぶれそうに痛んだ。
 本当は、ルロイは、自分とではなくて、シルヴィと一緒に……”つがい”になりたかったのかもしれない。成り行き上、仕方なしに優しくしてくれていただけなのかもしれない。
 しんしんと身体が冷えてゆく。泥沼に足を取られ、支えてくれる手もなく、一人でむなしく沈んでいくような心地がした。
 きっと、そう。誰だって、バルバロなら。

 ──人間が嫌いに決まっている。
 
 胸が、ずきん、ずきん、痛みを増していった。
 今までが、幸せすぎたのだ。
 優しくされすぎて。抱きしめられて、キスされて、うれしくて、それが、本当にルロイの本心なのかを疑いもしなかった。
 あまりに幸せすぎて、困らせていることに気づけなかった。本当のことが、何一つ見えていなかった。
 シェリーは上下する胸を押さえた。
 こんなに、苦しい思いをしないと、気づけなかったなんて。
 ルロイや、村のみんなに迷惑を掛けて、傷つけて、めちゃくちゃにされないと本当のことが分からないぐらい、馬鹿だったなんて。

 自分さえ。
 いなくなれば。

 シェリーは立ち止まった。振り返る。
 ルトベルクが恐ろしい眼で見つめていた。剣で小枝を打ち払いながら近づいてくる。
「おとなしくする気になったのか」
 憎悪に濁った声でルトベルクは吐き捨てる。シェリーはうつろな表情でうなずいた。猿ぐつわを取ってくれ、と眼で哀願する。
「来い」
 髪を掴まれ、森から引きずり出された。身体中がひりひりと痛んだ。白い肌に無数のみみず腫れができて、腫れ上がっている。
「バルバロみたいに這い蹲れ。足を広げろ。後ろから犬みたいに犯してやる」
 元の原っぱに戻ると、ルトベルクはシェリーのワンピースで顔のシロップをぬぐいながら命じた。
 涙も出なかった。
 よろめいて、膝をつく。
「ぐずぐずするな!」
 突き飛ばされた。シェリーは歯を食いしばって呻いた。ルロイのことだけが思い出された。頭の中が後悔の二文字であふれそうになる。ぼろぼろと涙がこぼれた。嗚咽がもれる。
 自分さえ我慢すれば。
 すべてを捨てれば。
 バルバロのみんなに迷惑を掛けずに済むのだろうか……?
 罪を、償えるのだろうか……?
 とても、そうは思えない。いったい、どこで、道を間違えてしまったのだろう……?
 シェリーは声を殺して呻き泣いた。いやだ。こんなのは嫌。でも──でも、こうするよりほかに、何を、どうすればいいのか分からなかった。
 ルトベルクがククク、といやらしい笑い声を上げてシェリーをレイプしようと迫ってくる。
 きっと、何もかも──最初から、間違っていたのだ。
 人間が、バルバロの森に入ってはいけなかった。
 助けを求めてはいけなかった。優しくしてもらったのに、恩を仇で返すようなことをしてしまうぐらいなら、最初から、すべてをあきらめて、洞窟で静かに身を横たえて死を待てば良かった。ルロイに出て行け、と言われたときに、さっさと出て行けばよかった。
 そうすれば、ルロイにも、シルヴィにも、誰にも迷惑を掛けずに済んだのに。
 ぐずぐずして、幸せを失うことを惜しんで、本当に大切なことを考えずに、ただ、ルロイの優しさだけに流されてしまったばかりに。
 こんな結末を迎えてしまった──
 もし、村が、ルトベルクみたいな人間に襲われたら。
 こどもたちがさらわれてしまう。
 お年寄りが殺されてしまう。
 みんな奴隷にされてしまう。

 ルロイさん……!

 砕けた心のカケラが、涙となって地面に滴り落ちた。
 夕日に赤く染まって、跳ね返る。

 そのとき。
 森が揺れ動いた。怒りに充ち満ちた狼の遠吠えが夕映えの空にとどろき渡る。嵐のような鳴動。地響きが近づいてくるかのようだった。
 シェリーは、はっ、と顔を上げた。
 あの声。
 バルバロの遠吠え。怒りの叫び。
 ルロイの怒号が響き渡った。
「……俺のシェリーから離れろ!」
 驚愕したルトベルクが剣を掴んで立ち上がる。シェリーは突き飛ばされて地面にもんどり打った。
「野獣《バルバロ》が!」
 ルトベルクがルロイめがけて斬りかかった。ルロイはすばやく右に避けた。
「うぜえもん振り回してんじゃねえよ、クソが!」
 声を荒らげ、手にした棍棒でルトベルクの手首を殴りつける。剣が吹っ飛んだ。ルロイはすかさず剣の柄を足で蹴り飛ばした。
 剣はきらめきの尾を引いて宙を舞い、崖下へと転がり落ちていった。
「シェリーを返せ!」
「ほう?」
 ルトベルクは憎々しげに悪態を吐き、シェリーへと駆け寄った。首に腕をまきつけ、けたたましい憎悪の笑いを放って、ぐいと引き寄せる。
「うっ……!」
 シェリーは息もできず、身をよじった。
「ははは、どうだ!」
 勝ち誇った狂気の顔でルトベルクは喚いた。もがくシェリーの身体をひきずって崖っぷちへとむりやり連れて行く。シェリーは喉の奥で悲鳴を上げた。
「手出しできまい? この女が死んでも良いのか? ああ?」
「ぐっ……!」
「野獣ごときが人間の王女に手を出すとは、思い上がったことよ」
 ルトベルクは憎らしげにあざ笑った。
「さあ、そこをどけ。王女を殺されたくなかったら、貴様がこの崖から飛び降りろ」
「王女?」
 ルロイは、大きく目を見開いた。
「何言ってんだ、てめえ? 誰が王女って」
 言いかけて、ルロイは絶句する。
「……王女?」
 シェリーは必死に頭を振った。言わないで。叫びたかった。もう、わたしは、王女なんかじゃない。バルバロを苦しめてきた人間の国の王女なんかじゃない……
 だがルトベルクはうわずった声をますます裏返らせて喚き散らした。
「知らなかったのか? 知らずに、この売女を抱いたのか?」
 壊れた笑いが吹きだした。ルトベルクはひとしきり馬鹿にしきった哄笑を放ち続けたが、ふと笑い止めてルロイを見やった。
「この女が何者か、教えてやろうか……?」
 酷薄な冷笑が口元に広がる。
「知りたいだろう……?」
 眼が、喜悦にぎらぎら光っていた。
 ルロイは口をつぐんだままだった。野生の狼そのものの凶暴な瞳をぎらつかせ、肩を上下させて息を整えながら、険しい表情を浮かべている。
 シェリーは強く頭を振った。乱れた金の髪がくしゃくしゃと風に散る。
「う、うっ……!」
 猿ぐつわを嵌められていては声にできない。必死にもがき、抗おうとする。
 聞かれたくない。
 知られたくない。
 たくさんのバルバロを傷つけ、苦しめ、奴隷にして働かせ、命を奪ってきた人間の国。
 その国の王女だったことを──
 バルバロを苦しめてきた張本人だったことを──
 知られたくない……!
 だが、ルトベルクは容赦なくシェリーを指さした。勝利に酔いしれ、自分の言葉に酔いしれて堪えきれぬ笑いを爆発させる。
「言ってやろう、真実を!」
 ルロイは押し殺した殺意の揺らぐ眼をルトベルクへと向けた。鼻梁のしわが明らかに深々と嫌悪の形に刻まれる。
「聞いてから後悔するなよ? いいか、よく聞け。この女こそ……」
 高々と宣告する。
「貴様らバルバロを奴隷にしてこき使ってきた国の王女、悪の元凶たる魔女、シェリーだ!」

 シェリーは涙があふれるのを感じた。頬を悲しみがつたい落ちる。抵抗する気力さえもぎ取られてゆく。
 知られてしまった。
 もう、二度と。

 ルロイの元には戻れない。

「さあ、分かったら消えろ。命を捨ててまで人間の王女を取り戻す必要などないだろう!」
 ルトベルクが狂ったように髪を振り乱して笑う。耳障りなせせら笑いが、こだまとなって夕闇に響き渡った。
「貴様らの仲間を何千匹と殺し、狩り立て、奴隷にして血肉をむさぼり、働かせてきた女だ。それを我々が、貴様らけだものに代わって天誅を下し、悪政を正し、奴隷を解放し、魔女たる王女を血祭りにあげてやろうというのだ。ありがたく感謝して……」
「そうか。分かった」
 ルロイは、ふっと敵意をほどいた。肩の力を抜く。身構えていた棍棒をじろりと見下ろし、ぽい、と背後へ投げ捨てる。乾いた音が転がった。
「ってことは、てめえが」
 拳を掌に押し当てて、骨をぼきり、ぼきりと鳴らす。漆黒のまなざしに、獰猛な猛獣の表情が走る。ぎらり、不穏に、瞬く。光る
「シェリーを追い回して苦しめてた兵隊どもの親玉ってわけか」
「それがどうした、貴様には関係な……ぐばぁあっ!」
 ルロイの拳がルトベルクの顔にめり込んだ。パン生地をぶん殴ったみたいに顔がゆがむ。
「がああああ……っ!?」
 ルトベルクは鼻血まみれになった顔を押さえ、もんどり打った。
「私の、私の美しい顔がぁっ……!」
「シェリー、来い!」
 ルロイの手がシェリーの肘を掴んだ。シェリーはよろめいてルロイの胸に飛び込んだ。
「大丈夫か」
 あわただしくルロイの指先が猿ぐつわをほどく。シェリーは新鮮な空気が口いっぱいに広がる前に、ルロイの名を呼んだ。
「ルロイさん……! ルロイさん……!」
「もう大丈夫だよ」
 ルロイはにやりと笑った。
「俺がついてる」
「……きゃあっ!」
 シェリーは悲鳴を上げた。ルロイの背後から、鼻血を垂らしたルトベルクが、ルロイの捨てた棍棒を奪い、殴りかかってくる。
「俺の美しい顔ぉぉおお! 返せぇええ……!!」
「ルロイさん、後ろっ!」
 反射的にルロイを突き飛ばす。足元がふらついた。ルロイはシェリーに突き飛ばされ、わずかによろめいただけだったが、すぐに体勢を立て直してルトベルクの攻撃を避けた。
 だがすぐにその表情が愕然としたものに変わる。
 ルトベルクは、シェリーの真正面に接近していた。空振りした棍棒を、すさまじい憎悪の形相で振り上げる。シェリーは身をよじった。逃れようとする。
 背後は崖だ。森が這い上ってくる急斜面がどこまでも続いている。もし転がり落ちたら、絶対に助からない──
「もう逃げられんぞ、クソ女がぁぁああ……っ!!」
 爆発する笑いが目の前に散乱した。ルトベルクの腫れ上がった顔が迫っていた。
「シェリー……!」
 ルロイが駆け寄ってくる。間に合わない。シェリーは、ルトベルクが一瞬ルロイへ眼を走らせたことに気づいた。狂乱の笑みを浮かべてシェリーに迫りながら、その実、本心は、我を忘れたルロイが近づいたとたん、渾身の棍棒をたたきつけることにあるのだ。
 ルロイは、シェリーしか見ていない。ルトベルクの罠には気づいていない。来るなと言っても止まりそうになかった。
「ルロイさん」
 シェリーはルトベルクに体当たりした。
「シェリー、やめろ、無茶するな」
「邪魔するな、このクソアマ……!」
 ルトベルクは横からの思いも寄らない攻撃を受けて苛立ちのうなりを上げた。シェリーを崖に向かって突き飛ばす。
 その隙にルロイがルトベルクの懐深く飛び込み、身体が宙に浮くほどの拳をみぞおちへぶち込んだ。
 ルトベルクはのけぞった。土煙をあげてもんどり打つ。手にしていた棍棒がすっぽ抜け、シェリーの足元に跳ね飛んだ。膝に衝突し、鈍い音をたてる。
 シェリーは悲鳴を上げた。姿勢を崩す。身体が大きくのけぞった。爪先が地面から浮き上がる。視界が傾く。
 こんなにも地面が遠く感じられたのは初めてだった。身体が浮いて、世界が裏返って、見えるはずのない夕日が見え、足元に何もなくなって。
 落ちる──!
「シェリー!」
 ルロイが飛びついた。崖の上へ張り出すようにして伸びた枝にぶら下がり、ほとんど全身を投げ出さんばかりにして、縛られたシェリーの手首をすくい取る。
「大丈夫か」
「……離してください……!」
 シェリーは泣き出しかけた。
「ルロイさんまで落ちてしまいます……!」
「これぐらいどうってことない」
 ルロイは腕に力を入れた。みるみる筋肉が赤く盛り上がり、汗が噴き出した。
「大丈夫だ」
「……どうしてですか……」
 ルロイの腕一本に命まで支えられたシェリーは、おそろしさと自己嫌悪に耐えきれず、ぽろぽろと涙をこぼしてすすり泣いた。
「わたし……ずっと、ルロイさんを……騙してたのに……!」
「それがどうしたって?」
 ルロイはにやりと笑った。食いしばった歯が、ぎりぎりと軋む。
「シェリー一人ぐらい支えるなんて簡単だよ」
「無理です……いやです……もう……一緒にはいられません……!」
「シェリー」
 ルロイは、渾身の力を込めてシェリーの身体を引き上げた。ぶら下げられていた身体が、じりじりと持ち上げられる。崖の上の地面が見えた。おそろしくて、ルロイの顔をまっすぐに見上げることもできない。涙があふれて、止まらなかった。
「大丈夫だ、シェリー」
 ルロイが笑って話しかけてきた。
「あともう少しだ。痛いだろうけど我慢して。すぐに助けてやる。もう少しだから」
「は、はい……」
 シェリーは、ぐすぐすしゃくり上げた。涙に濡れた眼で、ルロイを見上げる。
 信じられない光景が見えた。
 ルロイの真後ろに、血まみれの顔を憎悪にゆがめたルトベルクが仁王立ちしていた。一抱えほどもある石を、両手で捧げ持っている。
「やめて……!」
 シェリーが叫んだ瞬間、ルトベルクはルロイの後頭部めがけて石を打ち下ろした。
 鈍い音がした。ルロイの身体が沈んだ。
「ルロイさん……!」
 だが、それでもシェリーの手を握ったルロイの力は、ゆるみもしなかった。
「手を放さないと自分が死ぬぞ。いいのか? 死にたいのか、けだものめ!」
 ルトベルクはおぞましい罵詈雑言を吐き散らした。再び、石を振り上げる。容赦なく何度も振り下ろす。恐ろしい音が続いた。血しぶきが飛ぶ。シェリーは声をからして叫んだ。
「やめて……! いや、そんなことしないで、おねがい、やめて……!」
 シェリーの手をつかんでいるせいで、反撃できないのだ──と気づく。シェリーは身をよじった。ルロイの手を振り払おうと、必死に身体をばたつかせる。
「もういいの。もういいから。手を離して。ルロイさんまで死んじゃう……!」
「誰が離すか」
 ルロイは目を開けてシェリーを見つめた。血まみれの顔で、おだやかに微笑む。
「絶対に守ってやるって言っただろ?」
「馬鹿め!」
 ルトベルクが凶笑を解き放った。
「次でとどめだ」
 狂気の石が高々と掲げられる。石の重みで、ルトベルク自身が足をふらつかせたほどだった。
「そんなに死にたいなら、二人いっぺんに死ね!」
 うなりを上げ、振り下ろされる。
 直視できず、シェリーは悲鳴を上げた。

 ……信じろ。

 最後の瞬間。見交わした眼が笑っていたように思えた。シェリーは、大きく目をみはった。ルロイが、ぐっと近づいた。抱き寄せられる。
 身体が宙に浮く。
 ルロイは、シェリーの身体をしっかりと抱いたまま、地面を蹴った。遙か下の森めがけて身を躍らせる。遠くに濡れたように輝く夕日が見えた。涙の霧雨が散る。
 落ちてゆく。シェリーは声も限りにルロイの名を叫んだ。ルロイは、動かない。二人は抱き合ったまま、石のように落下していった。